物語の馬たち
第三章 甲斐の黒駒の世界  「物語の馬たち」目次へ

甲斐は紀元500年頃から牧が作られ、馬の生産地として知られてきた。
ここの馬は「甲斐の黒駒」として「古事記」や「日本書紀」に登場し、聖徳太子に献上されたともいわれている。
馬に乗る聖徳太子の伝説は全国に広がっている。
平安時代、武士の道を選んだ清和源氏はこの甲斐の馬を手に入れてその勢力を強めてきた。
騎馬の将源頼信の話が「今昔物語」で精彩を放つ。
戦国時代の武田信玄もまた甲斐源氏である。


その1「聖徳太子と甲斐の黒駒」の巻(「風土記 逸文」その他)

甲斐の黒駒に騎乗する聖徳太子の図厩戸皇子(東京谷中の矢先稲荷神社天井画より)


★同時に七人の人の言葉を聞き分けるほど聡明で、一七条の憲法を制定し、仏教に帰依して法隆寺を創建した聖なる人聖徳太子。

★知的で、物静かな書斎型のインテリのイメージが強いと思っていたが、意外にも彼は疾駆する馬上から人々の暮らしを見て回る行動者型政治家であった。

★皇太子になる前の名前は「厩戸皇子」で、母である用明天皇妃穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)が厩の前を通りかかったとき、 厩の戸にぶつかり、急に産気づいて生まれたからという。また彼を皇太子に強力に推進した外戚蘇我馬子もまた”馬”を名に持っている。 彼と馬とのつながりは大きかったようだ。

『風土記 逸文』によると「伊豆の風土記」に次の様な記述がある。
原文口語訳
駿河の国の伊豆の埼を割きて伊豆の国と号く(なづく)。日金の嶽に瓊々杵尊(ニニギノミコト)の荒神魂(あらみたま)を祭る。

興野の神猟(みかり)は、年々国別の役なり。八牧の幣坐(みてぐら)を構ふ。 狩具の行装を出し納るる次第は図記にあり。

推古天皇の御宇(みよ)、 伊豆・甲斐両国の間に聖徳太子の御領多かりき。 これより猟鞍をとどめき。

八牧の所毎に、往古(むかし)、猟鞍の司々、山の神を祭りて、幣坐の神坐(かみくら)と号く。
駿河の国の伊豆半島を分割して伊豆の国と名づける。日金山にニニギノミコトの武勇の御魂を祭る。

興野(現伊東市奥野)の神事としての狩は毎年、当番の国が奉仕した。 八カ所の牧場が神事の狩の際の神への供え物を調えた。 神事の狩に必要な用具や装束を出し入れするやり方は図が書いてある。

さて、推古天皇の御代、伊豆・甲斐の両国には聖徳太子の御領地が多かった。ここから、狩競べ(猟で獲物を競い合う・狩猟)が行われるようになった。

八つの牧場のそれぞれに御猟の役人をおき、山の神を祭って、「幣坐の神坐」(御猟のために祭る神)と名づける。
馬に乗る行動者・厩戸皇子
★上記の「風土記逸文」にあるように、聖徳太子の領地が、畿内から遠く離れた、八つの牧がある伊豆と甲斐に広範囲にあったとすれば、 その目的はやはり駿馬であったろう。機械的動力がない時代で、馬は物資の運搬、移動スピードの両面から、現代の鉄道やトラックあるいは 戦車に相当する威力を持っていたのではないか。彼はまず、馬を支配する太子であった。

★八つの牧から選ばれた馬達は太子が諸国を視察する機動力を保証するという実際的な面と共に、政治力をも示すものであったろう。

★一方、馬は人間の予想を超えたエネルギーを持ち、鋭い感覚と賢さを備えているゆえに、聖なるものとしてあがめられてもいた。 太子の建立した斑鳩の寺でも神馬として奉仕していたであろう。
 遣隋使を派遣し、僧を招き、仏教を精神的基盤とした律令制国家の創造という太子の政治的実践は 「馬」という動物の存在と切り離せない。

