陳叔至と臥竜先生の手記
今日も今日とて、腹が立って仕方ない。
陳到、字を叔至は趙雲の副将であった。
泰然としている同じ年の上役とはちがって、陳到は自覚のある凡庸な男である。
武芸の才能は同等であったのだが。
なので、どうしてあんなに趙雲が、隆中からやってきた臥竜先生こと諸葛孔明の無礼な態度に平然としていられるのかがわからない。
趙雲からすれば、孔明のような若造の存在は、このごろ増えた蚊と変わりのないものなのかもしれないが、それにしても孔明の態度はひどすぎるように陳到には感じられた。
蚊のほうが、まだかわいい。
なにせ、孔明は趙雲に対してだけは横柄な態度をとる。
五つも年上の先輩。
しかも、陳到が同じ年ながら敬愛する趙雲に対し、ため口!
麋竺や簡雍や孫乾といった面々には礼を尽くして敬語をつかっているのに、なぜわが将軍のみにはため口なのだろう。
そう思うとイライラしてきてしまい、晩酌も苦くすら感じられる。
あまりに陳到がイライラしているものだから、幼い娘も近づかず、かれの賢き妻もあきれ顔。
とつぜんに腹を立てているわけではなく、このところ毎日腹を立てっぱなしなのだから、家族はだれもうんざりしていて、なだめてくれないのである。
そして、今日も今日とて腹を立てつつ酒をちびちび飲んでいると、妻が言った。
「いい加減になさいまし。いつまでそうカリカリしつづけるつもりなのです」
「あの軍師が態度をあらためるまでだ」
「聞いた話ですと、お殿様が見込まれただけあって、すばらしく仕事が早いお方だそうですわね」
「たしかに早いわい」
「しかも早いばかりではなく正確で的確だとか。ならば、喜びなさいまし。あなたがたの仕事も楽になるでしょう」
「でも、趙将軍への態度はゆるせぬっ」
食卓を拳でどん、と叩く陳到。
目じりには涙が浮かんでいるが、これは単にかれが泣き上戸の傾向があるためだ。
「なにゆえ、ため口を許されているのか」
「ご本人は気にしておられないのでしょう」
「気にしておられるに決まっておる。あの方は我慢強い方だから、じっと耐えておられるのだ」
「軍師さまの主騎だから?」
「主騎にならざるをえなかったので、耐えておられるのだよ」
「そう決めたのはお殿様なのでしょう」
「わが君の命令には、将軍も逆らえぬからな。おかわいそうな趙将軍。まるで犬っころを呼ぶように、あの軍師が趙将軍を『子龍、子龍』と呼び捨てにするだけで」
「だけで?」
「鳥肌が立つわい!」
「嫉妬ですわね」
「何を言い出した」
「いえ。なんでもありません。それよりも郎君、このグズグズはいつまでつづくのですか」
「グズグズと申すか」
「グズグズじゃありませんか。郎君がどれほどここで文句を言おうと、人様は変えられませんわ。たしかに腹が立つでしょうけれど、しばらく様子を見てはいかがです。軍師さまは田舎から出てきたばかりで、新野の雰囲気がまだよくわかっておられないのかもしれない。そのうち、趙将軍がどれほど立派な方かわかれば、態度をあらためられるかもしれません」
「それまで待てというか」
ならば、それまでこの悔しい気持ちはどこへもっていけば、と言う前に、以心伝心、妻は陳到の前に、鉄筆と竹簡を持ってきた。
「愚痴ならば、これに書いておさめなさい。気分が晴れますわよ」
「書くのは慣れておらぬ。面倒だ」
「まったく、ああ言えばこう言うわね。だまされたと思って、書いて腹をおさめてみなさいな。それでも腹が立ち続けるのなら、仕方ありませんけれど」
陳到は、なおも反駁しようとしたが、妻の怖い顔を前に、引っ込んだ。
「やるだけやってみるわい」
「それでよろしい。さあ、そうと決まったら、もう子供の前で、酒を飲んでは愚痴ばかり、というのはやめてくださいよ。ほんとうに、教育に悪いったら」
妻はぶちぶち言いながら、陳到が飲み干した盃と酒瓶を食卓から引き揚げてしまった。
あとに残された鉄筆と竹簡。
陳到はしぶしぶ、鉄筆を握り、文字をつづりはじめた。
趙子龍の副将・陳到(叔至)、記す
隆中から軍師としてわが君が連れてこられた諸葛孔明というお方は、名前もきらきらとして変わっているが、御面相もたいそう変わっておる。
どういうふうに変わっているか。
美麗すぎるのだ。
美麗といっても、うちの女房もたいしたものだが(自分でそう書くのはおかしいかなあ)、あの軍師の持つ美しさというのは、女人の美しさとはまた別の種類の、なかなかほかでお目にかかれない類のものだ。
ひとくちに美しい、といっても、いろいろある。
たとえば、身体の線が美しいとか。
内面からにじみ出る表情の豊かさゆえに、平凡な顔立ちでも美しく見えるとか。
もともと目鼻立ちが整っていて美しいとか。
ともかくいろいろあるのだと思うが、この青年の場合、顔も秀麗、背格好もすらりとして清雅、双眸の輝きは星のよう。
