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第四章 芭蕉が乗った馬たちその2
百姓の子のかわいがるたった一頭の農耕馬だったり、駄賃稼ぎの馬だったり、
芭蕉の紀行文の中で名もない馬たちは、素朴な俳諧の味を醸し出す。

「小姫かさね」の巻「おくのほそ道」元禄二年三月二七日〜同年九月六日・四十六歳 

原文口語訳
那須野ー小姫かさね



 那須の黒羽といふ所に知る人あれば、これより野越(のごえ)にかかりて直道(すぐみち)を行かんとす。


 はるかに一村を見かけて行くに、雨降り、日暮るる。農夫の家に一夜を借りて、明くれば、また野中を行く。そこに野飼の馬あり。

 草刈る男に嘆きよれば、野夫といへども、さすがに情しらぬにはあらず、 「いかがすべきや。されども、この野は縦横にわかれて、うひうひしき旅人の道ふみたがへん、 あやしうはべれば、この馬のとどまる所にて馬を返したまへ」と、貸しはべりぬ。


小さきものふたり、馬のあとに慕ひて走る。一人は小姫にて、名を「かさね」と言ふ。
聞きなれぬ名のやさしかりければ、



   かさねとは八重撫子の名なるべし 曽良



やがて人里にいたれば、あたひを鞍つぼに結びつけて返しぬ。
那須野ー小姫かさね


 那須の黒羽という所に知人がいるので、ここから、 那須野を横断する一歩を踏みだして、まっすぐに近道を行こうとした。

 はるか遠くに一つの村をみつけて、それを目当てに行くうちに 雨が降り出し、日も暮れてしまった。ある農家に一夜の宿を借り、夜が明けると再び野原の中をあるいていった。 すると途中に放し飼いの馬がいる。

 そばで草を刈っている男に近づいて道に迷って困っていることを嘆くと田舎者ではあるが、 やはり人情が分からないわけではない。その男は「さあ、どうしたらいいかなあ。(案内するわけには行かないが)そうかといって、 この野原は道が四方八方に分かれているので、土地になれない旅の方には道を間違えるでしょう。それが心配ですから、(この馬をお貸ししましょう。) この馬が止まった所で、馬を返して下さい。」と言って、馬を貸してくれました。

 子どもがふたり、馬のあとについて走ってきた。ひとりは小さな娘で、名をきくと、「かさね」と言う。聞き慣れない名で、とても優雅な名だったので、 (曽良が次の句を詠んだ)

愛らしいこの娘の名はかさね(=重ね)というのだから、(花に喩えたら、はなびらの重なった)八重のなでしこの名であろう。  曽良

 まもなく人家のある村里に着いたので、馬の借り賃を鞍の真ん中にむすびつけて馬を返してやった。


日光から黒羽へといく途中、那須野が原を越えていく場面。東照宮のある「日光」と西行ゆかりの「遊行柳」という二つの山場にはさまれたおだやかな一節。童話の一場面のような趣。

今日は旧暦の四月二日、初夏の那須野が原は照りつける太陽を避ける手だてもなく、草いきれの中をひたすら歩く。夕立にも遭う。遠くに見える村里を目指していくが、行けども行けども距離は縮まらない。山道もきついが、 視野に変化のない空間は、精神的にきつい。やっとたどり着いた村で、一夜の宿を頼む。

夜が明けるとまた、昨日と同じ”野越え”。考えただけで疲労感が出る。野では草を刈る農夫。かたわらに馬が一頭。茂った草原は馬にはごちそうの山だ。夕方農夫の刈った草を運ぶまではこうして好きなだけ草をはんで気ままに過ごす。農夫の愛情だ。

弱気になった芭蕉は、つい、馬の借用を所望。知らない土地でつい駅までタクシーに乗ってしまう気分か。草刈り仕事の手を抜けない農夫は馬方をしている暇は無い。馬だけ貸してくれると言う。 村までの道は馬が知っている。そこで馬を返せば、馬はまた自分でこの原まで戻ってくる。これで解決。農夫の機転は旅人に温かい。

