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物語の馬たち
第一章 平家物語の世界  「物語の馬たち」目次へ

その2「いけずき・する墨」の巻

「巻之九 いけずきの沙汰」から
 
 原 文   口語訳 
 其比(そのころ)鎌倉殿にいけずき、する墨といふ名馬あり。


 いけずきをば梶原源太景季しきりに望み申しけれども、鎌倉殿、「自然の事あらん時、 物具して頼朝が乗るべき馬なり。する墨もおとらぬ名馬ぞ」とて、梶原にはする墨をこそたうだりけれ。


佐々木四郎高綱が暇(いとま)申しに参ッたりけるに、鎌倉殿いかがおぼしめされけん、 「所望の者はいくらもあれども、存知せよ」とて、いけずきを佐々木にたぶ。


佐々木畏(かしこ)まッて申しけるは、「高綱この御馬で宇治河のまッさきわたし候べし。 宇治河で死にて候ときこしめし候はば、人にさきをせられてンげりとおぼしめし候へ」とて、 御前をまかりたつ。


 参会したる大名、小名みな、「荒涼の申しやうかな」とささやきあへり。
 その頃、鎌倉殿のもとに、いけずき・する墨という名馬があった。

 いけずきを梶原源太景季がしきりにほしいとお願い申したけれども、 鎌倉殿は、「いけずきは万一の事があれば、その時に、鎧・甲など 武具をつけて頼朝が乗ろうと思っている馬である。する墨もいけずき に劣らぬ名馬である」といって、梶原にはする墨のほうをお与えになった。

 ところが、佐々木四郎高綱が出陣の挨拶を申しに参った時に、 鎌倉殿はどうお思いになったのだろうか、「いけずきをほしがる者は たくさんいるのだが、それを承知して受け取れ」といって、 いけずきを佐々木にお与えになる。

 佐々木が畏まって申すには、「高綱はこの御馬で宇治河をまっ先にわたるつもりでおります。 宇治河で佐々木が死にましたと、もしもお聞きになりましたならば、 それは人に先陣をされたのだとお思いください。 まだ生きているとお聞きになりましたならば、まちがいなく先陣は したのであろうとお思い下さい」と申して、頼朝の前を退出する。

その場に参っていた大名・小名はみな、「大きな口をきく奴だな」 とささやき合った。
  ★鎌倉殿所有の一の名馬”いけずき”を何度も所望する梶原源太景季に、頼朝は与えない。
理由は、自分が危急の際に乗る馬だから、と。
そして、佐々木が合戦に参加の言上に来たとき、彼が願いもしないうちに、「いけずきをやる」と自分から言い出す頼朝。 さらに言う、「欲しがる者は大勢いたのだ」と。

★佐々木高綱と梶原景季、かたや、頼朝の父・義朝の猶子秀義の子、頼朝の従兄弟の子。
かたや、頼朝最初の挙兵・石橋山の合戦では敵方だった梶原景時の子、今、父子ともに頼朝の腹心。

★頼朝は、なぜ、梶原にやらず、佐々木にやるか。 理由は、梶原が欲しがり、佐々木は欲しがらなかったからだ。
功名心と競争心との二つで、二人の若者を競わせ、それを見る周囲の源氏方全てに、功名を目指させる。

★かつて、みずから合戦に出て、敵に追跡され、命辛々逃げ延びた頼朝は、今、東国武士の頭領として、 司令本部に収まり、前線の将を競わせる。

★総大将は実弟の蒲冠者範頼。先鋒隊の大将は父義朝の末子・鞍馬山で少年時代を過ごした九郎義経だ。
父義朝の庶子であるがゆえに、嫡流である兄頼朝に自分の存在を認めて欲しい一念の義経。
その義経の功名心をうまくあおって、危険を冒させ、奇襲戦術で、平家を追い詰めさせる。

★源平合戦全体をつらぬく頼朝の策を象徴するのが、この”いけずき””する墨”の賜りだ。
 
 原 文   口語訳 

佐々木四郎が給はッたる御馬は、黒栗毛なる馬の、きはめてふたうたくましいが、馬をも人をもあたりをはらッてくひければ、いけずきとつけられたり。八寸の馬とぞきこえし。 梶原が給はッたるする墨も、きはめてふたうたくましきが、まことに黒かりければする墨とつけられたり。いづれもおとらぬ名馬なり。