しかも、ほんとうに神仙のごとく霞でも食べているのではなかろうか、と疑わせるほどに生活臭がないため、神秘的な雰囲気すら漂わせているときた。
まあ、口から出る言葉は辛辣きわまりなく、やたら現実的で、がっかりするほどなのだが、外見は美麗であることにはまちがいない。
これほど美麗であれば、さぞかし城の女どもが黙っておらぬであろうな、と思えば、そうでもない。
城の女たちに聞いてみた。
ところが、だ。
「あれだけ綺麗だと近づきがたい」
「私たちなぞ、相手にすらしてくださらないでしょう。手ひどいことばで追い返されそう」
「高嶺の花ですわ。へたに近寄ったら叱られそうで怖い」
「神経質そう」
などなど、人気の点では、いまひとつのようだ。
怖いというのは誤解で、むやみに人を叱るようなことはないそうなのだが。
将兵たちからも、軍師に対しての本音を引き出してみた。
もちろん、ウチから持ってきた、わが賢き妻手製の餅(わが賢き妻は『噂話を釣るエサ』と露骨に呼んでおるが)を振る舞いつつ、だ。
すると、将兵たちからの、あたらしい軍師についての評判は、やはり、いまひとつ。
「顔が綺麗なのがなんの役に立つ。役者にでもなっておれ」
というのが大方のもの。
そのなかで、とくにおどろいたのが、
「世には断袖の者も多いようだが、あれは相手にされまいよ。女のようでありすぎるからな」
という声だ。
さまざまな声のなかでも、これは意外な意見であった(気の毒であるから情報提供者の名は伏せておく)。
わたしはそいつに、さらに餅をやって、くわしく聞き出してみた。
そいつは、すっかり気を良くして、ぺらぺらしゃべってくれた。
「よいか、断袖の者に人気があるのは、単に女のように線の細い者ではない。あくまで『男らしさ』がそこになければならぬのだ。『男としての美しさのある者』。これが、一番人気がある。あの軍師のように、『男だか女だか、わけがわからん』というのはダメだ。イマイチだ。あれなら女と代わらぬ。面白味がない。あれとお前となら、お前のほうが、人気があるだろうよ」
わたしはあわてて逃げ出そうとしたが、件(くだん)の情報提供者は、けらけらと人の悪い笑顔を見せて、言った。
「すまぬ、すまぬ、冗談ぞ。そうさな、断袖の者のもっとも好む男といったら、趙子龍どのであろう。あれはよいな。肉付きの素晴らしさ、凛々しい風貌、男らしい重々しい口調に低音のよく響く声、大将然とした落ち着き。ああいう男らしい男こそが『もてる』。軍師が、まだ十四前後の稚児というのであれば、また特殊な趣味の連中にもてはやされようが、あいにくと年が行き過ぎておる。だから、『ダメ』」
なるほど。
軍師は、ほうぼうで、ダメ出しをされているようだ。
それにしても、趙将軍が、それほど断袖の者たちに人気があるとは知らなんだ。
趙将軍の貞操をお守りするために、副将たるこの陳叔至、一肌脱いだほうがよいだろうか。
いやいや。
一肌脱ぐ、に、よこしまな意味はないぞ。
わたしには愛する女房がいるのだからして。
※
翌朝になり、陳到はすっきりした気分で目を覚ました。
じつはこのところ、あんまりグダグダと酒を飲み続けいていたので、朝に二日酔いに襲われることが多かったのだ。
ところが、手記を書いたことで、頭すっきり、気分爽快。
これはすごい。
さすがはわが妻の知恵だ。
陳到はさっそく、率直さをみせて妻に礼を言い、もらった鉄筆と竹簡を職場にも持って行って、続きを書くことにした。
※
趙子龍の副将・陳叔至、記す
どうしたわけか、軍師は、今日はめずらしく兵舎に入り浸っておられる。
そして、ひとりでなにやら、あちこち動き回っているのだ。
視察、ということなのであろうか。
おや、お節介の親父さん(糜竺)がやってきたぞ。
軍師に頼まれたわけでもないのに、兵舎のあちこちを案内をしているようだ。
ここの柱は腐りかけている、とか、床に穴が開いている、とか、最近の大がかりな徴兵により、兵舎の卓が足りないので、食事の順番待ちで、兵卒たちの不満が高まっている、とか。
軍師は、それをひとつひとつ聞いて(しかしお節介親父の報告を記帳しているのは、孫乾どのなのであるが)うなずいて、立ち止まって兵卒たちの談笑に耳をかたむけたり、武器の手入れの仕方をじっと見学したり、馬の調練を小一時間にわたり見つめていたり、あるいはなにをするでもなく、てきとうに座って、じっと人の流れを見たりしている。
しまいには、兵舎の食堂へやってきて、兵卒たちと一緒に配給の列にならび、同じ卓上で、すいとんをすすりはじめた。
あれはなんだ、遊んでおるのか、そうなのか?
※
孔明は困っていた。
新野の面々が自分に反発しているのは知っている。
そうなるであろうと覚悟して隆中の庵を出てきた。
とはいえ、さすがに焦りがある。
もう新野に来て一か月にもなろうかというのに、いまだ親しく話せるのは麋竺だけ、という状況はまずいのではないか?
