■30年目の帰還 その1
トリトンは、ルカー達とともに、南太平洋に戻った。
かつて、仲間と暮らしたイルカ島は海中に没したが、近くのサンゴ礁の島の1つが、新しいイルカ島となっていた。
散り散りになった仲間も、再び集まり、イルカ島はかつてのにぎわいを取り戻しつつあった。
トリトンは、けだるい熱帯の大気の中、青く澄んだ海を見つめていた。
「平和か。」
トリトンはつぶやく。
それに応えるかのように、サンゴ礁に打ち寄せる波が煌めいた。
美しい風景がそこにはあった。
戦いは終わったのだ。
自分の命をねらうポセイドン族は、もう、どこにもいない。
あの戦いの日々が、今では、ひどく遠いものに思える。
「イルカ島の暮らしが戻ってきましたわ。あなたのおかげです。トリトン。」
ルカーの口癖を、トリトンは思いだした。
くすりと、トリトンは笑った。
あなたのおかげですか。くすぐったいや。
日が傾き、海をあかね色に染め上げた。
東の水平線から月がもうすぐ昇ってくる。
イルカ島の1日が終わる。
明日も晴れるに違いない。
海風を頬に感じながらトリトンはそう思った。
穏やかな日々、それは永遠に続くかのようだった。
いつのころからだったのか。
トリトンは、イルカ島の暮らしに違和感を覚えるようになっていた。
仲間といさかいが起こったわけではない。
しかし、ここは自分のいるべき場所ではない。
そんな考えがトリトンの心をよぎるようになった。
なぜ、そんなことを考えるのか。
それはトリトンにも解らなかった。
自分の居場所がイルカ島にないなら、どこに行けばいいというのだろう。
小さな違和感は、次第にトリトンの心に空洞を広げていった。
ある日、トリトンは、イルカ島から外海に出た。
熱帯の魚が群れるサンゴ礁を出ると、海は急に青さを増した。
群青の世界が延々と続いている。
泳いでいると、そのまま、海に溶けてしまうような感覚に捕らわれた。
澄み切った水の彼方に、クロマグロの群れが見える。
ヒレをわずかに動かすだけで、彼らは水中を飛ぶように泳いでいく。
見事な泳ぎだ。
黒潮に乗るつもりだな。
同じ目的のトリトンにはすぐ解った。
しかし、その瞬間、マントをぐいと引っ張られた。
「な、なにするんだ。」
ぎょっとした彼の耳に人なつこい声が聞こえた。
「へへっ、トリトン、ぬけがけすんなよ。」
「どこへ、行くんだい。つれてってくれよ。」
「イル!カル!」
若いバンドウイルカのこの2頭は、トリトンの後をずっとつけてきたのだろう。
トリトンは、困惑したような表情を見せたが、すぐに真顔になって話し始めた。
「お前達を見込んで頼みがあるんだ。」
真剣そうなトリトンの表情に、2頭は、顔を見合わせた。
黒潮、そう陸の人間が呼ぶこの海流の流れは速い。
少年と若いイルカは、黒潮に乗って、一気に太平洋を北に向かった。
海流の行き着く先に、トリトンの陸の故郷があるのだ。
「悪かったな。お前達まで巻き込んでしまって。」
トリトンが言った。
「いいって、いいって。俺も飽き飽きしてたんだ。なぁ、イル。」
カルがにやりとした。
「そうさ、でも、黙って出てきたのは賢明だったぜ。トリトン。ルカーに知れたら、うるさいからなぁ。」
イルも頷いた。
「たまには、里帰りしたって、かまうもんか。もう、ポセイドンはいないんだからな。なぁ、トリトン。」
カルの問に答えはない。
トリトンは押し黙って、水平線を見つめていた。
「どうしたんだよ。ぼんやりして。」
「ああ、カル、すまない。」
「トリトン、猪首村ってどんなとこなんだい?」
イルが、興味津々といった様子で尋ねる。
「どんなとこかって、何の変哲もない、普通の村さ。みんな海で暮らしてて、村はずれに、鎮守の森があって・・」
「鎮守の森って?」
「村の守り神を祭ってるんだ。大きな木がたくさんあるんだぜ。」
二人に説明しながら、トリトンは遠い記憶を甦らせた。
海に夕闇が降りる頃、ようやく、猪首岬が水平線に姿を現した。
「トリトン、行くのかい?」
「イヤ、もう少し暗くなってからだな。二人とも、先に帰っていてくれ。」
「ええっ。そんなあ。」
「水臭いぜ、トリトン。俺たち待ってるよ。」
「イルカ島に戻ってくれ。ルカーもピピも心配してるだろうから。」
そう言われてしまうと、二人は承知する以外無かった。
「解ったよ、トリトン。じゃあ、気をつけて。」
「大丈夫だよ。」
トリトンは笑った。
沖に去っていく二人をトリトンは見つめていた。
夜の海をトリトンは泳いだ。
ちらほらと村の灯りが見えた。
かつて自分が暮らした村だ。
一平の姿が目の前に浮かぶ。
じっちゃんはどうしているのだろう。
トリトンの鼓動が早くなる。
船や網が置かれている浜にあがった。
それが誰の持ち舟なのか、トリトンにはすぐ解った。
昔と少しも変わらぬ、懐かしい風景だった。
自分が去ってからどれほどの年月がたったのだろう。
トリトンは思わずにはいられなかった。
しかし、わずか1年半なのだ。