とら・とら・とら
玄関を開けたら、虎がいた。
※
趙雲が、虎になってしまったらしい。
その噂を聞いたアストラルの馬超は、趙雲や孔明がさぞ困っているだろうと同情し、さっそく『バベルの塔』へむかった。
『下宿先』の中央都市の中心にある、巨大な塔へ、である。
そこの住人となっているアトラ・ハシースの孔明を訪ねれてみれば、たしかにそこには、虎がいた。
しかもただの虎ではない。聖獣・白虎である。
しかも、ホルスタイン種より、なおでかい。
なんだ、このでかさは。
恐竜か? ステゴサウルスか?
孔明は、きちんとリビングに横たわる虎の腹にソファにもたれかかるように身をあずけ、自分の向かい合わせにいる姜維と話をしている。
虎はというと、借りてきた猫ならぬ虎。
じつに大人しくしている。
ときおり、尻尾をぱたり、ぱたりと優美に動かしているのはご愛敬。
孔明は状況に困り果てているらしく、表情をくもらせており、話し声にも張りがない。
対する姜維のほうも、そんな孔明の様子に心を痛めているのか、元気のない様子である。
そしていま、二人のまわりには、なぜだか数十冊のぶ厚い辞書が散乱していた。
古いものから新しいものまで。
この期に及んで勉強だろうか。
熱心なものである。
「気の毒に、まさしく虎であるな」
馬超が声をかけると、それまでじっと大人しくしていた虎は、ぴん、と髯を立てて、顔を向けてきた。
白と黒の縞。
精悍な顔立ち。威厳すらあるような。
趙雲本人の面影が、なくはない。
孔明は、馬超をちらっと見ると、あきらかに、面倒が増えた、というような顔をした。
どうも俺は、丞相に、空気を読まないやつだと苦手に思われているらしいなと、馬超は苦る。
とはいえ、孔明のそんな顔を見るのは、いつものことであるから、馬超はまったく頓着せず、ずかずかと孔明の家にあがりこむ。
そして、『供給所』でもらってきた菓子だの、飲み物だのを無造作に近くのテーブルに並べ、巨大な白虎に近づき、しげしげと眺めてみた。
「ほんとうに虎だな。虎威将軍であるから、虎か。気が利いておる」
自分の冗談におかしくなって、けらけらと笑うと、孔明はむっとした顔をする。
姜維のほうは、冗談は休み休み言え、というふうに睨んできた。
かれらの表情を見なかったことにするのは、馬超の得意である。
ふさふさな毛並みに惹かれて、手を伸ばしてみる。
が、触れるまえに、虎の長い尻尾にて、手の甲をぴしゃりと打たれてしまった。
不用意に触ってくれるな、ということらしい。
「虎になっても愛想のない男だな」
馬超が文句を言うと、孔明は、虎の毛皮に身を沈めるような姿勢のまま、うんざりした顔で、言った。
「おもしろおかしく子龍が虎になったと噂を広めるために、事実かどうか確かめに来たとわかっているからだ。あらかじめ言っておくが、変わってしまったのは子龍だけではないから、噂はあまり広まらないだろうよ」
「そうなのか」
「ほかにも狼にされたものやら、豚にされたものやら、いっぱいいるそうだ。よそも回ってくるがいい」
「ほかの者とは、だれとだれだ」
すると孔明と姜維が、交互に著名なアストラル、アトラ・ハシースの名をあげた。
「そいつらとはあまり面識がないから、動物に変わったのかと確かめに行くわけにはいかぬ」
「子龍ならいいのか」
「趙子龍と俺との仲ではないか。しかし、ほんとうに虎だな。怖いだけではなく、愛らしさもあるような。虎の身であるほうが、かえって愛嬌があるように見えるのも不思議だ」
「獣化の呪いは、単に見た目が変わるだけではないのです。いまはまだ、人の心を残しています。けれど、そのうち、精神も呪いに蝕まれ、完全に獣になってしまいますよ」
涼やかな声で姜維が言う。
この姜維、馬超とは生誕地が近いうえに、生前は羌族とも親交の深かったという共通点もあるのだが、だからといって、打ち解けているとはいいがたい。
馬超からすれば、賢いのを鼻にかけているように見える。
しかも、態度が刺々しいところがあって、扱いがむずかしい。