しかも、麋竺は劉備に近すぎる。
妹が劉備の夫人になっているので、うかつに麋竺に愚痴をこぼすと、そのまま劉備の耳に入って、過度な心配をかけかねない。
ではどうするか。
腹に言葉をためるのはよくない。
そうだ、書いてみよう。
思いを文字にすると、頭がすっきり整理されるものだ。
さっそく孔明は、手記を書いてみることにした。
※
臥竜先生こと、諸葛孔明、記す
困っている。
先日よりわが君に言いつけられた主騎の件のことだ。
例の、妙に名前の立派な男が、生意気にも辞めるのをいやだ、といっているのだ。
なんとか、かれが辞める方向に持っていくべく、理由を探っているのであるが、どうにもそれが見つからぬ。
主騎になろうとしているのは、趙雲、あざなを子龍という。
びっくりするくらい立派な名前の男だ。
軍師に招聘される以前に、徐庶から聞いていたのだが、かれは常山真定のきちんとした家系の子息であるということだ。
貴賎入り混じった雑多なわが君の陣営のなかでも、「貴」にやや近い、というわけだ。
はじめて名前を聞いたときは、粋がったヤクザ者が、自分に格好のいい名前を適当につけて威張っている類いかと思っていた。
だが、出自を聞けば、品があるような、ないような……いや、正直にいえば、かなり人品は良いほうであろう。
徐庶も男ぶりの良いほうであったが、これほどではなかった。
世の中には、美形、という言葉がぴったり納まる男もいるものなのだな。
しっかり肉のついた、しかし無駄なところのひとつもない体つき。
甘い顔立ちだが眼光が鋭いので舐められることもなさそうだし(下手に絡めば、気づくとあの世に行っていそうだ)、背もわたしよりすこし高いくらいか。
それでいて武芸達者で、文字も読めるどころか、関羽どののように、兵法だけではなく四書五経までも修めているとなれば、完璧ではないか。
いや、完璧というほどでもないか。
徐庶が言っていたことであるが、ずいぶん人付き合いの悪い、愛想のない男だということだが。
不愛想なのは、まあいいとして、他に問題はまったくないというのに、なぜ将軍職を兼務して、わたしの主騎になろうとしているのか。
ひらめいた。
人格の問題があるにちがいない。
生真面目そうに見えるが、ああいうのに限って、女遊びが派手だとか、賭博好きとか、飲兵衛だとか、重大な欠陥があるのでは。
おそらく、なにかしらの問題を抱えているために、これまで目立たない立場でくすぶっていた。
本人もそのことを悩んでいて、今回、いくらか浮上するために、わたしの主騎になろうとしているのではないか。
なるほど、腑に落ちた。
野心家か。わたしを利用しようとしているとは。
さらに聞いた話だと、かなりの変わり者でもあって、城外に屋敷を構えることもなく、兵舎の一室をおのれの家として改造して住み着いているとか。
わたしより五つ年上のはずであるが、いまだ妻子もない、という。
戦乱で亡くした、ということでもないようだ。
わが君いわく、
「いくらなんでも親不孝になるから、家庭をかまえて子供をつくれ、とすすめたのだが、『わが君が天下を取られるまでは、わたしに家族はいりません』というのだよ。困ったものだなあ」
ということだ。
困った、といいつつ、わが君はうれしそうだったが……
それは言い訳で、じっさいは女関係が派手すぎて、整理しきれず、どこから手をつけていいのかわからないので、いままで、ずるずるときているのではなかろうか。
あの容姿だもの。女が放っておくわけがない。
これまた、腑に落ちた。
そうに決まっている。
よし、そのあたりを調べ上げ、わが君にご報告申し上げ、主騎の撤回をお願いしよう。
女房に逃げられたわたしが言うべきことではないかもしれないが、女人を大切にしない男に未来はないのだよ。
ところで、さきほどから、趙子龍のうしろでちょろちょろしている、あの男は何者なのであろう。
覚えにくい顔だな。
特徴らしい特徴がほとんどない。
つぎに会ったときに覚えていられるであろうか。
それに、なにやら、こちらを睨むようにして見てくるが、わたしは、なにかしたか?
まあいい。あれは捨て置くとして。
それにしても、兵舎で出る食事はひどいものだ。
これは、すいとん?
粉が練りこまれていないので、口当たりが悪いうえ、ところどころダマになっているし、そもそもの小麦の質がわるい。
これでは兵たちも力がでまい。
たしかにすいとんは行軍時には便利な食べ物だ。
兵卒が用を足す回数が減るからだが、しかし、いまは戦中ではないのだ。
いまくらい、もうちょっとマシな食事を食べさせてやってもいいはずなのに。
ふむ、見回りもよいものだな。
また改善すべき点が見つかってしまった。
あとで、さっそくわが君にお願いして、兵たちの食事をまともなものに変えてやろう。
うん?
食堂の片隅に、趙子龍もいるな。おぼえにくい顔の男と一緒に。
ほかの将軍たちが、兵士とは別な場所で食事を摂っているのに、あの男は兵卒といっしょになって、おなじ食事を摂っている。
とはいっても、兵卒たちと肩を並べているだけで、かれらと打ち解けているという様子もないな。
自分からかれらに話しかける、ということもしない。
周囲の兵卒たちも、かれの存在に慣れているようだ。
しかし、目立つ男だな。
これだけ男がうようよいるなかで、八尺の男というのはあまりいないし、服装が粗末なくせして容姿が立派だから、妙な感じだ。
小山の連なりに、いきなり高い山がぽんとある、というふうだ。
そうだ、あの服装の趣味、じつによろしくない。
なんだ、あの白い服。
官給品をそのまま、なんの工夫もなく仕立てているものと見た。
将軍職にあるならば、それなりに染めてある、ちゃんとした服を着ればよいものを。
わたしとちがって、服装に頓着しない性質なのだな。
ああ、わかったぞ。
ほかの将軍は、みな妻子持ちだ。
だから、たとえ本人に洒落っ気がなくても、ほどほどに見栄でよい着物を着せてもらっている。
しかし、妻子持ちでないあの男は、気の毒に、ああいう、何も考えないで良い簡素な服に袖を通すしかないわけか。
白がかれに似合わないわけではないが。
うむ、わたしであれば、あの男に浅葱色などの淡い衣を着せるであろうな。
いやいや、そんなことは、あの男の周りにいるであろう女たちの考えることで、わたしの考えることではないな。
嗚呼、それにしてもなんて不味い食事だ。
それでも腹ペコの兵卒たちは嬉しそうに食べている。
気の毒で涙が出てきそうだ。
なに、そもそも、贅沢に慣れているわたしの口に合わないだけではないですか、と嫌味を言ってくるやつがいるぞ。
贅沢云々は関係なく、こんな粗悪なすいとん、まずいに決まっている。
おまえたちはどうして平気なのだ。
平気じゃない?