 佐々木四郎が鎌倉殿からいただいた御馬は黒栗毛でとてもよく肥えてたくましい馬であったが、馬をも人をも側によせつけず、噛みつくので、「いけずき」と名づけられた。体高は四尺八寸の馬ということであった。
梶原がいただいたする墨も非常に肥えてたくましいが実に黒かったので、「する墨」と名づけられた。いずれも劣らぬ名馬である。
 ★「いけずき」は丈八寸だ。馬の背丈は脚の先から肩までの高さではかる。 四尺(約120cm)を標準にそれ以上は寸だけで数える。寸は「き」ともいう。四寸(よき)とか八寸(やき)などという。  いけずきの八寸は体高約150cm。 現存する木曽馬は体高約120cmから140cm。(現在の競走馬サラブレッドは150cmから160cmと在来馬よりは一回り大型である。)いけずきは在来馬として最高の大きさといえる。 「平治物語」の中にも一カ所、「くろき馬のふとくたくましいが、八寸あまりなるに・・」とあるが、戦記物でもなかなか八寸の馬は登場しない。義仲の騎乗した「鬼葦毛」もこれほど大きくはなかった。
 いけずきの毛色は「黒栗毛」、今で言う「鹿毛」か。 (矢先稲荷神社の天井画では葦毛で描かれている。)  呼び名はあらゆるものに噛みつくからと。上洛の道中で登場するいけずきは四人引きでも跳ね上がっている。悍馬である。

 ★一方梶原の頂戴した馬は「する墨」という名前の通り、毛色は黒色、黒光りする青毛とは違い、艶のない黒色の毛色の馬を言う。 「する墨」も名馬である。しかし、「いけずき」ほど大きくはない。
 この身体の大きさと気性の差が、後日、宇治河の急流を横切るときの差に出てしまったようだ。

 ★駿河の海辺を次々と源氏勢が通過していく。小高いところで、拝領のする墨に乗って、辺りを睥睨していた梶原景季の眼に飛び込んできたのは、まぎれもない四人引きのいけずき。
誰のかときくと、佐々木四郎のだと。所望する自分にはよこさず、あいつめにやるとは。あいつと差し違えて、頼朝に思い知らせよう。
 問いただす梶原を、「出発の朝盗んできた」といなす佐々木。 「ねったい、自分もそうすれば良かった」とわらう梶原。
 ふたりの先陣争いの条件は整った。

「巻之九 宇治川先陣」から

宇治河の先陣をきる佐々木高綱 佐々木高綱 矢先稲荷神社の馬の天井画より
 
 原 文   口語訳 
比は正月二十日あまりの事なれば、比良のたかね、志賀の山、昔ながらの雪もきえ、谷々の氷うちとけて、水はをりふしまさりたり。白浪おびただしうみなぎりおち、灘枕(せまくら)おほきに滝なッて、 さかまく水もはやかりけり。夜はすでにほのぼのとあけゆけど、河霧ふかく立ちこめて、馬の毛も鎧の毛もさだかならず。



「(畠山)重忠瀬ぶみ仕らん」とて、丹の党をむねとして、五百余騎ひしひしとくつばみをならぶるところに、平等院の丑寅、橘の小島が崎より武者二騎ひッかけ引ッかけ出できたり。



一騎は梶原源太景季、一騎は佐々木四郎高綱なり。人目には何とも見えざりけれども、内々は先に心をかけたりければ、 梶原は佐々木に一段ばかりぞすすんだる。
佐々木四郎、「此河は西国一の大河ぞや。腹帯ののびて見えさうは。しめ給へ」といはれて梶原さもあるらんとや思ひけん、左右の鐙をふみすかし、手綱を馬のゆがみにすて、 腹帯をといてぞしめたりける。そのまに佐々木はつッとはせぬいて、河へざッとぞうちいれたる。


梶原たばかれぬとや思ひけん、やがてつづいてうちいれたり。 「いかに佐々木殿、高名せうどて不覚し給ふな。水の底には大綱あるらん」と いひければ、佐々木太刀をぬき、馬の足にかかりける大綱どもをばふつふつとうちきりうちきりいけずきという世一の馬には乗ッたりけり、宇治河はやしといへども、一文字にざッとわたいて、むかへの岸にうちあがる。