容姿は孔明に似たところがあって、すらりとして背が高く、白皙で、雰囲気も煌びやか。
ひそかに馬超は、姜維のことをミニ丞相、心中で呼んでいた。
アトラ・ハシースおよびアストラルは、おのれの外見を自在に変化させることができる。
孔明は、三十路前の姿を好んで保つところがある。
この姜維は、なぜだか二十歳前後の、少年のような風貌をとることを好んでいるようだ。
ちなみに馬超は、男盛りの三十代前半の姿を好む。
生前のいい思い出が多いのも、このあたりであるからだ。
もしかしたら孔明や姜維も、おなじようなことを考えて、少年のような風貌でいるのかもしれない。
「呪いならば解けばよかろう。丞相の得意分野ではないか」
馬超が言えば、孔明は、姜維におとらぬとげとげしさでもって、答えた。
「解けるものならば、とっくの昔に解いておる。この呪いを解くためには、特別なスペルが必要らしい」
「スペル?」
「そう。呪いをかけた者の決めた、解呪用の言葉だ」
「読めた。それを探して、辞書なんぞめくっておるわけか。しかし効率が悪かろう。呪いをかけた者にじかに聞き出すか、そいつの周辺を探ったほうが、よほど早いぞ」
「無理だ」
「なぜ」
「『最高府』によって、呪詛をかけた者の素性が隠蔽されてしまったからだ」
「呪詛をかけた者のいる世界ごと、『下宿先』からの渡航禁止命令が出されて、汎世界から隔離されたようですよ。ですから、呪詛の使い手から、スペルを聞き出すことはできないのです」
「そこで仕方なく片っ端から単語をぶつけている、と。そこの虎から呪詛を掛けられたときの状況を聞けばよいではないか」
孔明は、自分がソファ代わりにしている白虎をちらっと見て、それから言った。
「呪詛を受けてから時間がたってしまったので、すでにしゃべれぬ身になっておる」
「では、こいつを召喚したアトラ・ハシースから聞けばよかろう」
「それも判らないのですよ。どうやら、このアトラ・ハシースが召喚したアストラルは、全員獣化の呪詛を受けたようでなのです。つまり、そのアトラ・ハシースが、呪詛の使い手らしいのですよ」
「ユリシーズに出てくる魔女のようなアトラ・ハシースだな」
「あの魔女は、今回の件にはかかわっていないことは、調査済みだ」
「さすが丞相、ぬかりのないことだ。それにしても、そうなると判らぬことだらけか。しかし、趙子龍のようなマイナーなアストラルを召喚するのは、漢字文化圏に住まう東洋系のアトラ・ハシースではないのか」
「子龍はマイナーではないぞ?」
孔明は口を尖らすが、馬超は平然と言った。
「すくなくとも、わたしよりは有名ではない」
「そうでしょうか…」
ぼそりと小さく反論する姜維を無視し、馬超は持ってきたワインの栓を優雅に開いた。
「今年のロゼは最高」
などとのんきにつぶやきながら、ワインを咽喉に流し込む。
「見た目のその清麗たる美しさでまず楽しみ、つぎにこの馥郁たる香りで鼻を楽しませ、つづいて芳醇な味で舌を楽しませる。同時に、咽喉越しに、香りが一杯にひろがって、鼻腔にまで届くのだ。これが臓腑に落ちていく瞬間までがたまらぬ」
「ふーん」
気のない返事をしつつ、孔明は、白虎に寄りかかりつつ、辞書をぱらぱらめくりつづけている。
白虎が、辞書を背後から覗き込むように、首を動かした。
「ついでに試すか。『当山孔真君が命ず。趙子龍の呪いよ、解けるべし。汝を縛りし言葉は『ワイン』なる』」
だが、なんの変化も起こらず、虎の顔には『ハズレ』と書いてある。
孔明はため息をつき、その白と黒の縞模様に顔を埋めた。
「困ったな、たしかに馬将軍のいうとおり、あてずっぽうにスペルを述べても駄目か。子龍、なにか思い当たるものはないのか」
白と黒の毛皮のなかに顔をうずめた孔明が、そのまま動かなくなったので、姜維が声を尖らせた。
「毛皮の手触りを楽しんでいる場合ではありませぬ。どうもお二人からは、緊迫性が感じられませぬな」
「気持ちがよいのだ、この毛皮。触ってみるか」
「結構」
つんとして、姜維は言う。