じゃあ、なぜ黙っている。
ふむ、料理番の男が、糜芳どののコネで雇われている男なのか。
麋竺どの弟君は、なかなかに困ったお方だな。
なんと。料理番に文句をつけると肉包丁を持って追いかけてくる、というのか。
それはいかん。
わたしが、気付いたからには、なんとかしてやろう。
料理番には、食事を改善するよう注意する。
それでもまだ食事内容が変わっていなかったら、そいつは馘だ。
その代わり、新野でいちばん料理の上手い料理人を探してきてやろう。
食事は、睡眠と並んで、人生における最重要事項だからな。
士気にもかかわることであるし。
……おやおや、兵卒たちがこれだけ喜ぶ、ということは、よほど我慢に我慢を重ねていたのだな。
約束は、かならず守ってやろう。
いま、趙子龍がこちらを見ていなかったか?
気のせいか。
いま気づいたが、かれは、この食事に我慢できる男、ということだ。
かれは食事のひどさに気づいていながら、黙っていた、ということか。
麋家と揉めたくなかったのかもしれないが、どちらにしろ、やはり愚鈍でやる気がない男なのであろう。
やはり、かれが主騎になる、というのは、わが君に頼んでやめにしてもらおう。
わたしのこれからの、自由な毎日のためにも。
陳叔至、記す
まだあの軍師は兵舎をウロウロしている。
正直に認めよう。
軍師がウロウロしていることで、全体にほどよい緊張感が走っている。
兵卒どもを統率する側としては、たいへんよろしいところである。
が、落ち着かないというのも事実である。
しかも、それまで「胡散臭いよそ者」を見る目で軍師を見ていた兵卒どもだが、現金なものだ。
食事の改良を軍師が約束したあたりから、兵卒たちは口々に軍師を誉めだした。
胃袋を掴んだ結果か、自ら率先して軍師に挨拶する者もちらほら出始めた。
ぬ?
兵舎からいなくなった。
と、思ったら、料理番のところへ行って、激しくやりあってきたらしい。
本人が誇らしげにいうところをそのまま語るなら、
「夜の食事については、今上帝が食べても美味いとおっしゃるだろうものを出せ、と命令してきた」
ということだ。
兵卒たちは大喜び。
うまい食事にありつけるから、というだけではあるまい。
もちろん、それもあるだろうが、連中がよろこんでいるのは、料理番本人を軍師がやりこめたことにあるのだろう。
あの料理番は、糜芳の後ろ盾があるのだといって怠慢にも威張りくさり、まともな仕事をしてこなかった料理番だったからな。
いくら新野一の人格者、糜竺どのの弟である糜芳のコネであろうと、主公の寵愛を一身にあつめる軍師には、かなわなかったようだ。
いまのところ、肉包丁片手に追いかけてくる気配はない。
めずらしいことに、おおはしゃぎする兵卒たちを見て、趙将軍が、口に笑みを浮かべて、優しい顔をされていた。
これは、兵卒たちと同じように、してやったりと思った、ということか。
糜芳と趙将軍、どういうわけか仲が悪いからな。
きっかけは不明なのだが、あれは糜芳の一方的な嫉妬だと、わたしは睨んでいるのだが。
たしかにうちの将軍、顔もよければ性格もよし、口は重たいが男気があるし、律義者で愚痴のひとつも言わないし、面倒見は意外とよいし、わりと話もわかる。
縁談も多いのに、承諾しないのも、また女たちの射幸心をあおっているらしいと聞く。
女にも男にももてまくる、わが自慢の上司である。
麋芳からすれば、あまりに出来すぎているので妬ましいのだろう。
それはともかくとして、あの軍師は、毎日、何回、着物を変えているのだろう。
更衣のたびに着物を替えているようだ。
また替えてきたぞ。
えらく派手な錦の帯を中心に、紺でまとめた衣裳だ。
桔梗の花のように見えるのう。
意外にも金持ちらしいということは聞いていたが、衣装ひとつとっても、相当なものだ。
みたところ、いつも上等な絹の衣を纏っている。
衣にあわせて、髪型までいじって、洒落っ気があるなどという言葉で片付かない派手好みだのう。
司馬徽先生の私塾に通っていた人間というのは、そんなに趣味人ばっかりだったのかな。
新野にはこれまで、こういう種類の人間はいなかったな。
いや、待てよ。以前の軍師の徐庶どのは、ちがったではないか。
清潔な服装をされてはおられたが、色合いはいたって地味。
絹なんて滅多に着ていなかった。
だが、羽目を外すときは、おおいに外して、張将軍と盛り上がっていたこともあったっけ。
翌朝には、昨日ははしゃぎすぎたといって、ものすごく落ち込んでいるのを見るのが、ひそかに楽しかったりしたのだが。
曹操のもとへ行かれて、その後、お元気だろうか。
お元気だと良いが。
おや、またも趙将軍が、軍師のほうを見ているぞ。
やはり気になるのであろうな。
「軍師は、なんだって今日は、俺ほうばかりちらちら見ているのだ」
と聞いてきた。
ああ、なるほど、軍師は、兵舎ではなく、趙将軍も見ていたのか。
たしかに、おかしい。
なぜ、軍師は趙将軍を見ているのだろう。
たしか趙将軍は、先日、主公より軍師の主騎となるよう命令されたはず。
それを受けて、逆に軍師が、気を遣って、自分で主騎たる趙将軍のそばにいる?