馬が道を良く覚えていることは、色々な体験談や昔話に出てくる。宮古馬のいる宮古島でも、つい3,40年前まで、人々は馬と共に暮らしていた。馬に乗って町外れの居酒屋で酔いつぶれても、馬の背中にくくりつけてもらえば、帰り道は心配ない。 馬が夜道をきちんと自分の家まで帰ってくる。

かさねがついてくる那須野さて、芭蕉が馬に乗ると、どこかで遊んでいた農夫の子供がふたり、見慣れない旅人の乗った愛馬のあとをついてくる。こどもにとっては、いつもとちがう特別な場面だ。馬のそばを走っているだけで、楽しい。馬の口を取っている同行の曽良が女の子と話し始める。 「嬢ちゃんはいくつだい?」「7つ」「名前は何というの?」「あたいはかさね、こっちは松吉」「そう、かさねっていうの。いい名だねー。」なんて会話があったか。

手でいつまでも撫でていたい愛し娘を「撫子」という。『源氏物語』の「雨夜の品定め」の場面で、17歳の源氏の前で、自分たちの恋のアバンチュールを語る若者達。その中で、姿を消した恋人のことを語り出す頭中将。語りだすうちに不意に声を詰まらせる。 女「常夏」との間には3歳になる娘「撫子」がいた。その娘の行方が分からないのが一番気がかりだ。読者に忘れられない印象を刻みつけて、この場面は急に閉じる。

やがて「常夏」は、読者の前に「夕顔」として、黄昏時にうかびあがる白い花のように登場し、廃院で夜明けを待たず消えていく。残された「撫子」は?はるかの後に、六条院の謎の美女として姿を顕わし、源氏や頭中将の息子世代の気を引いていく。「玉鬘」である。

芭蕉は、那須野の農夫の娘、「かさね」を頭中将の愛娘「撫子」と重ね合わせる芸当をしてみせる。裸足で、つぎのあったった着物の短い裾をはだけて、走る少女。その瞳の輝きは浮き世の苦労にまだ染みていない。父の愛情をいっぱい受けたういういしいものだ。

この句は、曽良の作として、「奥の細道」に載るが、同行の曽良の「随行日記」には何の記載もない。農夫の馬を借りるこの場面そのものがないのだ。芭蕉の美意識がつくりだした場面である。 「日光」の東照大権現(徳川家康)の厳かさと、「遊行柳」のもとで先行者西行に対する敬慕の情を凝縮させるふたつの場面の間に、このほっとするおだやかな場面を挿入した。

道のべの木槿をパクリとくわえる馬と、鞍に駄賃を附けてもらって、子供らともとの野道をぽこぽこ帰っていくこの馬と。私の好きな馬達だ。君の名はやはり”アオ”だね。(8/20)




「野を横に馬・・・」の巻「おくのほそ道」元禄二年三月二七日〜同年九月六日・四十六歳 

原文口語訳

殺生石ー馬方短冊を乞ふ

 これより殺生石に行く。館代より馬にて送らる。この口付きの男、「短冊得させよ」と乞ふ。やさしきことを望みはべるものかなと、



   野を横に馬引き向けよほととぎす



 殺生石は、温泉の出づる山かげにあり。石の毒気いまだほろびず、蜂・蝶のたぐひ、真砂の色の見えぬほど、かさなり死す。
殺生石ー馬方が短冊を望む

ここ黒羽から那須の殺生石を見に行った。館代に馬で送ってもらう。その馬の手綱を取る男が「(発句を書いた)短冊を下さい」と頼んできた。(馬子が意外にも)風流なことを望むものだなあ、と(感心して、次の句を書いて与えた。)

那須野を越えていくと、突然道の横手に、野を引き裂くように鋭いホトトギスの声が聞こえた。馬を声の方角に引き向けてくれよ。もう一度良く聞いて見ようではないか。

 殺生石は、那須の湯本の温泉のわき出る山陰にある。石のまわりからふきでる毒気は、今もなくならず、、蜂や蝶の類が砂の色が見えないほどに重なりあって死んでいる。

前段の那須野に引き続いた場面。黒羽の「知る人」とは、館代(領主館の留守居役)である「浄法寺何某」とその弟のことであった。「何某」とぼかした表現にしてあるが、この人物は浄法寺図書(ずしょ)高勝、俳号秋鴉、29歳。弟は鹿子畑(かのこばた)善太夫豊明、俳号翠桃、28歳だ。

