[平家物語の世界・義仲][民話の世界・遠野物語] [徒然草と馬乗りたち][甲斐の黒駒の世界]
[HOME][「早く走りたい」にもどる] [競馬随筆] [神様になった馬たち] [うまことば][リンク集
物語の馬たち  「物語の馬たち」目次へ

第四章 芭蕉の乗った馬たちその1
それは百姓の子のかわいがるたった一頭の農耕馬だったり、駄賃稼ぎの馬だったりする。
芭蕉の紀行文の中で名もない馬たちは、芭蕉と共に俳諧の味を醸し出す。


「馬ぼくぼく・・・」の巻「夏野の画賛」天和三年夏・四十歳 
原文口語訳
 笠着て馬に乗りたる坊主は、いづれの境より出でて、何をむさぼり歩くにや。
このぬしの言へる、これは予が旅の姿を写せりとかや。
さればこそ、三界流浪の桃尻、落ちてあやまちすることなかれ。


   馬ぼくぼく我を絵に見る夏野かな
(この絵に描いた)笠をかぶり馬に乗った坊主は一体どこからやって来て、何をどん欲に求めてうろついているのか。
すると、この絵の持ち主が言うには、これは私の旅姿を描き写したものだそうだ。
それでわかった、欲界・色界・無色界の三界を妄執のまにまに、諸国流浪する危なげな馬乗り姿の私よ、落ちてけがするなよ。

句意;
私を乗せた駄馬は、炎天下に喘ぎながら、ぽっくりぽっくりと夏野にのろい足を運ぶ。
見ればいかにも危なげな馬の背の私を写した絵であるよ。
(何を求めて流浪しているのか知らないが、落馬してけがをするなよ。)

上記の句にいたるまでの芭蕉の道のり

*寛文六年(1666)四月、愛顧を受けていた主君藤堂良忠(蝉吟)の突然の死によって、致仕した芭蕉は、将来の道を模索する六年をすごす。
*寛文一二年、正月、伊賀の俳人の句三十番の発句合わせに自分の判詞を加えて『貝おほひ』とし、この春新天地を求めて下った江戸で出版する。 芭蕉の江戸での俳諧師としての第一歩である。

こののち、旧主良忠の俳諧師匠北村季吟によって、奥書つきの貞門俳諧論書「埋木」を伝授され、また、江戸に来遊した談林派宗匠西山宗因の百韻の一座に参加し、「桃青」の俳号を使用。 江戸での俳諧師としての知名が上がっていく。奥羽磐城の平・内藤氏の江戸屋敷の風雅の席にも参会している。

*延宝五年から八年までの四年間、芭蕉が江戸小石川の水道工事の現場監督として働いていた記録は、芭蕉の俳諧師としての知名度を考えると異例のことと思われる。 芭蕉が営利的点取り俳諧師としての世俗的収入を否定した生き方を考えていたため、経済的に苦しかったことが考えられる。

*延宝八年江戸市中から、郊外の深川の草庵に移る。翌春、門人李下から芭蕉の株を贈られ、この南国生まれの植物(バナナの木)を愛好し、庵号「芭蕉庵」、俳号「芭蕉(はせを)」を用いるようになる。

天和元年秋の作  芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな  はせを

*天和二年(1682)十二月二十八日、深川の芭蕉庵類焼。高山伝右衛門を頼って甲斐の国谷村に流遇。
*天和三年、五月甲斐から江戸に帰る。住所不詳。
(以上主として、「新潮日本古典文学集成『芭蕉文集』校注富山 奏を参照した。)
*青春の人生模索の六年間を経て、俳諧師としての新天地を求めて、文化未開の地江戸に来てはや六年、ようやく自分の俳諧の道に心を寄せる支持者を獲得し、江戸郊外に芭蕉庵を得たのもつかの間、 折からの火災で焼け出され、再び、寄る辺無い身となる。