いや、ちがうな。
あの、尖がった目つき。
わかってしまった。
趙将軍のアラ探しをして、主騎を辞任させたいのではないか。
なんということだ。
趙将軍が直々に守ってくれるという贅沢を、あの軍師は理解していないのか。
趙将軍は、孫子が説くところの大将の気風、すなわち、才知、威信、仁愛、勇気、威厳、すべて備えていらっしゃる(まだお若いから、関羽殿には負けるけれども)。
こんなところで埋もれていてよい人ではない。
軍師がいやだというのなら、将軍のほうから、主騎の任務を断ってしまえばよいのだ。
だいたい、将軍が主騎などと、おかしな人事だ。
わが君のお決めになられたことにケチはつけたくないが、やはり部下としては不満である。
主騎のほうが、細作よりはマシだがな。
何を隠そう、細作は、わたしの前職だが。
あれは給金はよかったが、命がいくつあっても足りない、恐ろしい職業であった。
話がそれた。
趙将軍が主騎、というのはたしかに勿体無い。
わたしからも、わが君に、考え直してくださるよう、お願いしたほうがよいのだろうか。
だいたい、ああいう着道楽な若者と、うちの質実剛健を旨とする将軍の気性が、かみ合うとは思えぬからな。
よし、ではそうするとしよう。
明日にでもわが君のもとへお願いしに行くぞ。
しかし、軍師の、あの新しい帯はカッコイイな…
諸葛孔明 記す
兵卒の仕事も、大変なものだな。
士大夫の家に生まれたわたしは、徴兵されることのない身の上だ。
そのさいわいを、あらためて実感している。
兵卒たちは、朝は早くに起こされて、兵舎や調練場の掃除をして、調練をしたあと食事、また調練、食事、昼寝、調練、武器の手入れ、食事、就寝。
わたしであったなら、そんなキツイのに加えて、単調な生活には耐えられぬ。
しかもあの食事だったのだ。
同情するに余りある。
いま、みなは調練場の中央に、なぜか我が物顔で鎮座している大きな楠木の木陰に憩って、並んで昼寝をしている。
もうすこし、みなの日よけになりそうな樹を増やしてやるべきかな……間に合わぬか。
曹操が、新野、いや、荊州に南下してくるのは確実だ。
それは、早ければ、年内になるであろう。
植樹しても、おそらく木が育つ前に、大きな戦になる。
趙子龍は昼休みにどこにいるのか。
すぐにわかった。
みなが昼寝をしているのを横目に、厩舎に行って、調練でつかった馬の調子をみてやっているのだ。
わたしも後をついていって、様子を覗いている最中だ。
人が変わったようだ。
趙子龍、馬を前にすると、顔つきがちがう。
かなりの馬好きらしい。
新野の濃密な人間関係につかれて、馬に心の癒しを求めている、というクチかな?
馬のほうもずいぶんなついているようだ。
趙子龍が顔を出すと、鼻息を荒くして、尾っぽをぶるりとふっていた。
それを見る趙子龍のほうも、うれしそうだな。
馬に噛まれたので(おそらく馬は、毛づくろいをしてやっているつもりなのだろうけれど)笑って、たしなめていた。
悩みのなさそうな顔をしているな。
文武両道か。
そのうえ、あれだけ男ぶりがよいと、わたしのような悩みを持ったことはなかったろうな。
十代の頃は、女のような顔だからといって、性格までなよなよしているものと思われて、だいぶ心無い連中から舐められたものだ。
背が伸びたおかげで、それも次第になくなったが、もし背が伸びていなかったなら、下手をすれば宦官のような扱いを受けていたかもしれない。
もうこういう顔なのだから、仕方があるまいと、開き直ったのが、徐庶と出会ってからだったな。
おまえ、せっかく綺麗な顔をしていて、みんなによい印象を与えることができるのだから、もっともっと、よい印象を与えるように努力したほうがよいぞ。
かれはそう言ったのだ。
不思議と、かれのことばは素直に聞けた。
おかげで、肩の力が抜けて、笑顔を自然に出せるようになっていった。
それまでは、手段としての笑顔しか作れなかった。
ここで笑えば有利になるな、とか、好かれるだろうな、とか、そういう計算づくの笑顔だった。
徐庶は、わたしのこの、人目を惹く容姿が、やがて説客としての最強の武器になると言ったが、そうであろうか。
わたしに自信を与えるための、慰めではなかったか。
確かめようにも、本人はもう、遠い空の向こうなのだが…元気かな。
だれより優しい男だった。
しまった、本来の目的を忘れて、考え事にはまっていた。
あの男がこちらに気づいたようだ。
まあ、気づくだろうな。
こんなに短い距離で、じっと見つめていたのだから。
なにか嫌味でも言ってくるかな、と構えていたが、趙子龍は関心がない様子。
どうでもよいのか、馬の身体を洗い始めた。
馬は、きもちよさそうに、ぶるぶると鼻を鳴らしている。
しばらく見ていても、趙子龍はなにも言わず、黙々と、ほかの厩番といっしょになって、順番に馬の身体を洗ってやっていた。
こころから馬が好きなのだな。
でなければ、兵卒たちがぐうぐうと昼寝をして休んでいる合間に、自分は休まず、馬の身体を洗うなんて、なかなかできるものじゃない。
子龍とて、兵卒と一緒に調練をしていた。
一箇所にじっとしてたわけでもない。
銅鑼にあわせて大音声でもって号令をかけながら、型の不味い兵卒に丁寧に指導もしていた。
相当つかれているはずだ。
それに、馬を洗うのも、なかなか重労働だぞ。
身体の疲れを忘れるほどに、馬の世話が好きなのか。
聞いてみようか。
ああ、でもいまさらだし、わざとらしいかな。
徐庶ならたぶん、わたしを見つけたなら、
「やってみるか」
とでも聞いてくるだろう。
この男はそういう社交性はないようだな。
そもそも、わたしに関心がないのだろう。
やれやれ、主騎の話も、子龍から断ってくれたら、話が早いのに。
これ以上、かれを見ていても意味がないな。
さて、明日は河原の工事の視察もあるわけだし、わたしも眠くなってきた。
ちょっとわたしも調練場の日陰を借りて、昼寝でもしてこようかな。
今日の事務仕事については、糜子仲さまが、すべて代行してくださるとおっしゃってくださったし。
あの人は、ほんとうに親切なお方だ。
おや、その親切なお方の弟君が、なにやら剣呑な顔をして、こちらにむかってずんずんとやってくる。
あの弟君のほうは、苦手だな。
どうも言葉がきついし、妙にえらそうで。
とはいえ、これから志を共にする仲間なのだ。
それに、話をしてみると、意外と良い方かもしれぬ。
愛想よく。愛想よく。
と、ん?
