原文 口語訳 木曾左馬頭(さまのかみ)、其日の装束には、赤地の錦の直垂(ひたたれ)に唐綾威 (からあやおどし)の鎧着て鍬形(くはがた)うッたる甲の緒しめ、いかものづくりの 大太刀はき、石うちの矢の、其日のいくさに射て少々のこッたるを、頭高に負ひなし、 滋籐の弓もッて、きこゆる木曾の鬼葦毛(おにあしげ)といふ馬のきはめてふたうたく ましいに、黄覆輪(きンぷくりん)の鞍おいてぞ乗ッたりける。 木曾左馬頭義仲のその日の装束は、赤地の錦の直垂に唐綾威の鎧を着て、 鍬形を打った甲の緒を締め、いかめしい作りの大太刀を腰に差し、石打ちの矢のその日 の合戦に射て少々残ったのを、頭高にするように背負い、滋籐の弓を持って、有名な木 曾の鬼葦毛という馬で非常に肥えてたくましいのに、金覆輪の鞍を置いて乗っていた。
☆木曾義仲が最後の合戦に臨むときの装束である。朝日将軍を名乗るにふさわしい堂々たる大将鎧 (着背長)を着て、これも堂々たる葦毛の木曽馬にまたがって出陣した。
☆義仲の馬は灰色の葦毛。多分連銭葦毛であろう。今残る木曾馬は体高130cm前後、 140cmに満たない。
「馬の科学 サラブレッドはなぜ速いか」(競走馬総合研究所編)によると 現在の木曽馬の個体差では体高124cmから142cmまで。鎌倉時代の馬は発掘の骨ではかると 平均129.5cm、最高140cmとある。
サラブレッドの標準体高は150cm前後。 当時の馬は、今の馬の感覚で言うとずいぶん小さい。義仲の「鬼葦毛」は体高140cmか。
それに対して、乗り手は大将鎧を着ている。その重さは人間の体重込みで100kgになろう。木曽馬は頑丈な馬である。
サラブレッドの連銭葦毛馬(アイルランドの牧場で)
☆さて、このとき、義仲の本隊は乳人子(めのとご)今井兼平が率いて、京に攻め上る源氏勢(総大将は蒲冠者範頼)を 迎え撃つため瀬田(琵琶湖の南口)にいた。少人数で京にいた義仲は、奇襲作戦をかけてきた義経軍に敗れ、 これも瀬田で敗れた兼平と、互いを探し求めて行くうちに、大津の打出の浜で再会できた。
☆冒頭の原文は、源氏勢に、最後の合戦を挑んでいく場面である。
☆義仲の旗印の下に再集合した勢三百余騎で、次々に襲う源氏の軍勢六千余騎、また二千四騎・四,五百騎・二,三百騎をうち破 って行くが、最後に集まるとわずか五騎が従うのみであった。
☆ここまで従ってきた女武者巴は義仲に命じられ、落ちのびていく。義仲伝説を伝えていく語り部となったといわれている。
☆義仲と兼平主従二騎となったとき、義仲は、家来であり、友であり、また兄のように慕う乳人子 兼平にそっと告げる。
「日来(ひごろ)はなにともおぼえぬ鎧が今日は重うなッたるぞや。」
平家追討の大義を背負う大将として孤軍奮闘し、今、同盟軍のはずの鎌倉勢によって討ち滅ぼされ る、運命に翻弄された義仲の、1人の人間としてのつぶやきであり、それを言う相手は幼時から共 にそだった兼平しかいない。
☆義仲の気持ちが痛いほど分かる兼平は、最愛の人を歴史の中に美しく生き残すために、励まし、 さとし、人手にかからず自害させようとする。またせまる源氏勢。一つ処で一緒に死のうとする 義仲も兼平の忠告を聞き入れて自害するため粟津の松原に駆け入る。
原文 口語訳 木曾殿は只一騎、粟津の松原へかけ給ふが、正月二十一日、入相ばかりの事なるに、 うす氷ははッたりけり、ふか田ありとも知らずして、馬をざッとうち入れたれば、馬の頭も見えざりけり。 あふれどもあふれども、うてどもうてどもはたらかず。
今井がゆくゑのおぼつかなさに、ふりあふぎ給へる内甲を、三浦石田の次郎為久おッかかッて よッぴいてひやうふつと射る。いた手なれば、まッこうを馬の頭にあててうつぶし給へる処に、 石田が郎等二人落ちあうて、つひに木曾殿の頸をばとッてンげり。
太刀のさきにつらぬきたかくさしあげ、大音声をあげて、「此日ごろ日本国に聞こえさせ給ひ つる木曾殿をば、三浦の石田の次郎為久がうち奉ッたるぞや」となのりければ、今井四郎いくさ しけるが、これを聞き、「今は誰をかばはむとてかいくさをもすべき。これを見給へ、東国の 殿原、日本一の剛の者の自害する手本」とて、太刀の先を口にふくみ、馬よりさかさまにとび 落ち、つらぬかッてぞうせにける。
さてこそ粟津のいくさはなかりけれ。木曾殿はたった一騎で粟津の松原に駆け入りなさったが、 正月二十一日、日没のことで、薄氷ははっていたし、深田があるとも知らずに、馬をざっと うち入れたところ、馬の頭も見えなくなった。鐙で馬の腹をあおってもあおっても、鞭で 打っても打っても、馬は動かない。
