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貴人たちの情景



背中から腰にかけての筋肉が、ひどく痛む。
片手で背中の痛みをなだめるように撫ぜながら、趙雲は冷蔵庫を開いた。

いまは、西暦2003年。
あれほど人々を怯えさせた『恐怖の大王』は降ってこなかったが、しかし代わりに凄惨なテロ事件が世界に蔓延している。
しかし、まだ世界はほんとうの閉そく感、ほんとうの恐怖を知らない。
映画の世界でしかAIは目立った存在ではなく、専制国家の存在感も増していない。
もちろん、恐ろしいウィルスが蔓延することも予見できていない世界。
希望の光がまだあると単純に信じられていた、ほんのすこしの過去のおはなし。

ここに、『下宿先』という世界がある。
英霊たちが集められた、死後の世界のひとつである。
そこには、われらがおなじみの英霊たちも集って、いまはそれなりに、みなで平和な世界を謳歌している……ということはなく。
かれらは神々に召喚されては、あまたある世界のいずれかにおもむき、もめ事を解決する、という日常をくりかえしていた。

趙雲は死後、英霊のなかでも、より選ばれた魂として、アストラルに進化した。
この『下宿先』の世界には二種の人間が存在する。
アストラルと、アトラ・ハシースである。
アストラルおよび、アストラルを使役する『最高の賢者』を意味するアトラ・ハシースは、『基本世界』と呼ばれる、われわれの世界で過去に大活躍をした英雄たちが、死後、『進化』したものである。
かれらは、神々とともに、『基本世界』を中心としてひろがる汎世界に派遣されて、そこにある、さまざまな危機と戦う。

アストラルは、召喚先においては、肉体から解放された霊体として姿をとる。
解放、といっても、すべてがなくなるわけではない。
生前と同様に五感は存在するが、生理現象に左右されなくなる。
霊力さえ十分に、そして適切に供給されれば、食事は必要ないし、排泄も不要である。

そのかれらを使役する立場であり、同時にかれらに霊力を供給することになるアトラ・ハシースは、アストラルとちがって、受肉して『基本世界』および汎世界に降臨する。
受肉しているため、身体的攻撃に弱い。
アストラルはそんなかれらを補助する役目を担う。

アストラル、アトラ・ハシースとも、神々の使命を受けていないときは、『下宿先』と呼ばれる世界にて英気をやしなっていた。
『下宿先』は、『基本世界』のコピーの世界である。
エリュシオン、ヴァルハラ、須弥山と表現したほうがわかりよいかもしれない。
先人がイメージした、『特別な人間だけが行くことの許される楽園』である。

アストラルおよびアトラ・ハシースは、神々の任務を終えたのち、『下宿先』に戻る。
戻ったあとはそれぞれ、われわれ人間と変わらない状態、つまり、生理現象のある状態に完全に戻るようになっている。

アストラルの肉体組成が、どういう仕組みになっているのかは、趙雲にもよくわからない。
ただ便利にできていることはたしかだ。
アストラルは、召喚先では、五感を意志の支配下に置くことが可能である。
そのため、どんな苦痛を受けようと、それこそ忍耐力の尽きる限り、解決できてしまう。
ところが、『下宿先』に戻ってくると、その反動で、肉体にひずみが発生することが多々ある。
そこが難点であったが。

『下宿先』における趙雲の、いまの背中の痛みは、まさに肉体のひずみなのである。
前回の召喚はきつかったなと、趙雲は息をつく。
痛みを紛らせるため、そして、はやく肉体を回復させるためにも、霊力を補給しなければならない。

アストラルとアトラ・ハシースは、霊力と呼ばれる、自然界にあふれるエネルギーで活動している。
アストラルは、生前と同じように、食事をすることで霊力を補給することができた。
といっても、ただの食糧ではなく、あらかじめ、霊力の補填された食糧での食事である。
霊力の補填された食材は、英霊たちが多く住まう中央都市の『供給所』で配給されている。