弟君の後ろにいるのは、例の料理番ではないか。
なるほど、読めたぞ。
料理番め、わたしに怒鳴られたことをうらみに思って、弟君に言いつけたな。
言いつけを受けて、文句を言ってくる弟君も弟君だ。
ふん、武将ひとりに脅されて、怖じる諸葛孔明ではないぞ。
昼寝の前に、ちょうどいい運動だ。
あの食事は不味かった。
不味い食事では兵卒たちは力が出せない。
力が出せなければ軍が弱る。
事実を端的に言うだけ。
さあ、行くぞ。
夢
「叔至、そこいにた派手なの、どこ行った」
趙雲は、厩舎にて、ともに馬の身体を洗っていた陳到に尋ねた。
入り口のそばの柱に背をもたれさせて、じっとこちらを見ていた孔明が、いつの間にかいなくなっている。
「ちょっと代わってくれ」
陳到に言い、趙雲は外へ出て、孔明がどこへ行ったのかを確かめた。
大樹の木陰にて、ほとんど半裸になって、ぐったりと、魚の干物みたいに床に並んで眠っている兵卒たち。
そのかれらに混じって、木の幹に背をもたれさせ、孔明はすやすやと寝息をたてていた。
厩舎の目と鼻の先である。
そのうえ、ここで干物になっている連中は、見た目こそみっともないが、趙雲が、特に目をかけている精鋭たちばかりだ。
何か事が起こっても、孔明を守ることができるだろう。
事実、趙雲がそっと近づいてきたにもかかわらず、眠っていた数名は目を覚ましていた。
うっすら目を開き、趙雲がなにをするのか、黙って見守っている。
趙雲は、城の洗濯女が木陰に干していた布を一枚拝借し、すやすやと眠る孔明に、そっとかけてやった。
とりあえず、主騎を解任されているわけでもないし、守ってやらねばならぬ。
わが君がやっと手に入れた軍師だ。
徐庶が曹操のもとへ行ってしまった今、代わりになるものがいない。
なにより、わが君のために、孔明を守るのだ。
それにしても、文官不足の新野において、昼夜たがわず熱心に働いていると聞く。
普段から相当に疲れているだろうに、さらに慣れぬ兵舎のあちこちを回って、しかもこちらの観察までしている。
こいつは、自分をいじめるのが好きなのか?
ともかく、ここにいてくれている分には、安心していられる。
大人しくしてろよ、と心の中でつぶやきつつ、趙雲はふたたび厩舎に戻った。
※
孔明は、夢を見ていた。
夢を見るくらいであるから、実際の眠りは浅い。
神経がどこかで休まっていないのだ。
夢のなかで、孔明は、たった一人、書庫で仕事をしていた。
見たこともないほどの大きな書庫で、立派な卓がいくつも並べられている。
書庫にいるのは孔明一人きりである。
それには理由がある。
夢のなかでは、孔明以外の人間は、みんな病を得たり、家族に不幸があったりして、だれも出仕できなかったのだ。
仕方なく孔明は、ひとりで仕事をこなしている。
だが、そこは孔明である。
完全にひとりなので、かえって、のびのびできている。
周囲を気にしなくてよいし、更衣だって……そうだ、毎回変えているが、これだけ人がいなければ、今日くらいは着た切り雀でよいか。
そうして、ふと外に目をやると、書庫の窓辺にて、趙子龍が馬と一緒に、つくねんとしているのであった。
何をしている、というわけでもなく、そこにいるのである。
変なひとだな、とおもったが、声をかけるにも、話題がない。
そこで孔明は気づく。
そうだ、もともとこの人と、まともに会話をしたことがないのだ、と。
こんなところにまで馬を連れてきて、よほど馬が好きにちがいない。
そりゃあ、厩舎の馬の、あの様子からすれば、相当なものだというのはわかるけれど。
そうか、ほかにはだれもいないのに、わたしの主騎ということだけで、あそこで待っていなければならないのだな。
気の毒だな。
帰ってよいと言うべきだろうか。
その前に、なにか話したほうがよくないか。
せっかく待っていてくれるのだから。
でも、なにを?
馬が好きか、って?
