☆岩手県遠野のひと佐々木喜善(1886-1933)が農商務省の役人柳田国男(1875-
1962)のもとを訪れたのは、1908年の秋であった。佐々木22歳、柳田
33歳であった。 ☆佐々木から遠野地方に伝わるさまざまな不思議な話 を聞いた柳田は深く心惹かれた。 この夏約3ヶ月間、農商務省の役人として九州各地に視察旅行に行き、とくに 宮崎県椎葉村の古い狩猟採集方法の話を聞いていた彼にとって、南と北の山人の文化に目を開かれた年 であった。 柳田民俗学の嚆矢『後狩詞記』(のちのかりことばのき1909)と『遠野物語』 (1910)の2書が書かれた。 ☆佐々木の語る遠野の伝承は、新体詩人松岡国男であった柳田の詩的イメージと 感受性があいまった独特の文体によって、土俗の神々の住むその不思議な世界を、今に現出させたのであった。 遠野に住む多くの神々のうちでも、特に有名なオシラサマ・オクナイサマ、そ してザシキワラシが息づく世界である。
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今の土淵村には大同と云ふ家二軒あり。山口の大同は当主を大洞萬之丞 (おおほらまんのじょう)と云ふ。
此人の養母名はおひで、八十を超えて今も達者なり。佐々木氏の祖母の姉なり 。魔法に長じたり。
まじなひにて蛇を殺し、木に止れる鳥を落しなどするを佐々木君はよく見せて もらひたり。
昨年の旧暦正月十五日に、此老女の語りしには、昔ある処に貧しき百姓あり。 妻は無くて美しき娘あり。又一匹の馬を養ふ。
娘此馬を愛して夜になれば厩舎に行きて寝ね、終に馬と夫婦に成れり。
或夜父は此事を知りて其次の日に娘には知らせず、馬を連れ出して桑の木につ り下げて殺したり。
その夜娘は馬の居らぬより父に尋ねて此事を知り、驚き悲しみて桑の木の下に 行き、死したる馬の首に縋りて泣き居たりしを、父は之を悪(にく)みて斧を以 て後より馬の首を切り落せしに、忽ち娘は其首に乗りたるまゝ天に昇り去れり。
オシラサマと云ふは此時より成りたる神なり。馬をつり下げたる桑の枝にて其 神の像を作る。
其像三つありき。本にて作りしは山口の大同にあり。之を姉神とす。中にて作 りしは山崎の在家権十郎と云ふ人の家に在り。佐々木氏の伯母が縁付きたる家なるが、 今は家絶えて神の行方を知らず。末にて作りし妹神の像は今附馬牛村に在りと 云へり。
☆柳田の語る「遠野物語」は、地名、人名など固有名詞がきっちりと書かれる。
「むかしむかしあるところに・・・」ではじまるいわゆる昔話とは違うのだ。現実そのものの世界なのだ。 ☆柳田に語った佐々木氏が、その人から直に聞いた話だ。語り部は佐々木氏 の母の伯母である。「八十を超えて今も達者なり」と柳田は書く。読者はこの 一言によって、自分の今いる世界と伝承の世界との隔たりを取られてしまう。 ☆語りは三層構造になっている。老女が喜善に語り、喜善が柳田に語り、柳田が私に語る。 ☆柳田の語る遠野物語の世界の中で、少年喜善に語る老女。語る日は旧暦正月15日、 小正月・女の正月だ。一日家事から解放されて女達がゆっくり過ごす日、少年は老女 の語るさまざまの昔話に耳を傾けて育った。 (この六九話は喜善が柳田に語りはじめた頃の帰省した時に新たに聞いた話らしい。) ☆聞きとどめて、十数年経て、農商務省役人柳田の自宅を訪れ、今度は自分が語り部として 語る青年喜善。聞き手はこれも幼少の頃から、ものかくしにあうというような異常体験を 何回も経験する人であった柳田。希有な記憶と身体感覚を持った2人の人間が巡り会って、 今、柳田は遠野の語り部その人をも含んだ遠野の伝承世界を読者の前に広げる。