冷蔵庫に買い置きがあったはずだ。
趙雲は、はやく食事をしようと冷蔵庫を探ってみる。
だが、ざんねんなことに、中には醤油やオイスターソースなどの調味料しか入っていなかった。
調味料にも霊力が補填されているが、これをすすって場をしのぐ、というのは、なかなか問題がある。
第一、しょっぱい。

趙雲は、召還者たるアトラ・ハシースと、揉め事を起こさないアストラルとして有名だった。
そのため、さまざまなアトラ・ハシースに召喚されることが多い。
人気者なのだ。
なにせ、命じられたことはおまけが返ってくるほど完ぺきにこなす。
そればかりではない、これは危険だというときは、きちんと申し出る。
そのわかりやすさと的確さにおいて、得難い人材ということで、人気があるのだ。

いま、こうして筋肉痛に苦しんでいるあいだでも、もしかしたらアトラ・ハシースからの召喚がくるかもしれない。
ひっきりなしの召喚の依頼にこたえるため、趙雲も『下宿先』の自宅の冷蔵庫に、保存の利かない食材は置かないようにしていた。
そのため、肝心な時に調味料しかない、という事態に陥ったというわけだ。

「仕方ない、貰いにいくか」
趙雲は外出する支度をする。
霊力が補填されている食材が供給される供給所は、『最高府』によって厳しく管理されている。
『最高府』は、アトラ・ハシースとアストラルをも管理している、なぞの上部組織である。
その本部はどこにあるのか、どんな人員構成になっているのか、まったく不明の『最高府』。
その『最高府』の供給してくれる食材や衣服は、すべて無料である。
だから、買い出しにいくのではなく、『貰いにいく』。
『最高府』の供給してくれる食料には、霊力がふんだんに封じ込められているうえ、新鮮でうまい。
アストラルの肉体回復の役に立つ。




趙雲の家は、中央都市からすこし離れた海辺の小さな洋式の一軒家である。
インテリアにしても、かれが中国人であることを示すものがひとつもない。
あえて洋式にしている理由は、自国の建築様式だと、過去を思い出しすぎてしまい、なかなか孤独を楽しむことができないことがひとつ。

もうひとつは、なんだかんだと合理的で楽だからである。
『基本世界』においても、各国で洋式の生活様式がひろい範囲で市民権を得ているのは、結局、楽だという一点に尽きるのではと、趙雲は考えている。
おなじ理由から、身に纏うものも、ほとんど洋服である。
寝巻きもパジャマにしている。
やはりこれも、動き回るのに楽だからである。
行儀のよい英霊たちが集う『下宿先』において、犯罪に巻き込まれることは皆無といっていいので、生前とちがって、武装する必要もない。
おかげで、いつでも気楽な格好で外に出られる。

ちなみに、まれに犯罪をおかすアストラル、あるいはアトラ・ハシースがいる。
そうした者は、理由の如何を問わず、即『堕天』するものと決まっている。

『堕天』する。
すなわち善と対照的にある悪と闇の世界にひっぱられてしまうことを指す。
つまり、輝かしい英霊という立場から一転、醜い日陰者である悪魔になってしまうのだ。
趙雲が知る限り、周囲の英霊のなかで、犯罪という愚行に走った者は、1800年のなかでも、数えるほどしかなかった。
したがって、空き巣の心配も無いので、家に鍵をかけることはない。

サンダルをつっかけて、表に出ようとして、ふと思い出す。
そうだ、ついでに花も貰ってこよう。
振り返ると、殺風景な部屋には、召喚される前に隣人に貰った薔薇が、すっかり枯れきって、花瓶の中で、しょんぼりうなだれていた。
殺風景にしているのは、趣味や意志あってのことではない。
前述したとおり、趙雲は人気者なので、『下宿先』にいるより、神々やアトラ・ハシースに召喚されていることが多いのだ。
そのため、部屋のインテリアを整えている時間がすくないのである。
目立つのは、たくさんの本、本、本。
召喚先で困らないよう、世界中のありとあらゆるジャンルの本を読み漁って知識を手に入れているのである。

