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ねずみの算数 前編



趙雲が、ふと、視線に気づいて顔を上げると、それまでもくもくと筆を動かしていた孔明が、机の上でほお杖をついて、じいっ、とこちらを見ているのに気が付いた。
ぴたりと閉ざした雨戸の向こうから、かすかに虫の声が聞こえてくる。
新野城のひとびとは、みなほとんど寝静まっていた。
起きている者は宿直くらいなもので、たまに厠に立つ者でも、物音を立てることをはばかって、抜き足差し足で移動しているほどだ。
たまに、遠くから、小さな物音が聞こえてくるのは、人がいなくなった空間で、自由をたのしむネズミだろう。

淡い明かりに、にじむようにうかぶ孔明の姿を見返し、趙雲はみずからも手を止めた。
「なにを見ている」
「いや、飽きないのかな、と」
飽きたのはおそらく、自分のほうなのだろう。
やれやれと思いつつ、趙雲は、手にしていた剣を見下ろした。
片手には、刀身を磨くための、獣脂を塗った布を持ち、もう片方で、剣を押さええている。
趙雲は、胡坐をかいた姿勢で、剣を抱えるようにして、手入れをしていた。
「飽きないが?」
「わたしは武人ではないから、詳しくはわからないのだが、やはり、武器の手入れをすればするほど、なんというのだろうな、武器が応えてくれて、敵を倒すことが容易になるのかな」
殺す、という言葉を避けたなと思いつつ、趙雲は答えた。
「武器はおのれの体の延長のようなものだ。ただし、血肉とちがって、すぐさま衰えが分かる、というものではないから、こまめな手入れが必要となる。それに、ちゃんと手入れをしたという自信があれば、いざというときに焦らずにすむだろう」
なるほどと、孔明は納得している。

「ところで、書類はいつ仕上がる」
急かされたと思ったのか、孔明は不機嫌そうに眉をしかめた。
「わたしに付き合うことはない、帰っていいのだぞ」
「一人で残して行くわけにはいかぬ」
「ふむ、ならば、別室で休んでおればよかろう。なにかあったら呼ぶ」
それもいいかと一瞬思ったが、すぐに趙雲は、楽なほうに流れようとする、おのれを戒めた。

劉備の采配で、諸葛孔明の主騎となってから、はや数ヶ月が過ぎ、だんだんとこの青年の、良いところと悪いところがわかってきた。
この青年、行動力はあるものの、口ほどにもなく、とろい。
本人は機敏なつもりらしいが。

「一流の刺客ならば、おまえにひと言もしゃべらせることなく、命を奪うことができるぞ」
「そういうものか。なれば、子龍、眠くなったら、そこで眠ればよい」
「隣で仕事をしている人間がいるのに、俺ばかりが寝てはおられぬ」
「では、仕方ない。起きているのだな」
「そうだ。だから起きて、ここにいる。そういうわけで、早く手を動かせ」
孔明は秀麗な顔を不機嫌にゆがませて、しぶしぶ、というふうに机に向かいなおした。




そも、たった一人で真夜中に書類を書くはめになったのには、わけがある。
孔明は、曹操の南下の動きへの対策として、食糧そのほかを、城に一気に仕入れようとした。
だが、そんな孔明の足元をみて、仕入れの商人が、
「明日までに、すべての発注書を書いていただけるならば、三割で売ってさしあげてもようがす。書いていただけないようでしたら、このお話はなかったことに」
と、言ってきた。
しかも、商人がそう言ってきたのは、陽もとっぷり落ちたころ。

ところが、日ごろの疲れがわざわいしてか、孔明の集中力は途切れがち。
急がねばとわかっているのに、遅々として筆がすすまない。
それなりに学問を修めている趙雲は、簡単な事務ならば手伝える自信があったので、そう申し出た。
しかし、誇り高い軍師は、
「よい、これは商人たちからの、この私に対する挑戦ぞ。一騎打ちに助太刀は無用」
とかなんとか言って、断ってきた。

そうしてどんどん時間が経ち…いまはどれくらいなのだろう。
孔明は、背中にのしかかるような疲れを払う呪文を唱えているつもりなのか、
「三割、三割」
とつぶやきながら、まるで吹雪のさなかにけんめいに登山をする人のように、必死になって文字を書面に綴っていく。
その仕事ぶりを見ていて、趙雲は、つくづくこいつは、出来すぎるな、と感心した。