★騎乗する彼の行動力を見るにふさわしい、「太子道」が今も、斑鳩と飛鳥を結んで残っている。 推古一〇年、太子は上宮にあった住まいを斑鳩の地に移す。皇太子として精力的に仕事をしている時期である。斑鳩から推古帝の飛鳥宮までの直線距離は16km。馬に乗って行くと並足・ギャロップで約二時間の距離だという。
 毎日片道二時間を馬を走らせて往復する太子の姿は、当時の人々にどのように映っただろうか。彼の慈悲と和との政治を憧憬する人々は、馬に乗る太子が自分たちの邑を訪れてくれることを願望したであろう。

★彼が馬に乗ってやってきたという伝説を持つ土地があちこちにある。
 たとえば近江の湖東、五個荘村にある「石馬寺」は、聖徳太子が馬に乗ってやって来て、登山するあいだつないでおいた馬が、戻ってみたら石になっていたのが起源で出来た寺だという。
 また、甲斐の国の伝説として、聖徳太子が諸国から貢納した馬のなかから甲斐の黒駒を選び出し、これに乗って遙々富士山頂を飛翔したという。 この伝説では「甲斐の黒駒」は、神通力を得て空を飛翔する「龍馬」となっている。


太子像の変貌・仁慈の人
★行動する皇太子厩戸皇子が、政治的な行動者のイメージを少なくし、「聖徳太子」としての聖なるイメージをたたえられるようになったのは、いつからか。 誕生直後の記事に、聡明で聖性を帯びていたと書かれていたが、皇太子になってからの約三〇年間のうち最初の二〇年間には、聖性の記述はほとんどがない。今あるイメージは何処から出てきたか。 「日本書紀」の記述を辿っていくと、推古二一年の「飢者」(うえたるひと)に出会った場面から、彼の聖性が強調されてくる。
 推古二一年、一二月一日に太子が「遊行」に出たときのエピソードである。
原文口語訳
(推古二一年の)十二月の庚午の朔に、皇太子、片岡に遊行(い)でます。時に飢者(うえたるひと)、道の辺に臥(こや)せり。 よりて姓名を問ひたまふ。而るに、言さず。皇太子、視して(みそなはして)飲食(おしもの)与へたまふ。 即ち衣装(みけし)を脱ぎたまひて、飢者に覆ひて言はく、「安らに臥せれ」とのたまふ。則ち歌ひて曰く、

  しなてる 片岡山に 
  飯(いひ)に飢て 臥(こや)せる 
      その旅人あはれ
  親無しに 汝生りけめや
  さす竹の 君はや無き
  飯に飢て 臥せる 
      その旅人あはれ

とのたまふ。

推古二一年一二月、庚午(かのえうま)の一日に、皇太子が片岡にある山で遊行なさった。 その時、飢えた者が道の辺に倒れ臥していた。そこで、太子が姓名を尋ねたが、飢えた者は答えなかった。 皇太子は御覧になって、飲食物を与える。また着ていた衣服を脱いで、飢えた者を覆ってやって「安心して臥せよ」とおっしゃる。 そして、皇太子が歌ったことには、

  (しなてる)片岡山に
  飯に飢えて倒れている旅人よ、ああ。
  お前は親無しに生まれたのか、
       (いやそんなはずはあるまい)
  お前には(さす竹の)領主はいないのか。
  飯に飢えて倒れている旅人は、
          なんと哀れだ。

と仰せられた。  
★皇太子になって二〇年、今、彼は片岡の山を「遊行」している。「遊行」とは山野に入り、自然と感応して霊力を身につける仏道修行を言う。 太子が歩んでいくと、道端に倒れ臥す飢えた旅人に出会う。太子が名を尋ねても答えない。言う気力も失せていたのか、立派な衣装を身につけた権力者に口を利くことを拒否したのか。 その人に、太子は飲食だけでなく、自分の衣服を掛けてやる。