義仲は今井の行方が気がかりなので、振り向き上を向いたその甲の内側を、三浦石田の次郎為久が 追いついて、弓をよく引いてひょうと射てふっと射抜いた。深手なので、甲の鉢の前面を馬の 頸にあててうつぶしなさったところに、石田の郎等二人がその場においついて、とうとう木曾殿の首を とってしまった。
太刀の先に貫いて高く差し上げ、大声を上げて「この日頃、日本国に知れ渡っておられた木曾殿を、 三浦の石田の次郎為久がお討ち申したぞ」と名乗ったので、今井四郎は戦っていたが、此を聞いて、 「今となっては誰をかばうために戦おうか、もうその必要はない。これを御覧なされ、東国の殿方、 日本一の剛の者の自害する手本だ」といって、太刀の先を口にくわえ、馬から飛んで、逆さまに落ち、 太刀に貫かれるようにして死んでしまった。
こうして粟津の合戦というものはなかったのだ。
☆「木曾殿は」と物語の語り手は語り出す。前の章までは敬称抜きの「木曾は」だったのだ。「木曾の山猿」と都人から、 侮られていた義仲は、生涯の最期に輝いて死んでいく。その死が泥田にまみれたものであっても・・・。 その死を、語り手が無言の哀惜をもって語り出すとき、おのずと「木曾殿は」と口をついてでた。
☆日は正月二十一日、新暦の二月下旬。頃は夕暮れ、黄昏時。あたりの見分けの付かない頃。冬の枯れ草がわずかに 生えた田は、夕暮れ時でもあり、氷が張っていて道との区別が付かない。
☆”深田””浅田”という語は、ここで、意味を持っている。関東の田はどんなに水を張っていても その深さはすねを超えることはない。しかし、関西に多い深田はずぶりと脚がはまる、どろふかい田だ。田下駄が必要な田だ。 ”きこゆる木曾の鬼葦毛”も四本脚を泥に取られて身動きならない。
☆”南無三”と思ったその瞬間、義仲は兼平を振り返る。その目に友の姿が映ったかどうか・・・。
☆日本の甲冑の、甲(かぶと)は頭部を金属で覆い、首周りはあついシコロで肩まで防ぎ、敵に向かっては 顔を伏せて進む。隙まを射なければなまじの矢では通せないものだ。
☆今、義仲は一瞬、背後をふりあおいで、甲の内側をさらしてしまった。 その一瞬を逃さず三浦は射抜いた。郎等に首級を取られた義仲。せめてその最期は武将らしく、自害させたいという、 今井の最後の願いは叶わなかった。
☆主君に代わって、木曾人の意地を示して太刀に貫かッて兼平も死んだ。
☆「平家物語」を読んできて、この「木曾最期」に出会ったとき、私は語り手の胸中に去来した想いを推測してしまう。 義仲の死の意味を考えつづけた語り手は、彼の姿を誰かと重ねているのではないか、と。
☆義仲の愛馬は「鬼葦毛」、その人の乗る馬も「騅=灰色の葦毛馬」。最後の合戦は、10倍を超える敵の軍勢に、 蜘蛛手、十文字にと切り込む戦法。そして、敗者に厚い親愛の情を寄せる1人の人、兼平に対するに、かたや烏江の亭長。 そう、義仲はあの、『史記』の中、「漢楚の興亡」で、隠忍策謀の人「劉邦」に敗れていく、激情の武将「項羽」その人に なぞらえられていると思えるのだ。『史記』の作者、司馬遷が愛情こめて『項羽本紀』の中に刻み込んだ「項王」 である。
☆「平家物語」の作者(「徒然草」によれば、「信濃の前司行長」)は、どのような想いで、「山猿」とあざけられ、追討されて死んでいく義仲を見つめていただろうか。 彼もまた、恥辱を受けて俗世を去っていったのであった。
粟津合戦の碑 木曾義仲の墓 今井兼平の墓
☆今、兼平は最期の地に立派な墓がたっている。場所はJR石山駅から三分ほどの民家の一角。百平米ほどの区画だ。 木曾に今も住む今井家の末裔が毎年手厚い供養をしているものと窺える碑が立っている。
☆一方の義仲は、京阪膳所駅から三分の繁華街の一角の義仲寺に祭られている。大津市教育委員会が 管理している。
☆義仲の墓は、五輪塔ををかたどった高さ2mほどの素朴な石塔だ。よく見るとその両側に、高さ50cmほどの巴塚・山吹塚と刻まれた 、ふたりの美女の供養塔が寄り添って立っている。
☆そして、寺の奥、義仲墓のはすかいに建つ芭蕉翁の墓。これもわずか5,60cm。ちいさな自然石の墓だ。
☆琵琶湖の春景色を愛し、しばしば湖上に滞在した芭蕉が哀惜した義仲。 大坂に客死した芭蕉は義仲の傍らに眠ることを願った。
義仲寺の門 境内にある芭蕉の墓>
☆琵琶湖のほとりに眠る三人。彼らが眠る地はその昔、大海人皇子の一大クーデターによって 一瞬のうちに滅ぼされた。旧都近江京である。
photo by yunami 97/3