孔明への風当たりは、武人を中心にいまだにつよいものがある。
しかも文官たちの中にも、いまだに孔明のやりように反発しているものがいるようだ。
いまの孔明のこころのなかには、野心があるのだ。
数人がかりでする仕事を、たった一人で、しかも一晩でこなしてみせたならば、かれららを心服させることができよう、という野心だ。
こいつなりに、よくやっているほうだ、と同情する一方で、弱い面を見せることも愛嬌だろうに、とも趙雲は思う。

趙雲は、新野では兵舎の一角に部屋をもらい、そこを改造して住まいにして、寝起きをしていた。
だから、徹夜しようがなんだろうが、だれに気を遣うこともない。
孔明が帰れとうるさく言わないのも、趙雲がほかの者と比べて、自由だとわかっているからだろう。
たがいに独り身で、待つものもない身。
虚しさもないわけではないが、いまはともかく仕事だ。




「書いたものをまとめるくらいなら、手伝いのうちに入らんだろう?」
「三割?」
なんだって、と言ったつもりらしい。
「だから、書き終わった書簡をだな、まとめるくらいならば、手伝うぞ、と言ったのだが」
孔明は、手にしていた筆を揺らしつつ、しばし考えた。
考えている時間も、いつもより長い気がする。
「頼むとしようか」
では、と腰を浮かしかけた趙雲であるが、孔明が、ふと動きを止めた。
「待て。あなたが書類をまとめているあいだに、刺客が襲ってきたら、わたしはどうなる?」
「俺が書類を打ち捨てて、刺客と戦えばよい」
「刺客が複数できたとしたら、どうなる? あなたを止める係の者と、わたしを殺める者との複数できたら?」
「……」
「わるかった。単なる言葉あそびだ。人の生き死にを、斯様に語るものではないな」
といって、孔明は太いため息をついた。
「まだどこかに、隆中でのんびり過ごしていたときの感覚が、残っているのだな。よくないな、とは思っているのだが。よそさまの、爪を噛む、貧乏ゆすりをする、などの悪い癖とおなじで、こうしてつかれたときに、人の虚を突いておどろかせる癖が、ひょいと顔をだしてくるのだよ。こういうところが、みなの鼻につくのだろうな」
そうだろうかと趙雲は思う。
かれ自身は、すっかり孔明に慣れてしまっているからだ。
なので、いまさら、ほかの武人たちが、なにをもって孔明のことを「鼻に付く」と言っているのかが、わからなくなっている。

「なにか食うものを持ってくるか。腹がすいていると、考え方も後ろ向きになるものだ」
「気遣い無用だ。腹が満たされれば、今度は眠くなるからな。どうしても今夜中に、発注書を書き上げなければならぬ」
「そんなに安いのか? 三割、といえば、そうたいした値引きには思えないのだが」
すると孔明は、両方の眉を上げて、反論した。
「なにを言う。商人どもめ、こちらが物資をかき集めていると知って、定価の倍をふっかけてくるものもザラなのだ。定価で売ってくれるだけでも、万々歳なのだぞ。なのに三割。良心的もいいところだ。裏があるのではとすら疑いたくなるほどの値引きだ」
「そこまで良心的な商人が、なぜこうも急かしてくるのだ?」
「むずかしい事情があるのだ。その商人、許都の夏侯氏とつながりがある。なので、あまりこの地にとどまっていると、本拠地に戻ったときに、劉備に協力したであろうと因縁をつけられる恐れがある。
でも、かれらとしては商機を逃したくない。そこで、急いでこの土地を離れる前に、取引を終えようとしている。だから、発注書も早くよこせ、というわけだ」
「待て。矛盾しているではないか。夏侯氏につながる商人が、なぜ俺たちに品物を売る?」
「張飛の奥方は夏侯氏じゃないか。その繋がりだよ」
「ああ」

