初日 スリランカ6つの世界遺産を巡る旅に出発!
昨年のベトナム旅行から帰って間もなく、今年はスリランカに行って、シギリヤロックに登ることを決断。何でもジャングルの中に聳える岩山の頂上にある遺跡に登る観光コースが人気で、知る人ぞ知る観光名所らしい。
スリランカのツアーを調べてみると、アジアでもマイナーな地域だけあって各旅行会社とも、ツアーの種類はあまり多くない。H社では、香港乗り継ぎのキャセイパシフィック航空便を使う6日間コースとスリランカ航空の直行便を使う7日間コースの2種類だけ。乗継便のツアーは、添乗員は付かず料金が驚くほど安かったが、如何せん乗継のため往復で4~5時間余分にかかる。他方直行便のツアーは、安心の添乗員同行であるが、やや高めでヨーロッパツアー並み。どちらにしようか、散々悩んだ挙句、直行便を選択。昨年ドバイ乗継便でポルトガルに旅行した際、乗継便が思いのほか辛かったことと、早く申込むと5,000円引きになる早期割引が決め手になり、出発5ヵ月前にH社の高いツアー「We Love はじめてのスリランカ 6つの世界遺産を巡る7日間」を申し込む。
成田では両替できないスリランカの通貨
所沢7:19発のレッドアローに乗車すると、日曜日のためか車内は空席が目立ち、1車両に5・6人しかいない状況。池袋でJR山手線に乗り換え、日暮里で8:05発のスカイライナーに乗ると、こちらはビジネスマンと遊びに行く人たちでほぼ満席状態。成田空港は、オフシーズンで閑散としていた。
H社の受付でEチケットを受けとり、スリランカ航空のカウンタ―でチェックイン。あまり待たされることなく、スーツケースを預け、搭乗券を発券してもらう。スーツケースは2人分を1つにまとめているので、1つだけ。JALとのコードシェア便なので、JALのマイレージカードを提示しておいたが、果たしてマイルが貯まるかどうかは不明。再びH社の受付に戻り、イヤホンガイドと注意事項を受けとり、受付は終了。
いつもなら現地通貨に両替するのであるが、スリランカの通貨「ルピー(Rs.)」を取り扱っている金融機関は成田になく、両替はできない。添乗員の話では、現地ガイドが両替用の現地通貨を用意しているとのこと。因みに、レートの目安はRs.1=0.65円。
セキュリティゲートもオフシーズンで混雑なくスムーズに通過。搭乗時刻まで1時間以上もあり、カフェでコーヒーを飲みながら時間をつぶす。閑散とした空港とは対照的に、機内はほぼ満席状態。定刻の11:20には乗客の搭乗が完了。離陸体制が整ったように思えたが、肝心の飛行機が動き出す素振りも見せない。40分ほど経過して、ようやく滑走路に向けて動き始め、成田を離陸。
 シギリヤロック |
 シギリヤ・レディのレプリカ |
機内でスリランカの入国カードを記入
コロンボまでの所要時間は約10時間。機内食が2回出されたが、それほど不味くはなかった。1回目はチキンカレー。ぱさぱさしたインディカ米で、カレーに合って美味しかった。2回目は魚のパスタ。こちらもカレー風味であったが、美味しく食する。評価としては、ベトナム航空並みで、大韓航空よりも上。
スリランカに入国するには、ビザが必要。事前にインターネットで「e-Visa」を申請して取得しておいたが、驚くことに、ネット申請すると、即座にe-VisaがEメールで送られてきた。2年前に同じようにカンボジアのe-Visaを申請したが、そのときは受けとるまで2日ほどかかった。送られてきたe-Visaの英文を訳すと、「申請した内容が正しければ」という条件付き。これでは、ビザの申請というよりも、ただ手数料($35・約4,000円)を徴収するだけのようだ。
機内でスリランカの入国カードが配布されたので、記入する。H社から配布されたミニガイドブックに入国カードに記入例が出ていたので、それを参考にしたが、イギリス旅行の際は、受付の際に添乗員から記入例をもらったことを思い出した。しかし今回の添乗員にはそのような気配りはなく、ミニガイドブックに記入例が記載されていることさえ、ひと言もなかった。ビザも入国カードもいらないEU圏に慣れていると、とても面倒に感じる。
真冬の気温3℃から31℃の真夏へ!
定刻よりも30分ほど遅れてコロンボに到着。成田を離陸したときの外気温は3℃。僅か10時間後が31℃の真夏の別世界。ダウンジャケットやセーターを脱いで、ポロシャツ1枚でも暑く感じる。
入国審査でパスポート・入国カードと一緒にネット申請で取得したe-Visaをプリントアウトしたものを提示したが、係員は見ようともせずに返却。本当にe-Visaは手数料を支払うだけのようだ。スーツケースも待たされることなく出てきて、今回の旅行は、何ごともスムーズ。お迎えに来ていた現地ガイドの案内で中国製の大型バスに乗り込む。
現地ガイドは、40歳ぐらいの浅黒で彫りの深いまさにインド系の青年。日本で日本語学校と専門学校を卒業後、自動車整備工場で働き、合わせて7年間暮らした経験。その後スリランカに戻り、観光ガイドを務めているらしい。流暢な日本語を話す。
 ネゴンボのホテルの中庭 |
 ネゴンボのホテルのビーチ |
バスの中で現地通貨ルピーに両替
添乗員が予告したとおりバスの中で両替。レートは、5,000円をRs.7,000に交換するというかなり大雑把な両替。少しレートが高いと思ったが、両替所で並ぶことを考えると納得。使いやすいように封筒の中には、Rs.20×5、Rs.50×4、Rs.100×7、Rs.500×4、Rs.1,000×4が入っている。10,000円分を両替する。
空港からバスで40分、ホテルに到着。予想していた以上に高級なホテル。部屋は広く、唯一シャワーの出が少し弱いぐらいで申し分ない。8時から1階のレストランで夕食。自宅で朝食を食べ、機内食を2度食べているので、本日4回目の食事。さすがにお腹は減っておらず、食欲が湧かない。メニューは、カレーを中心としたビュフェスタイル。試食するように目ぼしいものを摘まむ程度で済ます。フライト疲れを癒すためにビールを飲みたかったが、今日がちょうど満月で、スリランカでは、終日アルコールが厳禁。ホテルでもアルコール類はNGだった。
ツアー人数は19人。全員スリランカははじめて。添乗員は、定年再雇用のうだつの上がらないサラリーマン風の初老の男性。とても添乗員には見えない。
2日目 スリランカの寺院は土足厳禁!
