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青嵐に笑う 前編


「見事なお裁きでしたな、感服いたした」
骨の折れる裁判をの判決を終えたあと、おのれにかけられた声におどろいて孔明が振り返ると、なんと、関羽であった。
新野に来て以来、まともに口すらきいてくれなかった誇り高い男が、こちらを褒めてくれている。
それだけでもおどろきなのに、長髭のなかの関羽の顔には、照れ臭そうな笑みすら浮かんでいた。
「それがしは、これまで、軍師どのを見くびっていたようだ。どうぞお許しくだされ」
そういって、率直に頭を下げてくる。

孔明としては、とつぜんの謝罪に、おどろいたやら、うれしいやら。
「頭を上げてください、雲長どの。やるべきことをやっただけのことですから」
謙遜する孔明に、関羽は、今度は呵々と笑って、言った。
「いや、痛快な裁判であった。しらばっくれていた悪人が、軍師が矛盾をつぎつぎと指摘していくと、だんだんしどろもどろになっていく様が、実にな。あれほど的確で無駄のない追及ができるとは、たいしたものだ。そうとうに調べをなさったのでしょうな。
いやあ、それがしでは、あそこまで事件をひっくり返すことはできなかったであろう。学ばせていただいた。礼を言わねばならぬ」
「そこまで言っていただけると、かえってお恥ずかしいかぎりです。じつをいうと、裁判がはじまるまえに、ざっと調書を読んだだけです」
「なんと」
「それほど難しい事件に思われなかったのですが、証人の話や罪人の態度を見て、偏見を持って判決を下すのは危険だと思いなおしました」
「ほう。しかし、おかしいと気づいたことこそたいしたものだ」
「おほめいただき光栄です。わたしこそ、いろいろ学びのあった裁判です」
「そういう謙虚さも大切ということだな。いやあ、ほんとうに学びがあった」
関羽はそう繰り返すと、孔明の肩を親しげに、ばんばん、と叩いた。
「軍師どの、それがしは貴殿を認める。これからも兄者の力になって、この新野を守っていってくれ」
「ありがとうございます」

関羽はほんとうに裁判がおもしろかったらしく、よかった、よかった、などと晴れ晴れとした様子で立ち去て行った。
しかし、そのうしろにつづく張飛は、ずっとその場にいたにもかかわらず、一言も口を利かず、むすっとしたまま孔明を無視して行ってしまった。

すこしずつ、新野の人々ともよい関係を築けつつある。
だが、当然ながら、すべての人に好かれるというのは不可能らしい。
『雲長どのとは、うまくやっていけそうだ。問題は益徳どのだな。あの御仁は豪傑だが、なかなかに嫉妬深い方でもあるようだ』
劉備の義弟である関羽と張飛とは、どうあれ、よい関係を作っておきたいと、孔明は思う。
これから、長い付き合いになるなかで、いちいち、水野郎め、と目の敵にされるのは面倒だ。

ふう、とため息をついて、凝った肩をまわす。
関羽に言ったことは事実だった。
裁判がはじまるまえは、単純な事件だと思っていた。
調書も特段に変わった記述がなく、証拠もそろっていた。
ところが、おびえる被告人のすがるような眼を見たとき、これほど澄んだ目をした人間が罪を犯しただろうかと疑問に思った。
そして、証人の一人が、証言のあとに気を緩ませて、いかにもしてやったりというふうに笑ったときに、これは冤罪ではないかと思い直した。

そこで、孔明は徹底して証拠の矛盾点をあげていき、まず被告人に咎がないことを証明。
つづいて、証拠の矛盾点が示す真犯人をその場であぶりだした。
真犯人は、証言のさいに笑った男であった。
孔明のあざやかな追及に、真犯人は当初こそ、つべこべ言っていたが、次第に追い詰められ、ついに罪を白状した。

まるでよくできた劇を見るような孔明の裁きに、見物していた関羽をはじめとして、その場の書記からほかの証人たちまでが快哉をあげた。
ここで、常人なら、いい気分になっただろうが、関羽に語ったことが事実で、孔明は自分を戒めていた。
真犯人がうっかり証言後に笑ったりしなかったなら、おかしいと思わなかったわけで、自分はまだまだ文字だけを通して世の中を見ているのだなと痛感させられたのだ。
それでも、思いもかけず関羽から褒められたのはうれしい出来事ではあったが。




