原文 口語訳 城陸奥守(じゃうのむつのかみ)泰盛は、さうなき馬乗りなりけり。
馬を引き出させけるに、足をそろへて閾(しきみ)をゆるりと越ゆるを見ては、 「是は勇める馬なり」とて、鞍を置きかへさせけり。
又、足を伸べて閾に蹴あてぬれば、「是は鈍くして、あやまちあるべし」とて、乗らざりけり。
道を知らざらん人、かばかり恐れなんや。秋田城介、兼陸奥守の泰盛は、並ぶ者のない馬乗りであった。
厩から馬を引き出させたときに、脚をそろえて敷居をゆらりと越えるのを 見ると、「これは気が立っている馬である」と言って、その鞍を他の馬に 置きかえさせた。
また(新たに引き出した)その馬が、脚を伸ばしたままで、 敷居に蹴あててしまうと、「これは鈍感な馬で、間違いがあるだろう」と 言って、乗らなかった。
馬術の道を知らないような人は、これほど慎重にするであろうか。
(本文と訳『日本古典文学全集徒然草下』一部表記など変更)安達氏について
安達氏は藤原魚名の流れをくみ、兼盛が奥州安達郡に住み、その子盛長が安達氏を名乗る。
盛長と子景盛が源頼朝に仕え、幕府草創に功績があった。
将軍実朝の時、景盛が秋田城介となり、以後世襲する。景盛の女(松下禅尼はこの人)は北条泰時の嫡子時氏の室となり、経時・時頼を生む。
この二人が続いて執権となり、外祖父としての安達氏の権勢が高まり、三浦氏を滅ぼし、鎌倉殿御家人の筆頭となる。
景盛の孫泰盛は時宗の舅・貞時の外祖父として、幕府改革をすすめるが、貞時の御内人(内管領)平頼綱の策謀で一族の大部分と滅びる。秋田城介について
秋田城は奈良・平安時代における東北経営のための城。天平五年(733)に出羽柵を秋田村に移したのがその始まりか。
秋田城介(あきたじょうのすけ)は秋田城鎮衛司令官で、単に城介とも言う。
この称号は武門の栄誉で、建保六年(1218)に安達景盛が恐悦し就任、子孫が受け継いで秋田城介となる。
安達氏が鎌倉幕府の滅亡と共に消滅した後、南北朝時代には葉室光久が就任、 やがて出羽の安東氏がこれを称する。天正三年(1575)織田信忠が補任されると「冥加之至也」と評される。
★ここに描かれた「城陸奥守泰盛」はたった一言「双なき馬乗り」と書きとめられた。 名人を証明するエピソードを記述するセンテンスはたった二つ。いずれも閾を越える馬の動作を観察する姿である。 はやり馬か動作の鈍い馬かを見抜いて、鞍を置き換えさせる泰盛。 ★兼好は評した。「道を知らない人は、これほど恐れるだろうか。」馬を知れば知るほど、人間の制御できないエネルギーを持つこの繊細な動物に乗ることの難しさを知る。 ★すぐ次の段では、鎌倉ご家人衆の中心人物「安達泰盛」から、無名の人「吉田と申す馬乗り」の話に転じる。名人の話は身分の上下に関わらず、本質を押さえているとばかり。 右図は安達泰盛の花押 |
原文 口語訳 吉田と申す馬乗りの申し侍りしは、「馬毎にこはきものなり。人の力争ふべからずと知るべし。
乗るべき馬をば、先づよく見て、強き所・弱き所を知るべし。
次ぎに、轡・鞍の具に危き事やあると見て、心に懸かる事あらば、その馬を馳すべからず。
この用意を忘れざるを馬乗りとは申すなり。これ、秘蔵の事なり」と申しき。吉田といいます、馬の乗り手が言いましたことには、「どの馬もみな、手強いものだ。人間の力は、この馬の力と張り合うことはできないと悟らなくてはならない。
そこで、乗るはずの馬をば、初めによく観察して、その馬の性質の強いところと弱い所を知らなくてはならない。
次ぎに、轡や鞍の器具にあぶないことがありはしないかとよく調べて見て、気にかかることがあったら、乗ってその馬をはしらせてはならない。
この注意を忘れない人を馬の乗り手と言うのです。これは乗馬の秘訣である。」と言いました。
★「吉田と申す馬乗り」は兼好に向かってこう語る。「馬毎にこはきものなり。人の力争ふべからず。」 一見従順な草食動物である「馬」という動物が、実は人間の何十倍というエネルギーと爆発力があるという事を見事に言い留めているセリフである。 その馬の力をよく知るからこそ、名人の言葉はだれも謙虚である。 ★「吉田という馬乗り」はどういう人物だったのか、不明である。彼の言葉は「『・・』と申しき。」と書かれる。「き」という助動詞の使用は、 兼好が直接向かい合って「吉田」の話を聞くチャンスがあった事を示す。 一方、「安達泰盛」の話は、「・・けり」と書かれる。人づてに聞いた話である。兼好が鎌倉に行く30余年前に、泰盛は死んだ。 兼好、鎌倉へ ★兼好はどんなチャンスに「吉田」と語ったか。また、だれから「泰盛」の馬のエピソードを聞き出したか。 ★歌人であり、有職故実家でもあった兼好は、1320年ごろと1333年と2回三浦半島の金沢に滞在し、まじかに「あづまびと」の生活と信条に接した体験を持ったと思われる。 兼好が滞在した金沢(かねさわ)は、北条氏一門の金沢氏の所領六浦荘金沢である。当主貞顕は正安四年(1302)より10数年間、六波羅探題として京にいたことがある。 ★彼は東国きっての文人で、古今東西にわたって収集した書籍・唐物があり、 今、それらは金沢文庫として伝えられている。その中に兼好の書状も含まれている。 京にいた頃の貞顕に兼好は知遇を得て、その縁で、鎌倉に下ったことが考えられる。 ここで身近に見聞きした鎌倉武士の生活と信条は、兼好に大きな影響を与えた。 ★若いときから王朝時代を慕い、貴族的美意識と仏教的無常観で俗世を眺めていた兼好が、「徒然草」後半になると彼自身が変化していく様が窺える。 兼好自身が、虚飾を剥ぎ捨てることが出来るだけの年齢に達したからということも言えるだろう。 ★しかしなによりも、鎌倉武士の生き方の真髄に接し、その無骨でありながら質素で堅実な生活ぶりと、まっすぐな人間性が兼好を感嘆させた。生身の人間自身の持つ美しさ。 彼等を描く兼好の筆もまた、無駄な叙述を省き簡潔な名文となっていく。 ★さて、金沢氏当主貞顕の祖父実時は評定衆・引付衆であり、弘長三年(1263)執権北条時頼が死んで、年若い時宗が家督を継いだとき、その強力な補佐役として、安達泰盛とともに越訴奉行となっている。 文武に秀でていた安達泰盛と金沢実時は懇意であった。兼好が金沢に下ったとき、貞顕の口から、祖父の時代の話を聞き及んだであろうことが窺える。 御家人、安達泰盛 ★鎌倉殿御家人として、執権北条時頼の政治を受け継ぎ、「徳政」と御家人の「所領安堵」を強力に押し進めていった泰盛は、非御家人である、得宗家(北条嫡流)の御内人(みうちびと)たちと対立していった。 ★安達泰盛の死は弘安八年(1285)十一月、いわゆる「霜月騒動」によって、得宗御内人・平頼綱による攻撃を受けて一族もろとも自害して果てた。 ★弘安七年四月四日、執権時宗がわずか数日病床に伏しただけで、急死。蒙古襲来の外圧と幕府内の確執に神経をすり減らした末の、三四歳の死であった。 混乱を経て七月七日、時宗の子貞時が十四歳で執権就任。得宗正統の血を引く。外祖父は泰盛。頼綱は乳人(彼の妻が乳母)。強力な祖父泰盛に抵抗できない十四歳の貞時は、乳人頼綱に依存していく。御内人(内管領)の御家人排斥の条件が整う。 ★11月17日午前10時ごろ、松谷(まつがやつ)の別邸にいた泰盛は異常な周囲の空気を感じて、12時頃、執権貞時の館に向かおうとして、頼綱に阻まれ、衝突がおこったのをきっかけに、合戦が始まった。午後4時戦闘は終わり、泰盛方は敗北。 安達一族は自害・討ち死にした。泰盛方として大曽根・二階堂・武藤などの引付衆、各地のご家人が荷担し、いずれも自害・討ち死。また泰盛の婿金沢顕時や宇都宮景綱・長井時秀ら評定衆は失脚。これ以後、得宗専制政治が始まる。 ★兼好が鎌倉に最初に下った1320年頃、彼は、かつて北条時頼の腹心であった北条宣時にあい、今や80歳になる宣時の口から、質素な生活で、信頼の情で結ばれていた、かつての鎌倉武士の姿を聞いている。(第215段) 時頼の母、松下禅尼が自ら障子を張り替えた話(第184段)も聞いている。(この松下の禅尼は泰盛の伯母である。)時頼とその周辺の鎌倉武士に、京の貴族とは異なった、質実剛健の新しい人間像を見いだして感激した兼好。 ★その兼好の目に、批判も自己規制も失った、高時らの得宗専制の政治と生活はどう写ったか。 ★兼好は現在の鎌倉人を、一切描写しない。まるで、あって無きが如しだ。 ★その現在の鎌倉人がほろぼした、泰盛を、「双無き馬乗り」「道を知る人」として、「徒然草」のなかに、しっかりと刻み込んだ。 余分な修飾語を一切省いた骨太な筆致。鎌倉武士の理想像をたった一つのエピソードで描ききる、兼好の筆力。 ★文永八年(1271)に三河国小松原寺(愛知県豊橋市)に納められた馬頭観音の銘はこの地の地頭安達泰盛。自身と馬の守護を祈願している。その彼は策謀に逢って討ち死した。 ★石橋山の合戦の敗退以後、戦場に出ず、前線にだした弟たちに戦わせ、鎌倉で采配を振ることに徹し、武家政権を作った頼朝。(弟義経を殺させた藤原泰衡を討つため奥州にはみずから赴いているが、これは合戦のためとは言えない、権勢を示すポーズである。) 彼は、征夷大将軍就任6年目に死去。落馬による事故が原因だという。 ★かれはこの日、どんな馬に騎乗したのだろうか。 |