趙雲は、張飛の娘といってもおかしくないほど年若い張飛の奥方を思い浮かべた。
夏侯氏から、略奪どうぜんに娶った娘である。
張飛からすれば、可愛くてたまらないらしいのだが、傍から見た分には、わがままで世間知らずな女人である。
趙雲の苦手とする性質の女人だ。

「義理と人情のはざまで、商人も苦しんでいる、というわけだ。ほんとうは、今日中に出立する予定だったのを、なんとか説得して、明日の朝まで…いや、今日の朝まで、ということで伸ばしてもらったのだ。
向こうとしても、一定の条件を満たさねば売らない、というふうにしておけば、あとで糾弾されたときに有利になる、諸葛亮に無理強いされた、というふうに体裁を整えられるだろう?」
「無理強い、ねえ」
おそらく孔明はいつもの口八丁手八丁で、商人を繋ぎとめ、三割、という数字を引き出したのだろう。
「軍師、思うのだが、なればこそ、いまから文官どもを複数名呼び出して、仕事を手伝わせたほうがよいのではないか」
「…条件がもうひとつあるのだ」
いやな予感。
「わたしが一人で発注書を書き上げることができたなら、という条件なのだ」
「莫迦な。斯様なことを言い出したのはだれだ? 張飛か?」
本気で怒り出した趙雲から目をそらし、孔明はあいまいに言った。
「まあ、具体的な名を出すのは控えさせてもらおうか」
「図星か。たいがいのことは、目をつぶることができるが、嫌がらせを仕掛けてきたとなると、話は別だ。まったく、状況がわからず、人の足を引っ張ることしかできぬのか」

朝になって、顔をあわせたら、どうしてくれようと算段していると、孔明が、ふたたび手を止めて、じっと趙雲を見ている。
「なんだ」
「わたしに、あれこれと肩入れをしてくれるのは嬉しいのだが、あえて言う。揉め事は起こしてくれるな。武人同士、仲良くしてくれ。憎まれ役はわたし一人で十分だ。それと、そんな条件を出したのは、張将軍ではないよ」
「では、だれだ」
「さっき名前を言った」
「ああ…」

夏侯氏は、いい意味でも悪い意味でも素直な女だ。
夫から、ほぼ毎日、孔明への苛烈な悪口をききつづけ、夫をくるしめる、ろくでもないやつをこらしめてやれ、と単純に考えてしまったのだろう。
本人は、ちょっとしたイタズラでもしているくらいの気軽さで、いやがらせをしているのかもしれないが。

「お節介かもしれぬが」
「なんだ」
「そのことを、わが君にはお伝えしてあるのか」
孔明は、肩をすくめて、笑みさえ見せた。
「貴方様のいたずらの過ぎる義妹を、少々おとなしくさせてくださいと言えとでも? わが君はわたしのために、だいぶあちらを我慢させているのだ。いま、わたしが騒げば、あちらの不満も止まらなくなるだろう。わたしが我慢をすればよい話だ」
「納得できぬ」
「そこはあなたも我慢してほしい。それに、わたしはさほど辛くないよ。話を聞いてくれる人間がいるうちは、まだ辛くない」
そう言って、孔明は清々しく笑った。

この軍師は、過去に、完全な孤立というものを味わったことがあるのだろう。
趙雲も、孔明と行動を共にしていることで、武人仲間から、いささか距離を置かれている境遇だ。
しかし、代わりに孔明がいる分、辛さは、さほど感じないでいる。

話が重たくなってきた。
孔明も居心地がわるそうに、話をつづけるべきか、それとも作業に戻るべきか迷っているようだ。
俺が仕事の邪魔をしてどうする。
ともかく、雰囲気を変えよう。
そうして趙雲は、たわいのない話題を探したが、うまく見つからない。
もともと世間話は得意ではなく、身の回りの話題を振ろうにも、仕事のことばかりが浮かぶ。
私生活については、孔明は触れられるのをいやがるし、それは自分も同じである。

