■30年目の帰還 その2
その日、一平はいつものように寄り合いに出た。
格別変わった話もなく、定刻に寄り合いは終わった。
漁師仲間の五助とともに夜道を歩きながら、二人はかすかな花の香りをかいだ。
「名残の梅かのぉ。」
一平はつぶやいた。
「1年たつのが早うなりよった。」
「酔い覚ましに、一平、お前んちで向かい酒と行きたいもんだ。」
五助が少し赤い顔で言った。
「しょうがない奴じゃ。明日、舟を出せんようになっても、知らんぞい。」
一平は笑う。
その笑顔に五助はほっとするのであった。
ともに暮らしていた少年がいなくなってからの憔悴しきった一平の姿を、五助は二度と見たくはなかった。
一平の家が見えてきた。二人は、はっとした。戸口に誰か立っている。
見慣れぬ人影だった。
声をかけるより早く、二人の気配を感じたのか、その影も振り向いた。
月明かりの中、顔かたちが浮かび上がる。
14・5才ぐらいの整った顔立ちの少年、黒い眉、茶色の瞳、緑の髪。
「トリトン、トリトンじゃ。」
あの日、波にのまれるように消えていった少年。
老人が一日たりとも忘れたことのない姿だった。
その少年が、今、目の前にいる。
「ほんに、トリトンだ。一平。良かったのお・・」
五助は驚きのあまり言葉にならない。
「トリトン。」
一平は絞り出すように声をだした。
「お前、お前、よう、無事で・・・」
老人の目から涙があふれ出した。
じっちゃん。
その言葉は、声にはならなかった。
立ちつくすトリトンに、一平は、一歩一歩近づいた。
一平の手がトリトンの肩をつかむ。
海風にひび割れた漁師の手だ。
この手で、この人は13年間、自分を守り育ててくれたのだ。
「背が伸びたのぅ。」
一平の声がした。
「お前、少し痩せたか?」
「じっちゃん、俺・・・」
ようやく、かすれた声が漏れた。
「トリトン、お前、声が変わったな。男の声になった。」
そう言うと、一平はかすかに笑った。
翌朝、目覚めると、すでに一平の姿はなかった。
飛び起きたトリトンに、土間から一平の声が聞こえた。
「よう、寝とったのお。」
朗らかな声だった。
トリトンは顔を赤くしながら答えた。
「ごめん、じっちゃん。明日からは俺が、飯作るよ。」
ここで暮らしていた頃、食事を作るのはトリトンの仕事だった。
トリトン族の衣装を脱ぎ、一平が用意してくれたTシャツと半ズボンをはいた。
一平とちゃぶ台を囲みながら、トリトンは陸の食事をとった。懐かしい味だった。
昨夜、トリトンは一平に自分の身に起こったことは何も話さなかった。
そして、一平も、何も聞かなかった。
老人の心遣いが、少年には嬉しかった。
ここでなら、自分の居場所を見つけられるかも知れない。
トリトンはそう思った。
鏡の中の顔に、トリトンは呆然とした。
変わったのは声だけはなかった。
村にいた頃の柔らかい頬はそげ、ぽっちゃりとした顔はやや面長になっていた。
彫りも深くなり、まぶたに影が差していた。
確かに時がたったのだ。
トリトンが戻ってきた。
このことは村中にすぐ知れ渡った。
遊び仲間だった健太達が、トリトンに会いに来た。彼らもトリトンと同じく背が高くなり、反対に声は低くなっていた。
顔立ちもきつくなり、大人に近づいているのが解った。
猪首村で変わったのは、彼らだけかも知れないな。
トリトンはふと思った。
「トリトン、お前、神隠しにあったんだって?」
「なにやってたんだよ。」
健太をはじめ、仲間達はトリトンにそう尋ねた。
トリトンは曖昧に笑って答えなかった。
自分の経験したことを、何も知らない彼らに話す気にはなれなかった。
最初は、しつこく聞いた彼らも、神隠しのせいで何も覚えていないというトリトンの言葉を信じたようだった。
彼らは、トリトンを昔のように仲間として受け入れた。
トリトンは嬉しかった。
顔立ちは変わっても心は、なにも変わっていないのだ。
「いつ学校に来るんだい。」
健太が言った。
「今は休みだから良いけど。もうじき始まるよ。」
「お前、神隠しにあって、勉強、全部忘れちまったんだろ。何だったら、俺が教えてやってもいいぜ。」
けんか友達だった五郎が憎まれ口を聞いた。
「学校か・・」
考えてもみないことだった。
数日後、トリトンは一平の舟を手入れしていた。
いつものように健太達が集まってきた。
かつての日々が甦る。
談笑する少年達の耳に低いしゃがれた声が聞こえてきた。
「おっそろしい子。おっそろしい・・」
「ばあちゃんの言うことなんか、気にするなよ。トリトン。」
健太がささやいた。
この老婆はいつもトリトンを目の敵にしていた。
網元である彼女の家の権威は絶大であった。
彼女の言葉が、大人達をトリトンから遠ざけたのだ。
苦い思い出がよみがえる。
かつてのトリトンなら、腹を立てるか泣き出すかしていただろう。
しかし、今は、それがひどく小さなことのように思えた。
黙っているトリトンに、老婆はさらに続けた。
「祟りがあるぞ。村にまた災いが起こるぞえ。お前達、さっさとこの忌み子を追い払わんかい。」
「ばあちゃん。」
いたたまれずに健太が声を上げた。
それを制すると、トリトンは老婆を見つめた。
「おばあさん。」
静かな声だった。
少年達は息をのんだ。
「もう、何も起こらないよ。何も。」
静かに見つめるトリトンに気圧されるように、老婆は口をつぐみ、足早に立ち去った。
「トリトン。」
健太がつぶやいた。
「お前、すっかり変わっちまったな。」
変わったのは自分だけだ。
トリトンは寂しげに微笑んだ。
この日以来、トリトンはまた、イルカ島で感じた思いと同じものを、ここでも感じるようになった。
健太達が冷たくなったわけではない。
彼らは、村の誰も逆らえない老婆に立ち向かったトリトンに、あこがれのような感覚を持ったのだった。
「すごいよなぁ。トリトンは。」
半ば尊敬するような健太の口調に、トリトンは逆に疎外感を持つのだった。
なぜ、そう思うのだろう。
トリトンは自分が腹立たしかった。
イルカ島でも、ここでも、皆、自分を受け入れてくれるのに、なぜなんだ。