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しろくま事件


※このおはなしは「とら・とら・とら」「うさぎ」のつづきとなります。


事件の名は、あとから「しろくま事件」と名づけられた。
その概要は以下のとおりである。
事件は、秋の午後、奇妙なうさぎのヨガからはじまるのであった。





まずは後ろに身をそらせる。
つぎに呼吸を吐いて、ゆっくり前屈。
長い両耳が邪魔になるが、気にせず、これまたゆっくり起き上がって、中腰。
中腰の姿勢になってから、また呼吸を落ち着いて吐きつつ、すっくと立つ。
そして、空に伸ばしていた前足を胸の前におろして、瞑目し、祈りの言葉。
「ナマステ」

「なんなのですか、それは」

カフェである。
アトラ・ハシースとアストラルの住まう『下宿先』。
その『中央都市』の中心広場に面した、『供給所』のとなりにあるカフェだ。
その構造は、『中央都市』の真ん中に高く聳える『バベルの塔』と同じで、いかなる魔法か神秘か、その外装と内装は、日々変化する。
昨日はフランス風のカフェテリアであったのが、今日はなぜだか日本の茶屋になっていたり、あるときはダイナー風になっているときもある。
そのたびにメニューもまめに違うので、毎日通っても飽きない仕様となっている。

だが、ここに通ってくるアトラ・ハシースおよびアストラルの数はすくない。
もともと『下宿先』という名のつく世界だけあって、ほとんどの住民たちは、この世界を仮のやどりにして、普段は汎世界のどこかへ仕事にでかけてしまっているのだ。
そのため、せっかくのカフェも人影がまばらである。

今日のカフェはファーストフード風。
ボリュームのある手作りハンバーガーを何等分かに器用に箸で取り分けて、さらに、切り分けたときにずれが具を丁寧にまた重ね合わせて箸で串刺しにし、それから口に運ぶという、上品なのか下品なのか、よくわからない面倒な食べ方をしている青年がひとり。
いかにも意志が強そうな、しかし、いささか表情がとぼしいため神経質さも感じられる美青年である。
その美青年の前に、なぜだか茶色のウサギが一匹。
安定性のあまりよくないテーブルのうえに並んだハンバーグとコーラのおいてあるトレイの前で、さきほどから、どうぶつらしからぬ、変わった動きを披露していた。

「これがなんだか、知らぬのか」
青年の問いに、ウサギは答える。
(どうぶつが喋る、ということで驚いてはいけない。
カフェのカウンターを覗き見れば、そこに従業員として働いているのは、鬼である。
桃太郎さんに退治されたり、あるいは、瘤になやむお爺さんの瘤を治してあげたりと、ときには役に立つ、あの鬼である。
恐ろしげな風貌とはうらはらに、彼らはたいそうな働き者なのだ。
『最高府』幹部の弟子だ、という噂であるが、彼らは、自分たちの境遇と素性については語りたがらない。
一切は謎である)。
「うさぎヨガだ」
「うさぎ、ヨガ?」
うさぎがヨガをしている状態を端的に言い表しただけではないのか、と青年は思ったが、あまりにそのうさぎが得意そうであったから、口にするのはやめておいた。
茶色の大きなうさぎである。
どれほど大きいかというと、理科室の椅子くらいの大きさはある。
つまり、耳を含めて、両足で立つと50センチくらいの大きさ。
つぶらな黒い瞳は勝気な性格を表しており、体つきもすばしっこそうで、うさぎのわりに可愛げがすくない。

「つぎはシャクル・アサナだな」
ほっ、と、掛け声をして、器用にうさぎはブリッジを披露する。
白いふさふさの毛を持つ腹がアーチ状に反る。
青年は、思わず、うさぎの腹の上に、手にしていたえんぴつを乗せてみる。
とたん、うさぎは起き上がって抗議の声をあげた。
「物を乗せるな! こそばゆいであろうが!」
「ああ、申し訳ありません、なんだか乗せたくなる腹でありましたから。見事なブリッジでありましたな、馬将軍」
諸事情(番外編・とらとらとら参照のこと)により、うさぎをしている馬超は、青年の声に、ちっちっ、と人差し指を振った。
このうさぎ、なぜだか指が人間のように、五本そなわっている。
「ブリッジではないぞ、伯約。シャクル・アサナだ。うさぎヨガを舐めてはならぬ。なにせ、わが苦境を見かねたクリシュナ・ドヴァイパーヤナ師が、わたしのために創生してくれた、貴重な運動、それが、うさぎヨガなのだ」
得意そうに言ううさぎに、美青年…姜維、字は伯約は、表情のないまま、冷ややかに言う。
「そりゃあ、汎世界のどこを見渡しても、ヨガなんかするうさぎはいないでしょうね」
「伯約、勘違いするなよ、好きでうさぎになったのではないからな」
ぴん、と両の長い耳を跳ねさせて、うさぎの姿の馬超は、テーブルの上を足でどん、と踏んだ。
抗議のしるしである。

