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井戸のとなりの百日紅の下


「なんと」
孫乾は出仕するなり、机の上をみてうめいた。
昨日、やりっぱなしにしていた仕事が、片付いていた。
それだけではない。
今朝の分の仕事もすでに用意されていたのだが、それが分野ごとにていねいに整理された状態で置いてある。
一瞬、自分の仕事は自分でやったのに、という怒りが沸いたが、それもすぐにおさまってしまった。
というのも、整理整頓のきっちりされた竹簡のほか、孔明の直筆で、これまたていねいな、「ことわりの手紙」が置いてあったからである。
曰く、
「差し出がましいとは思いましたが、急を要する仕事でしたので、わたくしが片付けさせていただきました」
これはまさに、ぐぅの音も出ないというやつだ。
新野に招聘された青年軍師は、見掛け倒しではない。
奇をてらうこともなく、ひたすら地味に、ていねいに、確実に仕事をこなしている。
そうしてコツコツやっていくことこそが、みなとうまくやっていける道だと信じているのだろう。

孫乾は、それまで孔明に対し、いきなり劉備に押し付けられた年若い上司、という感覚でいた。
前評判があまりに高すぎたのもよくなかった。
臥龍先生と呼ばれているとか、千年に一度の天才らしいだとか。
姿が異様なまでに整っているのも、なんとなく面白くないところでもあった。
しかしふたを開けてみれば、孔明はいたって常識人で、腰が低く、なにより公平性を重視する人物でもあった。
自分が上に立ったからといって、威張った態度をとったことは、一度もない。
どころか、新入りだから汗をかくべきだと思っているのか、率先して難しい仕事に突っ込んでいくほどだ。

そして昨日、孫乾は派手に二日酔いをしていたために、仕事を半端にしたまま早退したのである。
新野の空気は、それまでなあなあに流れていて、ちょっと粗相をしても、だれにもとがめられなかった。
そこで、甘えてしまったわけだが…今朝になって、孔明の完璧な仕事の采配ぶりを見せつけられ、自分が恥ずかしくなった。
と同時に、孔明の心づくしと、必死さに触れて、なんとなく、かの青年軍師がいじらしく思えてきた。
「謝りにいくべきか」
いままで、そっけない態度をとってきたことも含めて、頭を下げに行く時機がきたかもしれない、と孫乾がこころを決めたとき、同僚の簡雍が声をかけてきた。
「謝りにいくのなら、おれも一緒についてくぞ」
振り返ると、いつもひょうひょうとした態度を崩さない簡雍が、めずらしく照れ臭そうにしている。
「おれのところの机もきれいに片付いておったわい。主簿どもに聞いたら、軍師がみずから仕事を片付けたのだと」
「なんとまあ。忙しいだろうに」
「あの軍師を仲間外れにして、飲みに行ったのになあ」

一昨日、孫乾と簡雍は、ほかの文官仲間をさそって、いっせいに飲みに行った。
その席には、孔明はあえて呼ばなかった。
かれらが孔明を意図的に仲間外れにしたことは、孔明自身もすぐに気づいたろうに、翌日、なにか言われることもなく。
そして、その二日酔いのせいでいい加減にした仕事に対し、孔明は怒るでもなく、ただ「片付けた」という。
よっぽど叱られたほうがすっきりしただろう。
孔明は、そこも見越して叱らなかったのか。
だとしたら、なるほど、なかなかの策士である。
孫乾も簡雍も、これにはすっかり参ってしまって、連れ立って孔明のところへ謝罪に行くことになった。




今年はとくに夏の訪れが早く感じられる。
それは、隆中での生活があまりに長閑だったのに対し、この新野城における生活は多忙をきわめているからであろうと、孔明は感慨を込めて思う。
なつかしき田舎暮らしはすでに過去に遠ざかり、いまは、容赦ない現実が迫ってきている。

新野城の日々の雑務すら、
「経験を積むため」
といって孔明はほとんどすべてを引き受けた。
孫乾たちの飲み会に誘われないていどでは、孔明はへこたれなかった。
目の前のしごとを誠実に仕上げていけば、いつかかれらと通じ合えると信じていた。
なれ合いはいらない。
ただ、こいつなら任せられるという、信頼しあえる仲間になりたかった。