梶原が乗ッたりけるする墨は河なかよりのため形におしなされて、 はるかの下よりうちあげたり。


佐々木鐙ふンばってたちあがり、大音声をあげて名のりけるは、「宇多天皇より九代の後胤、佐々木三郎秀義が四男、佐々木四郎高綱、宇治河の先陣ぞや。われと思はん人々は高綱にくめや」とてをめいてかく。
   時は一月二十日過ぎのことなので、比良の高嶺、志賀の山、昔ながらの長等山の雪も消え、あちらこちらの谷の氷も解けて、ちょうど此の折り、川の水は増していた。白波が激しくみなぎり流れ落ち、浅瀬の瀬枕は大きく盛り上がって滝のように音をたて、逆巻き流れる水の勢いも速かった  夜はもうほのぼのと明けていくが、川霧が深く立て込めて、馬の毛も鎧の毛も色合いがはっきりしない。

(この激しい流れを前にして、大将軍の九郎御曹司義経が一行にどうすべきか問うと、その時生年二十一の畠山重忠が答えて)
「この畠山重忠が瀬踏みして見ましょう」と言って、丹の党を主力に五百余騎がひしひしと轡を並べているところに、 平等院の北東、橘の小島が崎から、武者二騎が馬を激しく走らせはやらせながら、出てきた。

一騎は梶原源太景季、一騎は佐々木四郎高綱である。人目には何とも見えなかったけれど、二人とも、内心は先頭に行こうと気をはやらせていたので、 梶原は佐々木より一段ほど先に進んでいた。そこで、佐々木が「この川は西国一の大河ですぞ。腹帯がゆるんで見えるようです。お締めなさい。」佐々木に言われて梶原はそんな事もあろうと思ったのか、左右の鐙を緩めて馬の腹からはなし、手綱を馬のたてがみになげかけて、腹帯を解いて締め直した。 その間に佐々木はさーっと駆け抜けて、川へざっと馬を入れた。

梶原はだまされたと思ってのだろうか、すぐに続いて馬を川へ入れた。 「やあ、佐々木殿。手柄を立てようとして思わぬ失敗をなさるなよ。水の底には大綱があるだろう。」と言ったので、佐々木は太刀を抜いて、馬の脚にかかった大綱をぶつぶつとうち切り、うち切り、いけずきという当代第一の馬に乗っていたし、宇治河が流れが速いといってもおかまいなしに、一直線にざっと向こう岸にあがる。

梶原がのっていたする墨は河の中で矢竹をたわめたような曲線の形に押し流されて遙か下流から向こう岸に上がった。

佐々木は鐙踏ん張って立ち上がり、大声をあげて名乗ったことには、「宇多天皇から九代の子孫、佐々木三郎秀義の四男佐々木四郎高綱、宇治河の先陣だぞ。我こそはと思う人々は高綱と勝負しろ。」といって大声を上げて、敵陣に駆けていく。

 ★尾張に到着した源氏勢はここで体勢を整え、二手に分かれて京へ向かう。蒲冠者範頼を総大将とした大手軍は勢多(瀬田)に。その勢3万五千余騎。
搦め手の総大将は九郎義経。2万五千余騎で宇治に進む。

 ★瀬田を守備するのは、義仲の乳人子今井四郎兼平。その勢八百余騎。宇治にはさらに少数の手勢が廻る。 義仲軍は瀬田の唐橋と宇治橋と橋板を全部落としてある。

 ★琵琶湖周辺の山の雪解け水をあつめて、宇治河は激しく逆巻いている。

 ★渡渉をあきらめ、ほかに廻ろうとする義経を制し、勇将畠山重忠は配下の丹の党の勢五百騎を押し並べて渡ろうとする。

 丹の党(別名丹治党)は武蔵七党の一つ。武蔵には平安時代から、国守や介が在地化して、血縁地縁の武士集団を作っていて、 それらは多摩郡の横山党・那珂郡の猪俣党・児玉郡の児玉党など。丹治党は武蔵の国の北端で、児玉党、猪俣党の近く。

 ★ふとみると、左手の砂州、平等院の手前の、通称「橘の小島」の奥から、河を目指して馳せてくる二騎。佐々木と梶原だ。 集団行動に関係なく、二人だけの先陣争いをする。

 ★「腹帯がゆるんでいるぞ」と相手の脚を留めさせて先に河に乗り入れる佐々木。 水中に張り巡らしてあるはずの綱に注意を向けさせる梶原。太刀で払いながら、一気に向こう岸に押し上げる佐々木。 梶原の乗ったする墨は、水の流れに押されて弓形に曲がって少し下流に乗り上げる。