好きだと答えられたら、そうですかで終わりになってしまうではないか。
さて、困った、なんと言おう。
困った、困ったぞ…
陳叔至、記す
あきれたことに、あの軍師は、昼休みをすぎても、まだぐうぐうと眠っていた。
調練場のすぐそばで、である。
午後の調練で大太鼓、小太鼓が打ち鳴らされ、兵卒たちが大音声で掛け声をあげていても、まったく目を覚まさない。
なんだか腹が立ったので、起こしてやろうとしたら、趙将軍が止めた。
優しい趙将軍は、疲れているのだろうから、そのままにしておいてやれ、という。
どうやら、料理番の一件が効いたようだ。
趙将軍、軍師について、よい印象を持つに至ったようである。
この人が胃袋で動く人だったとは、ちと意外だ。
自分のあら捜しをされている、とも知らないで、お気の毒な趙将軍。
この方は人が好すぎる。
ここはわたしが、あえて、でしゃばるべきであろうか。
思案しているうちに、終業を告げる太鼓の、どん、という音が響いたので、わたしの仕事はそこでおしまい。
真っすぐに妻子の待つ家へと帰った。
※
寄り道もせずに陳到は愛妻のもとへ帰り、本日の顛末をくわしく聞かせた。
「わが君にお願いして、趙将軍が軍師の主騎になるという人事を取り消してもらおうか、と考えているのだが、おまえ、どう思う」
というと、賢き妻は、
「およしなさい、それこそ出しゃばりというものです。趙将軍がどのようなお考えか、聞いてもいないうちから、莫迦な真似をするのではありませぬ。お殿様が、将軍を軍師の主騎にと決められたのでしょう。お殿様には、お殿様のお考えがあるのです。郎君が下手にしゃしゃりでるところではありませぬ」
と言った。
「なるほど、そうなの……かな?」
「そうです」
「では、趙将軍のご意向を伺ったうえで、わが君へ、趙将軍が主騎になるのはどうかと思うとわが君にお話する、というのはどうであろう。あの居眠り軍師に、主騎なぞ不要だと思うのだが。ん? でも、待てよ? 将軍が主騎を断ったら、こちらにお鉢が回ってこないかな? だったら面倒だなあ。俸禄は上がるであろうが。どう思う?」
陳到の皮算用に、妻は目を吊り上げた。
「そういう、せせこましい計算をなさるところに、貴方様の器の小ささがあらわれておりますね。すべてお殿様にお任せするべきだと申し上げているでしょう。だいたい、将軍のことはともかく、軍師のことは、まだどんな御方か、よく知らないではありませぬか。それなのに、どうして皆様がたは、あれこれと勝手な印象を軍師に押し付けようとなさるのですか。おかしいことだと思われないのですか。ご自分が軍師の立場であったなら、どう受け止められるでしょう」
「いい気分ではないな」
陳到は首を縮めた。
相談するのではなかった。
たしかにいうとおりなのだが、正論すぎる。
「ああ、もう面倒だから、もう軍師のことは趙将軍におまかせしよう」
「それがようございます」
賢き妻はうなずいて、食卓にほかほかの料理をならべはじめた。
陳到は、気持ちをぱっと切り替えて、愛妻のつくった、世界一うまい料理を食すことにした。
兵舎の連中は、ちゃんとうまい料理にありつけたかな。
ああ、おいしい。
そう思いながら。
諸葛孔明、記す
目が覚めたら、空が暗い。
すでに太陽が西の空に隠れようとする頃であった。
冗談だろう。
いままでずっと眠っていたというのか。
そして、この布は、どこから飛んできたものだ?
誰かが掛けてくれたのだろうか。礼を言わねば。
というより、これを掛けてもらったことに、わたしが気づかなかった?
ありえるか?
そうして、もぞもぞしていると、隣にいる男に気づいた。
まさに、いままでずっと見ていた夢のように(馬はいなかったけれど)一人で、胡坐をかいて、武器の手入れをしているのである。
獣の油でもって、剣先を丁寧に磨いていた。
陽光を受けてぎらりと輝く刃は、それまでならば、凶悪さしかおぼえないものであった。
だが、ふしぎとその日は、刀剣の輝きを見て、夕陽を形にしたように美しいな、と思った。
わたしは誘われるようにして、口にしていた。
「武器の手入れは、毎日するものなのか」
「その暇があれば。今日は暇なほうだった。怪我人もなかったし。おそらく軍師が兵舎にいる、というので、兵卒どもが、ほどよく緊張して、粗相をしなかったせいだろう」
「そういうものなのか。あれだけの兵卒をまとめなければならぬのだ。将というのは大変なのだな」
「そうだ。単に号令を掛けていれば良いものではない。あんたや、わが君の言葉を、どうやって上手に連中にわかりやすく伝えるかが、将の仕事だ。まるまる伝えたところで、現場の人間にはぴんとこない、ということがよくあるからな」
「そういうものなのか」
答えつつ、なんだ、普通にわたしは話をできているではないか、と思った。
夢のなかでは、なぜあれほどに困っていたのだろう。
いや、そうではない。
この男、しゃべってみれば、とても自然にしゃべれるのだ。
なにがわたしを安心させるのだろう。
声の調子? 言葉の穏やかさ?
それともなんであろう。
叔父にも徐庶にも似ていない。
けれど、よくわからぬが、安心する。
主騎だから、というわけでもないだろう。
わたしは、眠る前までは、この男を主騎と認めていなかったのだから。
でも、なぜだか安らぎを感じる。
この男がこれほど身近で刀剣を手にしていても、わたしはすこしも、恐ろしく感じない。
「馬が好きなのか」
わたしは、夢の中で言おうとしていた言葉を口にした。
すると、趙子龍は、唇に静かな笑みを浮かべた。
「まあ、好きなのだろうな。あいつらの面倒を見ていると、楽しい」
「どうして」
「どう、って。そうだな、あんたは書物を読むのがすきか?」
「あらためて、好きかと問われるのも妙だな。まあ、好きなのだろう」
「それと同じ感覚ではないのかな。俺は張飛や関羽みたいに、妓楼に繰り出して派手に遊んだり、酒を飲んで騒いだりするのが好きじゃない。かといって副将の陳到のように、まっすぐ帰るべき家庭もない。だから、その分の力を馬に注いでいるのかもしれぬ」
妓楼に行かない?
それでは、昼間に推理した『女関係の整理がつかないので結婚しない・できない説』は、破棄か?
そういえば、たしかにこの男が、酒臭くしていたり、白粉の匂いをさせていたり、夜更かしをしすぎて隈を作っていたりしたところを見たことがないな。
「夜はいつも、何時くらいに眠る?」
探りを入れると、趙子龍は、不思議そうな顔をして、わたしを見た。
「あんたは?」
なぜわたしに質問が返ってくるのだ?
