■30年目の帰還 その3
トリトンは海を見つめている。
青・緑・そして灰色、何色もの色がとけ込んだ複雑な海の色だ。
光も柔らかく、優しい影を落としていた。
風が磯の匂いを運んでくる。
うす茶色の砂浜に波の作った筋が何本も走っていた。
砂の感触を確かめるように、トリトンは浜辺を歩く。
穏やかな風景だ。
海や空の色は違っていても、イルカ島もまたそうだったのだ。
平和で穏やかな風景、これに安らぎではなく虚しさを感じる自分は何なのだろう。
五助が訪ねてきた。
「トリトンは居るんか?」
浜に、という一平の答えを確かめると、五助は声を潜めながら尋ねた。
「一平よ。トリトンは何か話したんかい。」
一平は首を振った。
「あいつ、すっかり変わってしまって。」
五助が顔を曇らせた。
「昔は、よう笑って、よう泣く子じゃったのに。」
「よほど何かあったんじゃろ。あいつから話すようになるまで、わしゃぁ待つつもりじゃ。」
一平はトリトンの服をたたんでいた。
「あの服じゃないか。こんな服、捨てちまえ。ええ、一平。」
トリトン族の衣装を見て、五助は不愉快そうに言った。
一平は首を振り、かすかに笑った。
「一平。お前・・まさか・・・」
五助は不安な気持ちに襲われた。
トリトンは健太と古新聞を片づけていた。
「悪いなあ、トリトン。ほんとはみつ子の仕事なんだけど。」
トリトンは微笑んだ。
その時、ある見出しがトリトンの眼に飛び込んできた。
「 2 9 年 目 の 戦 死 」
30年前に、戦争があったことは、トリトンも学校で習って知っていた。
なぜ今ごろ「戦死」なのか。
いぶかるトリトンに、健太は、新聞をしばりながら、のんびりと説明した。
「この人?ああ、気の毒だよな。F島で、戦争が終わったこと全然知らなかったんだって。命令だからずっと戦ったんだって。そして死んじゃったんだ。まだ、この人の隊長が戦ってるんだってさ。」
健太は新聞の写真を指さした。
「戦死」した若い兵士の写真とともに、気品ある青年士官の写真が写っていた。
30年前の写真だった。
命令、何と重い言葉だろう。
呆然としているトリトンの耳に、健太の声が聞こえた。
「30年だぜ。信じられないよ。そんな命令なんか聞かなきゃいいのにな。」
その日、いつものように、トリトンは一平と夕飯を食べていた。
そこへ、健太が飛び込んできた。
「一平おじいちゃん。大変だよ。F島であの隊長が見つかったんだって、日本に帰ってきて、今、TVに出てる。早く。」
健太の家に着くと、何人かの村人がTVを見つめていた。
五助が少し席をずらして、一平とトリトンを招き入れた。
大人達は一様に、重苦しい顔つきをしていた。
トリトンはTVを見つめた。
色あせた軍服に身を包んだ兵士の姿があった。
頬のそげた浅黒い顔、じっと前を見据える猛禽のような瞳、あの瑞々しい青年の面影は既に無く、30年という歳月がその顔に、濃く影を落としていた。
その士官に、フラッシュと、矢継ぎ早の質問があびせられていた。
まるで見せ物じゃないか。
トリトンは腹立たしかった。
そんな中、ある記者が質問した。
−なぜ、戦い続けたんです。戦争が終わった事を調べようと思えば調べられたのでは?−
「上官から、戦闘を続行するよう軍命を受けたからです。帰還命令はありませんでした。」
健太が呆れたように言った。
「そんな命令なんか、聞かなきゃ、良いじゃないか。」
「うるさい!そんな生やさしいもんじゃねえ!」
低い、怒りを含んだ声で誰かが言った。
トリトンの心に声が聞こえる。
戦わねばなりません、トリトン族のために。
記者達は、さらに無神経な質問を続けていた。
それに、淡々と答える士官の姿をTVは映し出した。
−一番辛かったことは何ですか?−
その言葉に、今まで冷静に答えていた士官が反応した。
唇がかすかに動き、一瞬であったが、瞳がわずかに潤んだ。
短い沈黙の後、彼は、静かに言った。
「かけがえのない戦友を失ったことです。」
トリトンの心に、二人の声が反響した。何回も。
−一番辛かったことは何ですか?―
―かけがえのない戦友を失ったことです。−
さらにたたみかけるような質問が浴びせられた。
−その戦友を失って、あなたはどう思いましたか?−
メドン・・・プロテウス・・・・・そして・・・
自分のために死んでいった者たちの記憶が甦る。
そのたびに、ポセイドンを倒すことを俺は自分に誓ったんだ。
仲間のために、海の平和のために。
俺は・・俺は・・
トリトンは胸に銛を打ち込まれたような痛みを感じた。
一平はTVから顔を背けている。
努めて感情を押し殺そうとする士官の顔が大写しになって、トリトンの眼に飛び込んできた。
何回か唇が動き、やがて絞り出すように、士官は答えた。
「・・フ・・クシュ・ウ・・シ・ン・ガ・・」
※注 30年前の戦争・・太平洋戦争のこと