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青嵐に笑う 後編




山の中腹に差し掛かったところで日が暮れはじめてきたので、野宿することにした。
一張羅が汚れてしまうことを恐れた孔明は、趙雲が、『夕食』をとりにいっているあいだに、広げた粗布のうえに、着ていたものをひろげて丁寧に畳む。
そして、こんなこともあろうかと予備で持ってきた、多少汚れてもかまわない、年季のはいったものに着替えた。
さらに虫が寄ってこないように、南蛮の商人から買った、とっておきの野営用虫除け香を焚いてみる。
きくのか、きかないのか、そのあたりは初挑戦なので、孔明にもわからない。
じき、趙雲が野鳥を何羽か取ってきて、食事の準備がはじまった。

「妙な臭いの香だな。ほんとうに虫が寄ってこないのか?」
いかにも疑わしそうに、趙雲がたずねてくる。
孔明としては、おもしろくない。
が、大丈夫だともいいきれないので、
「おそらく平気だ」
と胸を張ってみた。

「おまえ、ときどき変なところで意地を張るな。じゃあ、賭けをするか。明日の朝までに、俺が虫に三箇所以上食われていなかったら、おまえの勝ち。三箇所以上食われていたら、俺の勝ち」
「よかろう。賭けの賞品はなんだ」
「そうだな、武器の手入れをするための獣の皮が最近足りないから、それを三枚」
「ちょっと待て。それは、あなたには必要かもしれないが、わたしは獣の皮を三枚もらっても使いどころがない。というか、うれしくない」
「どちらにしろ、俺が勝つ賭けだから問題なかろう。どこで買ったのだ、こんな変なにおいの香」
「あのな、人の物に対して『こんな変なもの』扱いはひどかろう。南蛮から来た商人が売っていた『妖怪も逃げ出す』というのが売りの『退魔香』だ」
「名前からして怪しい。俺の勝ちだ」
「ふん、明日の朝が楽しみだな。獣の皮は、わたしがもらう。使い道はあとで考える」
「俺は、たぬきを三枚たのむ」
「鼠じゃだめか」
「たぬきだ」

そんな会話をしながら、すっかり暗くなった山の中、火を起こし、野鳥を串刺しにして焼いてみる。
鳥の肉の焼ける香ばしいにおいと、孔明の焚いた虫除けの香の臭いが微妙にまざりあい、山中では、なんともいえない緊迫感がただよった。
「野宿にするんじゃなかったな」
そんなことをぶちぶちと言いつつ、趙雲は、自分がもってきた包みを取り出す。
すると、中から、竹の皮につつまれた大きな握り飯が出てきた。
「いそいで握ってきたものだから、形はわるいが、味はわるくないはずだ。ほら」
趙雲は、孔明に握り飯を差し出してきた。
「ありがとう。いまの口ぶりだと、時間があれば、うまく握れるとでも言いたげだったな」
すると、趙雲は目を細めて言った。
「俺はおまえとちがって、椅子にすわっていれば自然と膳が出てくるような生活は、あまり送って来なかったのでね。たいがいのことは、ぜんぶ自分でできる」
「わたしとて、握り飯くらいならば、握れるとも。炊いた飯を拳でぎゅっと」
「駄目だ。握り飯のうまさは、力加減にある。『拳でぎゅっと』などと言っている時点で、その不味さは確定したな」
「それは食べてみなければわからぬ。新野に戻ったら、握ってくれよう」
「期待しないで待っているさ」

とげとげしい空気の中、孔明はどれどれと握り飯をひとくち、口にした。
さすがに薀蓄を語るほど、握り方を研究しているらしく、その握り飯はうまかった。
なんだかんだと、あっというまに、一粒ものこさずぺろりと握り飯をたいらげると、趙雲は得意そうにこちらを見ている。
なにやら癪であったが、ここは素直になるべきであろう。
「うまかった」
孔明がいうと、趙雲は、満足そうに声をたてて笑った。
からかうようなことは、言ってこなかった。