さて、これから、また事務仕事が待っている。
孔明は力みすぎている肩から力を抜いて、小さく、よし、と自分に言い聞かせると、執務室へ向かった。
裁判のあいだに溜まっていた仕事は山のように積まれていた。
これまた常人であったなら、こんなに働かねばならないのかとうんざりしただろうが、孔明はちがう。
こんなに自分の力を証明できる事案があるのだと思うと、わくわくするのである。
「さあ、やりますか」
孔明が言って、筆を執ると、となりの席の麋竺は頼もしい息子を見るような目で孔明を見てうれしそうな顔をし、すこし離れたところに座る孫乾と簡雍は、顔を見合わせて、どういう意味か、首を軽く左右に振った。

麋竺が自分に好意を持っているのはわかっているのだが、孫乾と簡雍はいまひとつよくわからない。
かれらは、関羽や張飛と同調していて、直接にああだこうだと言わないまでも、態度はいまもって固いままだった。
関羽が孔明を認めたことは、まだかれらには伝わっていないだろう。
ほんとうなら、関羽や張飛たちとは関係なく、自分を認めてほしいところだが、と孔明は思う。
夏には曹操が南下してくるかもしれないという緊迫した状況下で、いつまでも内輪もめをしていられない。
早く人々に自分を認めてもらいたかった。
そうすれば、一枚岩となって、あの巨大な力…曹操に対抗することができる。




孔明は、官渡でおこなわれた曹操と袁紹の会戦のあと、徐庶や崔州平らとともに、戦場の跡地や今上帝のおわす許都などを見て回った。
そうして感じたのは、生まれ故郷の徐州を無残にも踏みにじった憎き曹操が、袁紹を撃破したことで、その勢力を吸収し、想像以上に巨大な力を手に入れたのだという実感であった。

当の曹操とは直接対面とはいかなかったが、遠目から、その姿を見ることはできた。
袁紹の遺した三兄弟のうちのひとりを打ち破った戦の凱旋であった。
曹操は誇らしげに馬上で胸を張っていた。

孔明は曹操をはじめて肉眼で見た。
思っていたより小さな体躯の男だな、というのが最初の印象であった。
しかし、そのまとう火焔のような雰囲気はどうだろう。
さして派手な武具や衣装を身につけているわけでもないのに、そこにいる曹操はまさに英雄の名にふさわしい、ぎらぎらとした輝きを放っていた。
都のひとびとは、だれもが、自分たちの主を誇りに思っているらしく、曹操を熱狂的に迎えている。
だれもが、徐州でおこなわれた虐殺を知らないかのように。

かれらにもみくちゃにされながら、孔明は一人だけ、曹操を見て唇をかむことしかできなかった。
悔しさがあった。
おのれの無力さがむなしかった。
曹操にひとことでもいいから、ここに徐州を忘れていない人間がいるのだと告げたかった。
黒山のひとだかりをかきわけ、かきわけ、前に進もうとしたが、熱に浮かされたように曹操の名を叫ぶ群衆は壁のように孔明の前にたちはだかる。
その人の壁の厚さこそが、孔明と曹操の立場の差を明確にあらわしていた。

やがて、行列は過ぎていき、曹操は孔明の存在を知らないまま、通り過ぎていく。
呼び捨てにしようものなら、その場の興奮した人々に取り押されられることは確実だった。
孔明は煮えたぎるような恨みの気持ちを押し殺し、こころのなかで叫んだ。
曹操、わたしはおまえを忘れない。
おまえがどれほど天辺に上ろうとしても、わたしがおまえを引きずり下ろす。
そして孔明は嘆息した。
もし自分に度胸と腕があったなら、いにしえの荊軻や張子房がそうしたように、曹操に近づき、徐州の恨みを晴らしたのに。
かれらのようには、わたしは失敗しない。
命に代えても、徐州で塵芥のようにあつかわれた数々の命の仇をとる。

孔明、と自分の名前を呼ばれて、孔明は我に返った。
群衆は渦のようにうごいて、曹操の行列を追いかけて少しずつ移動している。
その渦に巻き込まれながら、徐庶がけんめいに孔明を追いかけてきたのだ。
兄弟子にして親友の、こちらを心配している顔を見て、孔明はすこし冷静になった。

多くの見方を手にし、綿密に計画を立てたなら、もしかしたら、暗殺計画は成功するかもしれない。
しかし、それまでに、どれほどの屈辱に耐え、卑屈にならねばならないだろう。
危うい道を目隠しのまま歩くような人生が、果たして自分の性質にあっているだろうか。
正義の仇討ちをした徐庶でさえ、役人にとらわれてひどい目に遭う世の中だ。
万が一、曹操を狙って、失敗したら?
姉たちは、弟はどうなる。
曹操に仕えんとしている諸葛一族の全員のことも考えねばなるまい。
もちろん、いま目の前にいる徐庶のこともだ。