ていねいな働きぶりと、熱心さ、ある種のひたむきさが、とうとう頑固だった孫乾らを動かしたらしい。
「軍師どの、いままでのわれらの非礼をおゆるしくだされ」
そう頭を下げられたとき、孔明はこころのなかで快哉をあげた。
粘り強く、新野のひとびとに自分という存在を刻み続けた成果がやっと出たのであった。
孔明は、孫乾と簡雍らの謝罪をあたたかく受け入れた。
やっとここまできたか、という達成感がある。
新野を、野望を持って狙っている曹操から守るため、一丸となって戦う真の仲間ができあがったのである。

それから、孔明は孫乾や簡雍といった先輩たちといっしょに、仲良く仕事をさばいた。
そのかたわらで、麋竺がほろりと涙を流して、袖でそれを拭いていた。
まるでわが子の仕事を覗きに来た親のような様子。
そもそも、おなじ徐州の出身という以外に接点がなかった麋竺が、どうしてそこまで自分に感情移入しているのか、孔明にはよくわからない。
ありがたいことではあるのだが、一方で戸惑いもある。
しかし、麋竺には裏の思惑…孔明に恩を着せておいて、新野で影響力を高めようとか…もなさそうだ。

そこで、思い切って本人に聞いてみた。
「ありがたいことなのですが、どうして子仲さまは、わたしにそこまで肩入れしてくださるのです?」
すると、善良が人の形になったような麋竺は、笑って答えた。
「孔明どのは、縁起の良い方だからだ」
「縁起が良い?」
奇妙な物言いに、思わず、オウム返しすると、麋竺は気にせず、うん、と頷く。
「わたしには、貴殿が身にまとっている光が見えるのだよ。貴殿はその光で、世の中を明るく照らす運命を持っておられる。それほどに縁起の良い方なのだ。きっと、貴殿はわが君にも幸運をもたらしてくれるにちがいない。はなはだ明るいという『孔明』のあざなは伊達ではないな」

なっとくできるような、できないような。
そもそも、褒められたのか、けむに巻かれたのか。
孔明が戸惑った顔をしていると、麋竺は、急にあたりを気にして、ほかにだれもいないことを確かめると、顔を寄せてきた。
そして、小声で言う。
「わたしには、常人の目には見えないものが見えるのだよ」
とんでもないことを言い出した。
さすがに孔明がのけぞると、麋竺はいたずらっぽく笑った。
「だから、貴殿が強い光をまとっているというのも本当だぞ。自信をもたれよ」
はあ、と生返事をするしかない。
からかわれたのか、下手な冗談か。
どっちにもとれるし、本気なような気もするし。
麋竺が楽しそうに去って行ってしまったあとも、孔明はキツネにつままれたような思いだった。




昼休みである。
簡単な昼食をすませ、みなが午睡しているあいだに、孔明はひとり、こころのもやもやを晴らすべく、目的地に向かって歩いていた。
かれの部下たちに聞いて、居場所は特定している。

調練場のそばの井戸より、ざあざあと石畳に水が打ち付けられる音が聞こえた。
洗濯でもしているのか。
昼食の時間にまで、まめに働いているとなると、あの男にちがいない。
孔明は見当をつけて、さらに歩を進めた。

井戸は低木の茂みの奥に、隠れるようにしてあった。
垣根のように、百日紅の木が植えてある。
百日紅の赤く可憐な花が、木々をにぎやかしく飾っていた。

孔明が近づいても、まだ水音はつづく。
見れば、やはりまちがいない。
趙雲であった。
ただ、想像がちがっていたことに、趙雲は洗濯をしていたのではなかった。
井戸のほとりで、身を屈ませて、頭から水をかぶっていたのである。
ここに来る途中でも、調練でへたばった兵卒たちが、干物のようにあちこちに転がっていた。
趙雲もまた、自分の汗を流そうとしているのだろう。

目線で気づいたか、あるいは気配で気づいたか。
水びたしの趙雲は、ぎょっとしたふうに振り返る。
悪いことをしたかなと孔明は思った。
厠にいるとき、風呂のとき、それから寝ているとき、人は無防備になりがちである。
隙をついてしまったような形になった。
「やあ」
なるべく気まずさを払うように声をかけると、趙雲はすぐさま立ち上がった。
今度は孔明がぎょっとする番だった。
さいわいなことに趙雲は裸ではなかった。
だが、それに限りなく近い状態だったのだ。
水に濡れたせいで、白い衣が肌に密着し、身体の線がはっきりと見てとれる。
孔明は、あわてて物陰に身を隠し、顔をそむけた。
肌を人にさらすことは、なにより恥とされる。
人に肌をさらして恥じないのは野蛮人だ。
その常識からいえば、水浴び姿を見られた趙雲のほうも、困る状況であろう。

