■イルカ島外伝・再会を期して その4
「退屈かね。」
いつの間にか、船長が立っていた。
船長も、海を見ていた。
日に焼けた精悍そうな顔、優しいが深い眼差し、トリトンは心の奥底まで見透かされるような気がした。
こんなところも、じっちゃんに似ている。
何かごまかそうとするとき、一平は、静かにトリトンを見つめたものだった。
「ええ、早く海に入りたいんです。」
「そうか、でも、傷がふさがるまでは。」
船長は海面を見つめた。
「ピエールさん達が心配なんですか?」
「そうだね。我々は海のことはほとんど知らない。侮れば、必ず痛い目に遭うだろうからね。」
「でも、ここは大丈夫ですよ。」
トリトンは言った。
ここは、まだポリペイモスの守り海ではない。
血のにおいさえなければ、サメを興奮させることもない。
それに、見通しの良い場所では、イタチザメ達もそう簡単に襲ってくるとは思えなかった。
船長は、黙ってうなずき、また海を見ていた。
「トリトン、君は…。」
船長の声がした。
「君は、戦士の目をしているな。」
トリトンはそれには答えず、船長に尋ねた。
「ジャック船長も戦ったことがあるんですか。」
「ある。もう、ずいぶん昔のことだ。昔の、」
船長は、海面を見ている。
「なぜ、戦うんでしょうね。」
これこそ、トリトンが最も聞きたかったこと、そして誰も教えてくれないことだった。
「なぜなのかな。」
やはり答えはないのだ。
トリトンは顔を上げた。
その時、船長の目に、優しさと悲しみが宿っているのを見いだした。
ピエール達が、戻ってきた。
彼は、すぐさまトリトンに海の中のことを話した。
サンゴ礁の魚の美しさ、沈没船の探検、イルカと泳いだことなど、トリトンには周知の事実なのだが、目を輝かせて話すピエールに押し切られた形になった。
ひとしきり話すと、ピエールはため息をつきながら、南太平洋の美しさをたたえた。
「こんな美しい海ははじめてだよ。君たちがうらやましい。まるで楽園だよ。こんな海を君の祖先は征服したんだろう。すごいよ。全く。」
「征服したって?」
「あれぇ、知らないのかい?君たちポリネシア人は、紀元前に羅針盤なしで南太平洋を渡ってったんじゃないか。こんな広い海域で、同一の文化圏を作ってるんだよ。ほら。」
ピエールは、本を見せた。
「これが、イースター島。島の言葉では、テピトテヘヌアって言うんだろう?それが、鳥人、他の島にもあるよね。・・」
トリトンはページをめくった。
目にとまった壁画にトリトンは釘付けになった。
「これが海の神様なんだろう? まったく、ポリネシア人の想像力には感心するよ。さっきの鳥人もそうだけど、この・・」
トリトンは、思わず叫んだ。
「こいつが、こいつが海の神様なんかであるもんか。こいつは、ポセイドン族のー」
彼は慌てて口をつぐんだ。
トリトンの剣幕に、ピエールはしばらく唖然としていたが、ようやく口を開いた。
「どうしたんだい。トリトン。まるで、会ったことがあるみたいじゃないか。」
夕食の支度を手伝いながら、トリトンは、先ほどの態度を謝った。
ピエールは笑って許してくれた。
寛容な青年の態度は、トリトンの心を温かさで満たした。
ただ、そう言ってから、ピエールは、トリトンの島に連れて行って欲しいと頼みだした。
彼は、本気でトリトンを古代ギリシア人の末裔と思いこんでいるらしかった。
面白い伝説や遺跡があるはずだから、と彼は言った。
もし、イルカしかいない島に連れて行ったら、ピエールは何と思うのだろう。
火を使った夕食の後、トリトンは、甲板に出た。
船の針路が気になっていた。
ポリペイモスの守り海に向かっているような気がしたのである。
海の様子を見る。
間違いない。
船はポセイドン族の居城に近づいているのだ。
何とかしなくては。
そのただならぬ様子を見とがめたピエールが、声を掛けた。
「どうしたんだい。トリトン。」
「ジャック船長は?」
「船室にいるよ。どうして?」
「話さなきゃ、危険なんです。」
「何が?」
「船の針路を変えないと、大変な危険に会うんです。あの海に入っちゃいけないんだ。」
「危険て、何が、この船には最新鋭の設備があるんだよ。大丈夫だよ。」
ピエールは言った。
そして、彼はくすくす笑いながら付け足した。
「トリトン、まさか、あの壁画の鮫人が出てくるなんて言うんじゃないだろうね。」
その、まさかなんだよ!
その夜、トリトンは、なかなか寝付けなかった。
ポセイドン族の話をせずに、船の針路を変えさせる方法はないものだろうか。
潮流や、気象を理由にして針路を変えさせることはできそうにもない。
最新鋭の設備があると言ったときのピエールの自信満々の顔が浮かんだ。
最新鋭の設備と言っても、軍艦ではない。
武器を持っていない船で、どうやって、ポセイドン族と戦えばいいのだろう。
武器と言えるのは、自分の持っているオリハルコンの短剣だけだ。
彼は短剣を握りしめた。
しかし、果たして、自分にポセイドン族と戦える力があるのだろうか。
ドリテアやミノータスとの戦いから、ポセイドン族の恐ろしさはトリトンにもよくわかっている。
ポリペイモスと戦って、自分だけでなく、この船まで守れる自信は今のトリトンには全くなかった。
