青嵐に笑う 中編
※
馬をひととおり走らせ、村々のあいだをくぐりぬけたあと、のどかな田園がひろがるところまできて、趙雲はようやく馬の足をゆるめた。
「やっと足をゆるめたな」
孔明がぶつくさいうのを背に、趙雲はゆったりと馬の背に揺られている。
たまに、ちらっと振り返ろうとするが、その様子は、かなりこちらに遠慮しているようである。
なんであろう、相談事でもあったのかな。
孔明は馬を操りつつ、ひとり、首をかしげる。
水を向けてやれば、口を開くであろうか。
それとも、沈黙をつづけて、自然と口を開くのを待つべきか。
孔明が思案していると、ようやく趙雲は振り返り、言った。
「今日は良い天気だ。雲もないほどだ」
見上げれば、たしかにそのとおりで、蒼い空には白い雲の欠片すらなく、初夏の太陽がかんかんと大地を容赦なく照らしている。
風がだいぶあり、それが冷たさを含んでいるから、まだ過ごしやすい。
だが、それは体の動きを止めていればの話。
田園に出て、野良仕事をしている農夫たちの動きが、どうも緩慢に見えるのは、気のせいではあるまい。
雲がない?
そうか、天気の話からまずはいって、こちらの反応を見ようというのだな。
合点した孔明は、趙雲のことばを受けて、つづけた。
「雲が、大地の果ての気があふれたものだという話は、ほんとうだろうか。大地の果てから雲が生まれところは見たことがないが、泰山から立ち上る霧が雲に転じていく風景は見たことがある」
「泰山か。霊山だな。いちど行ってみたい」
「武帝の碑があったよ。封禅が行われたときの記念碑だったな。そのときは父上もお元気で、わたしに碑の内容を読んで教えてくださったものだ」
「そうか。いい思い出なのだな」
たしかにいい思い出だが、それを互いに語り合うために、こんな田舎にきたわけではあるまい。
趙雲が言いたいことはなんだろう。
孔明は、率直に、趙雲にたずねた。
「子龍、なぜここに」
来たのだ、とみなまで言わせず、趙雲がまた切り出した。
「雲というと、おのれの名と同じだからかな、空を見ると気になってしまう」
「そういうものか」
「あんたの名は亮だったな」
「そう。亮というと、光るものを表現する言葉だ。なかでも『月亮』ということばが有名だから、わたしなんぞは、どうしても月に興味を持つ。月には、ほんとうに蝦蟇がいて、不死の樹が生えているのかな、とかな」
「不死の樹なんぞ、ぞっとする。むかし秦の始皇帝が不死の薬をもとめて、徐福に蓬莱という国を探させたという伝説があるが、あれがどうしても理解できぬ。俺なんぞは、そんなに生きつづけて、なにが楽しいのかと不思議に思うところだな」
「意外だな」
実感として孔明がそういうと、趙雲のほうが顔をしかめた。
「なぜ。軍師も始皇帝とおなじ類いか」
「不死か。そんなもの、あこがれたこともないし、考えたこともない。仮に不老不死なんぞになったら苦しいだろうな」
すると、趙雲は、じつに満足そうに、うなずいた。
「そうだろう。長く生きるということは、それだけ苦しい思いもしなければならないということだ。始皇帝という男は、よほど人生が楽しかったと見える。俺にはよくわからん」
「あなたも武人なら、不老はともかく不死になって、無敵な男になりたいと思うことはないのか」
「戦は一人でするものではない。俺以外の仲間たちも不死だというのならともかく、俺ひとりが不死になったとしたら、どうだ。勝っても負けても、仲間のだれかは欠けるだろう。
いや、それどころか、戦に負けて、仲間がすべて死んでしまったら、どうなる? 悲しいどころの話ではないだろう。俺はみなの後を追うこともできず、ずっと地上を彷徨うことになる。最悪だ」
「いわれてみればたしかにそうだが」
孔明は意外に思った。
そして先行する馬の背に揺られる、日に焼けた顔を見た。
その視線に気づいたのか、趙雲が不思議そうにたずねてくる。
「なんだ」
「いや、おどろいたのだ。あなたがこんなふうに想像豊かな人だと思っていなかったから。気を悪くしたのなら許してくれ」
「気は悪くしない。が、そうか。ふつうは、あまりこういう発想は、しないものかな」