それからしばし歓談したあと、香のにおいを気にしつつ(悪夢を見そうだと趙雲は言った)、二人は眠りについた。
香は、なんだかんだと効力を発揮しているらしく、いつもならば人を悩ます虫が、たしかにまったく寄ってこない。
『獣の皮か。なにに使うかな』
明日の朝を楽しみにしながら、孔明は目を閉じたが、ふと、気づいた。
こんなに楽しい一日を終えるのは、ほんとうに久しぶりであった。
新野では、いつもなにかを気にしていた。
戻ったら、また同じになるだろうか。
『ならないだろう』
確信が、孔明にはあった。
ひとりではないという心強さが、孔明の足元を固めつつあった。




翌朝、孔明は心地よく、パッチリと目を覚ますことができた。
それこそ夢もみずに、深く眠っていた。
体を動かしたことが良かったのだろう。
そうして、軽く体を伸ばし、あたりを見まわす。
すでにあたりには木の香りのみが漂い、退魔香の、得体のしれない香りはどこかへ消えていた。
孔明は自分が虫に食われていないかを確かめた。
だが、退魔香は、大げさな売り言葉を裏切らず、見事な効能をみせていた。
どこも虫に食われていない。

これはわたしの勝ちだと意気込みつつ、趙雲のほうを見ると、なにやらむずかしそうな顔をして、じっと手元を見ている。
「どうした。虫に食われていないだろう。賭けはわたしの勝ちだ」
「たしかに虫は寄ってこなかったが」
言いつつ、趙雲は、手元にあったものを、孔明に差し出して見せる。
ぎょっとすることに、ちょうど腕の長さほどもある、死んだ大蛇であった。
「ゆうべ、体を這う音で目が覚めた。おまえのところにも何匹も来ていたようだが、ぐっすり眠っていたようで、声を掛けてもぜんぜん起きなかったな」
「……何匹も?」

覗き込めば、趙雲の寝床のまわりには、退治した蛇が、ちょうど四匹ほど、きれいに並べられていた。
どれも毒のない種類の蛇ではあったが、その気味の悪い姿に、孔明はぞっとする。
「蛇は、虫に含まれるのか?」
「噛まれていないからな……『虫に三箇所以上食われたら』という条件だったから、おまえの勝ちでいい。しかし暗闇のなかでの蛇との戦い。疲れたぞ」
「すまぬ。こんどは、この香と、『どんな毒蛇もイチコロ』というのが売りの『退蛇香』も持ってこよう」
「あのな、すこしは懲りてくれ」

趙雲は、蛇は骨が多いが食べられる、と言い出したが、孔明はさすがに辞退し、朝は、趙雲がもってきた餅を焼いて食べた。
そうして出発することになったのだが、頂上のほうを見上げると、趙雲は言った。
「そうだな、昼前にはつくだろう」
頂上になにがあるのだろうと、期待しつつ、孔明はふたたび山をのぼり始めた。




昨日とつづいての快晴。
初夏の山風は適度につめたく、孔明の肌にここちよい刺激をあたえた。
頂上をひたすら目指し、山道をあるく。
朝まで昨日と変わらぬ様子であった趙雲が、頂上が近づくにつれ、また、口数がすくなくなってきた。
はて?
「どうした、疲れたのか」
昨日は退魔香に引き寄せられたのか、あらわれた四匹もの蛇と格闘し、ほとんど眠っていないという。
そのために疲れがでたのだろうかと心配した孔明であるが、趙雲は、あいまいな返事をかえしてきた。
「いや、そういうわけじゃないのだが」
「だが?」
「俺は間抜けかもしれぬ」
突然の反省の弁に、孔明としてはわけがわからず、首をひねる。
「なんだ、急に」
「いや、こいつらが」
趙雲は、山道の両脇に生い茂る、みずみずしい生命力をみせる木々のうちの葉の一枚を、まるでだれかの手を握るかのようにして掴むと、ゆさゆさと揺すった。
「木がどうした」
「この季節は、数日で木々が一気に生長することを忘れていた。そういえば、十日ほど前に、雨がつづいた日があったな。ああいう日のあとの、草木の生長というのはいちじるしい」
「そうだな」
「軍師、いまから謝っておく。かなりつまらぬかもしれぬ」
「なんだかわからぬが、期待するなというのだな」

山道には人の気配こそなかったが、頻繁に往来はあるものらしく、しっかりとした道になっていた。
趙雲は途中から本道をそれ、せまくて細い、道なき道を登り始める。
ええい、やはり、もっと軽装をしてくるのだった。
孔明は後悔しつつ、裾を気にしながら孔明が苦心して山道をのぼる。
すると、先に軽々と、それこそカモシカのように岩石の連なりをのぼっていた趙雲が、手を差し伸べてきた。

