■イルカ島外伝・再会を期して その5
次の日、船長にトリトンは頼んだ。
船の針路を変えてくれるようにと。
「どうしてなのかね。」
船長は、水平線を見晴るかしていた。
「こんなに晴れているのに。」
船長は、いぶかしげにトリトンを見た。
「晴れていても、すぐ霧が出てきます。あそこに入ったら生きては出られないんです。僕たちの仲間であそこに入るものは誰もいません。」
トリトンは必死だった。
「トリトン、大丈夫だよ。君たちの伝説をバカにする訳じゃないけど、この船の設備は違うんだ。」
ピエールが言った。
「そんなことより、海を見てご覧よ。そんな気持ちは吹っ飛ぶよ。」
大丈夫なもんか。
トリトンは唇をかんだ。
ドリテアのあの言葉、あの高笑いを、トリトンは忘れてはいない。
「ポセイドン族は、マグマを目覚めさせる力があるのです。」
ドリテアの力、それと同じものをポリペイモスも持っているとしたら、いや、同じポセイドン族、持っていないと考える方がおかしい。
あの力を使われたら、この船は・・・
トリトンは、船長を見つめた。
その時、聞き慣れた声がした。
『おーい、トリトーン、何やってんだよ。』
『早く戻れよ。ポリペイモスの守り海に入っちゃうじゃないか。』
イル!カル!
2匹とも、全速力で船を追いかけてくる。
ジャンプを繰り返しながら、トリトンに呼びかけた。
「トリトン、ご覧よ。バントウイルカの子どもだ。可愛いなあ。彼ら、好奇心旺盛だからね。よく、船を追いかけてくるんだ。」
ピエールがのんきそうにそう言うと、イル、カルに向かって手をふった。
『トリトン、早く!』
この船を、ポリペイモスの餌食にさせるわけにはいかないんだ。
『トリトン、あなたは何をしているんですか。』
別の声がした。
ルカー!
ルカーもイル、カルに加わった。
用心深いルカーが人間に姿を見せるなんて。
「驚いたなあ。アルビノのイルカだ。トリトン、見てご覧。綺麗だよ。船長、あんな成獣のイルカでアルビノだなんて。」
船長は黙ってトリトンを見つめていた。
『トリトン、あなたはまだ、ポセイドン族と戦うことはできないのですよ。』
ルカーが水面から飛び出した。
『プロテウスやメドンのことを忘れたのですか。トリトン。』
忘れてなんかいない。
『トリトン!』
ルカーの声が悲鳴に変わった。
「トリトン、あれは、君の仲間だね。」
船長が静かに言った。
「帰りなさい。トリトン。」
でも・・・
トリトンは躊躇した。
「私たちなら大丈夫だから。」
船長は機関室に向かって叫んだ。
「針路、9時の方向へ。」
「9時の方向へ、ようそろ!」
船が大きく梶を切った。
これでもう、ポリペイモスの守り海に入ることはない。
ルカー達は一瞬戸惑ったようだが、すぐに後を追った。
「大佐、どうして、この船には最新鋭の設備があるじゃないですか。」
ピエールが不審そうに尋ねた。
「海のことなら、我々より、トリトンの方が、ずっとよく知っている。そうだね、トリトン。」
船長はトリトンを見た。
「さあ、行きなさい。」
優しい声だ。
一瞬、一平の姿が重なった。
じっちゃん!
さあ、ゆけ、トリトン。
行って、おめえの宿命(さだめ)、打ち破ってこい。
わしのことなら心配するな。さあ、トリトン!
わかったよ、じっちゃん!
トリトンは、大きく頷いた。
「さようなら、船長、ピエール。」
トリトンは手すりから飛び込もうとしている。
あっけにとられていたピエールが、ようやく口を開いた。
「行ってしまうのか、トリトン。」
「楽しかった。ピエール。有り難う。さよなら。」
「トリトン、永遠にさようなら(アデュー)、じゃないよ。さようなら、また会おう(オゥ・ルヴォワール)、だ。オゥ・ルヴォワール、トリトン。」
ピエールが手を差し出した。
「うん。」
トリトンはその手をしっかりと握った。
少年が、弧を描いて海に飛び込んだ。
次の瞬間、海面から白いイルカが高々と舞い上がる、背中に少年を乗せて。
ピエールが叫んだ。
「オゥ・ルヴォワール、トリトン。オゥ・ルヴォワール!」
少年は答える代わりに、振り返りながら手をちぎれんばかりに振った。
さようなら、船長。さようなら、ピエール。
・・・そして、さようなら、・・・じっちゃん。
イルカに乗った少年が海の彼方に消えても、青年は手を振り続けていた。