6時のモーニングコールで起床。昨夜はまったく気がつかなかったが、1階レストランのテラス席の目の前がビーチ。朝食前にビーチを散策。このホテル、中庭にはプールがあり、お洒落なリゾートホテル。
朝食のメニューは、品数が少なくなっただけで、昨夜とほとんど同じ。さすがに朝からカレーを食べる気にはなれず、ハムとウインナー、野菜サラダにパンとジュースで簡単に済ます。コーヒーは、不味くて飲む気にならない。
8時バスでホテルを出発。今日からスリランカ観光がスタート。
スリランカは、1948年イギリス連邦セイロン自治領として独立。1972年共和国としてイギリス連邦からも独立を果たした際、もともと国民に呼ばれていた「スリランカ」に改称。因みに、「スリ(Sri)」は「光り輝く」、「ランカ(Lanka)」は「島」を意味する。つまりスリランカは「光り輝く島」。1978年現在の国名「スリランカ民主社会主義共和国」に改称される。面積は北海道の約8割。人口は約2,000万人。人口密度はかなり高い。
現地ガイドの話によると、福祉が充実しており、医療費や教育費は無料。国立大学の学費も無料で、まったく教育費がかからないが、競争が激しく、一部のエリートしか大学には入学できないらしい。スリランカの平均月収は、日本円で約25,000円。米は2期作、果物は1年中採れるので、食べるものに困ることがあまりない。地震や台風など、自然災害に見舞われることも少なく、必死に働かなくても暮らしていけるので、のんびりした人が多い。
 2人乗りバイクと小型3輪車 |
 道路脇に設置された仏像 |
スリランカが親日的な理由
スリランカは、とても親日な国としても有名。そのエピソードを現地ガイドが紹介してくれた。
1951年第2次世界大戦の戦後処理を話合うサンフランシスコ講和会議が開催。その会議では、日本に対して莫大な賠償金と分割統治が提案された。しかしその席上で当時セイロンの大蔵大臣でのちに大統領になった「ジャヤワルダナ」という人が、「日本の掲げた理想に独立を望むアジアの人々が共感を覚えたことを忘れないでほしい。アジアの将来にとって、独立した自由な日本が必要です。我々は、日本に賠償金を請求する権利を行使するつもりはありません。もう憎しみを忘れようではありませんか」と演説。この演説がきっかけとなり、日本の戦後復興に援助する方向がまとまり、時の日本の総理大臣吉田茂は、「日本人はこの大恩を後世まで忘れてはならない」と言ったという。それ以来、日本とスリランカの友好的な関係が現在まで継続している。
ご丁寧にもこの現地ガイドは、ジャヤワルダナ氏をツアー客に知ってもらおうと、写真や演説和訳文をファイルした資料を回覧してくれた。
治安がとても良いスリランカ
スリランカは、かつて1950年代から長く続いた内戦で治安が悪く、観光客が訪れることはほとんどなかった。2009年反政府組織「タミル・イーラム解放の虎(LTTE)」との内戦が終結。それ以降、LTTE残党によるテロ事件は発生していないものの、北部の海岸や入江でたびたび地雷が発見され、いまだに立入が制限されている地域がある。しかしそれ以外の地域は、最低限の注意さえ払っていれば、盗難などもほとんどなく、旅行を楽しむ範囲では、とても治安が良い国といえる。
ベトナムほどではないが、2人乗りしたバイクが目立つ。小型3輪車(かつて日本でも普及したミゼット)が多く、普通の乗用車は、一般庶民にはまだまだ高嶺の花。乗用車は、性能が良い日本車が人気で、最近中国車が多く輸入されているが、新車の中国車よりも中古の日本車の方が好まれるようだ。
バスで2時間、ドライブインでトイレ休憩。すでに5・6台のバスが停車していてトイレは大混雑。トイレ銭はRs.50(30円)。12時すぎにアヌラーダプラに到着。レストランに立ち寄って昼食。スリランカ料理の昼食という触れ込みだが、ほとんど前夜ホテルで食べた夕食と変わらないメニューのビュフェスタイル。現地ガイドおすすめの豆カレーを食べてみる。辛さが控えめだと思ったのも束の間、口の中が火事になったようにヒリヒリする。パサパサしたインディカ米と微妙にマッチし、それなりに美味しくいただく。煮詰まったコーヒーは不味く、代わりにティーバッグの紅茶を味わう。
 スリー・マハー菩提樹の入口 |