「すまない。またあとで来る」
顔をそむけたまま言うと、
「べつに気にせずともよいぞ。急ぎの用ではないのか」
と、趙雲はのんきなことを言った。
「軍師、木にかけておいた手ぬぐいと、着替えの衣を取ってくれ。すぐに身支度をすませる」
趙雲が水浴びをしていた井戸は、人のための井戸ではなく、馬に水を与えるために作られた井戸である。
ぬれねずみを放置しておくわけにはいかない。
さて、手ぬぐいと着替えはどこだ、と手探りで手を動かしつつ、孔明は趙雲を見ないように努力する。
しかし趙雲は頓着していないようで、平然と井戸のほとりに立っている。
恥ずかしいという感覚が、どうもわたしとずれているなと、孔明は変なところで感心した。

この城のほかの人間も、そういえば、おかしい。
張飛なんぞは、酔うと裸になって踊りだすことがある。
豪快かつ野蛮きわまるその踊りを初めて見たとき、孔明は眩暈をおぼえたものだ。
だが、兵卒のみならず、劉備や家臣たちには大うけであった。
新野城では、あの程度は当たり前のことなのだろうか。

趙雲の言う『木』とは、孔明の真となりにあった百日紅の木のことらしく、たしかにそこには、見覚えのある趙雲の衣がかかっていた。
洗濯もしてあるし、裁縫もきちんとされている。
ただし、布の質はあまりよろしくなく、色も冴えない。
「子龍、もうすこし着るものに気を遣ったならどうだ」
「いいから、早く着替えをくれ。濡れていて気持ち悪い」
孔明は思う。
本来は有能なこの男が、いまひとつ大きな役目も与えられず地味に過ごしてきたのは、この地味すぎる服にも原因があるのではなかろうか、と。

趙雲が手を伸ばしてきた。
孔明は、半裸でぬれねずみの趙雲をなるべく見ないように顔をそむけ、自分もかれに向けて手を伸ばした。
だが、趙雲も趙雲で、他の動作を進めながら手を伸ばしてきたようだった。
互いに顔を背けた状態で手を伸ばしあっていても、受け渡しがうまくいくはずがない。
趙雲のほうが、なかなか衣が手に届かないことに焦れたらしく、振り返ったのが気配で分かった。
「まだ顔をそらしていたのか」
あきれた声がする。
趙雲は姿勢を正して衣を受け取った、ようである。
顔をそむけつづけている孔明は、気配で孔明はそれを想像する。

趙雲が身支度を進めながら、言った。
「おまえは、本当にあれだな」
「あれとはなんだ。『神経質』『生真面目』『お堅い』好きなものを選べ」
「『育ちがいい』」
「それはどうも。ところでこの城の者は、いつもここを風呂代わりに使っているのか?」
「調練が終わったあとには、ときどきな。とはいえ、真っ裸になっているヤツはいないぞ。俺だって、遠慮して、衣の上から水をかぶっている。侍女たちにたまに見られるが、いままでぎゃあぎゃあ言われたことは一度もない」
「妙に堂々としているからではないのか」
「そうかもな」
でなければ、相手がみとれたのだろうと、孔明は心の中で付け足した。
女たちからすれば、趙雲の水浴び姿は眼福ものだったにちがいない。

「で? 用件はなんだ」
首の筋も痛くなってきたし、顔を背けたままで話をするのも変だ。
孔明はそろりと目玉だけを動かし、趙雲の状態を確認する。
ほっとしたことに、もう着替えは終わったようだ。
孔明は、趙雲にあらためて向き直ると、こほん、と咳をひとつした。
「麋子仲どののことだ」
「あの方がどうした」
趙雲は、裾を調整しているところであった。頭から水をかぶったせいで、髪型がだいぶ崩れている。
崩れた髪束から、ぽたぽたと雫が垂れて、着替えたばかりの衣にも落ちているが、あまり気にしていない様子だ。
この暑さでは、すぐに乾くと思っているからだろうか。
風邪は心配ではないのだろうか。
いや、心配することもないか、頑丈そうだしな、と孔明は思いなおし、麋竺から、奇妙な話をされたことを打ち明けた。
麋竺からは口止めされていなかったので、相談してもよかろうと思ったのだ。