そうだ、と趙雲は手元の剣を見た。
「軍師、剣は持っているか?」
「護身用の短剣なら」
「では、これを貸す」
趙雲は、最前まで磨いていた剣を渡した。
孔明は、いきなりの申し出に、目をぱちくりさせつつ、それを受け取る。
そして、慎重すぎるくらい慎重に、そおっと鞘から刀身を抜いた。
ほのかな明かりに凶暴に光る刃に、ほおっと感嘆のため息をもらしている。
ほんとうに、こいつは戦うということから遠いところで生きていた人間なのだなと、なかばうらやましく思いつつ、趙雲は少々、意地悪く言った。
「使い方はわかるか?」
「わかるとも。叔父と徐兄から剣を習っている。見ていろ」
孔明は立ち上がると、剣舞のまねごとをはじめた。

それをどんな剣舞であったか、形容するのはむずかしい。
孔明が一生懸命なのはわかったので、趙雲は、笑わずにいたが、笑いをこらえるために、ひざをきつくつねらなければならないほどだった。
あえて形容するならば、字を習いたての子供が懸命に清書した文字を、名人が見たら、こんなふうに面白く思うのかな、という感じである。
ずっと座っていたために、体がよく動かない、ということもあるだろう。
だが、孔明の動きは、油の差されていない歯車のようにぎくしゃくとしていた。
つぎに何をしたらよいのか、わからないで、おっかなびっくりとしている新兵のようにも見える。

「努力はみとめる」
「それはどうもありがとう。しばらく手に持っていなかったから、どう扱うのか忘れてしまったのだ」
ほんのすこし体を動かしただけで、息を切らせつつ、孔明は言い訳をした。
剣の腕云々よりも、まずは体力づくりをしたほうがよさそうだ。
「しかし子龍、いまあなたは得物をなにも持っていない。ここで、刺客に襲われたら大変だな」
「妙なことを言うな。本当に刺客があらわれたらどうする」

かたり。

なにかが天井で動いている気配がある。

ネズミか?

ぞくりと、首筋に冷たい刃を押し当てられたような感覚をおぼえた。
趙雲は、おのれの楽観的にすぎる考えを跳ね飛ばした。
二度とこいつと、刺客の話なんかしない。
「軍師、剣を!」
ここで張飛なり、副将の陳到なりならば、趙雲の声に即座に反応し、剣を投げてよこす。
しかし、孔明では、趙雲の反応に体が追いついていかない。
剣を抱えたまま、呆然としている。

間に合わない。

うろたえていると、天井より黒い影が舞い降りてきた。
黒い影は床に着地するなり、床を蹴って、まっすぐと、孔明の首を狙ってくる。
こいつは天井に潜み、ずっとこちらを観察していた。
そして、趙雲がいなくなるか、あるいは武器を手放すのを待っていたのだ。
「くそっ!」
悪態をつきつつ、趙雲は近くの文官の机から、硯を掴む。
そして思うさま、刺客に投げつけた。
みごとにそれは、ごつり、と刺客の頭部に当たった。
そのおかげで、刺客の、孔明を狙う刃の切っ先がにぶる。
その隙に、趙雲は手を伸ばし、孔明をおのれのふところに抱え込むようにする。
刺客の刃は、ぎりぎり孔明の身をかすめ、空を突いた。

だが、刺客はあきらめなかった。
ふたたび態勢を整えるや否や、すぐさま孔明と趙雲に向きなおる。
ちょうど、孔明を抱える趙雲と、態勢を整えた刺客が対面する格好となった。
ふところのなかの孔明は、突然の襲撃にうろたえ、完全に強ばってしまっている。
さらに悪いことに、剣を離そうとしない。
仕方がない。
「軍師、逃げるなよ!」
そう叫ぶと、趙雲は、剣をかたく掴んだままの孔明の両手のうえから、更に補強するように己の手を重ね、襲い掛かってくる刃を、渾身の力で跳ねのけた。

刺客が力に圧倒され、背中から倒れる。
同時に、孔明の力がゆるんだ。
趙雲は、剣を孔明から奪うようにして取ると、亀のように仰向けになってもがいている刺客の手首を打った。
からん、と音がして、刺客の武器が床に落ちる。
さらに、倒れた刺客の首筋ぎりぎりに、おのれの剣の刃をつきたてた。
「ここは戦場ではないからな。貴様の薄汚い血は、ここでは流させぬ」
頭巾で顔を隠した刺客が、低くうめいた。
頭巾を剥ぎ取ると、目つきの鋭い、それ以外には、これといって特徴のない風貌があらわれた。

後編へつづく