三白眼のうさぎにじろりと睨まれても、さほど動じず、肩をすくめただけの姜維。
一方のうさぎは、姜維の冷淡さになれているらしく、ふん、と鼻を鳴らすだけだ。
そして、すぐに気持ちを切り替えて、柔軟体操をはじめた。
「うむ、そろそろ身体も柔らかくなってきたようだな」
「さきほどから、なんなのです、落ち着きのない。ベーコンレタスバーガーのレタスだけでは足りませんでしたか」
「足りておるわい。伯約、おまえは蜀でも一、ニを争う仕事の虫のくせに、このごろよく『下宿先』で見かけるな。燃え尽き症候群になるには早すぎるぞ」
「燃え尽きたのではありませぬ。ここにいるのも、仕事なのです」
馬超の挑発にも応じず、ベーコンレタスバーガーを食べ終えると、持参していたノートパソコンを開き、キーボードを打ちはじめる姜維。
なにをしているのやらと、馬超がひょいと画面を覗こうとすると、姜維はすぐにパソコンのふたを閉じた。
「けち」
「親しき仲にも礼儀あり。勝手に人のパソコンを覗いてはいけません。で、貴方は、さきほどからヨガだの柔軟体操だのをして、これからなにをするつもりなのですか」
「ダンスの練習だ」
「ダンス? なぜ? 人間に戻った時、召喚先でおぼえたパラパラを蜀漢家臣団の皆様の前で披露したら、『派手な盆踊り』と酷評されて、落ち込んだばかりでしょうに」
「やつらに芸術が理解できぬということを忘れていた、わたしが愚かであったのだ。別方面では大ウケだったのだぞ」
「別方面ねぇ。貴方ほど、仕事をしないくせに、妙に人脈を持っているアストラルというのも珍しいでしょうね」
「人脈の豊かさは人徳の賜物なるぞ」
「あるのですか、人徳。そのわりに、だーあれも、あなたの呪詛を解いてくれないのはなぜですか」
「ふ、ふん! わたしはこの姿をあえて維持しているのだ。それに、この姿のほうが、なにかと有利なのだぞ。このあいだ、召喚された先でも」
馬超の言葉を、姜維が遮った。
「召喚? か弱いうさぎになっている状態の貴方を召喚する、鬼のようなアトラ・ハシースがいるのですか」
おどろき呆れる姜維に、うさぎは、耳をぴんと張って、ふふん、胸をそらした。
「なにを言う。この姿であれば、召喚先で現地人と接触するさいに、相手に恐怖感を与えずに済むのだ。愛らしい姿を見ているだけで心が和むというアトラ・ハシースもいて、最近は休む間もなく、引っ張りだこなのだぞ。特に女のアトラ・ハシースを中心に人気だ。モテモテ! うらやましかろう」
「現地人に食べられそうになるような危険はありませんか」
「この俺を食べようなどという趙子龍のような野蛮人は稀だ。喋るうさぎを食べてやろうなどというツワモノには、いまのあところ遭遇しておらんな。むしろそいつとは、タイマン勝負といきたいところだ。さいわい、アストラルとしての力も残っているのだぞ。呪詛が失敗したので、理性を失わないでいられるのも、ありがたい」
「それでも、うさぎから人間、人間からうさぎに変化する時を自分でコントロールできないのでしょう。やっぱり、不便ですよ。わたしは貴方のような目に遭うのはご免です」
「そんなことを言うがな、うさぎもなかなか良いものだぞ。おまえも獣化の呪詛を一度受けてみれば、わたしの気持ちがわかるであろう。女に『可愛いー』、とか言われて、ぎゅーっとされる、あの瞬間がたまらぬ」
「それがすべてなのでは…」
「ふん、ちゃんと仕事もしておるわ。さて、ダンスの練習を開始するか。おおい、そこの鬼! 『供給所』からもらってきた蓄音機を用意してくれ」
「蓄音機? 『供給所』に、蓄音機?」
「なにを驚く。最近、『供給所』に『お宝鑑定団in下宿先』と称して、アンティークの展覧会がされているのを知らぬのか。鑑定家も係員として常駐しているのだ。古いものを愛でる気持ちは、全世界共通だな」
「自分たちそのものがアンティークなのに、なんだってまた」
「昔を思い出して嬉しいのだと。さーて、鬼の兄さんら、用意はよいか! ミュージック、スタート!」