二人は、江戸からの思いがけないお客を迎えて喜び、心から歓待している。重職の兄に代わって弟が頻繁に芭蕉の世話をやく。黒羽近辺の古跡に毎日のように案内する。九尾の狐が化けた美女玉藻の前を祭った神社、那須与一が祈願した八幡宮など。 芭蕉参禅の師であった、敬愛する仏頂和尚が生前暮らした庵も訪ねることが出来た。那須野横断の二日間のつかれもわすれて、主二人の接待をうけていそいそと動き回る芭蕉である。4月3日(陽暦5月21日)から15日まで滞在した。

黒羽を立って、殺生石を見物しに行く。また那須野をこえて行くのだが、今回は館代が馬で送ってくれた。馬の口を取る下男も、主人の大事なお客が俳諧の宗匠と知っていて、自分にも句を詠んだ短冊をほしいという。主の影響で俳諧好きがこの下男にまで伝わっている。 「やさしきことを望みはべるものかな」に蕉門の広がりを実感する芭蕉のうれしさが感じられる。

句には、那須野の広がり、その広がりを一声つんざくほととぎすの初啼き、頸を巡らす馬がいる。視覚と聴覚と動きのある句である。それにしても不思議な句でもある。「横に」動くのは何なのか。 那須野を越えていく芭蕉か、啼きながら野を横切るホトトギスか、横に向く馬の顔か。横に移動するのはこれら全てであろう。とくに芭蕉の進行方向に、直角に交差する形で、頭上を右から左に一瞬飛びすぎていったホトトギスがポイントである。

ホトトギスは【杜鵑・霍公鳥・時鳥・子規・杜宇・不如帰・沓手鳥・蜀魂】などと漢字でいろいろ表記される。 「広辞苑」によると、「カッコウ目カッコウ科の鳥。カッコウに酷似するが小形。山地の樹林にすみ、自らは巣を作らず、ウグイスなどの巣に産卵し、抱卵・育雛を委ねる。鳴き声は極めて顕著で「てっぺんかけたか」「ほっちょんかけたか」などと聞え、昼夜ともに鳴く。夏鳥。」

平安時代の和歌や「枕草子」をはじめさまざまな日本文学で、王朝人が特別の思いを込めて聴いたホトトギスの声。私が初めて声を聴き、そのすがたを見たのは1980年代の半ば、浅間山の麓でだ。 鳩と同じくらいの大きさで、鳩をずんどうにしたような太い不格好な身体で、比較的低空を一直線に飛んでいく。頭上を越えていくとき、突然、一声、ふた声、キョ♪キョ♪キョ♭キョ♯キョ♪キョ♭と啼く。思わず声の動く方角を追ってしまう。

浅間山近辺では5月末に初鳴きを聴き、8月の半ばには聴かなくなる。芭蕉のいた旧暦4月の那須野でも、初夏を告げるホトトギスの声が聞こえた。芭蕉の即興句はここでも、ホトトギスの登場によって伝統文学につながっていく。 緊張感のあるいい句だ。



「馬の尿する・・」の巻「おくのほそ道」元禄二年三月二七日〜同年九月六日・四十六歳 

原文口語訳

尿前の関ー関越えの苦痛


 南部道はるかに見やりて、岩出の里に泊まる。


 小黒崎・美豆の小島を過ぎて、鳴子の湯より尿前の関にかかりて、出羽の国に越えんとす。


 この道、旅人まれなる所なれば、関守にあやしめられて、やうやうして関を越す。大山をのぼって、日すでに暮れければ、封人の家を見かけて宿りを求む。三日風雨荒れて、よしなき山中に逗留す。


   蚤虱馬の尿する枕もと
  のみしらみうまのしとするまくらもと


 あるじの曰く、「これより出羽の国に、大山を隔てて、道さだかならざれば、道しるべの人を頼みて越ゆべき」よしを申す。 「さらば」と言ひて、人を頼みはべれば、究竟(屈強)の若者、反脇指をよこたへ、樫の杖たづさへて、われわれが先に立ちて行く。


