■イルカ島外伝・再会を期して その1
トリトンは、今、抜き手を切ってサンゴ礁を外海に向かって泳いでいる。
どうしようもない焦燥感にさいなまれながら。
切っ掛けがなんであったか、トリトンにはもう、わからなくなっていた。
この気持ちは体を酷使することでしか、解消できないだろう。
クソォ。ピピの奴。
挑発に乗った自分が悪いと思いつつも、少年は、自分の仲間の少女に腹を立てていた。
その彼を責めるように、ルカーの声が心に響いた。
私たちは、あなた方に仲良くして欲しいのです。
お二人に託されたトリトン族の未来はどうなるのですか。
また、いつものお説教か。
もう、うんざりだ。
彼は、息を切らしながら波間を進んだ。
トリトン族がなんだ。なんで、海の平和を俺が守らなきゃならないんだ。
お、俺だって、・・・・じっちゃんとこに帰りたい。
その考えが頭に浮かぶと、彼は慌てて首を振った。
そうすることで、この考えを振り払いたかった。
できるはずもないことをくどくど考えるは、トリトンの性に合わない。
あの夜、岬から飛び込むことで、彼は陸の人間として生きることを捨てたはずであった。
しかし、ここイルカ島に暮らすうちに、トリトンは寂しさを覚えるようになっていた。
イルやカルは確かに気の置けない、良い友達である。
しかし、彼らイルカたちとはどことなく感覚のずれ、そう言うしかないものを感じていた。
ルカーは、確かに優しかった、口うるさいところも、自分を心配してのことだ。
彼にはよくわかっているのだ。
しかし、イルやカルを怒る時とは明らかに違うその口ぶりから、トリトンを「海の平和を守ってくれるトリトン族」と彼女が見ている部分を、少年の鋭敏な感性は悟ってしまうのだった。
仲間が欲しい。人魚じゃなく、自分と同じ姿の友達が。
サンゴ礁のはずれまでくると、トリトンはテーブルサンゴの縁に腰掛け海面を見上げた。
赤道直下の海は青く澄んでいる。
灼熱の太陽の光も水を通すとやわらかでカーテンのように揺らめいている。
サンゴ礁に、色とりどりの魚が群れていた。
まさに、人間が「楽園」と呼ぶにふさわしい眺めだった。
この近くに、ポセイドン族の一人ポリペイモスの守り海があることを知る陸の人間は、誰もいないのだ。
ポセイドンを倒さない限り、楽園なんてありはしないんだ。
そう思いつつも、トリトンの頭には全く違う考えが浮かんでいた。
なぜ、戦わねばならないのか。
トリトン族とは何なのか。
アトランティス人とは。ポセイドン族とは何者なのか。
トリトン族と言ったって、自分とあの生意気な人魚しかいないじゃないか。
どうして放っておいてくれないのだろう。
少年は緩やかな流れに身を任せながら海中を漂った。
その時、水面を黒い影が覆った。
船だ、しかし、島民のカヌーではない。
不審に思ったトリトンが顔を上げるのと同時だった。
水面が泡立ち、何か硬いものがトリトンの頭を直撃した。
激痛とともに血のにおいが広がった。
しまった。サンゴの下に隠れなきゃ。
トリトンは、薄れていく意識の中で思っている。
自分の血がサメを呼び寄せることを、ポセイドン族のギンザメだけではない。
イタチザメやメジロザメがどれほど血のにおいに鋭敏か、彼は、一平老人の言葉を思い出していた。
ここは、どこだろう。
心地よい揺れが、横たわった体に伝わってくる。
懐かしい振動だった。
ああ、船に乗ってるんだ。
一平老人の姿が見えた。
「じっちゃん?」
「ホレ、寝ぼけてないで、網をほどいてこい。」
潜って網を仕掛けるのは、トリトンの仕事だ。
「わかったよ、じっちゃん。」
その時、また船が揺れた。
思わず一平の腕にしがみつく。
「大丈夫か?君?」
「良かった。気がついたんだね。」
はじめて聞く声だ。
トリトンは顔を上げた。
トリトンは、船室のベットに寝かされていた。
頭がズキズキする。
彼の頭にはいつの間にか包帯が巻かれていた。
男達がのぞき込んでいる。
皆日焼けして、海のにおいがしていた。
漁師達なのだろうか。
明らかにヨーロッパ系の顔立ちをしている。
土地の人間ではなかった。
この人達は?
トリトンは半ば夢見心地で、男達の顔を見つめた。
「悪かったね。あんなところに人がいると思わないから、調査器具を投げ込んでしまって。君が浮かんできたときには、心臓が止まると思ったよ。」
一番若い男がすまなそうに言った。
トリトンより10才は上だろうか。
栗色の髪と目をしている。
整った顔立ちだったが、人なつこそうな笑みを浮かべた。
トリトンも思わず微笑んだ。
「言葉がわかるのかな?まだ動いてはいけない。今日は、ここで休みなさい。後で、君の島まで送るから。」
きっぱりとした声だ。
しかし、暖かみがあった。
この船の船長なのだろう。
トリトンは、その男を見た。背が高く、一平ほどではないが、かなり年配だった。
短く刈った白髪に赤いベレー帽のような帽子をかぶっていた。
シャツが胸元まで開いているので痩せてはいるが、筋肉質の体であることがよくわかった。
気品のある容貌で鼻が高く、目の光が印象的だった。
一平老人に似ている、トリトンはなぜかそう思った。