 長い布を持った巡礼者の一行 |
ダーガバが壮大に聳えるアヌラーダプラ
昼食後、アヌラーダプラを観光。アヌラーダプラは、2,500年以上も昔、スリランカ最古の王朝が築かれた都。それを象徴するかのように街の至るところにダーガバ(仏塔)が点在し、壮大に聳えている。仏教は、この地からスリランカ全土へ。そしてミャンマー(旧ビルマ)、タイ、カンボジアへと、世界各地に広まっていった。
まずは、イスルムニア寺院から。入口で靴を脱いで入場。スリランカの寺院はどこも土足厳禁。屋内だけでなく、屋外を歩くときも裸足にならないといけない。昨年のポルトガル旅行で搭乗した際、エミレーツ航空からもらった靴下を持参。靴下の上にさらに靴下を履いて靴の中が汚れないようにする。地元の人たちや現地ガイドは裸足でも平気のようだ。
巡礼者の聖地イスルムニア寺院
イスルムニア寺院は、岩肌を掘るようにお堂が造られ、岩の上に仏舎利を納める仏塔が建つアヌラーダプラ最古の寺院。スリランカに仏教を伝えたマヒンダ長老が建てたとされ、巡礼者にとって重要な場所の1つ。お堂の中には、朱色が鮮やかな巨大な涅槃仏が横たわっている。涅槃仏のほかにも、大小さまざまな仏像が安置され、東京の浅草寺の援助で色を塗り替えたという。ここにも、日本とスリランカの友好的な関係が垣間見られる。岩肌にはゾウなどの彫刻が施され、境内にある宝物殿には、寺院北側の庭園で発見されたという「恋人の像(The Lover)」と「王族の像(The Royal Family)」が展示されている。天然の岩をそのまま利用した見晴台が造られていたので、お堂の裏側から一番上まで登ると、アヌラーダプラの街が一望できた。
 岩肌に造られた本堂 |
 恋人の像(The Lover) |
2,000年以上も生き延びてきた菩提樹
イスルムニア寺院の次は、バスでスリー・マハー菩提樹に向かう。5分ほどで大きな公園に到着。駐車場でバスを降り、園内に入ると、白い法服を着た巡礼者がスリランカ全土から集まっていた。白壁に囲われた本堂を覆うようにスリー・マハー菩提樹が繁っている。仏陀が悟りを開いたインドの菩提樹の分木をインドのサンガミッタ王女が紀元前3世紀にこの地に運び、植えたと伝えられている。現地ガイドの話では、現存するのは1本だけで、添え木に支えられて辛うじて生き延びている。
本堂の周りを1周したあと、徒歩でルワンウェリ・サーヤ・ダーガバに向かう。500mほど歩くと、高さ55mの白い仏塔が見えてくる。紀元前2世紀にドゥッタガーマーニー王の命で建設が始まり、息子のサッダーティッサ王子の代に完成。当初は黄金色の屋根で110mの高さを誇ったらしいが、今では半分の高さで白く塗り直されている。巨大なダーガバの前で記念撮影。駐車場に戻る途中、オレンジ色の長い布をもって行進する巡礼者の一行に遭遇。念仏を唱えながら50mほどの布を50人がかりで運ぶ光景は、日本人にはかなり異様に映る。
 スリー・マハー菩提樹 |
 ルワンウェリ・サーヤ大塔 |
シギリヤロックが一望できるホテル
アヌラーダプラの観光を終え、バスでシギリヤに向かう。5時ホテルに到着。一風変わったリゾートホテルで、ロビーからシギリヤロックが一望できるという触れ込み。それもそのはずで、フロントがある建物は、1面だけに壁があるが、それ以外の3面は、柱があるだけで壁がない吹きさらし。暴風雨に見舞われたらどうするのか、要らぬ心配をしたくなるほど、開放的でオープンなロビー。レストランも同じようなオープンな造りで、客室はすべてコテージ。驚くことにすべての建物が平屋建てだった。もちろん海外でコテージに泊まるのははじめて。
そのコテージで夕食までのんびり寛ぐ。夕食は、開放的なレストランでやはりビュッフェスタイル。前泊したホテルよりもカレー以外のメニューが増えていたので、カレーを控えて肉と魚をメインに食する。満月明けの今夜はアルコールが解禁。1本注文すると、日本ではすっかり見られなくなった大瓶(633ml)で登場。350mlの缶ビールに慣れていると、一気に2缶飲む感じになる。食後は、プリンのデザートとフルーツで締めくくったが、なぜかスリランカの食事に物足りなさを感じる。
 開放的なホテルのロビー |
 宿泊したコテージ |
4日目「火渡りの儀式」は凄かった!