その本に埋もれるようにしてある花瓶と、枯れた薔薇の花。
それを見ると、さすがに趙雲も良心がとがめた。
せっかく美しい姿を見せてくれていたのに、愛でる時間が少なすぎた。
花を活けることを好むアストラルは多い。
ほとんどのアストラルは、そのあてがわれた居住区において、一戸建てを建て、庭の世話を丹精にしている。
ガーデニング人口は、アストラル全体の8割をゆうに突破するだろう。




趙雲は、自宅を出て『供給所』へ向った。
草原を越えて、ゆっくり丘を登り、アスファルトの敷かれていない白い道をしばらく行く。
やがて、サンダルが踏む道が、石畳のそれに代わる。
周りの風景にも、ぽつぽつと家々が見えてくるようになる。
アストラルの住宅地に入ったのである。
たいがいの住人が、召喚中で留守か、ゆっくり休んでいる。
『基本世界』とくらべて、圧倒的に人口が少ないため、空気はいつも澄み、町はいつも静かであった。
気を抜くと、足音が響いてしまう。
それが気が引けるほどの静けさだ。

アストラルになった者というのは、百人中百人が傑出した人物ばかりである。
だが、人類に貢献したことと、性格の几帳面さはあまり関係がない。
住宅のたたずまいも百人百様である。
趙雲の家のように洋風の一軒家もあれば、コロニアル屋根のある贅沢な屋敷もあるし、なぜこんな家にしているのかと首をかしげたくなるようなあばら家もある。

ありとあらゆる形式の建物が、一同に介している不思議な町を、趙雲はゆっくりと歩いていく。
見ているだけで楽しい町だ。
たまに道で見知った顔に行き会う。
狭い町だし、なにより、1800年もおなじところに住んでいるため、ほとんどの場合、たがいに名前も顔も、生前の功績も知っている。
知らない者と顔を合わせた場合は、気さくに名乗りあう。
その名前を聞いて、ああ、こいつはこんな風貌をしていたのかと驚くこともあれば、逆に、向こうに驚かれることもあった。

食糧を貰いに行くついでに、塔によっていくか、と趙雲は思った。
塔、とは『中央都市』の中心部にそびえる、『バベルの塔』のことである。
アトラ・ハシースとアストラルの居住区は厳密に分けられている。
選ばれし者のなかでも、さらに稀少なアトラ・ハシースの全員は、『中央都市』の中心にそびえる、頂上知らずの『バベルの塔』に住まうのが『最高府』の定めた規則である。

塔に住まうアトラ・ハシースは、各個人ごとに、一階層をまるごと住居として与えられている。
『バベルの塔』は『最高府』によって掛けられた魔法によって、つねに上層部の建て増し工事が行われている奇妙な塔でもあった。
そもそも、外観からして奇妙で、常に一定の形を定めていなかった。
塔は、ときに時計塔となったり、明日の天気を電光掲示板にて伝える鉄筋のシンボルタワーに変化したり、あるいはネオン輝く広告塔の勤めを果たしたり、有名絵画のとおりの古風なイメージ通りの塔になったりと、日々変わるのだ。
ゴシック建築ふうになったこともあれば、巨大なカリフラワーが伸びたような形になったこともあるし、アントニオ・ガウディのサグラダ・ファミリアのような、奇怪な(しかしいちばんふさわしい姿にも思えたのだが)姿になったこともある。