などと言いつつ、趙雲は首をかしげる。
たしかに、張飛あたりに不死について語らせたなら、死ななくていいのであれば暴れまくって敵をすべて滅ぼすと言い切るだろう。
それにしても。
さきほどの泰山の話といい、不死の話といい、趙雲が伝えたいことはなんなのだろう。
「ところで、わたしたちはいま、どこへ向かっているのだろう。このあたりに集落はあるが、なにも問題がなさそうに見える。あなたには気になることでも?」
「いいや」
あっさりと趙雲は首を振る。
「では、これからどこへ向かうのだ」
「あの山だ」
趙雲が指す方角には、鬱蒼とした山の連なりがある。
そのなかのひとつに、入ろうということであるらしい。
孔明は、おもわず周囲を見回す。
ともかく、なにもない、平和な田園風景である。
家も納屋も人も家畜も、めったに見当たらないほどの。
「そうだ、軍師、聞き忘れていたが、野宿はできるよな?」
「野宿だって?」
てっきり、山里のそばの人家に宿をとるのだろうと推測していた孔明は、野宿と聞いてうろたえた。
なぜにうろたえたかといえば、孔明が気合を入れて纏ってきた派手な衣裳、それが一張羅だったからである。
野宿なんぞをするのであれば、一張羅を着てはこなかった。
「野宿自体には慣れているが」
「が?」
「最初から野宿をすると言ってくれないか。であれば、こんな装いをしてこなかったのに。それとも、あの山の中にに、だれか住んでいて、わたしたちをもてなしてくれるのか」
「集落とちかいから、山小屋くらいはあるかもしれぬが、あいにくと、俺はそこに用はない。軍師は用事があるのか」
「あるわけなかろう。だいたいこのあたりがどこかすらわからないのに」
「うむ、そうだろうな。野宿だとあらかじめ言わなかった俺も、口が足りなかった。謝る。しかし山の頂上までたどり着くのに、一日では無理だからな」
「山の頂上、だと?」
なぜ趙雲が自分を山に連れ出そうとしているのか。
わからない。
混乱しつつ、孔明は仕方なく趙雲のいう山に向けて、馬を歩かせた。
どちらにしろ、もう新野城に帰るには、時間が経ちすぎていた。
あと数刻もすれば、日暮れだ。
※
山のふもとまでは、馬が通れるくらいには道はひらけていた。
人里から人がやってくるらしく、湿った土のうえに、無数の足跡がある。
たまに、その足跡のうえをけものが横切った痕跡があり、山の豊かさを物語っていた。
趙雲のいうまま、馬を山からほど近い農家に頼んで、徒歩で山に入っていく。
なんでこんなことになったと思いつつ、山登りをはじめる孔明だったが、趙雲の口数も、おなじく、ぐっと減った。
合わせて孔明も黙っていると、気づまりを感じたのか、趙雲がさまざまな話題を振ってくるようになった。
「新野にきて不自由はないか」
「襄陽ではどんなふうに暮らしていたのか」
「友人たちとはどのように過ごしていたのか」
「旅をしたことあはるか」
「どこへ行ったことがあるのか」
等々。
孔明は、人の話を聞くのが好きだが、喋るのも好きである。
問われることには、すべて答えた。
趙雲は孔明の語る言葉を、ひとことも漏らさず、丁寧に聞いていた。
うなずいたり、相槌をうったり、みじかい感想なども返したりしてくる。
途中、有名な甘露の水があるというので足を止めて、沢から染み出ている水を汲みに行くこととなった。
苔むした岩の隙間から水が流れているのを、だれがそうしたものか、竹の樋で水を誘導し、だれでもすぐに飲めるように工夫してある。
竹筒でそれを汲み、また、自らも手ですくって水を口にふくむ。
甘露の名のとおり、甘い、清らかな味がした。
咽喉に冷たい水がとおったそのあとに、ようやく孔明も頭が冴えてきた。
それまで新野のちいさないざこざのなかで揉まれ、知らず知らず傷つけられて自分の心が、ここにきて、癒されて、落ち着いてきたように感じられた。
そして、とつぜん理解した。
趙雲は、孔明の隣で、おそらく里の者かが置いたのであろう座椅子代わりの平たい石に腰かけて、木漏れ日をまぶしそうに見あげている。