6時起床。6時30分からレストランで朝食は、前日とまったく同じスケジュール。食べすぎないようにパンとフルーツなどで軽めに済ます。部屋に戻ると、食事の前に出しておいたスーツケースはすでに運んでくれていた。今回のツアーはすべてポーターサービス付き。部屋の前にスーツケースを出しておくだけで、ホテルのポーターがバスまで運んでくれる。
スリランカ最大の石窟寺院ダンブッラ
8時バスでホテルを出発。30分でダンブッラに到着。街のシンボルの巨大な金色の仏像が出迎えてくれる。ダンブッラとは「水の湧き出る岩」という意味。紀元前1世紀にワラガムバーフ王が開いた聖地で、スリランカ最大級の石窟寺院として有名。高さ180mの岩山の頂に壁画や仏像が美しい5つの石窟が並んで建てられている。
麓の駐車場でバスを降り、徒歩で緩やかな坂道を登っていく。簡易な売店で蓮の花が売られている。お供え用の花で、5本1組でRs.100(65円)。5つある寺院にそれぞれ供えるからである。シギリヤロックほどきつくはなかったが、頂上まで15分かかり、それなりに疲れる。
入口で靴を脱ぎ、境内に入ると、岩山に沿って白壁の建物が細長く連なっている。現地ガイドの案内で第1窟から順番に石窟を見ていく。最初の第1窟はそれほど大きくなかったが、第2窟は、幅52m、奥行き25mの巨大な石窟。洞内に56体もの仏像が安置。壁面にはブッダの生涯やスリランカの歴史が描かれている。この第2窟は「マハー・ラージャ・ヴィハーラ」と呼ばれ、「偉大なる王の寺院」という意味。次いで第3窟と第4窟、最後の第5窟まで見てまわったが、洞窟内は風通しが悪く、かなり蒸し暑かった。
 巨大な金色の仏像 |
 石窟寺院の入口 |
仏教・ヒンドゥー教・イスラム教が入り混じるスリランカ
このダンブッラは、もちろん仏教寺院であるが、実は、第1窟の中にヒンドゥー教の寺院が併設されている。スリランカの民族は、人口の約7割がシンハラ人、2割がタミル人、1割がスリランカ・ムスリムと呼ばれる人たち。シンハラ人は、インド北部のアーリア系を先祖とし、シンハラ語を話し、ほとんどが仏教徒。タミル人は、インド南部からの移住者で北部と東部に住み、タミル語を話すヒンドゥー教徒。スリランカ・ムスリムは、イスラム教徒でタミル語を話す人が多い。仏教・ヒンドゥー教・イスラム教という3つの宗教が入り混じるスリランカで、同じ国民であるからこそ、他民族の宗教を尊重するスリランカ国民の寛容さのようなものを感じる。
シルク・ガーデンでショッピングタイム
麓の駐車場まで戻ってバスに乗り、旅行日程表では昨日行く予定であった工芸店に立ち寄る。「シルク・ガーデン」という名の工芸店で、高級なシルク製品の販売店。2階から4階まである売り場は広く、シルク製品以外の洋服や手芸品なども売られている。確かに、シルク製品の品質は良さそうに見えるが、デザイン的に魅せられるものはなく、買う気にはならない。一見温厚そうなスリランカ人であるが、ここの店員に限ると、かなり強引で執拗に売り込みをかけてくる。1つの品物を断ると、次から次へと取り替えて品物を提示。しかもだんだんと値段が高くなる。販売手法をきちんと教育されているのだと思うが、度が過ぎると客から反感を買うことを認識していない。現地ガイドおすすめのゾウのイラストが前後にプリントされたTシャツを見つけ、お土産に購入。ペアルックでRs.700。日本円で1枚230円程度。
 第1から第5まで連なる石窟 |
 石窟内に安置された仏像 |
スパイス・ガーデンで脱毛クリームを体験
ショッピングタイムが終わり、バスでキャンディに向かう。途中マータレーにあるスパイス・ガーデンに立ち寄る。この一帯は、水と気候に恵まれ、スパイスの産地としても有名。しかもスパイスに限らず、いろいろな効能のある草花、中でもアーユルヴェーダに使われる薬草も栽培されていて、日本でいう「薬草園」のようなところ。
愛想が良く流暢な日本を話す中年男性がまず園内を案内。実際に育てている草花を手にとり、どのような効能があるのかを解説。園内をひととおり見まわったあと、小さな部屋に入り、今度は実演販売。「白檀の美容クリーム」「天然ハーブオイル」「ハーブの脱毛クリーム」などの効能を解説しながら、試しに使ってみる。脱毛クリームは、塗って5分も経てば、効果絶大。腰痛や関節痛に効果があるハーブマッサージ療法では、実際に専門スタッフがやってきて、オイルを塗ってマッサージを行う。当然のことながら最後は売店へ。案内人おすすめの美容クリームとハーブオイルを購入。2つでRs.13,400(8,700円)。物価が安いスリランカにしてはかなりの高額で、平均月収25,000円の現地人にはとても買える価格でない。間違いなく観光客をターゲットにした特別価格。
ショッピングが終わると、スパイス・ガーデン内にあるレストランで昼食。薬草を使った薬膳料理のようなものが出るのかと思ったが、至って普通のスリランカ料理。メニューは、前日のレストランとほとんど変わらなかった。
 スパイス・ガーデンの園内 |
 流暢な日本語を話す案内人 |
シンハラ王朝最後の都キャンディ
昼食後、再びバスでキャンディに向かう。キャンディは、標高300mほどの山に囲まれた高原の街。スリランカ北部で栄えていたシンハラ王朝が、インドからの侵略に追われて南下を続け、最後に選んだのがこの地だった。周囲の山が敵の侵入を阻み、イギリスに支配されるまで300年以上にわたり、シンハラ文化の華を咲かせた古都。仏歯を祀った仏歯寺を含む街全体が世界遺産。
キャンディ・マーケットの前でバスを降り、マーケット内を見学。2階建ての建物の1階は、魚や肉、野菜、果物、スパイスなどの食料品。2階は、サリーや洋服、革製品、土産物などの店が並ぶ。現地ガイドの案内でひと通り見てまわったが、30℃を超える暑さにもかかわらず、魚や生肉が冷蔵庫に入れずに軒先に並べられている光景は、とても買う気にはならない。