そして蓄音機から、ノイズだらけではあるが、どこか温かみのある音楽が流れてくる。
その軽快なリズムに乗って、馬超はテーブルの上で、軽やかにステップを踏み出した。

兎(うさぎ)のダンス
作詞:野口 雨情
作曲:中山 晋平
♪ 1.ソソラ ソラ ソラ 兎のダンス
  タラッタ ラッタ ラッタ
  ラッタ ラッタ ラッタラ
  脚(あし)で 蹴り(けり)蹴り
  ピョッコ ピョッコ 踊(おど)る
  耳に鉢巻(はちまき)
  ラッタ ラッタ ラッタラ

2.ソソラ ソラ ソラ 可愛いダンス
  タラッタ ラッタ ラッタ
  ラッタ ラッタ ラッタラ
  とんで 跳ね(はね)跳ね
  ピョッコ ピョッコ 踊(おど)る
  脚に赤靴(あかぐつ)
  ラッタ ラッタ ラッタラ

(いま、うさぎ馬超がとっても愉快なダンスを披露しました。実写でお見せできないのが、残念でなりません)

曲が終わると、馬超は、まるで全幕を休みなく踊り終えたバレリーノのように激しい息遣いをして、テーブルの上にがくりと崩れる。
カフェのカウンター内では、赤鬼と青鬼たちが、ブラボーと拍手喝さいである。
馬超は、呼吸をととのえると、それに西洋式の丁寧なお辞儀で応た。
そして、パソコンの黒いモニターごしに見える姜維の冷めた目に、白い毛におおわれた胸元をむっ、と見せて、挑戦するように問うた。
「どうだ? 召喚先の、現地の子供たちを和ませるための芸だ!」
しかし姜維は、つれなく答える。
「ニジンスキーには遠く及びませんが、女子供が目を輝かせて喜びそうな踊りではありますな。『ぎゅー』が期待できますよ」
「それは、誉め言葉として受け取ってよいものであろうな?」
馬超が尋ねると、姜維はパソコンのモニターを見ながら、ため息をつく。
「ご自由に。やれやれ、みんな外にいるのですかねぇ。掲示板の書き込みが増えやしない」
言いつつ、姜維はコーラを飲む。
そして、ちらりと馬超を一瞥して言った。
「うさぎって、水を飲んだら死ぬのでしたっけ?」
「愚かなり、姜伯約。それは俗信だ。人間と同じで、きれいな水ならば死にはせぬ」
「ふぅん、なにか追加で頼みますか」
「いや、よい」
馬超が断った先から、野太い赤い腕がテーブルに、にゅっと突き出された。
見れば、赤鬼が、木のサラダボールに、新鮮な菜っ葉をいっぱいに入れて持ってきたのだ。
赤鬼は、それを豪快にテーブル上のうさぎの前に置いてみせる。
「ええもん、見せてもらいました、これ、つまらんもんですが!」
「おう、すまぬな。ありがたく頂戴しよう」
答えつつ、馬超は、日に透けるあざやかな緑の葉を、むしゃむしゃと美味しそうに平らげた。