奇妙に思いつつ、わたしは答えた。
「仕事が終わったら」
「では、そのあとだ」
「わたしに合わせているのか?」
「主騎だからな。あんたの部屋の明かりが見える位置に、部屋を変えてもらったばかりだし。あんた、ずいぶん夜が遅いくせに、今日のように日中、笠もかぶらずに動き回っていたら、倒れるぞ」
「今日は倒れたのではない」
「判っている。だが、よい休息になったのではないか。熟睡していたようだ」
「そうでもない。夢を見ていたよ」
「どんな」
「仕事の夢」
真面目だな、とつぶやきつつ、趙子龍は、声をたてて笑った。
そして、最後の仕上げに、絹の布で刀身を拭ききると、鞘におさめた。
胡坐をやめて、わたしのほうに軽く向き直る。
「食事な、あんたが料理番に怒鳴ったのが効果があったらしくて、ずいぶんまともなものが出てきた。兵卒たちが大喜びしていたぞ。みなに代わって礼を言う。ありがとう」
びっくりした。
この男がこんなに率直に礼を言う男だとは。
そういえば、徐庶は、趙子龍は人付き合いが悪い、といったが、人が悪い、とは言っていなかったな。
「あれは、ひどすぎたから」
「ついでに俺からも礼だ。すまなかったな」
「なぜ」
「本来なら、俺があいつに怒鳴り込んでやらねばならないところだった。あいつは小心者なので、いままで料理番の影に隠れて、表に出てこなかったのだ。もし出てきたなら、はっきりと、料理をなんとかしろと言ってやろうと思って待っていた。だが、先を越されたな」
「そんな理由で、あの食事に黙っていたのか。しかし、謝ることはないぞ、子龍。どちらにしろ、完勝確実な論戦であったから、おもしろくともなんともなかったし」
いや、実際はかなり神経を使って、疲れた。
糜芳がただの猪武者なら、まったく遠慮しなかったが、あの親切な糜子仲さまの弟君、というところが障壁だった。
誇りを粉々にしないよう、細心の注意をはらって、逃げ道をわかりやすく作りながらの論戦。
われながら、配慮の行き届いた高度な戦略だったと思う。
うまくやったほうだろう。
「完勝確実、か」
明るく笑いながら、趙子龍は立ち上がると、わたしに手を差し伸べてきた。
普段であれば、わたしは、誰の手であろうと触れることをためらっただろう。
だが、そのとき、わたしは気負うことなく、その手を取れた。
「食事、あんたの分は残させて置いたから」
「そうか、ありがとう」
わたしを立ち上がらせると、趙子龍は、わたしに背を向けて、先に歩き出した。
ふと、夢の中で見た背中と一緒だな、と思った。
あのときは声をかけそびれたが。
「あなたもまだなのだろう? ならば、共に食べよう。だれかと一緒というのが、あまりいやでなければだが」
わたしは、自身の言葉に、いささかうろたえつつも、そう言った。
こんなふうに、だれかと一緒に行動を共にすることを誘ったことなど、ない。
誘われることはあったけれど、たいがい一人がよかった。
一人のほうが気が楽で、気を遣わずにすんで、傷つかないからだ。
それなのに、なぜこんなことを言ってしまったのかな。
自分を不思議に思っていると、趙子龍は、
「俺は、あんたの主騎だからな」
と言って、そのまま、わたしの歩幅に合わせて横に並んだ。
そして、夕闇のなかを歩き始めてくれた。
「子龍どの」
「なんだ、あらたまって気味の悪い。ため口でよい」
「そうか。そうだな」
ため口を叩いていたのは、目的があったためだった。
わたしは、今日いちにち、なんのためにこの男のまわりをうろうろしていたのだっけ?
どうしてため口を叩いて、生意気な新入りを演じていたのだっけ?
忘れたな。
いや、本当は忘れていないが、忘れたことにしてしまおう。
なぜだか、そうしたほうがいいような気がするからだ。
さあ、夕食は、ほんとうに美味しくなっているであろうか。
美味しいといいのだが。
手記はここで終わり。
困りごとがなくなってしまったから。
おしまい
(2005/09/18 初稿)
(2021/11/24 改訂1)
(2021/12/17 改訂2)
(2021/12/18 改訂3)
(2021/12/20 改訂4)
☆ あとがき ☆
〇 趙雲の副将、陳到と、孔明の手記を交互に紹介する、という趣旨で書かれたものだったが、初稿は時系列がおかしかったので直した。
〇 誤字がすごーくあった……一行目から誤字という、すごいクオリティ。まだあるかもしれない。
〇 文章がおかしい箇所がほとんどで、ずいぶん読みづらいものになっていたかと思う。長ったらしい文章は分けたり、消したり、まとめたりして、読みやすくした。てにをはからおかしい部分も多々あった。反省。
〇 物語の事情がわかるよう、大幅に説明も加えた。
〇 陳到や孔明がどうして手記を書いているのかの部分も付け足した。
〇 麋竺のあざなを間違えて表記していた。子方→×、子仲→〇。こういうことばかりだ、この先。気を付けよう;
〇 内容の一部変更にあわせ、タイトルも変更した。『陳叔至と臥竜先生の手記』。タイトルをつけるのに迷ったが、ストレートに行くことにした。
〇 今回、ブラッシュアップするにあたり、孔明たちの劉備への呼称を「主公(との)」から「わが君」に変えた。ルビを振る手間がはぶけるため。
〇 前振りに対しての答えの部分がないエピソードがいくつも残っていた作品。今回、分かる限り、それを是正した。
〇 2005年にGuiさんからのリクエストで書いたもの。なつかしい。ここから、旧シリーズのブラッシュアップがはじまっていく。