 マーケットの中庭 |
 賑わうマーケットのお店 |
王権の象徴である仏歯を祀る仏歯寺
マーケットの前でバスに乗り、次は仏歯寺に向かう。仏歯寺は、スリランカを代表する仏教寺院。シンハラ建築様式の八角形の本堂は、これまで見てきたどの寺院よりも美しく立派な建物。スリランカでは、仏陀の歯である仏歯はとても重要なもの。王権を持つ者の象徴で、仏歯のある場所が都の置かれるところとされてきた。紀元前543年に仏陀が火葬された際に入手された仏陀の歯が、アヌラーダプラに奉納。そのあと遷都されるたびに仏歯も移動。最後は1590年にキャンディに運ばれ、仏歯寺に祀られたといわれている。
入口ゲートで警備員によるセキュリティ・チェックを受けて入場。セキュリティがあるのもはじめて。スリランカ仏教のメッカだけあって、広大な敷地に建物が点在している。境内はもちろん、建物の中でも、観光客よりも信者の姿が目立つ。仏歯が祀られている部屋は、黄金の煌びやかな装飾が施され、いかにも大切なものが納められているという感じ。この部屋が開けられるのは、1日3回のブージャー(仏への礼拝)のときだけ。しかも実際に見られるのは、仏塔の形をした宝石がちりばめられた金製の豪華な小箱だけ。この箱は7重になっていて、一番小さな箱の中に仏歯が奉納されているという。
 仏歯寺 |
 仏歯が祀られている部屋 |
キャンディアン・ダンスを観賞
仏歯寺からキャンディ湖沿いに歩いてキャンディアン・ダンスの会場まで移動。キャンディ湖は、19世紀初頭に造られた人工湖。造られた当時、湖の中央に浮かぶ島は王室のハーレムになっていて、王宮とトンネルでつながっていたという。今では、湖を1周する遊歩道が若者の憩いの場。遊歩道には、アイスクリームや飲み物、土産物などを販売する出店が出ていて、多くの観光客や地元の人たちで賑わっている。
キャンディアン・ダンスは、キャンディ王朝時代に宮廷内で踊られていた舞を中心にスリランカ各地の民族舞踊を組み入れた踊り。スリランカを代表する芸能。今では、ショー的な性格が強くなっているが、年に1度の大祭やペラヘラ祭のときにも踊られる。
私たちの席は最前列の特等席。激しい伝統的なドラム演奏とともに幕が開き、オイルランプを手にしたダンサーたちが登場。ショーとはいえ、ダンスは神聖なもので、ダンサーたちはランプを手に祈るように踊る。そのあと「ブージャの踊り」「バンゼル・ナトゥマ」「コブラの踊り」「仮面の踊り」など、9つの演目が続き、最後に「火渡りの儀式」。カラフルな衣装や伝統楽器を楽しむことができるが、カンボジアで見たアプサラダンスと比べると、踊りそのものは素人芸に近く、芸能的には雲泥の差があると思う。
しかし火渡りの儀式だけは凄かった。この儀式は、手にした松明を振り回したり、口に含んだり、最後に焼けた炭の上を歩くというもの。人間に災いをもたらす悪魔に打ち勝つ力があるということを示すために火を食べたり、松明を身体にあてたりするらしい。何度も焼けた炭の上を歩けるのは、ダンサーがトランス状態に入っているので、熱さを感じず、火傷をしないそうだ。本当は熱くないのではないかと疑い、近寄って確かめると、間違いなく炭はパチパチ燃え盛り、近づくだけで熱さを感じた。
 ブージャの踊り |
 火渡りの儀式 |
1時間の観賞のあと、バスでホテルに向かう。高台にあるホテルは、大型バスが乗り入れできず、登り口でホテルのシャトルバスに乗り換える。キャンディでは名の知れた高級ホテルで、ロビーの雰囲気は高級感にあふれる。部屋のテラスからキャンディ湖が一望。しばらく湖を眺めてのんびり寛ぐ。
夕食は、7時からホテルのレストランで。これまでのホテルと異なり、カレー以外のメニューが豊富に用意されている。フライドチキンや豚肉の紅茶煮、ベーコンなど、肉料理をメインに食する。デザートやフルーツも豊富で、たらふく食べてお腹がいっぱい。満足できる食事だった。
5日目 堅固な砦に囲まれた城塞都市ゴール
6時30分起床。7時からレストランで朝食。スーツケースを部屋の前に出してから、階下に降りる。いつもと同じようにパンとフルーツ、ジュースなどで軽めに済ます。コーヒーマシーンがあったので、試しに飲んでみると、これがまずまずの味。日本のファミレスの味とよく似ていて、飲めなくはなかった。さすが高級ホテル。
8時ホテルのシャトルバスに乗り込む。朝の通勤ラッシュ時は取締りが厳しく、登り口でバスを停めることができないので、30分走ったところで待機していたバスに乗り換える。スーツケースもワゴン車で運ばれていて、同時に積み換える。
 仏歯寺の広大な境内 |
 キャンディ湖 |
英国皇室ご用達のスリランカ産ブルーサファイヤ
バスに乗り換えて20分で宝石店に到着。スリランカは、宝石の産地としても知られている。古くは、紀元前10世紀ソロモン王がシバの女王にスリランカ産のルビーを贈って心を射止めたという伝説。最近では、イギリスのチャールズ皇太子が故ダイアナ妃に贈り、長男ウィリアム王子がキャサリン妃に贈った婚約指輪がスリランカ産のブルーサファイヤ。ダイヤモンドこそ採れないが、ルビーやサファイヤ、ガーネットやトルコ石など、さまざまな宝石の産地である。
小さな部屋で宝石の採掘現場の様子を映したVTRを10分ほど観たあと、売り場に案内される。ほとんどが高級品で、これはと思うものは、数万円から十数万円。お土産にどうですか? と店員がすすめる小さなイアリングでも、1万円以上する。ツアー客の大半は、買うつもりがなく、時間を持て余す。無料の紅茶のサービスがあったので、ティーブレイクで時間をつぶす。