この男は、単純に、自分が疲れているからという理由で外に連れ出してくれたのだ。
素直に考えればよかった。
肩の力がすとんと落ちた。
こんな温かい気遣いをしてくれる男だと思っていなかっただけに、うれしさがある。
しかし、つぎに浮かんだ疑問は『なんでまた、ここまでしてくれるのか』ということであった。
「なんでまた、って?」
素直に疑問をぶつけると、趙雲のほうが、ふしぎそうな顔をして孔明に尋ねかえしてきた。
「わからないのか?」
疑問に疑問で答えるとは、話が進まないではないかと苦りつつ、これまた素直にわからない、と答えた。
「わが君や麋子仲どのが、おまえを心配していたからさ。雲長どのも同様だ。あんな働きぶりでは、曹操が来る前に倒れる、とな」
「倒れることはないよ。わたしは普通に仕事をしているつもりだ」
「そう思っているかもしれないが、俺から見ても、おまえはすこし意地になって働きすぎている。早く張飛や劉封たちを心服させねばと思っていないか」
「それは」
事実であった。
「図星だろう。しかし、焦っていいことはないぞ。俺も雲長どのも、ある程度は麋子仲どのを手伝ってきたから、おまえがどれほど仕事ができるやつかわかった。
だが、益徳らはちがう。あいつらは、軍務しかしたことのないやつらだ。おまえができるやつだということが、まだまだぴんと来ていないのさ」
「どうしたらいいと思う」
また素直にたずねると、趙雲も、あっさり答えた。
「戦になるまでは、むずかしいのではないか。徐元直どのも、戦が始まるまでは、みなに認められていなかった。力の強さを人物の強さだと思っているやつらには、戦場で力を見せるのが一番だ。そう焦ることはない」
ここで言葉を切って、趙雲は真顔でつづけた。
「曹操がそろそろ来ることはわかっている。このあいだの、曹操が小隊を派遣してきた戦いは、単なる小競り合いだ。今度は、やつは大軍を率いて自ら南下してくるだろう。そのときに、おまえは力を発揮するがいい。だが、その前に雑務で倒れてしまっては、いざというときに力を出せぬぞ」
曹操の小隊がやってきた戦とは、徐庶が軍師になってすぐに起こった戦のことである。
徐庶のみごとな采配で、戦は大勝利したと孔明は聞いている。
だが、曹操が小隊を派遣してきた理由は、劉備を脅かすためではないだろう。
その実力のほどを確かめる、小手調べと、劉備の背後にいる劉表がどう動くかを見るための戦だったのだ。
劉表が動く前に戦が終わったので、曹操としては目的が半分しか達成できなかったわけだが、代わりにかれは軍師としての徐庶に目を付け、卑怯な手で徐庶を引き抜いてしまった。
「おどろいた、子龍、ずいぶんはっきりと言うものだな」
「俺はいつもこうだ」
「ところで尋ねるが、あなたの夢はなんだ」
唐突にされた孔明の問いに、趙雲は面食らったように孔明を見返した。
「なんだ、いきなり」
「思いついたことを口にしたのだが、答えづらいようだったらいい。本当に思いつきだから」
「ずいぶんと奇妙な問いかけをしてくるものだな」
「でも、あるだろう。夢。わが君にお仕えして、いずれかは一国一城のあるじとなり、名領主として歴史に名を残してみたいとか、あるいは敵将の首をたくさん取って、天下の名将と呼ばれるようになりたいとか、そうでなければ、天下に平和を取り戻したいとかな」
「天下に平和を取り戻したい、か」
「お、そう思うのか」
孔明は身を乗り出すが、しかし趙雲は腕を組み、首をひねっている。
「いや、あまりそういうことは考えたことがなかった。世の中が荒れているのは、いまにはじまったことではなく、そういうものだと思って過ごしてきたからな。軍師はちがうのか」
問い返されて、孔明のほうがうろたえた。
「そういうものじゃないからこそ、世の中が乱れているのだ」
「そうなのか?」
「そうなのか、って、いや、そうなのだよ」
あたりまえではないか。
呆れる孔明を前にして、趙雲は考え込んでしまったようである。
「そうだな、俺の夢は、おまえの言うとおり、わが君に天下を取っていただくことかな」
「天下を取って、その先は?」
「俺に聞く前に、おまえが答えろ」