「すっかりベジタリアンですね」
「おかげで胃腸の調子がよい。ところで真面目な話だがな」
うさぎ馬超は、ごくりと葉を咀嚼して、整いすぎているあまりに冷淡に見えすぎる姜維の顔を見上げた。
「おまえとは、いままでこうして差し向かいで話をする機会が不思議となかったが、なんとなく判ってきたぞ」
「なにがです」
「いきなり本題になるが、おまえ、感じ悪いぞ」
「そうですか」
あっさり肯定する姜維に、馬超はたじろぐ。
それというのも、姜維の表情に、虚勢を張っている様子が見受けられないからである。
戦術を変えねばなるまい。

「わたしが本音で語り合えるのは、やはり蜀漢の人間だけだと思う。連中とはいろいろあったが」
「へえ」
言葉とはうらはらに、姜維はさして感心するふうでもない。
「しかしおまえは、見ていると、むしろ蜀漢の人間には本音を隠しているように見える。なのに、わたしにはとくに剣呑な言葉を吐き続ける。このさいだから言わせてもらうが、わたしは、人の言葉や動作には素早く反応するので、短気な男だと誤解を受けている。だが、それはちがう。わたしは反論こそするが、それを怒りにまでは発展させぬ」
うさぎは、耳を細かく、ぴっ、ぴっ、と動かしながらつづける。
「おまえは、おそらく、わたしの度量が広いことを判っているのだろう。しかし、わたしにも限界があるぞ。なぜにわたしにそう辛く当たるのか、その理由を聞かせてはくれぬか」
「辛く当たったつもりはないのですが」
「では、なんだ。わたしをいまだに客将と侮るか」
「侮ってなどおりませぬ。貴方はまるで、御伽噺に出てくる王のようだと、丞相が仰っておりました。わたしもそう思う」
姜維は、赤い唇に、めずらしく笑みを浮かべながら、言う。
「貴方はわたしにとって、信頼できる人だ。その内面にあるものは、単純そうに見えて、じつは複雑なのも知っています。あなたは感情の豊かな人だ。わたしとちがってね。それに、つまらないことで人に害を為そうなどとは考えないし、秘密を守れと言われたら、それを守ろうとする。裏切るなといわれたら裏切らない」
姜維の言葉を聞き、うさぎは、ひくひくと鼻をうごめかせた。
「ふむ、耳に心地よい言葉を並べてはくれているようだが、本心か?」
「もちろん。わたしには生前に貴方によく似た友がおりました。あなたは、その男にすこし似ている。だから、こちらもつい本音が出てしまうのでしょう。つまり、甘えてしまっているのです。いままで、なれなれしすぎたようですね。謝罪いたします」
「謝らなくてもよい。お前は意外に素直だな」

もともと、馬超は、腹の内に複雑な問題を抱え込むということができない性格である。
満足して頷くと、姜維が、目を細めて、自分を見ているのがわかった。
こいつ、ときどき意味ありげな顔をするな、とうろたえつつ、馬超は尋ねる。

「いまのは嘘か?」
「嘘ではありませぬ。では、本当にお詫びをしたという証のため、もうすこし、わたしの本音を教えて差し上げましょう」
「む。なんだか怖いな」
「怖い話ではありませぬ。わたしはいまはアストラルの身の上ですが、ゆくゆくは、アトラ・ハシースになりたいのです」

しばしうさぎは、姜維を姜維を異質なものを見る目で見た。
そして、飲み込みのわるい言葉を、大きすぎて咽喉を通らない食べ物のようにしばらく頭の中で反芻してから、たずねた。

「アトラ・ハシースに、なりたい?」
鸚鵡返しすると、姜維は深く頷いた。
冗談ではないようである。
「そうですよ。アストラルなら、一度は考えたことがあるのでは?」
「あいにくと、わたしはないぞ。アトラ・ハシースどもの言いなりになり続けるのはつまらぬと思うこともあるが、かといって、連中の背負う大きすぎる責任を負うのは、もっとつまらぬ。性に合わない」
「思うに、貴方は死に際が良かったのだ。だから、過去に捕らわれていないのでしょう」
「そうでもないぞ。曹操を討てなかったからなあ。おまえは、完全燃焼な人生だろう」
「いいえ、そう思われているなら心外ですね。わたしは、自分がよくアストラルになれたものだと思っていますよ。死ぬ間際のわたしという男は、人の不幸でしか笑うことができなくなっておりましたから」
「ぬぬ」
すさまじい心境を吐露されて、馬超はさすがにうろたえた。
姜維の晩年の不遇さを思えば、たしかに仕方のないことかもしれないと思いやる。
「それは、おまえの性格が悪かったせいではなかろう」
「そうでしょうか。鍾会なんぞを利用しなくてはならないほど落ちぶれていたのですよ。もし丞相がご存命であったなら、蜀漢という国も、あのように無残な落日を味わっていなかったはずだ」
「そうかな。丞相が長生きをされていても、落日がすこし先に延びた程度だったかもしれぬぞ。おまえとて、よくやったほうではないか。高い地位にありながら、奢侈にふけらず、宦官どもに惑わされなかった」
すると、姜維は、自嘲めいた笑みを浮かべてみせた。
「やせ我慢だったかもしれません」
「なぜ、そこまで己を低く見る? おかしいぞ、それ」
ますます首をひねる馬超に、姜維は口はしにゆがんだ笑みを浮かべたまま、言った。