ここでツアーのメンバーを紹介すると、夫婦は私たちを含め2組。女性4人グループが2組で、50代の中年組と70代の高齢者組。親子の男性2人組と姉妹の女性2人組がそれぞれ1組。1人参加が3人で、男2・女1でいずれも70代。合計19人で、珍しく夫婦が少なかった。驚いたのは、姉妹の女性2人組が4年前のクロアチア旅行で一緒だったこと。かつてツアーで一緒だった人と再び同じツアーで旅行することははじめて。時間を持て余す間、積雪のため遊歩道が閉鎖されたプリトヴィッツェや強風が吹き荒れたドブロヴニクなど、懐かしい想い出話で盛り上がる。
ギラガマ紅茶工場を見学
宝石店のあとは、スリランカ南部の要塞都市ゴールに向かう。移動距離は約220km。バスでの所要時間は5時間。途中、スリランカ名物セイロンティのギラガマ紅茶工場に立ち寄る。
スリランカは世界有数の紅茶の産地。旧国名である「セイロン」は、世界中の人々から愛され続けている紅茶の総称。キャンディの南側に広がる丘陵地帯は、まさにセイロンティのふるさと。スリランカの島の中央部一帯は、標高1,000mを超す山々が連なる。熱帯にありながらこの地域の気候は温暖。豊富な水源に恵まれ、イギリス植民地時代に紅茶のプランテーションが盛んに行われた。今でもこの一帯のなだらかな山の斜面は、濃い緑色の茶畑で覆われている。
ギラガマ紅茶工場では、紅茶ができ上がる工程に沿った順路に従って見学。最後に売店横の試飲コーナーで紅茶を試飲させてもらう。スリランカの紅茶のグレードは、葉が大きく薄く出る「フラワー・オレンジ・ペコ(FOP)」から、「オレンジ・ペコ(OP)」「ペコ(P)」「スーチョン(S)」「ブロークン・オレンジ・ペコ(BOP)」「ブロークン・オレンジ・ペコ・ファニングス(BOPF)」「ファニングス(F)」、葉が細かく濃く出る「ダスト(D)」までの8段階。この中の4つを試飲。最高級のフラワー・オレンジ・ペコは、それなりの味わいだったが、最後のダストは、濃いというよりも渋かった。
茶こしを使うのが面倒なので、ティーバッグ25袋入りをお土産用に5個購入。1つRs.700(450円)。因みに、茶葉で買うと、上記のグレートを指定できるが、ティーバッグはダストの1種類のみ。
 丘陵地帯に広がる茶畑 |
 紅茶の試飲コーナー |
工場見学後、レストランに立ち寄って昼食。メニューは、相変わらずカレー中心のビュフェスタイル。お腹の調子が良くないので、ビールを控えて野菜サラダとフルーツ、パンと紅茶で簡単に済ます。
昼食後、再びゴールを目指してバスで出発。コロンボの手前まで高速道路を走り、そのあとは、国道1号線で南下。途中ドライブインで1度トイレ休憩。4時40分ようやくゴールに到着。
スリランカの被支配の歴史を象徴する城塞都市ゴール
ゴールは、インド洋に面したスリランカ南部最大の都市。かつて貿易港として栄え、1589年にポルトガルが旧市街を囲む砦を築く。これがきっかけとなり、ゴールの外国人支配が始まり、1640年にオランダが砦を拡張。イギリス植民地時代には、支配の拠点として重要な位置を占め、堅固な砦を持つ城塞都市として完成。ゴールの歴史は、そのままスリランカの被支配の歴史だといわれている。
スリランカには火山がなく、地震が起こらない国。しかし2004年のスマトラ沖地震による津波では、島の東南部が未曽有の大惨事に見舞われる。死者3万人以上。20万世帯以上が被災。このような大惨事にもかかわらず、ゴールの旧市街だけは、城壁が津波から街を守り、被害が少なかったといわれている。
時計塔の近くの駐車場でバスを降り、徒歩で砦のゲートを潜り、海に突き出たエリアの旧市街に入る。ムーン要塞に登ると、見晴らしがよく、旧市街と新市街の両方を見渡せる。絶好の写真スポットで思い思いのポーズでカメラに収める。ムーン要塞からは、旧市街を横断して灯台まで歩く。コロニアル様式の建物や教会が目立つ街並みで、ポルトガル人が造った街だけあって、どことなくマカオと雰囲気が似ている。1月なのに灯台の周辺では泳いでいる人も見られる。城壁を見ると、1周したいという衝動にかられる私たち夫婦であるが、残念ながらフリータイムの設定はなく、駐車場まで引き返し、バスでホテルに向かう。
 ムーン要塞の時計塔 |
 旧市街の南橋にある灯台 |
インド洋を一望できるオーシャンビュー
ゴールのホテルは、キャンディよりもさらに高級なホテル。部屋のテラスからは、インド洋を一望できるオーシャンビュー。眼下にはプールがあり、泳いでいる宿泊客もいる。
夕食は、ホテルのレストランでいつものようにビュッフェスタイル。カレー以外のメニューの豊富さにびっくり。屋台がいくつも出ており、その中でステーキとパスタの屋台に狙いを定める。豚肉のステーキは柔らかく、とても美味しかった。ペペロンチーノ風のパスタも申し分なく、これまでとはひと味違った食事を堪能。ケーキやプリン、アイスなどのデザートも豊富で、フルーツとともに美味しくいただく。お腹の調子が回復したことで、自重したお昼の分を取り戻すぐらい食べ尽して大満足。
 ゴールの高級リゾートホテル |
 テラスからの眺め |
6・7日目 無国籍的な雰囲気が漂うコロンボ
6時のモーニングコールが鳴る前に起床。7時からレストランで朝食。昨夜食べすぎたので、自重して軽めに済ます。食後、目の前にあるビーチを散策。波が高く、さすがに泳いでいる人はいなかったが、高級ホテルのプライベートビーチだけあって、パラソルと寝そべることができるビーチチェアが用意されている。
ウミガメの保護センターを見学
8時ホテルを出発してコロンボに向かう。バスで海岸線を1時間ほど北上したところにあるウミガメの保護センターに立ち寄る。スリランカ南部のビーチには、11月から4月にかけて5種類のウミガメが産卵のために現れる。産み落とされた卵は、ボランティアによって保護施設に運ばれ、孵化したあと、大きくなるまで育てられ、海に帰すそうだ。立ち寄った保護施設もその1つで、公的施設ではなく、民間の運営。ちょうど漁船の網に運悪くかかってしまったウミガメを海に戻す場面に遭遇。ウミガメはヨタヨタと海に向かって砂浜を歩き始めていた。