 ★先陣争いは二頭の馬の差であった。そして、二人の性情の違いもあるか。 やや短気でそれでいてちょっとお人好しの梶原。頼朝に大言壮語したてまえ、策を弄してでも勝たねばならない、佐々木。 しかし、互いに相手に投げかける二人の言葉は騎乗の心得の基本であり、決して相手を陥れるものではない。 とくに、梶原の「大綱があるぞ」の言葉は佐々木に対する的確なアドバイスである。馬の力差で、先陣を逃した景季であるが、読者に好印象をしるす。 この後、生田の森の戦いに臨んで、梅花をえびらに指す風雅の持ち主でもあった。

 ★二人の勝負を見ていた畠山勢は一斉に河に乗り込む。馬を射られて河に降り立った畠山にこれも河に落ちた大串次郎がしがみつく。 大串を襟首掴んで向こう岸に投げあげてやった畠山。 投げあげられて岸辺に立つと、徒歩の一番乗りを名乗る大串。どっとわく高笑とともに、宇治河の合戦は一方的な鎌倉方勝利に終わった。

 ★瀬田の兼平も範頼勢に討ちなされ、わずか五十騎になって旗を巻き、主君義仲を求めて京に向かう。これから、義仲最後の場面に向かう。 「物語の馬たち・木曾の鬼葦毛の巻」はこちら 

生田の森の合戦前に梅を折る梶原景季 梶原景季節 東京谷中の矢先稲荷神社の馬の天井画より

佐々木四郎高綱について 梶原源太景季について
 生没年未詳・近江国の住人佐々木秀義の第四子。

 父秀義は源義朝の猶子で、平治の乱で義朝が清盛に敗れると、あちこち流浪したが、 高綱は姨(うば)について京都・吉田に住む。 剛健な性質で、父と源氏との縁故を大切にし、平氏隆盛の時代にあっても、平氏に仕えず、 密かに時機の到来を待つ。

 治承四年源頼朝の挙兵を聞いて、京を出発、野洲の河原で、里人の馬を奪って頼朝のもとに馳せ参ずる。
 頼朝に従って相模に進み、石橋山で大庭景親らの軍と戦ったが、敵の追跡で頼朝に危急がせまった時、 敵の矢面に立ち、頼朝を名乗って敵を引き付け、頼朝を安全な地に逃した。

 寿永三年、頼朝が義仲追討軍を上洛させることになったとき、再び、近江より馳せ参じ、頼朝に見参した。
 この時、頼朝から、いけずきを賜り、正月一七日、源義経の軍に従って鎌倉を出発。正月二十日、宇治に到達、梶原景季と宇治河の先陣を争った。

 寿永四(元暦二)年二月には、平家追討の義経軍に従い、義経の乗る五番船に乗って、風雨を冒して渡辺を出発、瀬戸内海を越え、四国に進撃、屋島の平軍を海上に走らせ、さらに逆襲にも応戦し、功績を挙げる。

 度重なる功績により、備前・安芸などの守護となり左衛門尉に任ぜられた。
 しかし、恩賞が薄いことを恨み(といわれている)、剃髪して高野山にはいる。
 のち、越後の国府に流された親鸞に謁してその弟子になり、信濃筑摩の正行寺を創建したと伝えられる。
 (「日本人名辞典」参考)
 (1162−1200)梶原景時の長子。源太と称する。

 父とともに源頼朝に仕え、騎射の達人として知られ、養和元年頼朝の寝室の宿居となる。

 寿永三(元暦元)年正月、頼朝の義仲追討軍に従い、出陣に際し、名馬する墨を賜る。これに乗り、宇治河の戦いに佐々木と先陣を争う。

 寿永四(元暦二)年二月には、範頼軍に従って、一ノ谷で平氏と戦い、生田の森の戦いに梅花をえびらに挿んで奮戦する。
 文治五年頼朝に従って、奥州に藤原泰衡を攻めて功績がある。
 建久元年頼朝の上洛に従い、左衛門尉に任ぜられる。

 正治二年正月、父が罪を得、共に鎌倉を逃れ、駿河狐崎において戦死。年三十九。

 梶原景時 
 ( ー1200)鎌倉幕府侍所所司。姓は平氏。相模の住人。
 治承四年大庭景親とともに、石橋山で源頼朝と戦ったが、頼朝に意を感じてその危急を救った。のち頼朝に属して、大いに親任された。 弁舌に長け、武勇に優れ、和歌を能くした。