*この火災は、暮れもおしせまった二十八日午の上刻(正午ごろ)本郷森川宿の大円寺から出火、翌日の卯の刻(午前5時ごろ)まで燃え続け、江戸の大半が焼けるという大惨事となった。
西鶴が描くところの「好色五人女」の一人、八百屋の娘お七がこの火事の難を避けた寺で、美男吉三郎を見初め、吉三郎にあいたさに 火付け、火刑に遭うという悲劇を生んだ。

*惨事の後の江戸に、不労の人芭蕉を援助するゆとりはない。芭蕉はつてを求めて、初めての国、甲斐に下る。この件は、芭蕉に”生涯流浪”の思いをつよく抱かせたものであったろう。

句 の 心

*この句は初め、旅の自画像として、旅中の思いを詠んだもの《A》としてあり、ついで、旅する芭蕉を描いた絵を見せられたとき、その画賛の句《B》と転じたものである。

《A》
草いきれにむせ返る炎天下の夏野、馬も暑さにつかれ、足のろく、ぼくりぼくりと一足ずつ歩いていく。
私もその背で小さくかがまって笠の中に身を隠すようにしてして揺れている。
あついときも寒いときも自然の中に身をさらし、生涯旅を続ける人生、それをえらんだ私。
今この夏野を行く私を遠く離れたところから俯瞰したなら、まさに私自身の生涯を絵にした構図といえるだろうなあ。

《B》
私を乗せた駄馬は、炎天下にあえぎながら、ボックリボックリと夏野にのろい脚を運ぶ。
見れば、如何にも危なげな馬の背上の私の姿を写した絵である。
何を求めて流浪しているのか知らないが、落馬してけがをするなよ。(「新潮古典集成」の解)


《A》《B》ともに、構図は同じ、絵に自身を見る心も同じ。どこが違うか。心のゆとりが違う。
《A》には深刻な悲壮感が漂う。《B》は深刻な自分を、もう一回り離れてみるゆとりがある。そこから、地の文の「桃尻」という言葉も生まれてくる。
「今昔物語」や「徒然草」にでてくる下手な馬乗りの「桃尻」。馬の背に安定して尻を据えられない。その言葉の持つ軽い飄逸が、また人生を「桃尻」で暮らす自身の上にも及んでくる。おかしな自分、でも、自分で選んだ生き方。いいじゃないか。
初稿から定稿まで

*芭蕉が、推敲に推敲を重ねて、自分の句を手直ししていたことはよく知られている。
その過程を見ていくと芭蕉の発想自体がいかに変化していき、晩年の軽みの境へと至るかが見えて興味深い。
この句には、蕉門確立以前の変遷が窺える。
*初稿から定稿へ。(日本詩人選17「松尾芭蕉」尾形 仂 を参照した)

 A夏馬の遅行われを絵に見る心かな  天和三年、甲斐流遇中の作 『一葉集』付合之部所収三吟歌仙の発句
  ↓
 B夏馬ぼくぼくわれを絵に見る心かな 同じく『一葉集』所収の発句
  ↓
(  B’夏馬ぼくぼくわれを絵に見る茂りかな 『赤冊子草稿』に載る形(”心かな”とも)  )
  ↓
 C馬ぼくぼくわれを絵に見ん夏野かな 天和期の芭蕉真跡短冊中にある句形
  ↓
 D馬ぼくぼくわれを絵に見る夏野かな 定稿(元禄『猿蓑』がなってからか)

*Aの句・大胆な字余り、漢語の使用が特徴。
貞門派の古典趣味や談林派の日常卑俗な詠み口から脱却し、独自の俳諧を模索するとき、
最初に試みたのが日本古典に対するに、漢詩的世界をおくものであった。

しかし、この句の心は、下の二句の「われを絵に見る心かな」の、馬上にあって、
その自分の姿をもう一つの心の目でながめ、苛烈な状況の自分を嘆じる主観である。

*Bは「遅行」の漢語が消滅し、「ぼくぼく」という口語的擬声語が登場、俳諧味が増す。
しかし初句の字余りと「われを絵に見る心かな」の主情性は変わらない。

*Cは「心かな」の主観的把握は後退し、わずかに、「見ん」の助動詞「ん(む)」の意志表現に残る。
そして、下五の「夏野かな」の具象的情景の提示が効果的なイメージを広げる。