趙雲は、夜更けの窓越しに、きらきらと、月光を受けるビーズのように輝く塔の姿を見たことがある。
しかし、翌朝、ふたたび窓越しに眺めてみれば、塔は、砂漠にそびえ立つ、優美で峻厳たる石造りのミナレットに変貌していた。
頂上付近には、ぼんやりと、七色の光を帯びた霞がかかっている。
そのため、天頂はいつでも、よく見えない。
アトラ・ハシースの数は日々増えるので、そのぶん、塔は変幻し、さらに高さを増していく。
アトラ・ハシースの人数=階数とすると、高さと合わないところが不思議なのであるが、バベルの塔の外部も内部も空間が捻れている、という。
そのために、見た目の高さと、実際の階数が合わないようである。

「内部に魔法がかかっている気配はないのだが」
と、アトラ・ハシースたる、諸葛孔明は言っていた。
『なぜ』と『どうして』を追求していくと、頭がおかしくなりそうになるので、程よいところで思考を止めなければ、『バベルの塔』には住めないのだと言う。

アトラ・ハシースが何階に住んでいるのかは、非常にデリケートな問題だ。
というのも、階層によってアトラ・ハシースの霊格の高さがわかるからだ。
上層部に住んでいれば住んでいるほど、霊格が高いとされる。
過去には、階層をめぐるステータス争いで、『堕天』を呼び起したことがあったらしい。
そのため、最近は、アトラ・ハシース同士であっても、自分が何階層目に住んでいるかは教えないのが、暗黙のルールになりつつあるようだった。

孔明のひそかな自慢は、自分がかなり高い階層に住んでいる、ということだった。
「わたしの家から、あなたの家の屋根が、小指の爪くらいの大きさでみえるよ」
というのが、孔明のはなしである。

『バベルの塔』を中心に、アストラル居住区が放射線状に広がっている。
アトラ・ハシースより、アストラルのほうが人口は多いので、居住区はどんどん外に向かって広がっていっている。
孤独を好むタイプのアストラルは、『中央都市』以外の郊外にも多く住んでいる。
『下宿先』は、基本世界、つまり、アストラルが生前住んでいた世界のコピーであるから、大地は果てしなく広い。
山中に住もうが、森の中に住もうが、砂漠に住もうが、岩窟に居を構えようが、サバンナに住もうが、アストラルの自由である。

その点、『バベルの塔』以外に住むことを許されないアトラ・ハシースは、アストラルたちをうらやんでいる。
自分たちは、まるで『最高府』の虜囚のようだ、と冗談混じりに言うこともあるほどだ。

なぜアトラ・ハシースに居住の自由がゆるされていないのか?
それは、アトラ・ハシースの霊力が、ずばぬけて高すぎるため、ある程度は自由を制限しなければならないから、というのが、『最高府』の公式のアナウンスである。




『バベルの塔』の入り口には、『最高府』が作ったゴーレムの門衛がいる。
これは、正確な高さすらはっきりわからない塔を行き来する瞬間移動式エレベーターのエレベーター係を兼ねている。
このゴーレム、全住人の顔をおぼえているので、アトラ・ハシースが階数を告げるまでもなく、エレベーターのボタンを押してくれる。
エレベーターもすぐれもので、内部に入ったとたんに、目の前が目当てのアトラ・ハシースの家の玄関、という瞬間移動式である。

趙雲がバベルの門の前に立つと、ゆっくりとした動きで、ゴーレムが、見張り小屋から、のっそりと姿をあらわした。
ゴーレムは土からできた怪物だと、ユダヤの神話にある。
しかし『最高府』のつくったゴーレムは、水晶でつくりあげられた特別製だ。
透き通った体。
頭部には、双眸の変わりに、七色に輝く大きな球状の小さな金剛石が填められている。
水晶でできた体と頭部の特殊な魔法のかかった金剛石のちからで、かれは見たものすべてを記憶している。
このゴーレム、自治会の役員に決まったアトラ・ハシースたちと同じく、軍服とも修道服ともつかぬ、色味の少ないゆったりとした服で肌を隠している。