「では正直に語ろう。山にこもって自由にのびのびと暮らす。神仙を目指すのも面白そうだ」
「張子房と同じか。おまえにはぴったりな夢だな。俺だったら、そうだな、常山真定に帰って、兄や母の墓を守って、のんびり暮らす」
「あるではないか、夢」
「そうだな、考えたことがなかった。俺は故郷に帰りたかったのか。自分でも意外だ」
趙雲は言葉の通り意外らしく、自分に首をひねっていた。
※
思い出されるのは春のこと。
趙雲が孔明の主騎になったばかりの頃の話である。
孔明は、束縛されることが、やはり嫌だった。
だから、主騎はいらないと、劉備に訴えた。
しかし、劉備は首を縦に振らず、代わりに言った。
「子龍は、おまえの一番邪魔にならないヤツだぜ」
「邪魔にならないとは、細作のように人の気配を消す訓練を積んでいるから、というたぐいのことでございますか。気配を消されていようが、そこに『いる』のは間違いないでしょう。わたしは、だれかがそばにいると、集中できない性質なのです。主騎はいりませぬ」
口を尖らせると、劉備は、いやいや、技術がどうとかいう話じゃない、と手を振った。
「ともかく口は重いし、秘密は守れといったら、かならず守る。でもって頭もいいから、指示以上のことも楽にこなしてくれる。
おまえは、横からああだこうだと言われるのが嫌なほうだろう。子龍はよほどでないかぎり、口をはさんでこない。それどころか、あいつに、口をはさまれたときは、これは不味い事態だなと、自分を点検するいい機会になるという、おまけつきだ」
「そのような貴重な人材でしたら、わが君がずっとお側に置かれては如何ですか」
「いじわるを言うなよ。子龍は、おまえより五つ上なんだ」
「それは本人の口から聞きました」
すると、劉備は、顔をぱっと上げて、びしりと孔明を指さした。
「それ!」
「どれでございますか」
「おまえ、子龍にそれを聞いて知ったか? それとも子龍が言ったので知ったか?」
劉備の問いに、孔明は首をかしげて、どうであっただろうかと考える。
「本人から聞いたような」
「そうそう。おまえには言えるようなのだ。子龍は、よほどでないかぎり、自分のことを自分からいわないんだ。ところがだ、あいつは、おまえには言うんだよ。おまえら、普通にしゃべれるだろう?」
「普通に。たしかに、世間話などはいたしますが」
「世間話していると、どっちかが聞き手になる一方だったり、語り手になる一方になったりして、なんだか疲れる相手っているだろう。子龍は、おまえにとってはそうじゃないだろう」
「たしかに、対等、というと言葉がまちがっているかもしれませんが、たがいに、ふつうに意見をやりとりいたします」
あたりまえのことではないか、わが君はなにを言わんとされているのだろうと怪訝に思っていると、劉備は、ずいっと身を乗り出してくる。
「それ。そこがとても重要なのだ」
「それ、とは?」
「普通に、ってところだよ。子龍は、おまえが相手だと、自分のことを打ち明けるのに抵抗が無い様子なのだ」
「おかしなことをおっしゃいます。それでは、子龍は、ほかの者たちには、ほとんど自分のことを語らぬようではありませぬか」
「うん、そう。そのとおり」
あっさりと劉備は答え、孔明をうろたえさせる。
「それで、よくいままでやってこられましたな」
「そこがそれ、あいつ、公孫サンのところで身につけたのだろうが、そういう処世術には慣れててな、本当にソツがない。頭がいいから、相手の先をうまく読んで、合わせて、するり、するりと世の中を渡っていっちまう。だから問題も起こさないかわりに、自分の腹を打ち明けられる仲間が少ない。
わしを慕って来てくれた奴だが、どうも十五のときと、変わってない部分があるなと、心配しておったのだ。ところが、ありがたいことに、軍師があらわれた。おまえは子龍のこころの救い主だ」
「おおげさでは」
「おおげさではないぞ。子龍は軍師にはこころを開いている。わしからすれば、びっくり仰天だよ。それほどに、あいつは内気なやつなんだ」
孔明は、趙雲の落ち着いた佇まいを思い出していた。
