■30年目の帰還 その4
この言葉は、トリトンの心に突き刺さった。
彼は外に飛び出した。
この時、村人が発したうめき声はトリトンの耳に届いたのだろうか。
士官の声がトリトンの心に響く。
・・フ・・クシュ・ウ・・シ・ン・ガ・・ フク・・シュウ・・シン・・ガ・・・・・
復 讐 心 が ・・・・・
トリトンは、岬に向かって走った。
士官の声とともに、別の声が追いかけてきた。
「私は何も知らない。私はただ、ポセイドン様の命令で・・」
「そうとも、俺が殺したのよ。だが、俺が悪いんじゃないぞ。ポセイドン様の命令に・・」
「・・・我々は、・・・この狭い世界の外に出たかった。・・・・・トリトン族を倒して平和に暮らしたかっただけだ・・・」
同じだ・・同じなんだ・・・
岬に駆け上がり、トリトンは膝をついた。
トリトンの心を占めたのは、やり場のない怒り、やりきれなさだった。
地面を拳で叩く。
あの祭りの夜のように、泣いて、何もかもはき出してしまいたかった。
しかし、トリトンの目からは涙は一滴も出なかった。
なぜ、泣けないのだろう。
怒りも、やりきれなさも、悲しみも、ふくれあがっているはずなのに、空洞が全てを飲み込み、虚しさだけが広がっていった。
そんなトリトンの姿を、一平が見つめていた。
次の日、トリトンは、何か作っていた。
「精霊船じゃないか。」
一平が言った。
「あの死んだ兵隊さんのためにか?」
それだけじゃないけど、トリトンは心の中で答えた。
「どら、」
その日一日、二人は舟を造った。
その夜、トリトンは一平と霊送りをした。
供物を備え、蝋燭を灯した舟を海に流す。
舟は夜の海を静かに沖に流れていった。
小さな灯りが水面を進んでいく。
「これで、死んだ兵隊さんも成仏できるじゃろ。」
一平はつぶやいた。
「じっちゃん、死んだ人の魂は、これで本当に救われるのかな。」
気休めに過ぎない、トリトンはそう思った。
「お前、気休めじゃと思うとるのか。そうかもしれんの。だが、わしゃあ、救われると信じとる。」
一平が静かに、しかしきっぱりと言った。
「そうだね、じっちゃん。」
トリトンは恥ずかしくなった。
彼は沖に流れていく舟に手を合わせた。
自分と関わり、逝ってしまった全ての者たちに対して。
一平も祈ってくれた。
「じっちゃん。」
闇の中、トリトンの声がする。
「あの人、どうするんだろうね。」
「あの人って、あの将校さんのことかい?」
「うん。」
あの人には何も残っていない。
友達も、自分自身の人生も、戦った大義名分さえ。
何もかも喪って、どうするというのだろう。
どこへ行けばいいのだろうか。
「そうじゃな」
一平はしばらく黙っていたが、やがてぽつりといった。
「それでも・・・生きなきゃなるまいよ。」
その言葉は、トリトンの心にさざ波のように広がった。
波紋が全体に広がり、空洞に流れ込んだ。
それはやがて、虚(うろ)を埋め尽くし、あふれ出した。
あふれ出たものは涙となって、トリトンの頬を伝った。
彼は、嗚咽した。
いつから泣くことを忘れていたのだろう。
しゃくり上げる少年の肩を、老人は抱いた。
それでも・・・生きなきゃなるまいよ。
それが、自分にできる唯一のことだった・・すでに、解っていたはずのことだった。
何を迷っていたのだろう。
そして、自分が生きる場所は・・
「じっちゃん」
涙に濡れた眼でトリトンは一平を見つめる。
「じっちゃん、ごめんな。俺・・俺・・」
一平は黙って頷いた。
次の日、一平は一人、海を見つめていた。
「一平おじいちゃん。」
「おじいちゃん」
健太と妹のみつ子が一平に声をかけた。
「おじいちゃん、トリトンのお兄ちゃん、」
「しっ。」
健太が慌ててみつ子を制した。
「トリトンは、還ったよ。」
一平の言葉に二人は声も出なかった。
痛ましげに見つめる二人を、慰めるように一平は話しかけた。
「あれもわしらも海で暮らしとる。海で暮らす限り、トリトンはいつまでもわしのそばに居るんじゃよ。」
二人は頷いた。
「おじいちゃん、トリトンのお兄ちゃん、きっと、また戻ってくるよね。」
しばらくして、みつ子が言った。
一平は、微笑みながら頷き、水平線を見晴るかした。
一平の耳には、きっとトリトンの声が聞こえているのだろう。
二人もまた、海を見つめる。
その日、猪首村の浜辺には、春の日差しが穏やかに降り注いでいた。
(完)