貧しい百姓の飼う馬は一頭、農耕馬か荷を運ぶ駄馬か。人間の住む家と隣 り合っている厩。貧しい百姓の住む家と馬の住む家にたいした差は無いだろ う。美しい娘は自分の美しさに見合ったものを愛した。 ☆タブーを犯した娘に対して黙ってその愛の対象を殺す父。桑の木に馬をつるす という方法で。 死んだ馬の首にとりついた娘を見たとき、初めて父は此を憎み、首を切る。 首がその身体から離れたとき、馬と娘は天界に去る。 ☆地上の人間は、その桑の木で三体の神像を作る。名づけてオシラサマという。 ☆娘と馬との婚姻は何を意味するのか。人と異種との婚姻譚は昔話にはいろいろなバリエーションで出てくる。 ☆なぜ父は馬の首を切るのか、首は空に飛んでいくのか。 ☆また、なぜ、馬をつるすのに百姓は桑の木を使うのか。比較的材の柔らかい桑の木 (ヤマグワ。山地に自生するもので、低木から高木までさまざま。) は体重400kgにもなる馬をつるすには適さないはずだ。 ☆また、娘の顔と馬の顔との二体の木像の神体はなぜオシラサマという名なのか。 ☆下に掲げる採録された遠野民話では、娘のお告げにより桑の木に発生した小さ な虫を飼う事になる。養蚕のはじまりである。そして、オシラサマとはオシラ セサマだという。 ☆網野善彦『続・日本の歴史をよみなおす』(筑摩書房)によると、日本への渡来文化の経路と して、従来考えられていた朝鮮半島経由、九州・畿内への西側ルートとは別に、かなりふるく (縄文期・紀元前か)シベリアから日本海あるいは北海道・東北経由で関東・信州あたりまでく る東の文化伝播ルートが、かなり大きく存在していたという。 そうして渡ってきたふたつの文化は、長い間交わることなく、西と東に併 存していた。 たとえば、鉄器の製造は西が砂鉄からの製錬であったのに対 し、東は鉄鉱石からの製鉄であった。その製鉄技術の伝わる地域には、馬と桑・養蚕がまた かなり古くから渡ってきたという。 ☆製鉄技術を持った人々が、桑の木に蚕をつけて、馬に乗って(あるいは船に乗って)、かつては浅くせまい 低湿地であった日本海を渡って、つぎつぎにやって来た。そういう歴史があったのかもしれない。 遠野物語の伝承は、かつての先祖達の記憶の物語であったのか。 ☆「日本年中行事辞典」(角川書店)によれば、旧正月15日の行事として、 中国から伝わったものに、「十五日粥」があり、平安時代初期(寛平ころ)に は盛んに行われていたらしい。「枕草子」にも「十五日は、望粥の節供参る」という 記事がある。中国の書「荊楚歳時記」にはこの「十五日粥」の記事に続けて、この夕べ、 紫姑(わが国のオシラサマのような神)を祭って蚕桑を卜する、という記事もある。 とすると、蚕桑の神を小正月にまつる行事は、中国由来のものなのであろう。 それと馬との婚姻の話が結び付いたとも考えられる。 ☆遠野地方では、正月十六日にイタコによるオシラ祭文を唱える祭りがあるという。 とすると、佐々木喜善の祖母の姉という超能力者はイタコであったのかもしれない。 彼の聞いた話も祭文語りの一つだったのかも知れない。 |
☆遠野市に生まれた鈴木サツさん(1911-1999)が語る昔話『鈴木サツ全昔話』は一八八話を収録。
冒頭に「おしらさま」の話を載せる。(鈴木サツさんは1999年暮れに逝去された。ご冥福を祈る。)
☆この話では、百姓は父母とも健在、馬と笑って話する娘の口から、馬と夫婦に 成りたいという事を聞きだして、 怒った父が馬を桑にくくりつけて、生きたまま皮をはぐ。途中で馬が息絶えると、 はいだ皮が娘をくるんで空に舞い上がる。 ☆3日3晩、泣いてくらした両親の夢枕に立った娘が、親不孝の償いに養蚕を教えることになる。 |
「おれア、悪りーい星のもとさ生まれたために、親孝 行もしねで天さ来てすまったから、なんじょにか許してけろ」って言(し)った ずもな。
「そのかわり、来年(れんねん)の三月の十四日の朝間、土間(にわ)の臼の 中見てけろ」って言ったずもな。
「そしえば、そごの臼の中に、馬の頭(かしや)こみでなぺっこな虫いっぺい いるから、その虫さ、馬つるして殺した桑の木の木の葉っぱ取ってきて、食(か) せてけろ」って言ったずもな。 「それ、蚕(とど)っこづ虫で、三十日も養(あずけ)ばこんたにおっきくなって、 繭(めえ)っこになってっから、繭っこになったら糸とって」って、糸のとりかた 教えたずもな。そして、 「糸とったら、機織って」って、機の織りかたも教えたずもな。「そうして、 その織物売って、父(とど)と母(がが)暮らすたててけろ」つ夢、見たずもな。