★人に生まれたからには、誰だって自分を慈しんで育ててくれた親はいる。領民を慈しむ領主もいるはずだ。それなのに、あなたは誰にも看取られず、飢えて死のうとしている。 そういう人々を救うまつりごととはどうあるべきなのか、私にできることは何なのか。私に名をおしえてくれずに死んでいくあなたは誰なのか。

★「万葉集」巻三の「挽歌」は、この時の聖徳太子の歌ではじまる。
原文口語訳

上宮聖徳太子、竹原の井に出遊しし(いでましし)時、龍田山の死れる(みまかれる)人を見て悲傷(かなし)びて作りましし御歌


  家にあらば妹が手まかむ

      草枕旅に臥せるこの旅人あはれ


上の宮の聖徳太子が、竹原の井にお出で遊ばしたとき、 竜田山の道端で倒れ死んだ人を見て、悲しみ哀れんでお作りになった御歌


もし自分の家にいるときであるならば、愛する人の手を枕に臥せったであろうに、
(草を枕にして)旅の途中で臥して(そのまま亡くなった)この旅人があわれでだよ

聖なる人・聖徳太子の誕生
★二つの作品は、仁慈の人である太子像を描く点で基本的には共通している。しかし、微妙点で異なっていることが興味深い。 歌われた地名が「日本書紀」では「片岡」(今の奈良県北葛城郡)で有るのに対して「万葉集」では竹原井(東大阪市高井戸)と異なる。 また「日本書紀」の歌謡が、瀕死の「飢者」に呼びかける歌であるのに対し、「万葉集」の歌は死者を見ての感想として詠まれている。 また前者が、民を慈しみ扶養すべき存在としてとらえている視点をもつのに対して、後者は夫婦の愛情の視点だけでとらえている違いがある。

★「万葉集」の歌詞は人麻呂の、香具山の屍を詠んだ歌や狭岑島の死者を詠んだ歌に類似している。 人麻呂の歌があって、その歌いぶりをもって、聖徳太子伝承歌が制作されたと考えることもできる。

★同じ事(後人や編纂者の意図が記述に反映すること)は「日本書紀」の記事の部分にも言えるかも知れない。 なぜ、「飢者」は太子の問に「而るに言さず(まうさず)」なのか。 「日本書紀」の話の後半では、この「飢者」は「遊行」する太子のまえに現るべき存在であったことがかたられる。

★宮に帰った太子は、翌日使いをやって「飢者」の様子を問わせると「飢者」は既に死去していた。 大いに悲しんだ太子は、死者をその場に丁重に葬り、墓を築かせる。

★そのものの存在の意味を考えつづけた太子は後日、近臣に語る。「先の日に道に臥せる飢者、其れ凡人(ただびと)に非じ。必ず真人(ひじり)ならむ」と語って再び使者に墓を見に行かせる。

★使者の報告は驚くべき事を告げた。墓は封じられたままであったのに、開けてみると棺の中に死者の屍はなく、棺の上には、太子が覆ってやった衣服がきちんと畳んであったと。 それを聞いた太子は再び使いに衣服を取りに行かせると、何事もなかったように、その服をまた身につけた。

★世の人はその太子の行動に大いなる不思議を感じて、「聖の聖を知ること、其れ実なるかな。」と語り合っていよいよ畏まる。

★上の文に続いて「日本書紀」の記述は、後半で、突如、「飢者」が「神仙」であったとし、太子の「聖性」を語る。 「上宮聖徳太子伝補闕記」という太子の伝記によれば、さらに「聖性」が強調され、 「甲斐の黒駒」が登場する。すなわち、太子が道端に倒れている「飢人」の近くに来ると、太子の乗っている「黒駒」が足を留め、 太子が鞭を加えても進もうとしなかった。賢い動物である馬が「飢人」の聖性に気付いたことを示している。 また、この「飢人」の長身や耳長といった仏特有の身体的特徴を記しているそうだ。