内気なのは確かだろう。
たまに笑い方に慣れていないような表情をする。
部下には慕われているようだが、その隙の無い様子を、逆に麋芳や劉封などはうとましく思っているようだ。
孔明からいわせれば、隙が無い人間をうとましく感じるのは、狭量のあかしではないかというところであるが。
「わが君は、子龍が内気だと心配なのですか」
「それはそうだよ。わしは、あいつには大きな夢を見てもらいたいのだ」
「夢、ですか」
「大志と言い換えてもいい。あいつは本来、おまえやわしの主騎を務めるだけの人間じゃない。大軍を統率できるだけのでっかい器量を持っている。だが、わしのところでは、その才覚を開く機会がなかった。だが、これからはちがう。わかるだろう」
「曹操は確実に襲来してくる」
「そうだ。そのとき、わしたちは曹操に立ち向かうために、最大限の力を発揮しないと生き残れないだろう。新野に籠城することになるか、劉州牧のところへ逃げ込むことになるか、それはわからないが、どちらにしろ、戦うことになるのだ。雲長もいる。益徳もいる。だが、まだ手が足りない。わしを慕ってくれる民を守るためにも、大きな器を持つ、大将が必要だ」
「それが子龍だと」
「そうだ。あいつなら、いま以上に成長できるはずだ。だが、あいつは気持ちが優しいうえに内気なのが弱点だ。優しい大将なんて、矛盾している。それはわかるだろう」
孔明はうなずいた。
たしかに将に慈悲は必要だが、それは日常に発揮すべき優しさとは種類がちがう。
劉備はそのことを言っているのだ。
「優しさを捨てろとは言えない。それは、あいつの宝物のようなものだ。だが、内気なのは話がちがう。有能であるがゆえに抱えすぎて、自滅してしまっては意味がないのだ。
あいつには、もっともっといろんな人間と触れ合って、大きな人間に成長してほしい。そのためには、おまえの力も必要なのだ。わかるな」
「わかります」
「では、もう答えは出ているだろう」
劉備はそういうと、孔明に対し、頭を下げた。
「わしは、子龍の見る大きな夢を受け止める、でっかい器でありたい。そうなるためにも、やっぱりおまえの力が必要なのだ。おまえは、わしと子龍の両方にとって、大事な人間なのだよ。だから、すまぬがわがままはひっこめて、わしの言うとおりにしてくれないか」
そこまで言われては、孔明はわがままを抑えるしかなかった。
そこで、趙雲から主騎を辞退しないかなと観察していたが、そのうちに、趙雲の人柄に触れ、劉備の言うとおり、かれがそばにいることを許すことになったのだ。
※
内気、か。
孔明はあらためて趙雲を観察する。
たしかに、気の優しい男だ。
それがにじみ出ているためか、城の内外の女子供に人気がある。
趙雲の部隊の将兵は、とくに真面目で威張らず、規律正しいというので、余計に人気があるのだ。
ただ、趙雲本人は、人と対するとき、たしかに聞き手に回ることが多いようである。
よい聞き手は有能なものが多いというのは孔明の持論だが、その役目に徹しすぎてもいけない。
相手の都合のいいように振り回されてしまう危険があるからだ。
趙雲は、そのあたりの均衡が、いまのところ、いいとは言えないように感じられた。
なるほど、だからこそわが君は、わたしを通して、子龍に世間を知らせたいと思っておられるのか、とあらためて孔明は納得する。
親心というものであろう。
それほどに、劉備の寵愛を受けている趙雲を、孔明はすこしうらやましく思った。
しばらくして、趙雲が言った。
「襄陽のほうに足を伸ばしたほうが良かったかな。しかし、あちらだと、おまえも俺も知り合いが多いので、かえって落ち着かないだろうと思ったのだ。疲れたのなら、いまから山を下りて、俺の知り合いに宿を借りるか」
すでに日は橙色をふくみ、西に向かい落ち始めている。
「いや、これはこれで、いい気分転換になっているよ。木の香りというのは好きだ。心が洗われる」
「だったらいが、あまり気晴らしにならなかったのなら、悪かったなと思ったが」