 今日こそ必ずあやふきめにもあふべき日なれと、辛き思ひをなして、うしろについて行く。 あるじの言ふにたがはず、高山森々として一鳥声聞かず、木の下闇茂りあひて、夜行くがごとし。 雲端につちふる心地して、篠のなか踏みわけ踏みわけ、水をわたり、岩につまづいて、肌につめたき汗を流して、最上の庄に出づ。


 かの案内せし男の言ふやう、「この道必ず不用のことあり。つつがなう送りまゐらせて、仕合せしたり」とよろこびて別れぬ。 あとに聞きてさへ、胸とどろくのみなり。
尿前の関ー関越えの苦痛

 南部地方へ通ずる道を遠く眺めやって(名残惜しく思いながら南へ引き返し、)岩出山の麓の里の泊まった。

 翌日は小黒崎やみつの小島を通り過ぎて、鳴子温泉から尿前の関にでて、出羽の国へ山を越えていこうとした。

 この道は旅人の少ない所なので、関の番人にあやしまれて(取り調べられたりしたが)やっとのことで、関所を越えた。大きな山を登っていくうちに日がもう暮れてしまったので、国境を守る人の家を見つけて一夜の宿を頼んだ。三日館も風雨があれて、とりどころのない山中で滞在した。

この山中の宿では、蚤や虱に責められる上に、ここらの風習として、(馬が人間と同じ屋根の下で生活しているので、)枕元ではその馬が小便をする音まで聞こえてくるよ。

主の言うには、「ここから出羽の国へ出るには、途中に大きな山があって道もはっきりしていないから、道案内の人を頼んで、越えるのが良い。」と言う。「それでは」といって案内人を頼みましたら、力の強そうな若者が反脇差しを腰に差し、樫の杖を持って私達の先に立っていく。

今日こそはきっと危ない目にきっと会いそうな日だなあ、とびくびくしながら後ろについて行く。 主人が言ったとおり、山はたかく木が生い茂って鳥の声一つしない。 木の下は枝や蔓草が茂って暗く、まるで夜行くようである。 雲間から砂混じりの風が吹きおろして、昼なお暗い」という杜甫の詩そのままの感じがして、小笹の中を踏み分け踏み分け、流れを渡ったり、岩に躓いたりして、肌に冷や汗を流して、 やっと(冷たい水の流れる)最上の庄に出た。

この道案内した若い男が言うには「この道ではいつも良くないことがおこります。今日は無事にお送りもうしあげることが出来て、幸いでした。」と言って喜んで帰っていった。 あとで聞いてさえも胸がどきどきするばかりであった。

平泉で藤原三代の館跡に立ち、義経主従の運命と光堂の荒廃に栄枯盛衰を嘆じた。南部の国を彼方に眺めてひきかえし、奥州東側の行脚を終え出羽の国へ西する。いよいよ奥州の背骨とも言うべき奥羽山系の山越えだ。

旅行く芭蕉と曽良 尿前の関は陸奥の国伊達領側の、出羽の国新庄領との境にある関。特別厳重な関所であったらしい。伊達藩は徳川幕府に忠誠を表明しているとはいえ、伊達政宗以来の誇りと独立心の強い藩。 伊達騒動に見られるように幕府はおりあらばと、その弱体化をねらっている。 伊達藩が隠密などの出入りを厳重に警戒するのは当然だ。僧体とはいえ、江戸から来た俳諧師などと称する芭蕉が、普段、人の通らないこの関を越えようとしても、おいそれとは通してくれないのは当然だ。 現在でも”芭蕉隠密説”は根強く言われている。「関守にあやしめられて、漸(やうやう)として関をこす」とあるが、フィクション化の多く見られる「奥の細道」の記述であるが、描写の少ない分かえってこれは事実だろうと思われる。

関越えに思わぬ時間がかかってしまって、山越えをする前に日が暮れてしまった。野宿も覚悟していると、一件の家が見つかる。「封人」(国境警備の番人)の家であった。一夜の宿りのつもりが風雨のため、三泊することになった。