聖なるイメージ・キリストとの類似
★さてこうして辿ってくると、聖徳太子に付属するエピソードに、キリスト教との類似を感じるのは偶然だろうか? 厩戸皇子の誕生が馬屋の前であるという強調。「飢人」が、太子の衣を棺のうえに残し、太子がそれを身にまとうという「聖衣」の存在。 馬をたくさん所有する豊かな王家にうまれた皇子の名がその地にちなんで「厩戸皇子」と命名されるた。 それをあえて、厩そのものの前で誕生するとする必要性は、彼に聖性を賦与するために後からの創作であろう。

★「キリスト教」は、隋・唐のころ、「景教」として中国に伝わり、多くの寺院もあった。

天変地異・国史編纂につづく太子の死
★「日本書紀」では、この後の九年間の記述は謎が多い。太子の行動は一切無く、代わりに四季をおって異常な出来事が列挙される。 二四年には「正月に桃李実れり」という異常気象。二七年夏近江の蒲生の河に人の形の生き物が発見されるがそれは「魚にも非ず、人にも非ず、名づけむ所を知らず」といったものだった。 二八年には一二月の朔日に、「天に赤き気(しるし)有り。長さ一丈余り、形雉尾に似たり」とあり、彗星が空に現れる。

★推古二二年以降なんの記述もなくなり、政治世界から、身を引いていたと思われる太子が登場するのは二八年のおわり。皇太子としての、太子の最後の仕事が語られる。それは「嶋大臣」馬子とともに天皇記・国記・からはじめ全ての部民・公民の本記の編纂事業であった。

★如何にも唐突な記述である。なぜ、太子と馬子は国史編纂事業を行ったとされるのか?しかも、いつどのようにして行われたかも、完成したかどうかも語られないのに。

★そして翌年の記事は突如太子の死を語る。推古二九年春如月の朔日に、「半夜に厩戸豊聡耳皇子命(うまやとのとよとみみのみこのみこと)斑鳩宮に薨り(かむさり)ましぬ」

★太子の死を聞いた高麗の僧慧慈は太子を「玄(はるか)なる聖の徳を以て、日本の国に生(あ)れませり」とたたえ、浄土で太子に会い、共に衆生済度をしたいと次の年の太子の命日に死を誓い、果たす。 僧慧慈は太子の20代の時、日本に渡り、太子の師として約20年間教え導いた人である。聖徳太子の呼称はこの師により付けられた。

★「聖徳太子」の呼称を高麗の僧に語らせ、一〇年間の政治的空白の後、太子最後の事業は国史編纂であったという記述には、この正史「日本書紀」を編纂した者の意向が色濃く感じられる。

★太子の死因は何だったか。「日本書紀」は何一つ語らない。 上記「上宮聖徳太子伝補闕記」によれば、前年12月21日に、太子の母穴穂部大后がなくなり、1月太子が病み、すぐ続いて太子の妃膳大郎女が病み、妃が2月21日死去、22日に太子が死去するという。(太子の死去の年や日にちについては異説が多い。) このあいつでの死から見ると、太子の死亡原因は何らかの伝染病であったと考えられる。斑鳩の地は膳部の地であり、夫妻で母を看病し、共にその病がうつって相次いで死去したと考えられる。三人はおなじ磯長陵(いながのみささぎ)に葬られた。

一族滅亡へ・作られる正史
★皇位に就くことなく死んだ太子の子山背大兄王は、推古天皇の死後の皇位継承争いで、田村皇子(舒明天皇)を推す蘇我蝦夷に敗れた。舒明天皇が死ぬと蝦夷の子入鹿は、今度は古人大兄皇子を皇位に付けるため、山背大兄王の居所斑鳩宮を襲う。 生駒山に逃れた山背大兄王は、「馬に乗り東国にいたり、軍勢を起こせば戦に勝てる」という臣下の進言を受けたが、「戦を起こすと万民の煩いとなるから」と、戦を望まず、斑鳩宮にもどり、一族は自害して果てた。 その決断は、仁慈の政治を行った父厩戸皇子の遺志を見事に体現している。時に皇極二年、聖徳太子の死後わずか二一年である。