「気遣いは無用だよ。あなたが連れて行ってくれるのが襄陽であったら、わたしは同行しなかっただろうさ。いまだに、わたしが劉州牧を選ばず、わが君に軍師として仕えたことについて、わあわあと言っている連中がいるからな。ここは人がいなくていい」
「うるさいのは、どこにでもいるもだな」
「そうさ。ところで、徐兄は軍師としてどうだった。わたしよりもっと堂々としていたのかな」
なにを思い出したのか、趙雲は苦笑いをして答えた。
「堂々というか、飄々、という感じだったな。良くも悪くも、徐軍師は、すぐに新野に溶け込んでいたよ。あの方を悪くいうのも少なかった。だから主騎が必要なかった」
それは想像がつく気がした。
徐庶は司馬徽の私塾に入るまえは、侠客として名の知れた男だった。
孔明と知り合う前に、おそらく身に備えていただろう殺気は消えてしまったようだが、それでも、劉備の部下たちは、自分とおなじにおいを徐庶に感じたに違いない。
だから、すぐに仲間として受け入れた。
「しかし、徐軍師は、いつもおひとりだった。もし、あの方に本当の意味での仲間がいたなら、あの方は母御のことをひとりで悩まず済んだかもしれない。残念だ」
「そうだな」
短く答えて、孔明は、徐庶が北へと旅立っていくのを見送ったことを思い出していた。
十年の長きにわたって青春をともにした朋友。
そのかれの姿が遠ざかっていくのを見つめながら、立っている場所の地面がえぐりとられたかのような心細さを感じたことをおぼえている。
しかし、その徐庶のおかげで、劉備という得難い主君を得ることができた。
さらに、その劉備の采配で、趙雲というあらたな友を得ることもできた。
人の縁とは面白いものだと、孔明は感慨を深くした。
※
しばらく、二人して、沈黙のまま、山をのぼった。
先行する趙雲の顔は、徐々に木陰によって、見えづらくなっており、何を考えているのかは、想像するしかない。
しばらくして、趙雲のほうが口をひらいた。
「さっき、おまえがした質問だが」
さて、どの質問だろうと孔明が思い返しているあいだ、趙雲はつづける。
「俺が生まれたときから、すでに世は乱れていた。乱れているのがあたりまえの状態だった。武装して戦い、敵を討たねば、こちらが死ぬ。それはあたりまえのことだろう。だから、それをなぜとか、どうするべきかとか、考えたことはなかったな」
趙雲はそういうと、ため息をついた。
「つまり俺は、世の中を見ているようで、見ていなかったということになるのかな」
「それは、ちがうのではないかな。そんなふうに言えるということは、自分で気付いていなかっただけで、あなたは世の中をちゃんと見ていたのだよ。だから、新野でも、だれとでもそつなく付き合えるし、浮き上がることもなかったのだ。わたしには、そんなふうに振る舞えない」
「意見をいわずに、つまらない男としてすごしていたほうが、面倒に巻き込まれなくてすむ。だからそうしていただけだ」
「面倒に巻き込まれたことがあるのか」
「昔な。わが君から聞いたことがあるだろうが、俺は昔、公孫サンのところにいた。あそこで踏んだのと同じ轍を踏むのがこわかった」
「たいへんな目に遭ったのだな」
孔明が想像して言うと、趙雲は、ちいさく、そうだな、と言ったきり、押し黙ってしまった。
公孫サンのもとにいたころの話は、あまりしたくないらしい。
そこで、孔明は、あえて不用意なことは口にせず、黙っていた。
やがて、趙雲のほうが、また、たずねてきた。
「退屈していないか。俺は口下手だから、おまえのようにうまく話ができない」
「退屈なんてしていないよ。ぜんぜんしていない」
それは本音のであった。
当初は気乗りでなかったこの小さな旅であるが、趙雲と会話を重ねていくうちに、楽しくなってきたのである。
普段は無口な主騎が、こういうことを考えていたのかと、新しく発見することができて、面白いのだ。
「あなたは口下手じゃないよ。論客として徹底して訓練を受けたわたしが言うのだからまちがいない。自信をもってよい」
「そうかな」
趙雲にしては、らしくない、ぐずぐずした口調である。
孔明はぴんときた。
「ふむ、だれか、あなたのことを口下手と言った者がいるのだな。女だろう」