*Dに至り、「ん(む)」の主情的助動詞が姿を消し、「われを絵に見る」という平明、客観な叙述に転換。
ここにいたって、自己をも対象化し、諧謔の目で眺める心のゆとりが句を軽くしている。ここに 芭蕉の俳諧が表現として定着したといえるのではないだろうか。

義仲寺 芭蕉の墓
義仲寺の門
境内にある芭蕉の墓>


「道のべの木槿は・・・」の巻「野ざらし紀行」貞享元年八月〜同二年四月・四十一歳〜四十二歳 

原文口語訳
馬上の吟

   道のべの木槿は馬に食はれけり

馬上で詠んだ句

道端に咲いていた木槿の花は、私の乗っている馬にパクリと食われてしまった。
 二十日余りの月かすかに見えて、山の根際いと暗きに、馬上に鞭をたれて、数里いまだ鶏鳴ならず。
杜牧が早行の残夢、小夜の中山に至りて忽ち驚く。

   馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり
南東の空に、二十日過ぎの月が光を薄くしてかかっている。
空は白みかけてきたが、山の麓はまだたいそう暗くて、物音もしない。
馬上で鞭を垂らしたまま、数里も進んだかと思われるが、まだ夜明けを告げる鶏も鳴かない。 晩唐の詩人、杜牧の「早行」の詩にいうように早朝に旅立って、馬上でまだ夢心地でいたが、 小夜の中山に至って、ここが敬慕する西行の歌の地中山だと思うと、自然に目が覚めた。

句意;
早朝に旅立って馬上でなお夢心地でうとうとしていたが、はっとして目が覚めてみると、有明の月は遠く山の端にかかり、麓の村里からは朝茶をたく煙が立ち上っている。
甲斐の山中に立ち寄りて、

   行く駒の麦に慰むやどりかな

(野ざらし紀行の旅中最後の句)長旅の最後に甲斐の山中に立ち寄って、

句意;
古来名馬を産するこの甲斐の国の山中では、旅行く馬もいたわられて麦のごちそうをたっぷり受けていたわられ満足しているよ。そのような心の和むのどかな旅の宿であるよ。



野ざらし紀行

*貞享元年八月、芭蕉は江戸に下って以来二度目、八年ぶりの帰省を兼ねた遍歴の旅に出る。

旅立ちの句  野ざらしを心に風のしむ身かな

翌貞享二年に『野ざらし紀行』となる旅である。門人の苗村千里を従えて、東海道を行脚、
その後、故郷を中心として近畿地方を遍歴、二年前、身を寄せた木曽路を経て江戸に帰る、
九ヶ月の旅。蕉風を広めるのに大いに力のあった旅であった。


道のべの木槿は馬に食はれけり

*「馬上の吟」または「眼前」と前書きのある句。
「野ざらし紀行」の中では、大井川のくだりと小夜の中山のくだりの間に位置する。実際にはどこで詠まれたか不明。
*「木槿」は俳諧の「夏」の季語、モクゲ、キハチスともいう。漢文の「槿花一日の栄」はこの木槿のこと。朝に咲き、夕べにしぼむ。
ハワイの花として有名なハイビスカスや、沖縄の黄色い花ゆうなと同じ種に属する。
*江戸時代には、垣根に木槿を植えることが藩の掟として定められていた所もあるくらい、垣によく植えられていた。
枝が密に茂り、夏場の花の乏しい時期に、白または紫の、木の花としては大ぶりの朝顔型の花が付く。