手を差し伸べられ、一瞬、孔明はためらった。
べつにほんものの龍をきどって、逆鱗がある、というわけではない。
叔父の玄を、樊城で、刺客の手によって奪われて以来、人というものに触れられることに恐怖をおぼえるようになっていたのだ。
感触が気持ちわるいから触れられない、などという程度ではない。
本能が、人の温かさをおそれ、反射的に避ける。
命という物をつつんでいる人の肉体のもろさ、そういったものを恐れているのか。
それとも、目のまえの者が、こちらの敵になることを無意識のうちに恐れているのか。
あるいは別の理由か。
孔明は自分の心を何年もかかって懸命にさぐっているのだが、いまもって、答えは出ていない。

十六からはじまった、この奇癖は、十年以上かかって、ようやく改善されつつある。
自分が覚悟をきめさえすれば、人に身を寄せられることを我慢できるまでにはなった。
が、それ以上は無理である。
唐突に、人に身を寄せられれば、おどろいて身を引いてしまう。
どころか、本能に克てずに、これを激しく突き放してしまう場合もある。

目の前の手を、なかなか取らない孔明に、趙雲は、すこし怪訝そうにする。
大きな手だな、と孔明は思う。
武器を持つ者の手だ。
叔父を殺した男も武器を持っていた。
けれど、大丈夫だ、この男は、わたしを傷つけたりはしない。
孔明は差し伸べられた手をとり、岩石をのりこえた。

趙雲は、そのあともしばらく、大きな岩石をのりこえては、振り返り、手を差し伸べてくる、ということをくりかえした。
そのたびに孔明はその手を受け取ったが、くりかえしているあいだに、手を取ることは作業となり、頭の中からむずかしい悩みは消えた。

そうして、最後の岩石の連なりをのぼりきると、やがて頂上にたどりついた。
先に頂上にたどりついた趙雲は、頂上からの眺めをみるなり、ああ、と落胆の声をあげた。
本来であれば、孔明を振りかえり、どうだ、と自慢してみたかったのであろう。
だが、眼下に広がる光景は、生い茂る木々のこんもりとした連なりがあるだけの、ごくごく平凡な山の風景であった。
頂上へ来たという爽快感はあるが、生い茂る草木ばかりが映る風景には、とりたてて目だって、素晴らしいと思える物はない。

「やはりな」
趙雲のがっかりした声が横から聞こえてきた。
「もうすこし早い時期であったら、木々もこんなに茂っていなくて、ちょうどここから、まっすぐに見えるものがあったのだ」
「なにが」
「新野の一帯がだ」
「ああ」
方向からして、山頂からまっすぐ見下ろすと、新野城と、その周囲の町が見えたのだろう。
「おまえが来てしばらくだったかな。前から、自分がいま、どこにいて、なにをすべきか、知りたいと思うときにここにやってきていた。ここへくると、不思議と気持ちがおちいた。おまえも、このところ疲れた様子だったから、すこしは気がまぎれるかと思ったのだ。
麋子仲どのも、おまえをとても心配していた。今日、おまえをここに連れてきたのも、あの方が、気分転換をさせてやってやったほうがいいと言ったからだ。あとで礼を言っておいてくれ」

ああ、そうだったのか。
孔明はようやく、趙雲が自分だけをここに連れ出した理由を理解した。
「たしかに、いまはなにも見えないけれど、気持ちがいいよ」
頂上を走り抜ける風を全身でうけながら、孔明は心からそう言った。
「これほど爽快な気分になったのはひさしぶりだ。とてもいい気分転換になったよ、ありがとう子龍」
孔明が言うと、趙雲は、あきらかに照れたらしく、顔を背けた。
「おまえのその直言、なおす予定はないのか」
「あいにくと、ない。どうしても我慢できない、ということであればなおすけれど、そこまで嫌か?」
孔明が問うと、趙雲は逸らしていた目線を孔明のほうに直した。