「天才というものをどう思われますか」
「天才! 好きな言葉ぞ。わたしのことだな。うむ、天才はカッコイイ。張飛めもそうだな。あいつ、元肉屋のくせして矛に関しては右に出るものがおらぬし。ほかには、丞相なんかは典型だと思うが」
「天才が、なぜカッコイイのです? 万能のように見えるからですか」
「うん、まあ、そうだな」
「考えがちがうようですね。わたしは、天才は災いだと思っております。天才は、常識を破壊する。そして、そこに真新しい概念を提示する。破壊と創造を、一代でしてのけてしまう。
丞相は、大殿の死後、瀕死にあえいでいた蜀漢を見事に立ち直らせ、そのうえ、五回もの大遠征をしてのけることが可能なまでに、短期間に国を育てあげた。
いえ、あの方は、大殿の死後、自分の国をあらためて作り直したのだ。それも、粛清を一度たりとも行わず、国内の反対勢力の掃討は、最低限の犠牲に止めてね。
天才は、あまりにあざやかに偉業をしてのける。軽々と。そのために、天才の周囲の人々は、やっかいな錯覚を起こすのです。これが『普通』なのだ、と。冗談ではない。後に続くものは、えんえんと天才と比較されつづけるのだ。その生き様に反することを行うことは許されないし、その行いを批判することすら許されない」
「それは息苦しいな。窒息してしまう」
「丞相が亡くなられたあとの蜀漢は、ずっとそのようだったのです」
「むー、なるほど、だから天才は災厄か。わかったぞ、おまえ、天才を超えたいと思っているのだな」
うさぎが深くうなずく。
姜維もまた、合わせるようにうなずいた。
「天才とは、生まれ持っての才能と、運と、時勢に恵まれた、ごくごくわずかな人間のことを言うのだ。わたしはもはや、『天才』には為り得ない。ならば、天才をも超える力を手に入れるほかは、自分のこころを守ることはできない」
「そこまで思い詰める必要があるか?」
「いけないことでしょうか。あの方は、わたしにとって理想であると同時に、破壊すべき偶像でもある。わたしという意識が残り続ける限り、わたしは、あの方からは解放されることはない。
ならば、もがくことを諦めるか、諦めないかの二つに一つでしょう。わたしは、往生際の悪い性格をしておりますので、後者を選んだのです」
「難しいことを考えるものだな。単純に、偉大な先人を超えるのだ! と決意するだけでよいではないか。天才だとか偶像だとか、小難しい考えを頭に入れておくと、問題が複雑になりすぎて、処理しきれなくなるぞ」
「そうでしょうか。きわめて単純だと思いますが。目の前に壁があるのならば、越えるまでのこと」
「おまえは越えることが難しそうなので、壁を壊そうとしているのだろう。そも、アトラ・ハシースとは、汎世界を守るための存在。丞相を超えたい、力を得たいというだけの理由ではなれまい」
「ところが、そうでもないようなのですよ。いかなる道にも抜け道があるそうです。汎世界には、時間を遡らせることができる魔女たちも存在するとか。その活動は、すべて『最高府』が監視し、把握しているそうです」
思わず、うさぎは足を引いて、姜維を見上げる。
「おまえ、本気なのか。いまの言葉、『最高府』の人間に聞かれたら、なんとする?」
「ですから、秘密ですよ?」
姜維は、それまでの暗く閉ざされた顔から一転し、華のある笑顔を馬超に向けてみせた。
こいつ、ずいぶん裏表があるやつだなと、馬超はたじろいだ。
「さりげなく秘密を押し付けるな」
「いまのわたしの言葉は口外しないと約束していただけませぬか」
「約束して欲しいのであれば、約束しよう。しかし、おまえが趙子龍以上に仕事に励んでいるのは知っていたが、なぜか丞相の召喚にはあまり応じないと聞いて不思議に思っていた。丞相をひそかにライバル視していたのなら、そうだろうな。話してみないとわからぬものだ」
「わたしにも、いろいろと思うところがございますので」
姜維は笑う。
その笑みは、だいぶ和らいだ、打ち解けたものになっていた。