この芭蕉がとまった「封人」の家は今に残っているという。にしさんのホームページ「奥の細道・紀行」に家の見取り図と写真入りで、詳しく紹介されている。 南部地方などに多い、馬屋が屋内にあり、土間を隔てて人の住まう部屋と隣り合わせになっている。寒い冬を大事な家畜とともに無事にのりきろうとする工夫だ。

私の体験だが、今から三〇年前、越後塩沢の大庄屋だった友人の家に、 お正月泊めてもらったことがあったが、背丈ほどの雪道を通って家にたどり着いたとき、明るい外の雪景色から、急に屋内に入って暗さに、一瞬、何も見えなかった事があった。そのときかたわらに何か気配を感じてはっとしてふりむくと、すぐ右手に牛が立っていた。 私の立っているのは広い土間だった。”あ、家の中に牛が居る!”と思ったものだ。

「奥の細道」で最後に登場する馬が、この尿をする馬だ。馬はたったまま尿をする。糞は歩きながらちょっと尻尾をもちあげて気楽に落として行くが、尿の時はちゃんと立ち止まり、やや脚を開いてかまえてする。すさまじい水量と勢いだ。 競馬馬はパドックで尿は滅多にしないが、たまにそんな場面にいきあうと大きな音が聞こえる。

さて、この句はどう発音するか?「尿」の読みに二説ある。A「しと」か、B「ばり」か?

A説は地名の「尿前(しとまへ)」を踏まえて読む説。また「尿する」と「する」につながるのは「しと」であるとする太田紘子説もある。B説は土地の言葉「ばり」を採用する説。また芭蕉の初出「泊船集」には「ばりこく」の形で出ているのを根拠とする。

わたしはA説だ。上記二つの根拠に賛同する。また、音韻の上からも「しと」であると思う。

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初句で”mi”の脚音を響かせ、中・下に”to”の脚韻を置き、真ん中で、”si”の頭韻を響かせる。明るい母音の”a”は句全体にちりばめられている。この音の優雅さは絶品である。句の情景が尿をする馬と隣り合わせの山中の一夜であるからこそ、音の優雅さを配するのが芭蕉の句の読み方だ。 これは、農夫の娘”かさね”を”撫子”として源氏物語の美を響かせようとした芭蕉の、またあらたな工夫なのだと思う。「ばり」説を私は採らない。

さて、やっと天候回復、山越えが出来ることとなった。3日間共に過ごしてなじんだ主とも別れる。主は危険な山中の警護に若者を雇っていったほうが良いといっているらしい。東北の方言は関西出身の芭蕉にはようやく意味が通じる程度。 いわれるままに、紹介してくれた若者を道案内に出立することになった。逞しく、脇差しを指している土地の若者。旅人として、彼らにもし山中ですれ違ったら、逆に、山賊かと驚くかも知れない。いや、実際山中で居直り強盗にかわるかもしれない。 ちょっとおっかなびっくりで、後に付いていく芭蕉、と読んでみたくなる。

山はこれまた、いままで通ったこともないくらい鬱蒼とした原生林だ。ここは”山刀伐峠”(なたぎりとうげ)という地名そのもの、下草やからまる蔓を山刀できりながら進む。道も険しい。山賊には行き会わなかったが、刀を持つ若者に先導してもらわなかったら、とても進めなかった。

最上の庄に着いたとき、案内の若者が言う、「いつも山賊が出る山道、今日は出ないで、無事にお送りできて本当にようございました。」心の優しい若者達だった。やさしい言葉を伝えて別れていく。




挿入画上 (義仲寺蔵)
「芭蕉翁絵詞伝」(作者未詳)の「那須」の場面。馬に乗った芭蕉のあとをついてくる「かさね」が見える。

挿入画下 (天理大学図書館蔵)
森川許六画「芭蕉行脚図」元禄六年(1693年)作
許六は彦根藩士、芭蕉最晩年の弟子。画才は抜群。念願の江戸出仕がかない、「奥の細道」の旅を終え2年ぶりに江戸に帰った芭蕉を訪ね、芭蕉庵を何度も訪問している。芭蕉生前時の面影をきちんと伝えた作。


1999/8/24執筆




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up date:5/1/99 byゆうなみyunami@cilas.net