塔のアトラ・ハシースたちは『最高府』の管理に対抗するように、自分たちで自治会を運営している。
その役員になると、基本的に制服をまとうことと定められている。
着こなしはそれぞれであるが、基本は膝丈のチュニックにズボン、それから頭髪を隠す帽子である。
色は白と黒。
洒落っ気のない者は、支給されたそれを、そのまま工夫もせずに着ているが、こだわるものは、さまざまな改造を加えてしまう。
なかには、ほとんど原型を留めないまでになっている者もいる。
お咎めはない。
制服は、あくまで役員以外のアトラ・ハシースとの見分けをつけるためであるから。

十尺は優にある巨体のゴーレムは、趙雲がやってくると、脳の金剛石をくるくると回転させながら近づいてきた。
『ドチラサマ』
「ああそうか、来訪を事前に言っておくのを忘れていた。アストラルの趙子龍だが」
『アア、当山孔真君ノ、オトモダチ』
ゴーレムの記憶力は今日も抜群だ。
趙雲の名と顔を照合したことで、またもくるくると脳の内部が回った。
『昨日モ、オトモダチガ、キマシタヨ』
めずらしいな、と思いつつ、趙雲は、孔明の部屋に内線をかけようとしているゴーレムの背中に聞いた。
「誰が来ていた?」
『個人情報デスノデ、オ教エデキマセン。アシカラズ』
そうだったな、とひとりごちつつ、趙雲は、孔明に来訪者を教えているゴーレムをゆっくり待っていた。
だれか来ているというのであれば、手土産に、なにか持ってくるべきだったかな、と考えながら。

『バベルの塔』に、アトラ・ハシース以外の訪問者が入るのはむずかしい。
事前に、アトラ・ハシースに、立ち入り許可をもらわないと、ゴーレムによって門前払いである。
このゴーレムは、それなりに感情もそなえているので、杓子定規に追い返すことはせず、とりあえずは、訪問先に、案内してよいかどうかを内線で聞いてくれる。
もし、だめ、といわれたら、そのまま引き下がって帰るしかない。
趙雲は、これほどアトラ・ハシースとアストラルの住み分けがはっきり為されているのは、『バベルの塔』の構成素材自体が、アトラ・ハシースの霊力の補給を補助するものだからなのではないか、と推理していた。

食事などの方法で霊力を供給しないとたちゆかないアストラルとは対照的に、アトラ・ハシースは、受肉をしていようと、食事でのエネルギー供給をする必要が無い。
自力で補給する自然界からの霊力によって、身体を保つことが可能だ。
塔は、地上にさまざまにある霊力を引き寄せ、アトラ・ハシースにまんべんなく霊力を与えるためにあるのではないだろうか。

だれが最初にはじめたかは知らないが、このアトラ・ハシースとアストラルのシステムは、まず、はじめにアトラ・ハシースありきだったのだろう。
オプション的存在がアストラルであったり、いま目の前にいるゴーレムであったりするのかもしれない。
『最高府』なら答えを知っているかもしれないが、徹底して秘密主義のかれらが、それに応えてくれるとは思えなかった。

『ゼヒ上ガッテクダサイ、トノコトデス。ゴ案内イタシマス』
ゴーレムは、どしん、どしんと足音を響かせて、バベルの塔の中央にあるエントランスへ趙雲を導いた。
エントランスは、十尺あるゴーレムが入ってもなお、天井に余裕がある巨大なホールとなっていた。
ところどころで、アトラ・ハシースたちが、置かれたソファに座って、それぞれ、読書をしたり、歓談をしたりしている。
趙雲は、ここにくるといつも、全身の毛穴が開くような、つよい緊張を覚える。
おそらく、アトラ・ハシースの発する霊力が、内部に満ち満ちているのが感じ取れるからだろう。
一人一人が、すさまじい力を持っているのだ。