「おまえがアトラ・ハシースになったなら、まずはわたしのこの呪詛を解いてくれ」
「アトラ・ハシースの膨大な霊力を消費せねば解除できないとは、厄介な呪詛ですね。最初の呪詛をかけたアトラ・ハシースは、なんと?」
問われて、馬超はそのときのことを思い出て、全身の毛を逆立てた。
そして、腹立ちまぎれに、テーブルをどん、と叩いてみせる。
「ふざけておるぞ。『ごっめーん、戻らないみたい。でも可愛いからいいよね、許してねー。つーか、お陰で仕事が増えてるんだって? 怪我の功名じゃん! なーんて、本当は最初からこうなると思ってたんだよね。偉大でしょ?』といって、それっきりだ! 
そいつは『最高府』幹部のアトラ・ハシース、ウトナピシュテムなのだ! まったく、どこにあるのだ、『最高府』! 知っていれば、押しかけてやるのに!」
「まあまあ、それこそ『最高府』に聞かれたら大変ですよ」
「『最高府』、なにするものぞだ!」
「そういう割には、いじけることなく、『最高府』に管理されているアトラ・ハシースたちの召喚にそなえてダンスの練習までして、熱心なことで。以前の貴方からは想像のできないお姿です」
「仕方なかろう。今度の任務はもう決まっておるのだが、それが、難民キャンプの子供たちに夢と希望を与える、という、なんとも漠然とした任務なのだ。
普通ならば、現地集合現地解散だが、今回のアトラ・ハシース、やたらと慎重でな、事前ミーティングを行ってアストラル同士の顔合わせをしたうえで、一人一芸でもって、子供たちに笑顔を取り戻させよう、というのだ」
「つまり、アストラルとアトラ・ハシースによる、演芸大会ということですか」
「そんなものだ。まあ、今回の中心になっているアトラ・ハシースも、仕事をはじめて間もないから、余計に細々と計画を立てたくなるのだろう」
「だれです」
「ケチャップみたいな名前の西洋人だ」
「ああ、チャップリン」
「そうそう、そいつだ。多くの人に笑顔を与えた功績が認められて、アトラ・ハシースになったのだと。伯約、チャップリンのように、コメディアンを目指すのも一つの道かもしれぬぞ。おや」

うさぎが横を向くと、しょんぼりとした風情で、孔明がカフェの扉をくぐってくるところであった。
すかさず、赤鬼、青鬼のコンビが威勢のいい声をかける。
「ヘイ、らっしゃい!」※カフェです。
「うむ、邪魔をするぞ。伯約や、第500-14世界の情報は掴めたか」
孔明は、けだるそうに近づいてくる。