ふと、孔明は何百年の時間の垣根をこえて、大軍師張子房が語り掛けてきたように感じた。
はやる気持ちはわかる。
憎しみにとらわれるその気持ちもわかる。
だが、熱すぎるその思いだけで突っ走って破滅を迎える。
それがおまえの望む人生なのか。

曹操とその股肱の将の名を連呼する群衆の中にいて、孔明はただひとり、天からの声を聴いていた。
荊軻は犬死だった。
張子房ですら、始皇帝を暗殺し損ねて、潜伏せねばならなかった。
曹操は始皇帝と同等の巨大なものになりつつある。
かれらと同じ手段では、曹操の野望をくじくことはできない。

見やると、どこまでも抜けるような蒼穹のもと、曹操の小さな後姿が遠ざかっていくところであった。
曹操の凱旋の行列は長く、どこまでも続くようにすら思えた。
それほどに多くの将兵を曹操は抱えていて、戦果もまた、目覚ましいものがあったのだ。
行列をつくる兵士たちの持つ槍や矛が陽光を受けてきらきらと輝く。
誇らしげに。
挑発するかのように。

対抗せねば、天下はあの男のものになる。
わたしもまた、おのれの高祖を見つけるべきなのだ。
孔明はこの光景をけっして忘れまいと思った。
そして、曹操の姿を目に焼き付けて、誓ったのだ。
きっと、あの男の野望をくじいてやるのだ。

腹が据わると、気持ちがすっと落ち着いた。
荊州に戻った孔明を待っていたのが劉備で、そして孔明はようやく、わが君と呼べる人物を得た。




高祖の風格のある劉備を孔明は尊敬している。
かれと、かれを慕う仲間たちは、同志だ。
曹操の天下統一をゆるしてはならないという、その理念で皆一致している。
だから、時間はかかるかもしれないが、いずれはわかりあえるはずだ。

時間に限りがある。
焦りはある。
だが、いまは目の前にある仕事に最善を尽くすだけ。
そうして実力を発揮していけば、やがて皆がついてきてくれるだろう。
孔明には自信があった。
かれらの理解力にも、自分の実力にも。




筆を懸命に動かしていたら、すっかり暗くなっていた。
どうやら、ほかの者たちには声をかけられたようだが、夢中になっていて気付かなかったらしい。
いつの間にか、執務室には麋竺以外に、書記たちが数名残っているだけ。
その麋竺ですら、もう手を止めて休んでいる。

「申し訳ありません、夢中になっていたようです」
孔明が謝ると、麋竺は、なんの、と言って、肩をすくめた。
「熱心なことはよいことだ。みなも喜んでおる。とくに、いままで残業続きだった孫乾と簡雍は、定時に家に帰れるようになったとご満悦だよ」
「そうですか、喜んでいただけているなら、よかった」
「だが、ほどほどにしておきたまえ。あまり君が猛烈に仕事をしてしまうと、周りがそれに慣れて、逆に仕事をしなくなる危険がある。いじわるを言っているのではないよ。きみを案じているのだ」
「わかります。気を付けましょう」
答えつつも、孔明はすこしがっかりしていた。
麋竺に失望したのではなく、自分の甘さにがっかりしたのである。

実務を本格的にやりはじめて気づいたが、自分はどうやら、仕事に夢中になりすぎるようだ。
周りが見えなくなるときがある。
気を付けないと、麋竺が指摘したように、周りがついてこられなくなる。
頭ではわかっているつもりのことだったが、実際に動くと、わかっていなかったじゃないかと突きつけられる。

まだまだだな、と心の中で反省して、孔明は小さくため息をついた。
その孔明の横顔を、麋竺が心配そうに見ていたことには気づかなかった。




翌朝。
身支度をととのえている最中に、孔明はおどろくべきことに気づいた。
自分の両目の下に、青いクマができているのだ。
関羽と和解したことで、安堵して、昨日はよく眠れたのだが。
「そうか、昨日までの疲れが、いまになって出ているわけか」
一人、つぶやいて、血行を良くするために、目の周りをもみほぐす。
それでも、相当に疲れがたまっているらしく、青いクマはなくなってはくれなかった。

