■イルカ島外伝・再会を期して その3
「トリトンってどんな神様なんですか?」
「じゃあ、下に行こう。本があるから。」
ギリシア神話に関する本を見せられて、トリトンはがっかりした。
自分と同じ名前の、ひげもじゃの半身半魚の神の姿はお世辞にもかっこいいとはいえなかった。
それに引き替え、ポセイドンはどうだ。
海神と崇められ、実に堂々とした姿に描かれていた。
陸の人間なんて、なんにもわかっちゃいないんだなあ。
本当は、海を荒らしているのは、ポセイドンなのに。
「ポセイドンは、海の神だけじゃなくて、アトランティス大陸の支配者でもあったんだ。アトランティスは津波と地震で一夜にして水没したんだ。」
違う。ポセイドンに滅ぼされたんだ。
アトランティス人もトリトン族も。
「アトランティスの話は、二千年以上前に本になってるんだよ。」
「そ、そんな昔に、その本、どこにあるんですか。」
「うん、ここにある。これさ。プラトンの『ティマイオス』・『クリティアス』。」
アトランティスの滅亡から、さほど、時がたっていないのなら、何かわかるかも知れない。
トリトンはその本を手に取った。
「ピエール、また君の悪い癖が始まったな。彼は、ケガをしているんだ。もう休ませてあげなさい。」
ジャック船長だった。
彼は、トリトンにホットミルクの入ったカップを渡すと続けた。
「疲れているだろう。トリトン、これを飲みなさい。よく眠れるはずだから。」
「お休み、トリトン。」
ピエールが言った。
「お休みなさい。」
あの本は、明日読めばいい。
次の日、朝食の片づけもそこそこに、トリトンは、その本を開いた。
アトランティス人の生活や、国の様子が書かれてはいたが、ポセイドン族やオリハルコンの短剣の秘密については、何一つ触れられていなかった。
やはり、だめか。
ため息が漏れた。
「どうしたんだい?傷が痛むの?」
ピエールだった。
トリトンは首を振った。
「君も、アトランティスに興味を持ったんだね。」
「海に沈んだ島の話が、ここにもあるんだなあって。」
「ってことは、君の島にもそういう伝説があるんだ。」
ピエールは目を輝かせた。
また、根ほり葉ほり聞いてくるのかとトリトンはひやりとしたが、ピエールは自分のことを話し始めた。
「子供の頃、親父の書斎でアトランティスの本を読んだのさ。何だか、魂を揺さぶられるって言うのかな、ワクワクしたよ。その時思ったんだ。シュリーマンがそうしたように、僕も伝説のアトランティスを探し当てようって・・・」
ピエールは続けた。
アトランティス大陸の伝説、母なるギリシア文明のこと、クレタ島のこと、古代の航海術のこと、海底の遺跡のこと、青年も、やはりオリハルコンの短剣のことは知らなかった。
「アトランティスは、海底に沈んでいるだろう。だから、潜水法を実践したくて、この船に乗せてもらったのさ。勿論、海の生き物にも興味があったしね。父さんも母さんも、反対してたけど、押し切ったんだ。」
トリトンはうらやましかった。
「いいなあ、父さん母さんがいて。」
思わず言葉が出た。
「じゃあ、君のお父さん達は・・」
ピエールがすまなそうな顔をした。
「死んだってルカーがいってた。俺が生まれてすぐだけど。でも、寂しくなんか無いよ。じっちゃんがいるし、イルやカルだって、」
トリトンは嘘をついた。
「いいよ、トリトン。悪かったね。つい君が弟みたいな気がしてね。余計なことまで話してしまって。」
「弟さんがいるんですか。」
「いや、僕は末っ子さ、姉さん達が3人もいる。女ばっかりでうるさくてさ。だからいつも思ってたんだ、弟が1人欲しいって。」
「俺も、ピエールさんみたいな兄さんがいてくれたら良かったのに。」
今度は心からの言葉だった。
「ピエールで良いって言ったろ。」
ピエールは笑いながら言った。
ピエール達が、アクアラングをつけて潜ってしまい、トリトンは船に残された。
2・3日は海に入らないこと。
それが、ドクターの診断だった。
自分が、アクアラングもつけず水中にいられると知ったら、ピエールも、自分を不吉な海人と恐れるのだろうか。
いや、そんなことはない。
そんな人じゃないはずだ。
トリトンは、海を見渡した。
南太平洋の海は静かだった。
見渡す限り、紺碧の海が広がっている。
所々で、海の色が変わり、サンゴ礁の存在を知らせていた。
空は青く澄み、彼方に雲が点在している。
船は碇を降ろし、穏やかな波に揺られている。
船の揺れは、彼に陸の生活を思い起こさせた。
猪首村の生活。学校の友達、将来の夢。
あの日、中学を出たら漁師になるっていうと、じっちゃん、学問は必要だ。
高校ぐらいは出とけって言ったっけ。
その生活から、何と遠くなってしまったことか。
戻りたい。
もう、どこでも良かった。
ピエールは弟をほしがっていた。
もし、彼が本気なら、本気でなくても、故郷に連れて行くぐらいはしてくれるのではないか。
そして、普通に学校に行って、自分は陸の人間に戻れる。
そうすれば、そうすれば・・・
その時、全く別の声がトリトンの心に聞こえた。
プロテウス!
少年は、自分を恥じた。