けだるそうにしていても、孔明の清雅な雰囲気は崩れていなかった。
アトラ・ハシースの中には、生きて動いているのが信じられないくらいの美貌の持ち主がいるが、孔明もまた、そのひとりであった。
それは日を追うごとに、アトラ・ハシースとして完成されつつあり、人間とは違うものになりつつあるという証左でもあった。
これを超えようというのかと、馬超は、ちらりと姜維のほうを見る。
馬超としては、先刻まで孔明についての話をしていたので、すこしばかり気まずい。
だが姜維は、まったくそんな素振りも見せず、答えた。
「いまのところは、なにもございませぬ。そも、第500-14世界は、汎世界のなかでも安定した場所ですから、あのあたりを往来する者も少ないのです。掲示板にも、ほとんど情報の書き込みがございませぬ」
「そうか、困ったな。おや、うさぎの馬将軍。久しいな」
言いながら、孔明は、ため息をつきつつも、姜維の席のとなりに座る。
「なんだ、その第500-14世界って」
馬超の問いに、姜維が答える。
「基本世界から500番目に位置する世界の、さらに14番目に分離した世界のことです。趙将軍の怒りは、いまだ収まらぬようですな」
「人のことで、あんなに怒ることなかろうに」
「趙子龍がどうした」
「このあいだ、第500-14世界に召喚されて、仕事を済ませてきたのだよ。そのときに、現地の商人が『珍しいどうぶつの絵葉書』を売っているのを見つけてね、記念にと思って、みんなで一セットづつ購入したのだ」
「呑気なものよ。で、それでなぜ趙子龍が怒る」
「現地の商人が言うには、絵葉書は『黒い部分の模様のない、めずらしいパンダの絵葉書だ』ということであった。我らもそれは珍しいと喜んで買ったのだがな、その場で中身を確認しなかったのがいけなかった。こちらに帰ってきて、中身を見たらば、だ」
「パンダに黒い模様がない? それはつまり」
「パンダどころか、ただの白くまの絵葉書だった、と……」
姜維が付け加えたオチに、うさぎの馬超は心の底から呆れて言った。
「絵葉書を買った者は、アトラ・ハシース(最高の賢者)の称号を返上し、なりたがっているやつに譲ってやれ」
「わたしだって、譲れるものなら譲って、のんびり暮らしたいよ(と、ここで姜維の頬がぴくりと動いたが、あえて馬超はそしらぬフリをした。武士の情けである)。たしかに揃って詐欺に引っかかった我らに非があるが」
「が?」
孔明は、形のよい顎をつんと逸らせて、精一杯虚勢を張って、言った。
「白くまも結構かわいい。毎日、寝る前に眺めて、元を取っているのだ」
「あいかわらず前向きな…ならば、問題は解決しているだろう」
馬超が言うと、孔明は、ふたたび暗い顔にもどり、大きくため息をついた。
「それが子龍は、その詐欺師をどうしても捕まえて、返金させるのだと息巻いているのだ。とはいえ、我らは好き勝手に汎世界を移動できないからな、第500-14世界で召喚されるのを待っている。しかし、わたしも、当時の仲間も、半端なことはなにひとつしなかったから、召喚されることはしばらくないだろう。が」
「が?」
「子龍をなだめるには、詐欺師を捕まえねばならぬ。だから困ったというのだよ。なにか子龍の気を鎮めるよい手はないだろうか。いやしかし、馬将軍、面白い耳になったものだな。どうしてこんなに長いのか」
「耳を勝手になでるな、引っ張るな、ねじるな! 痛かったぞいまの! くらえ!」
と、馬超は、ぴょんと飛ぶと、孔明の指にがぶりと噛みついた。
孔明はちいさく悲鳴をあげて、馬超に抗議する。
「噛むとは、ひどいではないか!」
「ねじるほうがひどい! 呪詛の解除呪文を唱えてくれぬ丞相なんぞ、知らぬ! 貴殿もうさぎになってしまえ!」
「嫌なことをいうものだ。まったく、あちらもこちらも気が立っているようだな。世相の悪さがここにまで反映されているのだろうか。わたしは塔に帰るよ。伯約、もしなにか動きがあったら教えてくれ」
「アトラ・ハシース専用の掲示板では、第500−14世界の情報がない代わりに、白くまの絵葉書の使用法で盛り上がっているようですよ。いちばん支持を集めているのが、『絵葉書を活用して紙芝居』。へえー、お話を公募する計画まで立ったようです。みなさん、意地になっているようですね。ついでに参加されたらどうですか」
「考えておく。それでは、わたしはこれで失礼する」
そう言って、孔明は、来た時と同じく、どこか猫背になって、カフェを去って行った。
「姜維、アトラ・ハシースってあんなやつばっかりだぞ。それでもなりたいか?」
「…すこし考えます」