その日は、劉備とともに朝餉をとる予定であった。
この顔のまま、表に出ることはできないなと焦っていると、外から声をかけてくる者がある。
「軍師、起きているか」
「子龍か。なんであろう」
迎えに来てくれたのかと思って顔を出すと、趙雲はいきなり渋い顔になった。
「おまえ、疲れていないか?」
「朝から、藪から棒になんだ。たしかに、昨日は裁判までやって、張り切りすぎたが、元気だぞ」
孔明は口をとがらせる。
しかし趙雲は渋い顔のままで、言った。
「わが君は別な用事ができたので、申し訳ないが朝餉は別の日にともにとろうとおっしゃっている」
「なんと、それは残念だ」
「そこでだ。出かけるぞ」
「は?」
意味がつかめない。
「一緒に来てほしいところがあるのだ」
「いったい、どこへ」
「悪いところへ行こうというのではないぞ」

朝の陽ざしを背中から受けているせいで、外にいる趙雲の顔が、逆光のためによく見えないのは不便だった。
孔明は席を立ち、部屋の外に控えている武人のいるところへと寄った。
「歯切れが悪いな。もしかして、行く場所は厩舎か。馬を繋げとか、馬を一緒に洗ってくれとか、鐙をしまってくれとか、そういう手伝いをしてほしいという話か」
趙雲は、暇さえあれば愛馬の世話をしている。
それを想定しての話だったが、顔がはっきり見えるようになった趙雲は、意外にも心配そうな顔をしていた。
「おまえをさらに働かせようという話ではない。それにしても、ひどいクマだな。このところ、激務が続いていたようだから、気を紛れさせてやろうと思ったのだが」
「気を紛らせるために、外出するのか」
かえって疲れそうだけれどと孔明が考えていると、趙雲が重ねて言った。
「そうだな。疲れるからいやだというのなら、無理にとはいわぬが」
「ふむ、そこまで言うのなら、付き合ってもよい。場所はどこだ」
「そうか。行くか。西のほうなのだが」
「西にもいろいろあるだろう」
孔明がいうと、趙雲は、しばし、ことばを詰まらせた。
答えを迷っている、そんなふうだ。
なんだ、行き場所も定まっていないのか、と孔明が疑問に思っていると、しばらくして、早口で趙雲は答えた。
「ともかく西だ。一晩でいける場所だから、近い」

西、というだけで、具体的な地名はなにもいわず、
「行ってくれるなら、半刻後に門で待っている。支度をしてくれ」
ということばを残し、趙雲は去っていこうとする。
その背中を見送りかけて、孔明はまだ逡巡しているおのれに気づいた。
行き先がわからないというのは、どうもモヤモヤする。
断ったほうが良いのではないか。
すると、心の内を読んだかのように、趙雲が足を止め、孔明を振り返る。
「構えなくていいからな」
「どういう意味だろう」
「おまえをどこぞに連れて行って、どうこうしようというものじゃない。ほんとうに、ただの遠出だ。準備も簡単でいい」
まさに構えていたおのれを見透かされたことが恥ずかしい。
孔明が言葉をかえせないままでいるうちに、趙雲はまた踵をかえして立ち去った。




孔明は手早く旅支度をすませた。
用意するもののほとんどは、衣類や身だしなみを整えるための道具だけだ。
司馬徽の私塾にいたころは、仲間たちと旅をくりかえしていた。
そのため、旅にも慣れている。
経験から、短い時間で、必要最低限のものをそろえてすぐ発てる技術も身につけていた。
さらに、その必要最低限のものは、どんな小さなものでも、こだわりにこだわりぬいた逸品ばかりをそろえていた。
良いものを持っていれば、どこにいようと自分でいられる。
そう信じているのだ。

旅支度をととのえ、留守を守ってくれる麋竺や孫乾たちに、自分がいないあいだの仕事の引継ぎを簡単にすませる。
そうして準備万端にしてから、孔明は、趙雲の待つ門へと向かった。
孔明は、最低でも、供の数人はくっついてくるのだろうと想像していた。
しかも、趙雲はいたって簡素な服装で、武装はしていても鎧姿ではなく、鎖帷子に上衣を簡単に羽織っただけであった。
むしろ、あらわれた孔明の姿を見て、顔をしかめたほどである。
「派手だな」
「これがいつものわたしだ」
「まあいいか。着替えは持ってきたか? よし、それでは行くぞ」
と馬にまたがる。
そして、そのまま、さっさと馬を門にくぐらせようとする。

あわてて孔明はたずねた。
「待て。二人だけか? ほかに随行する兵卒などはおらぬのか?」
「おらん」
あっさり言って、趙雲は馬の腹を蹴って、西へと馬を走らせる。
「どこへ行くのか、まだ聞いていないぞ」
孔明の文句が聞こえたのか、聞こえなかったのか。
振り返らない趙雲に舌打ちしつつ、孔明もあわててあとを追う形となった。

つづく