保護施設の中に砂場が造られており、砂の中にウミガメの卵を入れて孵化を待つ。いつ産んだ卵かが分かるように日付と時刻が記載された木札が立てられている。孵化したウミガメは、成長度合いに分けて水槽に入れられ、3ヵ月経って元気なウミガメだけを海に放すらしい。
驚いたのは、手や足がとれたウミガメ、甲羅がかけたウミガメなど、自然の中では決して生きていけないウミガメを保護していること。ウミガメといえども無駄な殺生はせず、寿命を全うさせてあげようとする姿勢には頭が下がる。さすが仏教の国。ウミガメのグッズを販売しているショップが併設されていたので、そこで募金をするつもりでウミガメのぬいぐるみを購入。RS.1,000(650円)。
 海に戻ろうとするウミガメ |
 孵化したウミガメが泳ぐ水槽 |
昼食は日本風中華料理
見学後、再びバスに乗車してコロンボに向かう。スリランカの首都はコロンボだと思っている人が多いが、正式には「スリー・ジャヤワルダナプラ」。通称は「コーッテ」。1985年国会議事堂をコロンボから移転させ、遷都した。とはいえ、コロンボから僅か13kmほどしか離れていない。名目上の首都になっているが、政府機関の多くはまだコロンボに残っており、事実上の首都は、いまだにコロンボだといえる。
バスは、コーッテの国会議事堂前を通り、12時20分ようやくコロンボに到着。すぐに市街地のレストランで昼食。このレストランは、和食と中華料理の両方を出す飲食店で日本に留学経験があるスリランカ人が経営。店内の装飾は中華風であるが、BGMに日本の演歌が流れている。卵スープをはじめ野菜炒め、チンジャオロース、チンゲン菜炒め、酢豚など、6~7皿の中華料理が出された。日本に留学経験があるだけあって、まさに日本の中華料理。スリランカ料理に多少倦んだりしていたツアー客にはとても好評で、すべてを美味しく平らげる。
建築中の高層ビルが目立つコロンボ
昼食後、コロンボ観光に出発。コロンボは、かつて香辛料や宝石の交易港としてアラブ商人により開かれ、ポルトガル、オランダ、イギリスの植民地支配を経て発展した港湾都市。植民地時代の名残を感じるコロニアル様式の街並みなど、外国人によって築かれたことで、スリランカでありながら無国籍的な雰囲気が漂う。発展途上の国だけあって、至るところで高層ビルが建設中である。
急激に都市化されたコロンボの市街地は、どこへ行っても渋滞が激しく、少しの距離を移動するにも時間がかかる。まずは、ゴール・フェース・グリーンでバスを降り、海辺を散策。ゴール・フェース・グリーンは、フォートから海岸線を南下するゴール・ロード沿いにある長さ500mの芝生地帯。イギリス統治時代に造られ、海に沈む夕陽を眺めるのに絶好の場所。しかし昼すぎの今は、人がまばらで、僅かな出店が営業しているだけ。20分のフリータイムのあと、バスに戻ってフォート地区とペター地区を車窓観光。フォートは、大統領官邸をはじめとする政府機関や高級ホテルが建ち並ぶ行政エリア。植民地時代に建てられたコロニアル様式の建築物が残り、今も商業施設などとして活用されている。ペターは、バスターミナル周辺に商店街が広がり、穀物や香辛料、野菜などの店が軒を連ねる繁華街。フォートとは対照的に庶民で賑わうエリア。
 ゴール・フェース・グリーン |
 ペター地区の街並み |
最後は心置きなくスーパーでショッピング
この車窓観光でツアーの観光がすべて終了。最後に現地のスーパーでショッピング。お土産用は紅茶だけしか買っていなかったので、ここで調達することに。現地ガイドに紅茶以外のお土産に適したものを尋ねると、ジンジャー・クッキーをすすめられる。ジンジャー味のほかに、ココナッツやレモンクリームのクッキーも美味しそうだったので、合わせて8個購入。さらにスリランカのカレーパウダーを2個。これだけ買っても全部でRs.970(630円)。カードで支払うつもりが、残っていたルピーで賄えた。
ショッピングのあと、空港に向かう。空港では、最初にスーツケースを含め持っているすべての荷物をセキュリティゲートに潜らせてチェックを受ける。そのあと、スリランカ航空のカウンタ―でチェックイン。添乗員からは、すべてのツアー客の席を横並びで確保している旨を恩着せがましく伝えられる。JALやANAではできないが、外国の航空会社では、添乗員が事前にツアー客の座席を確保するのは当たり前。恩を着せるまでもないと思われる。
チェックインを済ますと、次は出国審査。入国とは違ってカードは不要。スタンプを押してもらって、あとは搭乗を待つだけ。2時間近く空港内の免税店などを物色して時間をつぶす。
成田に向かう飛行機は、定刻の19:50コロンボ空港を離陸し、帰国の途につく。離陸1時間半後に機内食が出された。やはりチキンカレー。食後、映画を観ていると、1本観終わらないうちに睡魔に襲われ爆睡。
 建築中の高層ビル |
 大きな仏陀がお見送り |
まさかのトラブル発生!
成田に着陸する2時間前、機内が明るくなり、朝食の準備で慌ただしくなったことで、爆睡から目覚める。ここでまさかのトラブル発生。爆睡中に眼鏡が行方不明に。確か、眠り込む直前に失くしていけないと思い、胸ポケットに仕舞った記憶があるのだが‥‥。しかしポケットにはなく、座席の下や通路を探しても見つからない。そうこうしているうちに、朝食が配られたので、取り敢えず急いで食べ、落とし物として届けられているのではないかと思い、通りかかった男性の客室乗務員に事情を話そうとしたが、英語ではうまく伝えられない。思わず「Can you speak Japanese?」と尋ねると、日本語を話せる女性の客室乗務員を連れてきてくれた。その女性に事情を話したが、眼鏡の落とし物はないとのこと。周辺の乗客が降りたあと、もう1度探すことにした。このトラブルで順調だった旅行が一変。眼鏡をつくり直すとなると、それなりの出費になるので、とても落ち込んでしまう。
眼鏡を見つけてくれたスリランカ航空に感謝!