「子仲どのは本当に『常人には見えないものが見える』のだろうか」
「ああ、そういえば、女神を馬車に乗せた話をよくしているな。おまえも聞いたことがあるだろう」
「一人で道を歩いていた婦人を親切に馬車に乗せたら、じつはそれが天帝のつかわした女神で、麋家を燃やそうとしていた。ところが、当主の子仲どのが善人だと知った女神は、行くのを遅らせるから、そのあいだに家財道具を家から運び出しなさいと忠告してくれた。
数刻後、あらかた家財道具を持ち出したあとに、家から火が出た。女神の話はほんとうだった、というあれか」
「それだ。子仲どのは、よく不思議な夢も見るそうだし、たしかに常人とはちがうものが見えていてもおかしくないかもな。女神を馬車に乗せられたのも、ふつうは見ることのできな女神が見られたからかもしれない」
「ふむ、そう言われるとそうかもしれない。納得した。ありがとう子龍」
「なぜ礼を」
「いや、あなたと話をすると、頭が整理されてすっきりするからさ」
率直に礼を言うと、趙雲は気恥ずかしそうな顔をした。

「ところで、孫乾たちとうまくやれるようになったらしいな」
「耳が早いな、もう知っているのか」
「俺はおまえの主騎だからな。城内の動静に敏感なすずめたちが話をしているのを耳に挟んだのだ」
すずめというのは、おそらく城に仕える女たちなのだろう。
趙雲らしい表現であった。
「やっと打ち解けられたよ。やはり数か月は要するものなのだな」
「みな、十年近く同じ顔触れでやってきたからな。年若い新入りに慣れるのに時間がかかったのだろう。おまえは早く打ち解けたほうではないか」
「徐兄はもっと早かったのだろう?」
「あの方は特別だ。前にも言ったが、本当に打ち解けていたかどうかは、俺は疑問だと思っているが」
趙雲のことばに、孔明は遠い大地のかなたにいる兄弟子を思った。
徐庶は内気で繊細な男だった。
うまくやれているようではあったらしいが、実際は、心からみなと打ち解けるところまでいけなかったのかもしれない。
証拠に、徐庶をなつかしがっているのは、城内では自分だけのような気が孔明はしていた。

趙雲は水にぬれた髪をほぐし、あらためて結びなおしている。
雑に髪をまとめると、だらしなく見えるものだが、この男の場合、色気があるように見えるから不思議だ。
あらためて、姿が良いというのは得だなと孔明は感心する。
「子龍、ひとつ尋ねたいのであるが」
「なんだ、藪から棒に」
「昔、会ったことがあるか?」
趙雲は目をぱちくりとさせている。
「なんだって?」
「徐州に来たことはあるか?」
「たしかにあるが、おまえの住んでいた琅邪のほうには行ったことがない」
「予章は?」
「揚州のほうは、あまり詳しくない」
「隆中は?」
「あるが、おまえみたいに派手なやつに一度会ったら、忘れないだろう」
「そうか。やはり不思議だ」
「なんなのだ」
ぽかんとしている趙雲に、孔明はあらためて向き直って、手を差し伸べた。
差し出された手を、趙雲は、これまた気味悪そうに見る。
「なんだ」
「あなたも手を出したまえ」
趙雲は、おっかなびっくりと手を差し出してきた。
らしくもない、内気な子供のような仕草を意外に思いつつ、その手を握ってみた。
武器を持つ男の手だ。
ごつごつして、力強い。
だが、恐ろしさは感じない。
「うん、なんともないな」
「は?」
孔明は、手を離し、そして、自分の手を見た。
片手だけが、熱が移ったようにも感じられる。
うまく説明できない、奇妙な感覚があった。
「さっきから、いったいなんなのだ? 子仲どののことを聞いたかと思えば、旅行先を聞き始め、ついで、握手。わけがわからぬ」
うろたえている趙雲に、孔明は、おのれの手のひらをじっと見ながら、首をひねる。
「これは、混乱の新しい形態かもしれぬ。主騎のあなたにだから言うが、わたしは、人に触れられることが怖いのだ。人に不用意に近づかれると、混乱してしまう」
「なに?」
これは、孔明の中にあるひみつのなかでも、もっとも知られたくない部分のことである。
が、自分でもおどろくほど、自然にひみつを打ち明けていた。