★逃げられる状況にいて何故死を選んだか? 敗北を察して大和の地を一族で離れようとしたとき、 太子所領の馬群を管理する役人が謀反し、馬を一頭も動かせなったことを知った山背大兄王は、斑鳩宮に戻り、一族全て自刃を選んだともいえる。

★入鹿が山背大兄王を滅ぼすとすぐ、入鹿の横暴を誅するため、舒明天皇の子中大兄皇子は中臣鎌足と謀議し入鹿を暗殺する。大化改新である。 後の天智天皇である。

★人望があり、広大な所領を持つ、理知的で優秀な人物、山背大兄王が滅んで得をするのは誰か。その襲撃を非として暗殺の口実を手に入れ、臣下の最有力者蘇我氏をも滅ぼした人、 「日本書紀」には、山背王襲撃の場面では一言も書かず、王の死後、一気に表面に出てくる中大兄皇子と鎌足。彼らこそ、蘇我氏の血筋をもつ太子一族を滅亡させた黒幕ではないか。

★その天智天皇の死後、近江朝廷そのものを襲う、一大クーデターによって皇位に就いた弟天武天皇。 力で天下を取る覇者として大和朝廷の実権を手中に収めた天武が望んだのは、自己の正統性である。 正史編纂の野望が生まれる。 「古事記」「日本書紀」の国史編纂事業は天武帝の遺志をついでだものである。その「日本書紀」の中に、国史編纂は聖徳太子の遺志であると書くことによって神聖化をはかった。

★紙に書かれた歴史は勝者のものである。敗者は歴史記述の中でも名を変えられ、卑しめられる。蘇我氏は「馬子」「蝦夷」「入鹿」と動物表記をされる。 また一方で、 勝者は己の現世の平安のために、死者の怨念を払いのけようとする。死者の霊魂は神格化され祭られていく。

★かくして、「日本書紀」の「厩戸皇子」は「聖徳太子」となり、彼の乗る「甲斐の黒駒」も天翔る「龍馬」となっていく。
 民衆の語り継ぐ聖なる太子は、龍馬となった愛する甲斐の黒駒に乗って、富士の高嶺を天翔けていったのだろう。

★以来甲斐は東国の主要な馬産地としてきこえ、平安時代になると毎年一定数の「甲斐の黒駒」が選び出され、朝廷に献上された。この行事を「駒牽き」という。 この官牧地帯を根拠地としてやがて、甲斐源氏が勃興する。


参考資料:「国史大辞典」「国史大系・日本書紀」吉川弘文館・「山梨県の歴史」山川出版社
「日本古典文学体系・古事記古代歌謡集」岩波書店・「広辞苑」岩波書店
「「斑鳩の白い道のうえに」上原和・朝日新聞社 「石馬寺」ホームページ




★手に入る書物として「日本書紀」の本文の記述を手がかりに、「聖徳太子」を探りながらこの文を書いてきた。
私の見解では「聖徳太子像」は、推古二一年を境に全く変貌する。
今に残る聖徳太子のイメージは創られたものだ、という直感を得た。
こう辿ってきている最中に、朝日新聞上で、大山誠一氏が「聖徳太子はいなかった」という説を上げていることを知った。
また、大山説以前に、石渡信一郎氏も精力的に「聖徳太子はいなかった」説を提示していたことも知った。
『蘇我馬子は天皇だった』(1991年)『聖徳太子はいなかった』(1992年)いずれも三一書房刊。


新説ー聖徳太子はいなかったー「<聖徳太子>の誕生」大山誠一著の紹介へ(準備中)



甲斐の黒駒その2「源頼信・頼義父子と馬盗人」の巻へ(準備中)

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up date:5/1/99 byゆうなみyunami@cilas.net