「おしらさま」つものア、養蚕の神さまでもあれば、目の神さまでもあれば、女 (おなご)の病気の神さまでもあれば、また、「おしらさま」のある家さ、良え ことあればある、悪ことあればあるってお知らせする、お知らせの神さまでもあ るんだとさ。どんとはれ。
☆1890年代の語り部であった、喜善の祖母の姉は自身が超能力の持ち主であった。 その語る話は、語り手のオーラに包まれて、不思議は不思議として受け止められ ていたであろう。”なぜ”という問いは語り手にも聞き手にもはじめから生じない世界である。 ☆1990年代の語り部鈴木サツの「おしらさま」は、聞き手の疑問を全部解決して説明する。 「馬の頭によく似た形の小さい虫」と「蚕」とのつながりをつける。親に先立った不孝をわびる娘のお告げ によって養蚕に励み、豊かになった父母の姿を描き、「おしらさま」は良いことや悪いことの「おしら せの神」だという。 ☆この語りでは、馬の死は皮剥による。柳田に語った佐々木の話はこの部分を持って いたかどうか、柳田が聞いていて割愛したかどうか、興味を感じる点である。 ☆馬の皮を剥ぐという習俗とその剥いだ皮が娘をくるんで空を飛ぶというイメージはどこから生み出されたものか。 これも何らかの呪術的意味がありそうだ。 (『聴耳草紙』を見るまでの私はこのように推測したのであったが、『聴耳草紙』を読んでみると 佐々木喜善の語る「おしらさま」は、基本的な筋立ては鈴木サツさんの話と同じであった。 喜善と、サツさんにこの話をおしえた福田氏は同じ土淵村出身である。 とすれば、土淵村に語り伝えられた「馬の皮剥と養蚕の由来」との話を含む「おしらさま」を佐々木喜善は柳田に語ったか。 とすると、説明的要素をカットした柳田の「語り」観が浮かび上がるとともに、「馬の皮剥」を削除したのはなぜかという、問題が浮上する。 この時点ですでに、柳田は天皇制とそれに関わるタブーを意識したかどうか?ーー2000/3/16追記) ☆これらの語り口の変遷は、どのような社会意識の変遷がもたらしたものか、 と考えてみるのも面白い。 ☆〈補足〉『鈴木サツ全昔話』のあとがきの鈴木サツさんの回顧談によると、彼女は父から沢山の昔 物語を聞いて育ち、そのほとんどを記憶しているが、この「オシラサマ」の話だけは、 父から聞いていないそうだ。 彼女に「昔語りを勧めたのは、土淵村の小学校校長で、附馬牛(つきもうす)村出身であった福田八郎氏だそうだが、 彼がこの「オシラサマ」を、彼女に教え込み、いつも昔語りの初めに語るようにさせたという。 サツさんは何度も何度もくり返し語るうちに、 言葉が自分のからだのなかに、入ってくるようになってきたと言っている。 ☆「オシラサマ」の語りの最後にある、由来の話の多さは、『全昔話』の他の話にはあまり見ら れない特徴であり、この部分は、これをサツさんに語り聞かせた校長福田氏の、教訓的配慮が入り込んだものでは ないかと、私は推測する。 本来の昔語りはもっと、整合性のない、そのものだけを投げ出したような形態だったのではないか。 その方が「語り」の「言葉」そのものの迫力が増すと思う。 耳できく言葉のもつ「想像力の喚起」という側面を考えたときも、言葉の威力をもっともふかく感じた昔の人は、 余分な説明はつけないのではないか。 ☆この私の疑問に応えてくれる鈴木サツさんの言葉が見つかった。「聞き書き・昔話とわたし」でサツさんは、 弟に、話をもっとよその人に分かるようにしたらと言われて、昔話で語っているときに説明はしたくないと言う。 サツさんが語るのは、子どもの頃サツさんに語ってくれた父の語り口である。語りそのものの言葉の流れで、 聞き手が自然に自分たちで判断して分かっていくものだと考えている。 ☆その言葉のもつ力を近代日本でもっとも強く信じた人ー柳田国男ーが、耳で聞いた話を文字に転換し、 文字の持つ喚起力を信じて、固有名詞を多用し、かつ省筆の多い記述によって、 これらの話を『遠野物語』という作品に定着した意義を感じる。 |