「……………」
図星であったらしい。
この男が、いわゆる『甘い囁き』とやらで、調子よく女を口説いているところを、孔明はどうしても想像できなかった。
とことん、生真面目なのである。
本当に真面目にその気持ちに向き合わなければ、対する趙雲も本気にはならない。
まさに真剣勝負。
それでは商売女は疲れてしまうだろうし、ふつうの女でもそうだろう。
よほどの教養をもち、おのれの生き方に哲学をもった女でなければ、趙雲を正面から受け止めるのはむずかしかろう。
でなければ、その真逆、底抜けに陽気で享楽的。
しかしそうなると、真面目な趙雲とは、あまり長続きしそうにないな、とも予測できる。
ふむ、そのうち、よい女人がいたら、世話をしてやろうかな、と孔明は考えた。
しかし、そのまえに自分が再婚しろと言われそうだな、とも思い付き、すぐにあきらめた。
追いかけるかたちとなっている趙雲の背中が、見るからにしおれてきた。
いかん、今度こそ、いかん。
女と公孫サンは、趙雲にとって、触れてはいけない部分だったのだ。
失言だった。
孔明は穴埋めをすべく、つとめてほがらかに、言った。
「あなたが口下手だというのなら、わたしは社交下手なのだが、やはり人とこうして交流する、ということは大切なことなのだな」
お追従ではなく、実感して思うことであった。
こうして実際に話をしてみなければ、趙雲が果たして何を考え、こちらをどう受け止めているのか、ここまでつかむことはできなかっただろう。
「いろいろ考えていたら、憂さも晴れたよ、ありがとう」
連れ出してくれた趙雲への、感謝の意味もこめて孔明がいうと、趙雲のほうは、なぜだか怖い顔を向けてくる。
孔明はうろたえた。
「なぜ怒る」
「直言にすぎる。そういうことを言われるのは嫌だ」
今度は、孔明が顔をしかめる番であった。
「でも、わたしは言いたいのだ」
「なぜ。あんたは士大夫にしては、直言が多いな」
「士大夫だろうとなんだろうと、そんなものに構っていられるか。子龍、もしかしたら、突然、虎が襲ってくるかもしれない」
「なんだって」
「想像したまえ。それはとんでもなく凶悪で巨大な虎で、あなたの武力を持っても、制することができない。足場も悪いしな。そう、そいつはもしかしたら、この山の神から使わされた虎なのかもしれぬ」
「はあ」
「奮闘努力の甲斐もなく、あなたは虎に倒され、わたしだけが生き残る」
「おい」
「そうして残されたわたしは、泣きながら、こう思うだろう。
『ああ、こんなことになるのであったら、さっき、あなたに、山に連れ出してくれてありがとうと言うべきだった』とな」
「それで?」
「だからだ」
「ときどき、あんたと話をしていると、眩暈を感じるのは気のせいか?」
「食べている物に問題があるかもしれないな。医食同源。好き嫌いはいかん」
「俺はなんでも食うほうだが……虎はこのあたりにいない。もっと奥のほうにはいるらしいが、そこには入る予定はない。虎に会いたければ、ひとりでいけ。さすがにそこまで面倒はみないぞ」
「だから、喩えだ、喩え。わかりにくかったか。じゃあ、熊にしよう。さらに想像したまえ。それは、そうさな、小山ほどある巨大で凶悪な熊で……」
「どうぶつを変えても同じだ! わかった。つまり、言いたいときに言わないと、あとで後悔するから、だから言うのだと、あんたは言いたいのだな」
「伝わっているじゃないか」
「伝わってはいるが、直言をやめてくれと、俺は言いたかったのだ」
「どうぶつが気に入らないなら、『刺客』に言葉を変えてもいいぞ。途端に、ああ、たしかにそうかもな、と思えてくるぞ。さあ、想像してみよ」
「強制するな」
といいつつも、趙雲はしばしの沈黙のあと、答えた。
「そうだな、あんたの言うことも、一理あるかもしれん」
「そうだろう。というわけで、ずいぶん長い話になったが、ありがとう」
「あのな、まだ頂上についていないうちから、礼を言われても困る」
「頂上になにかあるのか? めずらしい岩とか?」
それは明日になればわかる、と言って、趙雲は意味ありげに笑うと、そのまま黙った。
つづく