飛行機は定刻よりも30分早く、7:00(日本時間)成田に着陸。周辺の乗客が降りるのを待って、眼鏡を探したが、やはり見つからない。諦めて飛行機を降りようとすると、出口であの女性が声をかけてくれた。見つからなかったことを話すと、あとで見つかったら連絡すると言ってくれて、携帯の電話番号を控えてくれた。
早朝のため入国審査場はガラガラですぐに通過。自動化された審査で、パスポートをかざし、ミラーガラスを見つめるとドアが開くという優れもの。入国のスタンプが必要な場合は、係員にパスポートを提示すると、スタンプを押してくれる。スーツケースが出てくるまで時間があるので、いつものようにターンテーブルがあるフロアのトイレで歯磨きをしていると、携帯に着信音。電話に出てみると、スリランカ航空の関係者と名乗る女性からで、眼鏡が見つかったとのこと。眼鏡の特徴を確認すると、間違いなく自分のものと判明。親切なことに届けてくれるという。急いで歯磨きと洗面を済まし、ターンテーブルの前で待っていると、40歳ぐらいの女性が眼鏡を届けてくれた。憂鬱な気分が一転して爽快に。これで無駄な出費を免れる。スリランカ航空に感謝。
 シギリヤロックの猿 |
 ジープサファリの孔雀 |
アクセス特急で帰宅
スーツケースを受けとり、税関もスムーズに通過したが、次のスカイライナーまで40分あまり待たなければならない。モーニングコーヒーを飲んで時間を潰しても良かったが、待つには時間がありすぎるので、昨年のベトナム旅行のときと同じようにアクセス特急で帰ることにした。7:50発に乗車し、東松戸で武蔵野線に乗り換える。平日ならば通勤時間帯であるが、土曜日のため武蔵野線も空いていた。新秋津で西武線に乗り換えて所沢に向かうつもりだったが、JR新秋津駅から西武線秋津駅に乗り換えるのにかなり歩かされるので、東所沢で下車してタクシーを使う。10時前には自宅に戻ることができた。
スリランカ旅行の感想
(1)今回のツアーでH社を使うのは8回目。こんなにレベルの低い添乗員ははじめて。これまで良くしてもらった添乗員が多く、楽しく旅行をすることができたが、今回は最悪。添乗員に定評があるH社がこんな添乗員を採用しているとは、本当にガッカリ。
添乗員にもっとも大切なことは、旅の想い出づくりに役に立ちたいという想い。ツアー客が安心して旅が続けられるように些細なことでも気を遣い、心配りをすること。しかし今回の添乗員は、まったくやる気を見せない60すぎの定年再雇用の高齢者。決して高齢だからダメだというつもりはないが、案内はすべて現地ガイドに任せ、観光気分で一番後ろをついて歩くだけ。旅の想い出づくりに役に立ちたいという想いなど、微塵も感じなかった。
それに一番気になったのが、バスの最前列で居眠り。起きていれば、ゴホン、ゴホンと咳き込む不快音。本人は、アレルギー性のもので感染しないので、安心してほしいと言い訳していたが、バスの狭い空間でバイ菌をまき散らしているように感じる。旅で病気になるのは最悪。誰もが健康にはとても気をつけているので、同じツアー客ならまだ我慢もできるが、添乗員が元凶では、ただ呆れるだけである。
(2)添乗員とは正反対に現地ガイドはとても良くしてくれた。アジアで1人の現地ガイドが最初から最後まで案内してくれたのもはじめてだったが、日本語が流暢な上、観光案内に限らず、スリランカのことを少しでも多く知ってもらおうと、いろいろなことを教えてくれたのが、印象的で好感が持てた。このレベルの現地ガイドが付き添ってくれるのであれば、添乗員は不要。特に今回の添乗員であれば、まったく要らない。その分ツアー料金を安くした方がよっぽど良いと思う。
(3)シギリヤロックは、知る人ぞ知る観光名所といわれるだけあって、とても素晴らしかった。1,200の石段は、さすがにきつかったが、頂上からの見晴らしは最高で、苦労して登る甲斐があった。1,500年以上もの昔、ジャングルの真ん中の岩山に王宮が造られていたとは、とても想像できない。まさに「天空の遺跡」。必見の世界遺産といえる。
(4)出発前から3食カレーが基本のスリランカでは、食事を期待してはいけないと思っていたが、実際に食べてみると、やはり3食カレーは日本人には合わないと思う。キャンディ、ゴールとホテルが良くなるほど、カレー以外のメニューが充実していたのが救いだった。「ホテルは全都市指定でスーペリア・デラッククラス」という触れ込みも、食事の充実度を重視すると、高級なホテルを選ばざるを得ないのかもしれない。
(5)ゴールの城壁を歩けなかったのが悔やまれる。城壁を見ると、1周したくなる私たち夫婦。最近では、クロアチアのドブロヴニク、イギリスのチェスターとコンウィ、ポルトガルのオビドスなど、1周できなくても、必ず城壁を歩くのをノルマとしているだけにとても残念だった。H社のツアーでは、旅行日程表に予定されていなくても、添乗員が配慮して自由に楽しむためのフリータイムを設定するのが一般的であるが、今回はこのような配慮は皆無。最悪の添乗員では、配慮を期待するのも無理だった。