語り始めてしまえば、あとは早かった。
孔明は、今日の天気のことを説明するように、淡々とつづけた。
「わたしは早くに父を亡くし、叔父に引き取られた。叔父は好人物であったが、人が好過ぎた。劉表と朝廷の予章をめぐる対立に巻き込まれて、太守の地位を失った。劉表は予章から逃げてきたわれらを樊城に招いてくれたのだが、その樊城で、敵の暗殺者によって叔父は倒れた。
そのとき、わたしもその場に居合わせた。暗殺者は巧みだった。知り合いのふりをして近づいてきて、叔父を至近距離で討った。それを目の当たりにしたせいか、わたしは人に近づかれることや、触れられることが怖いのだ。身が竦んだり、混乱して、思わず相手を突き飛ばしたりしてしまう。
それでいままで、いろんな人間と喧嘩になった。こんなことはおかしなことだから、なかなか人に教えることはできないし、厄介なものなのだよ。触れてくるな、と予想できるものには、こちらもこころの準備ができるので大丈夫なのだが、急に寄られると、頭が真っ白になって思わぬ行動をしてしまう」

驚かれるか、あるいは冗談だろうと笑われるかと思った。
だが、趙雲は、いつになく真剣な顔をして、孔明のつぎの言葉を待っている。
その反応に安堵しつつ、孔明はつづけた。

「姉や弟には、悪癖は顔を出さないのだ。身内同然に長く付き合っている者にも平気だ。だから、じつは昔に会ったことがあるのかと思ったのだ。からかったとか、怒らせようとかしたわけじゃない。
しかし、やはりいままで出会ったことがないというのなら、どうしていま、平気なのかな。叔父上は、袁術と劉表に仕えていたのだが、あなたは袁術とは関わりがないのだったな」
問うと、趙雲は、真面目な顔をして、こくりと頷いた。
「ないな。だいたい、どこかで会っていたとしても、諸葛という、二文字の姓はめずらしい。おまえやおまえの一族のだれかと会っていたら、きっと忘れなかったと思う」
「そうか。では、なぜなのだろう。急に悪癖が直ったとは思えないし」
孔明が不思議そうに首をひねっている一方で、趙雲は、気まずそうに言葉を探している様子である。
悪ふざけをしようとしたことに、反省をしているのだろうか。
いちいち真面目な男だなと呆れていると、趙雲が口を開いた。
「午後からは手が空く。すこし仕事を手伝ってやろうか」
今度は孔明がおどろく番であった。
「ありがたいが、突然にどうして」
「いや、なんとなく」
「ふうん? まあ、ありがたいからその申し出は受けよう。そうと決まれば、わが執務室へ行こうではないか。ついでにあなたのその、崩れまくっている髪も結ってあげよう。これで、けっこう手先は器用なのだ」
「おかしな髪形にするなよ」
「わたしの髪を見るがいい。この素晴らしい感性のほとばしり」
「自分で言うな。だから不安なのだ」
憮然とする趙雲の表情に、けらけらと笑いながら、孔明は執務室へと向かっていった。

新野城の初夏の、とある一日のおはなし。

おしまい

(2006/03/14 初稿)
(2021/12/01 推敲1)
(2021/12/23 推敲2)
(2021/12/26 推敲3)

〇 当初は「古鏡と銀の櫛」(同人誌・奇想三国志双龍伝の序章)の後日譚として書いたもの。同作を読まなくてもわかるように書き改めた。英華伝は、双龍伝とは別な話なので、馬良の家の建て直しについての話もカット。そしたら、つづくやりとりが成立しなくなってしまい、焦った。なんとか形にはしたが、面白いかどうか、疑問符のつく出来になってしまった。
〇  孔明の悪癖については、もしかしたら書き改めていくうえで無用になるかもしれないが、とりあえず、いまは昔の設定を大事に書いてみた。
〇 わかりづらい箇所、ヘンテコ文章、誤字脱字…あいかわらず。
〇 タイトルは最初「水際」だったが、なにも考えず適当につけたものだったので、「井戸のほとりの百日紅の下」に変更した。
〇 麋竺が強い霊感の持ち主というオリジナルの設定を追加した。
〇 「陳叔至と臥竜先生の手記」〜「ねずみの算数」の流れで、孫乾や簡雍らとも打ち解けた孔明。旧シリーズでは、そのあたりを丸ごと端折って、いきなり「孤月的陣 夢の章」に突入していたので、短編にそれぞれの変化をちりばめて書いてみた。これを受けた「孤月的陣」(臥龍的陣に改題予定)がどういう風に変わっているかはおたのしみに。