その目を見たとき、孔明はすくなからずおどろいた。
なつかしい表情を、そこに思い出したのだ。
叔父や父たち。
なつかしい、自分をかついていつくしんでくれたひとびとの顔に浮かんでいた表情を。
もちろん、趙雲の顔立ちは、思い出の中の顔のだれにも似ていない。
けれど、趙雲の顔に浮かぶ表情は、叔父や父たちが向けてくれた表情と、おなじ種類のものだった。
かぎりなく優しく、あたたかいもの。
そうか、だから手を触れるのも、恐ろしく感じなかったのか。

「ありがとう」
言いながら、孔明が手を差し伸べると、趙雲のほうが驚いた顔をした。
だが、趙雲が先ほど孔明にしたように、孔明が忍耐づよく待っていると、趙雲はためらいながらも、手をつかんできた。
あらためて触れた手は、思った以上に大きく、ごつごつとして、温かく感じられた。
父や叔父、そして襄陽で親しんだ仲間たちともちがう、大切な友をわたしはいま、手に入れた。
この友とともに、わたしも、もっと強くならなければ。

そうだ、だれになんと言われようとかまわない。
わたしは、たとえこの身にどんな風を受けようと、こうして泰然と立っていなくてはいけなかったのだ。
『軍師』になったのだ。
人の頭(かしら)になったのだから。
もっと精進しよう。
部屋に閉じこもっているだけでは駄目だ。
もっと外へ。
世界を知らなければ。
趙子龍。
わが君が命じたとおり、この男とともに、手を携えて、いけるところまで行ってみよう。

「ありがとう、子龍」
重ねて言うと、趙雲も、はにかみながらも、うなずいた。

頂上を吹き渡る青い風が、雲ひとつ無い空の上を駈け巡っていく。
こんな清清しい心のまま、いつまでも、どこまでも行ことができたなら。
いいや、どこまでも行ってみせよう。
この出会いで得たもの、そしてこの場所に立って思ったことは、生涯忘れないようにしよう。
これを口にしたなら、趙雲は、またも怒り出してしまうだろうなと、孔明は思ったので、沈黙を守る。
そして、ただ感謝の意味をこめて、太陽のように明るい笑顔を見せるにとどめておいた。





おわり

(2006/08/13 初稿)
(2021/11/26 改訂1)
(2021/12/20 改訂2)
(2021/12/26 推敲1)
(2022/01/03 推敲3)


※ あとがき ※


〇 こんなに長い話だったけ、と思い出しながら推敲した。
〇 会話文はちょっぴりマシだったが、地の文のおかしさは相変わらず。
〇 馬を山中に連れて行くなど、いろいろおかしな点もあったので、直したり削ったりした。
〇 「〜が」でつなぐ文章が多すぎて、苦労した。ほぐして、書き改めた。
〇 誤字脱字も相変わらず多かった。なにをやっていた、過去の自分… たぶん、まだある。
〇 推敲前の、劉備の趙雲への気持ちがすれ違っている、という部分は、今回大幅に直した。
やっぱり、劉備は趙雲や孔明をとても可愛がっていたし、趙雲と孔明も、劉備という大事な存在に導かれて、成長していく、という物語のほうが、自然な感じになる。
今後、展開するエピソードにも影響させる予定。
〇 蛇のくだりは、むかしの自分も乗って書いたものらしく、その前後は直さなくてよかった。
〇 冒頭の、関羽に認められるシーンと、麋竺が孔明を心配しているシーンは、今回付け足したもの。
孔明が曹操を見に行ったというエピソードも、追加した。
小説の三国志だと麦畑のシーンが有名だけれども、孔明の曹操への気持ちは、とても本人を前にして泰然としていられるようなものではなかったのでは、と想像したので、このかたち。
〇 原本のタイトルは「山びこの峠」だったが、どこが「山びこ」でどこが「峠」なのか、さっぱりわからない内容。
なんでこんなタイトルにしていたのか、いまもって思い出せない。おそらく、適当につけたのだと思う。
話を思いついたのが先だったか、タイトルが先だったかも思い出せない。
今回、「青嵐に笑う」にタイトルを変更した。当初は「青嵐に誓う」だったが、大河ドラマのタイトルっぽくなりすぎたので、これまた変更した。
〇 「青嵐」とは、夏の季語で、初夏の、青葉を揺らして吹く強い風をあらわす。
〇 構成としては、まだまだ稚拙な部分が目立つ。またいつか直すことになるかもしれないが、2009年の推敲分よりは、だいぶ読みやすくできたと思う。


ご読了ありがとうございました!(^^)!