 義仲征討に従い、一ノ谷の戦いでは範頼に従い、生田の森に向い軍功を立てる。 寿永四(元暦二)年、義経に従って平氏追討に従い、義経に逆櫓の策を献じて入れられなかった。
 義経がたった五艘で渡辺を先発して屋島へむかった後、源氏本軍を率いて屋島に進軍、平軍を敗走させる。

 この頃より義経を頼朝に讒言し、ついに義経を退け、頼朝の信任が厚く、侍所所司兼厩別当に累進し、権勢を振るう。

 正治元年頼朝が死に、頼家が将軍になると北条時政らと幕府の政務を合議する重任につく。
 この間、畠山重忠を讒し、成らず、また結城朝光を讒したが、逆に三浦氏ら諸将から弾劾され、鎌倉を逃れ、正治二年、駿河狐崎で一族と共に戦死。
 ★ライバルの佐々木と梶原。かたや源氏の出身、かたや平氏出身で、 最初の戦い石橋山では互いに敵味方の間柄でありながら、期せずして共に頼朝の命を助けるために働いていた。

★まっしぐらに自分の血脈源氏の世をもたらすために戦った佐々木は、 鎌倉幕府成立後、恩賞が薄いことを理由に仏門に入り、最後は現世の政治権力と戦った親鸞に帰依。 衆生済度の生涯を全うする。

★父祖の敵平氏打倒を念願し続け、待望の源氏嫡流・頼朝の挙兵をきき、馬を駆け通しに駆けて、鎌倉の頼朝軍に参加した情熱の武士、佐々木はなぜ出家してしまったのか。 歴史資料は明確にはしない。”恩賞の薄さ”はたとえ口に出したとしてもまさに”口実”であろう。

私が思うに、かれは頼朝に絶望したのではないか。 平家物語を丹念に読むと、頼朝が挙兵の初めから、平氏よりも、源氏血脈の人間をきらい排斥しようとしていた様子が浮かび上がってくる。

最初は、義仲挙兵だ。頼朝は自分に刃向かう者だといい、そういわれた義仲はびっくりして身のあかしの誓詞を差し出している。倶利伽羅峠の合戦の前だ。義仲は最初から頼朝に討たれる運命だったのだ。

そして、甲斐の源氏、富士川に駆けつけ、鳥の羽音で、平氏を驚かせ、背走させた功労者だったが、その勢力が伸びるのを嫌って、のちに頼朝は襲撃し殺している。

とどめが、義経だ。壇ノ浦合戦に勝利した義経が、都でちやほやされて軽率だったとはいえ、梶原の讒言をまともに信じるはずはない。梶原は頼朝に口実を作ってやっただけである。

狙われているのは源氏だ。そう佐々木は悟ったのではないか。 佐々木は自分から頼朝を捨てた。だから出家した。そう私は思う。

★近江佐々木氏は南北朝から戦国時代へと脈々とつながり、 佐々木高氏(法号道誉・1306-1373)や佐々木高頼(六角氏・ ー1520)などがいる。
近江八幡社はこの佐々木氏の氏神。

★一方の梶原は、父景時が、頼朝の信を得るため義経を讒言し、排斥に成功。 これに意を強くして、ライバル達を次々に陥れようと画策する。 頼朝死後は、同じ平氏出身の北条氏と結び権力を手中に収めようとする。畠山、ついで結城と合戦の功労者を次々に讒言していこうとするが、 御家人衆の結束はまだ堅く、逆に墓穴を掘り一族戦死の末路。

★源太景季は、強い父景時にしたがって共に果てた。

★相模を出自とする梶原だが、江戸の地に牧を持ち、 今、大田区馬込には”する墨”の墓があり、足立区には所領だった名残の地名「梶原」が残る。

大田区馬込にある「磨墨塚」と梶原景時の墓がある「萬福寺」入口に立つ「磨墨像」
磨墨墓 磨墨像

梶原の風流心をかたる生田神社のホームページはこちら 「史蹟めぐり」の「箙の梅」「梶原の弁」
する墨生誕の地岐阜県郡上郡明宝村のホームページはこちら
する墨の墓東京都大田区のホームページはこちら  

up date:5/1/99 byゆうなみ