それからしばらくのち。
ふたたびカフェに、見知った顔があらわれた。
趙雲である。
相変わらず、シンプルで地味な洋装の趙雲であるが、姿がよいので、みすぼらしくはならない。
なめされかけた記憶があたらしい馬超は警戒して、テーブルを足で踏み鳴らす。
しかし、当の趙雲のほうは頓着せず、姜維に尋ねる。
「さきほど、丞相が来なかったか」
「いらっしゃいましたよ。会いませんでしたか」
「いいや。どこぞで知り合いに捕まったか。まだ塔に帰らぬのだ」
「趙将軍の機嫌が治らぬと、気にしておられましたよ。帰るのを渋って、どこかで暇を潰されているのではないでしょうか」
「うむ、実をいうと、あれほど怒ることもなかったと反省してな。あいつめ、ちかごろ注意力が散漫のようだったので、つい声を荒げてしまった」
「おまえらのようなのを、なんというのかな。しつこいほど一緒にいて、飽きぬのか」
声をかけられて、趙雲はようやく顔をうさぎに向ける。
あわてて馬超は姜維のパソコンの陰に身を隠す。
だが、趙雲の目は料理の素材を見る目にならなかった。
そのかわり、
「そうだ」
と言いながら、ふところから丸い毛玉を取り出した。
「近頃は、うさぎを飼うのが流行っているのだろうか。さっきそこで、気絶したうさぎを拾ったのだ」
見れば、丸い毛玉だと思ったそれは兎であった。
その丸いふにゃふにゃの、グレーと白のパンダ模様のうさぎは、ぐったりと趙雲の手に納まっている。
「『供給所』の食材が逃げたのかもしれませぬ」
姜維の言葉に、馬超はぶーぶー抗議したが、趙雲は首を振った。
「いや、この種類のうさぎは食用にはならぬだろう。だれかのペットではないのかな。道に迷ったさいにつけたのか、仲間にいじめられて逃げ出したのか、手に噛み傷があるようだ。そこの穴うさぎとちがって、ずいぶんと柔らかくて小さいし」
「悪かったな、わたしはごわごわな上に大きくて」
「だれかが飼っていたものならば、帰してやらねばならぬが」
趙雲は、気絶したままのうさぎを両手で持ち上げ、しげしげと眺めていたが………

不意に、にやりと笑った。

にやりと、溶けたように笑ったことに、馬超と姜維はぎょっとして顔を強ばらせた。
趙雲は、自分が笑ったことにしばらく気づかなかったようである。
にやっとした笑いのまま、うさぎと姜維を見てはじめて、自分がどんな顔をしていたか気づいた様子で、気まずそうに、すぐにいつもの強面に戻り、咳払いをひとつした。
そして、
「これは、俺が持ち帰って保護する」
といって、そそくさとカフェから出て行った。

「…おどろいた。趙将軍のにやけた顔、はじめて見ました」
「なんだかよくわからぬが、あのうさぎの何かが、趙子龍のこころにクリティカルヒットを放ったらしい」
「きっといまごろ、『供給所』で、うさぎ用のケージやら餌やらをもらってきていますよ。ところでですね」
「うむ」
「人狼に噛まれた者は人狼になる、というのはご存知ですか」
「常識ではないか」
「人兎に噛まれたら、どうなるのでしょうね?」
「…………む?」
「あのパンダ模様のうさぎ、手に噛み傷がある、ということでしたね」
「………」
「馬将軍、丞相の手に噛み付きませんでしたっけ?」
「………」
「いますぐお逃げになることをお奨めします」
「………」

これが俗に言う「しろくま事件」のあらましである。
事件は、いまだ解決をみていない。


うさぎが観察日記につづく


(2005 初稿)
(2021/12/21 推敲1)
(2022/04/26 推敲2)

※あとがき※

〇 相変わらず地の文がめちゃくちゃだったので、直すが大変だった。
〇 馬超と姜維のやり取りが主の、動きのない話になっている。とはいえ、大事な話をしているので、これはこれでいいかと思い、代替のエピソードも浮かばないので、最低限の推敲にとどめた。
〇 姜維の「アトラ・ハシースになりたい」という告白を、リライト版では活用する予定。おたのしみに。
〇 孔明が悪ふざけするシーンがあったので、それはカットした。さすがに子供っぽすぎて、らしくなかったかな、と。2005年当時は、そういう孔明がいいと思っていたらしい。反省。
〇 次回、いよいよ「うさぎが観察日記」がはじまります!