孔明は、毛皮から顔を上げると、獣には似合わぬ穏やかな風貌をしている白虎に言った。
「このままであったなら、今年の冬は電子カーペットはいらぬな。子龍、ここにずっと住むがいい。アストラルは『バベルの塔』に住んではならぬなどという規約なんぞ、なにするものぞ。今年は、わたしがせっかく『塔』の役員になったのだから、規約自体を変えてしまえばいい」
「いいアイデアだと思ってらっしゃいますか」
変わらず、とげとげしく姜維が言う。
「虎の中身は、いまは趙将軍です。しかし、そのうち呪いの毒が進んで、完全に獣になってしまわれますぞ」
冷たい姜維の声に、常に前向きな孔明は、くるりと振り返って答える。
「おまえはネガティブだね」
「あなたに比べれば、みんなネガティブです」
「獣になろうと子龍は子龍だ。絶対に手放すものか。毎日この毛並みに触れるのかと思うと、うれしい」
冗談だか本気だか判断のつかないことを言う孔明に、冷徹な姜維は言う。
「そのまえに、規約を変えるための地獄の役員会議を頑張って戦ってください。冗談はさておき、馬将軍のおっしゃるとおり、趙将軍を召喚したのが東洋系アトラ・ハシースだとすると、解呪用のスペルを突拍子もないところから拾っているとは思えません。自分が忘れてしまうようなスペルは、普通使わないものですから。呪詛の使い手の生前の国籍を特定できれば、スペルを探すことも容易になりましょう」
「子龍、ほかに召喚されたアストラルは、あなたのほかに、三人いたのだったな」
孔明のことばに、虎は、重々しく、こくりと頷いた。
「それぞれが、狼、豚、猿になった、と。動物の選択に意味はあるのだろうか」
問いに、姜維は優秀なところを見せて、即答した。
「調べました。神話や民話から取ったものではなさそうです」
「虎・亀・龍・鳳凰になぞらえて、虎・亀・蛇・鳥というものであれば判るのだが」
「それも調べてました。なにかの暗喩というわけでもなさそうです」
「おまえは本当に優秀だよ。優秀ついでに、ほかに考えられることを探してくれ」
「投げられても困ります」
「おまえの能力を引き出そうと、あえて試練を与える、この親心がわからぬか」
「残念ですがわかりかねます。真面目に考えてください、孔明さま」
叱る姜維に投げる孔明。
これでは、師弟のうち、どちらが師匠かわからない。
馬超は、やれやれとため息をついて口を挟んだ。
「おまえたちは相変わらずだな。喧嘩をしてないで、早いところ趙子龍を助けてやれ」
「そうできるものなら、そうしています」
※
そこへ、ぴんぽんと呼び鈴が鳴らされる。
どうやら、塔の管理人で、水晶製ゴーレムのイーさんらしい。
脳髄の代わりに、大きな回転式金剛石をもつゴーレムは、透明のからだの中から美しい光をきらきら反射させつつ、応対に出てきた孔明に言うのであった。
「当山孔真君、オ宅ニ、ペットヲ持チ込ンデマスネ?」
「ペットではない。子龍だ」
「規約違反デハナイカト、他ノあとら・はしーすサマカラ抗議ガ入ッテオリマス」
「ただの獣ではない、獣化の呪詛を受けた子龍だぞ。躾けはきちんとするし、毛だって撒き散らさない。くるくるローラーを十本も『供給所』からもらってきたのだ。ちゃんと掃除はするぞ。それに、事情が事情なのだ。多目に見てくれてもよいではないか」
「ソウハイキマセン。虎ガイルナラバ、ゼヒ退治シタイトイウ方ガオリマシテ」
「誰だ、加藤清正か、武松か?」
「イイエ、一休サンデス」
「屏風でも縛っておれと伝えよ!」
「当山孔真君、キツイッス」
「なんだか、おまえは、だんだん人間らしくなってきたな…」
そんなやりとりをしている中で、姜維が叫んだ。
「丞相、趙将軍が」
「どうした?」
見れば、白虎の体が、半透明になり、内側から光を発して、それが点滅しているのである。
「呪詛が解けかかっているのだ。いまの言葉に反応したにちがいない。どれだ?」
「ええと、『一休さん』?」
とたん、白虎の体中からまばゆい光が放たれ、ほどなく、趙雲が元の姿であらわれたのだった。
※