*馬上の芭蕉、馬の背に揺られ、視線は地上2mのあたりを見るともなく見ていると、傍らの垣根に、ちょうど目の高さに白い花が浮かび上がってきた。
他に視線を留めるものが何もないなか、しみるような白さを目にしていたら、何か黒い影が動いたと思った次の瞬間、目の前の白いものは消えていた。
何がおこったか?目の前をよぎった影は・・?みると自分の乗った馬が長い首を動かして白い花を噛んでいるではないか。

*高校三年の秋、「古文の基礎」「現代文入門」などという題名の受験用参考書を一人読みながら、私はいくつかの詩・短歌・俳句に出会った。この句もそのひとつである。
小西甚一や塩田良平といった硯学が高校生用の参考書の執筆をしていたのだ。鑑賞文に導かれていつの間にか、短詩形文学のその芸術の神髄を体に 感じていったのではなかったか。
深夜、一人で、優れた導き手を得て、学ぶ意欲をもって、そのものに対する。受験勉強という機会がなかったら、出会わなかった作品がたくさんある。
この句のなにげなさと、一瞬の世界の転換がいい。駄馬と木槿のとりあわせもいい。芭蕉の句の中で、一番好きな句かも知れない。
馬に寝て残夢月遠し茶の煙

*「二十日余りの月」を点じ、杜牧の「早行」の詩「鞭を垂れて馬に信(まか)せて行く。数里いまだ鶏鳴ならず。林下に残夢を帯び、葉の飛ぶ時忽ち驚く」を全面的に引用する。
この地の文のしつこいほど漢詩へのこだわりを見せつつ、西行ゆかりの歌枕「小夜の中山」を導き出す。

そして、句は再び「残夢」と重ね、さらに字余りで「月遠し」と月を重ねる。それでいて、句は一言も「中山」での西行の故事には触れず、「茶のけぶり」と歌枕の地の早朝の景を点じておわる。

直前の句、「道のべの・・」の句の前書き「馬上の吟」の単純さとの対比といい、読みぶりの対照といい、技巧が見える構成である。
芭蕉が古来の文学伝統を俳諧に活かしたいと考えたとき、それがこのような形となって表れたわけだが、気負いが前に出過ぎているのは否めない。

今、芭蕉が敬愛する西行の故地を通り過ぎるとき、現在の漢詩的世界で模索する芭蕉には、西行をその句の中に取り入れることは出来なかった。西行が詠んだ歌の世界は、まだ、芭蕉には掴めない。

年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山    西行法師   (『新古今和歌集』)


行く駒の麦に慰むやどりかな

*故郷に帰り、前年死んだ母の墓参りを済ませて後、伊勢・吉野・近江とまわり西行ゆかりの地や平家物語の武将の故地などを訪れた後、熱田名古屋で秋から翌春までを過ごす。この尾張の地で芭蕉は杜国を初めとした熱烈な信奉者を得て、『冬の日』の歌仙を巻く。

*『野ざらし紀行』の旅は実りの多い旅であった。充実した思いで、4月帰途についた芭蕉は、2年前焼け出されて避難した地、甲斐の国へ脚を伸ばして中山道経由で江戸に向かう。

*甲斐の国は『古事記』の時代から、名馬の産地として有名であった。『日本書紀歌謡』に雄略天皇の歌として「ぬばたまの 甲斐の黒駒 鞍着せば 命死なまし 甲斐の黒駒」と唱われている。甲斐は宮廷の御牧があった地である。

*『駒』は「小馬(こうま)」が縮まった言葉だが、平安期以降、「馬」の雅語として歌に使用される。俳諧では使わない。芭蕉はここ「甲斐」では古代の「甲斐の黒駒」の伝統に倣って、「行く駒」という。大切に扱われて高価な麦をたくさん振る舞われている。旅人も「駒」の恩恵にあづかるかのように、宿は旅人を丁重にもてなしてくれる。

この実りの多かった旅の最後に、ゆったりとした時を過ごせたありがたさよ、2年前のあの悲痛な思いが夢のようだ。

photo by yunami 97/3



芭蕉の乗った馬たち「奥の細道」




up date:5/1/99 byゆうなみyunami@cilas.net