「召喚された直後に、いきなり呪いをかけられたので、下手人がわからぬというのか。ぶざまな話だな」
ワインで酔っ払い、毒舌になっている馬超が鼻を鳴らすのを、趙雲は忍耐づよく黙って耐えている。
「とりあえず無事で良かったよ。ほら、馬将軍が、めずらしく気の利いたものを持ってきてくれた。霊力が足りぬであろう。食べるがいい」
孔明は、憮然としている趙雲の前に、馬超が『供給所』から持ってきた、フライドチキンや老酒を差し出す。
怒りを抑えて、こめかみをぴくぴく痙攣させていた趙雲だったが、フライドチキンの得も言われぬにおいに負けたのか、力を抜いて、それを受け取った。
うまそうにチキンを頬張る趙雲を横目に、姜維が口を開いた。
「解呪用のスペルが『一休さん』だった、ということは、呪詛の使い手は日本のアトラ・ハシースであったということでしょうか」
「そうかもしれぬが、渡航禁止命令が出るほど切迫した状況にあるなかで、事なかれ主義の多い日本のアトラ・ハシースが関わっている、というのは、かんがえづらいな」
「趙将軍、ほんとうに覚えておられないのですか」
「いきなり呪詛を掛けられて…そうだな、すぐに捕獲されそうになった。傷つけてはならぬとか言っていたな。白虎に変わった俺の毛皮を取るために狩ろうとしていたのではないようだったが」
そこで趙雲は言葉を切り、不思議そうに首を傾げる。
「どうもわからぬのは、召喚されたとたん、あちこちからやけに獣くさい臭いがしたことだな。天気がひどく悪くて、『早くしなければ』などとつぶやいている声が聞こえた。俺は捕縛の手から逃げ切って、女神に救出されたのだ」
「女神はなんと?」
「ある意味、名誉かもしれないが、不本意でしょうから還してあげます、と」
「名誉? ますますわからぬな」
よい推理も浮かばずに、首をひねる孔明と趙雲、そして姜維。
かれらを尻目に、馬超はすっかりくつろいで、持ってきたワイン一本、そのままぜんぶ飲み干してしまった。
ほろ酔い気分で、
「美形ぞろいとはいっても男ばかりではつまらん。これであとは美女がいれば完ぺきなのに」
などとうそぶいていると、自身の神々からの召喚を示す光が、目の前でちかちか光りはじめた。
「おお、呼ばれておる。人気者はつらいものだ。それではわたしは行く。さらば、暇人諸君」
その声に、姜維がなにか言い返してきたが、召喚魔法に取り込まれたために、聞き取れなかった。
※
ふたたび目を開くと、そこはもう『下宿先』ではなかった。
召喚先の世界に降り立ったとたん、いきなり激しい雨に身を打たれ、馬超は驚いて周囲を見回した。
ひどいありさまだった。
どこかの大河のほとりに立っている。
だが、その大河は大雨によって氾濫を起こし、両岸の土地を崩して川幅を広げているところだった。
空からは、筋がはっきりわかるほどの大粒の雨が降っている。
まさに龍と化した巨大な川の流れは、行く手にある町を、森を、山を飲み込んで、濁流となって、荒れ狂っていた。
だれしも本能的に、恐怖心を抱かずにはおられない、すさまじい災害の光景であった。
濁流のほとりには、逃げまどう人や家畜の姿が見えるのだが、脆く濁流に呑まれる土と運命をともにしていき、風雨に紛れてその悲鳴は聞こえない。
「これは、一体、何が起こっているのか」
馬超が思わずつぶやくと、背後より、子供の声がした。
「洪水だよ」
「見れば判るが」
振り返れば、なんの装飾もない、ねずみいろの粗末な服を纏った、彫の深い顔立ちのスラブ系とわかる肌の子供が、馬超を見ていた。
まさか、と思いつつ、馬超は尋ねてみる。
「おまえが召還者か?」
「うん。おめでとう、666人目のアストラルさん、あなたは舟に乗ることを許されました」
「フネ?」
見れば、子供の後ろにある木々の背後に、大きな黒い壁が立ちふさがっている。
そして、そこからはたくさんの種類の獣の声が聞こえてきた。
馬超はふと、趙雲の話を思い出した。
召喚されていすぐに、やけに獣のにおいがした、と。
まさか。
思わず後ずさるが、子供は微笑みを絶やさず、その大きな黒い瞳を、まっすぐに馬超に向けてくる。
その澄明さは、どことなく、丞相の目に似ている。
そんなことを考えながら、熊にそうするように、目を合わせたまま後退していくと、子供はまた口を開いた。
「この世界はね、汎世界の中でもかなり端の、時代の流れが遅くなってしまっているところなんだよ」
「『基本世界』から遅れて百年くらいか? そういえば、丞相らも、そんな世界に召喚されたことがある、と聞いたが」
「百年どころじゃないよ。いま、君の見ている川の名はチグリスとユーフラテスの源流に当たる川だよ。ほんとうに小さな川だったんだけれど、洪水でこのありさまさ」
こまっしゃくれた口を利く子供だな、と思いつつ、馬超は尋ねた。
「それがどうした」
「うん、それでね、このままじゃ大地が洪水にのまれて、地上の生き物が全部絶えてしまう。だから、いろんな動物をつがいで箱舟に乗せて、洪水が治まるのを待って、水が引いたら、繁殖させようっていう計画なんだ」
「はこ…ぶね?」
馬超は、黒い壁をちらりと見て、それから、子供にふたたび顔を戻した。
「箱舟というと、ノアの箱舟か」
「ウトナピシュテムが本名なんだけれどね。まあいいや。で、お願いがあるんだよ。洪水の中を素敵にクルージングしてみませんか。舟の中はまさに動物王国。野生派のあなたを満足させることまちがいなし。ちなみに、あの舟、野球場級の大きさなんで、中はすし詰め、ということはありません」
「動物王国か」
きらり、と馬超の目が光った。
馬超は人間より動物に夢を抱いているタイプである。
動物好きな気持ちが、動物にも伝わるらしく、どんな種類からもやたらと懐かれるのが自慢だ。
「おもしろい」
「本当? じゃあ、乗ってくれるんだね」
「つまり飼育係として乗り込めということだろう。しかし、あの伝説によれば、箱舟には、神の定めた人間しか乗れないのではなかったか。俺はアストラルだからよいのか」
馬超が言うと、子供は、んー、と、黒い巻き毛をぽりぽりと掻きむしりながら答えた。
「それはそうなんだけれどねー、問題があって。『基本世界』の箱舟の家族は、ウトナピシュテム……つまりぼくにに協力して、ちゃんと動物集めてきたんだけど、この世界の家族、非協力的でさ、動物、半分も集められなかったんだよね。
このままじゃ、この世界だけ、生態系がおかしくなっちゃうんだよ。いやあ、自分の家族ながら、呆れるわけだけれど」
「ぼく? おまえ、ノアの息子ではないのか?」
「つーか本人」
「は?」
馬超は、言われたことばの意味が理解できず、呆然とする。
それもそのはず、ノア、つまりはウトナピシュテムとは、ありとあらゆるアトラ・ハシースのなかでも、人類最初の『アトラ・ハシース』として認知された者、アトラ・ハシースの始めなのである。
そして、気づいた。
趙雲の召喚された世界は、『最高府』によって渡航禁止命令が出された。
ところが、どうやらここは、その渡航禁止されているはずの世界である。
『最高府』の禁止を解除できるものは、『最高府』以外にない。
つまり、『最高府』の中心メンバーが、目の前にいる、この子供…いや、子供の姿をとった、ウトナピシュテムなわけである。
「待て、なぜわたしを召喚した」
「データベースで、動物好きを選んでピックアップしたんだよね。君の同僚だった、趙子龍? あれは馬好きで検索したら出てきたんで、舟に乗せようとしたんだけど、ちょっとやり方が強引だったせいか、状況を説明するまえに逃げちゃってさ。女神も、無理強いはいけません、とかいうし。
アトラ・ハシースの諸葛亮も召喚しようか考えたんだけど、あいつ、力が強すぎるから、箱舟ジャックして、好き勝手なことをしそうだしさ。で、君は新たに呼び寄せたアストラルなわけ」
その説明に、馬超はむかっとして尋ねた。
「わたしは、あの無愛想で、どこにあるのかわからぬような常山真定の趙家とやらの出の男や、なんとも得たいの知れぬ琅邪出身の半人半妖の代わり、というわけか」
「ああ、データベース、生前の功績とか、生まれは全然関係なくて、アストラルになってから、どれだけの仕事をこなしたかのキャリア順になってるんだよね。君、趙子龍より、ぜんぜんランク下。すこし頑張ったほうがいいよ」
「大きなお世話だ! むかしは俺のほうが上で……」
「ま、この世界で頑張ってくれたら、ランクも上がるよ。それじゃあ、さっそく行こうか」
「ど、どこへ」
『最高府』メンバーに逆らうのはまずい。
長い物に巻かれるのは好きではないが、渋々と付いていこうとすると、ウトナピシュテムは言った。
「そうだ、君、そのままじゃ駄目だね。『生命の始めなるウトナピシュテムの名に於いて我命ず、汝の父母より受け取りし身体、変化せよ!』」
「なに?」
「ええと、足りないのはなんだっけ、ああ、そうそう、兎になれ!」
「おい!」
ウトナピシュテムがぱっと手をかざすと、馬超は閃光に包まれた。
ほどなくその身は、茶色の毛皮の可愛い兎になっていた。
「なんだ、これは! 抗議する! 断然抗議をするぞ!」
言いながら、雨で濡れた地面を、短くなった茶色の足で、だん、だん、と叩くと、ウトナピシュテムは、容赦なく手を伸ばして、その両耳を掴んだ。
「痛い痛い! どうぶつ虐待反対! そういう兎のからだの持ち方はダメなのだぞ!」
「暴れちゃだめだよ、うさぎは可愛く大人しくしてなくっちゃ、イメージ壊れちゃうでしょ?」
「なぜ兎!」
「最初はさ、呼び出すアストラルの本質に近い動物に変えてたんだよね。そのほうがわかりやすいかな、と思って。ところがさ、アストラルって、やっぱり元英雄じゃない? 虎だのライオンだの、猛獣系ばっかり充実しちゃってさ、草食動物が足りなくなっちゃって。いやぁ、よかった」
「よくない! わたしを元に戻せ! 解除の呪文は『一休さん』か?」
「ああ、それね、適当にアニメのタイトルを選んだだけ。ジャパニメーション、最高。やっぱり諸葛亮は見破ったか。あいつの幸運スキル、馬鹿みたいに高いからなー」
「一休さん! 一休さん!」
まるで一休さんに助けを求めているような馬超。
しかし変化はなにもない。
ウトナピシュテムは、そんな馬超を宥めるように、言う。
「まあまあ。舟には可愛い兎の女の子が待っているから」
空中で、足をバタバタさせていた馬超であるが、それを聞いて、ぴたりと足を止めた。
「女がいるのか?」
「いるよ」
「その女もアストラルか?」
「違うよ。ヨーロッパから連れてきた穴ウサギの女の子」
「野生か!」
「一応パリジェンヌだよ」
「アホか! パリなんぞ、大洪水の時代に影も形もなかろうが! というか、おまえ、これ、箱舟だな? でもって、洪水が引いたら、繁殖させるとか言わなかったか?」
「言ったねぇ」
「兎相手にわたしに何をしろと! やっぱり離せ!」
耳を押さえられながらも、馬超がジタバタと暴れると、ウトナピシュテムは言った。
「あのさ、僕、見た目は子供だけれど、これでも『最高府』の人間なんだよね」
「知っておるわ! この性悪アトラ・ハシース!」
「冷蔵庫行く?」
馬超は、ぴたりと抵抗を止めた。
『最高府』の冷蔵庫行き。
冷蔵庫とは暗喩にすぎない。
つまりは煉獄行き、ということである。
「そうそう、最初から大人しくしてくれれば、なーんにも問題ないんだよ」
悪魔じみた笑みを見せつつ、ウトナピシュテムは言う。
そして、ぶらーんとその手にぶら下がるウサギの馬超を片手に、巨大な箱舟に乗り込んだ。
※
馬超はほどなく『下宿先』に帰還したが、しばらく家に引きこもり、だれとも会おうとしなかったという……
おわり
(2005 初稿)
(2021/11/28 推敲1)
(2022/01/07 推敲2)
※ あとがき ※
〇 文章がおかしいのは他と一緒だけれど、最初のうさ・ルートの作品よりは、説明が少なく済むぶん、こんがらがっていなかった。
〇 姜維の性格が偉度に似てしまっているので、これは以降の作品で訂正したいところ。
〇 だんだん自分で書いていて楽しくなっていったのがわかる作品だった。うさぎ、最高!