エレベーターの前に立ったゴーレムが、異常な速さでタッチパネルを操作した。
おそらく部屋番号を入力する際は、他者にその番号が漏れないように、ハチドリのように敏捷になるように改良されたのにちがいない。
『ソレデハ、マタ、オ帰リノサイニハ、声ヲカケテクダサイ』
わかった、と趙雲が答える途中で、もうすでに、目の前の景色は変わっていた。
またたきもしないうちに、孔明の部屋のなかである。




「よいところへ」
趙雲がやってくるなり、孔明は寄ってきた。
孔明は、自治会役員の制服を、もっとも改造している一人である。
黒のチュニックの裾は、ドレスのようにゆるくドレープをきかせて、くるぶしまで伸ばしている。歩くたびにカツコツと靴音が高らかにするのは、足にチュニックやズボンとおなじく黒い革のブーツを履いているからだ。
さらに二枚重ねにして、風になびけば羽根のようにも見える、白いストールを肩章の金色の金具で留めて巻いている。
『生前』の姿を知っている者が見ると、あまりの変わりのように唖然とする。
しかし、見慣れてくると、これが孔明だなと、ほかに無いように思えてくるのが不思議な姿であった。

孔明の髪は、直毛ではなく、すこし癖がある。
ゆるくウェーブがかったぬばたまの髪を、肩先まで垂らしている。
遠目から見れば、ドレスのように見える服装とあいまって、アトラ・ハシースとなった孔明は、ますます男女の境目がぼやけた存在になっていた。

地味に見えて派手な孔明の姿と、あまりに軽装すぎる己のすがた…そのとき、趙雲は適当にひっかけてきたシャツとズボン、髪は下ろしている、という地味な姿であった…が不釣合いなのに気付き、もうすこし着てくるものに気を遣ってこればよかったかな、と趙雲は思った。
が、これはいつものこと。
その場になると、いつも、しまった、と思うのに、実際に着替える段になると、忘れてしまうのである。

長い睫毛をしきりに瞬かせ、孔明は、奥のほうを見るようにと合図する。
見れば、壁も仕切りもない、ひたすらだだっぴろいリビングに、中央につくねんとソファがある。
そこに、人影がひとつ、こちらに背を向けて座っている。
人影のまうしろは、一面ガラス張りになっていて、中央都市を一望できる大パノラマ。
だが、男は、じっと祈るように手を組んで、うつむいている。
男の関心は、壮観な眺めではなく、己の内側にあるらしい。

「だれだ?」
趙雲が尋ねると、孔明は、うんざりしたように、髪をかきあげつつ、答えた。
「馬超だよ。前の召喚で、嫌なことがあったらしい」
そういう孔明の双眸の下には、黒ずんだクマが出来ていた。
思わず手を伸ばして、その荒れた目下の皮膚に触れると、孔明は、顔をしかめて、わずかに身じろぎをする。
「おまえは、いつ帰ってきた」
趙雲が尋ねると、孔明は、一瞬、ためらいを見せた。
だが、すぐさまいつもの孔明になって、つんと顎を逸らすようにして、答えた。
「任務ではない。アトラ・ハシースの自治会議だ。今年は役員が回ってきたから、出席せねばならなかったのだよ。まあ、ただそこに座っていれば良いだけの会議であったが」
「嘘をつくな、嘘を。霊力を使う会議というのは、どんな会議だ? 霊力の補充も十分でない状態ならば、来客なんぞ断り、眠っていろ」
「アトラ・ハシースには、自然回復能力がある。普通に過ごしているだけで霊力は補給されるから、問題は無い。それに、『馬超サンガ、死ニソウナ顔ヲシテ表ニ立ッテマス』とイーさんが言うからな、放置してはおけぬ。昨日から、ああして愚痴三昧なのだが、止めようがない」
「イーさん?」
「外のゴーレムだよ。いつまでも名なしじゃ可哀相なので、一号、ということで『一(いー)さん』にしようと役員で決定した。ただし、ほかの役員が「1(アインス)さん」のほうが、格好いいといってごねて、決戦投票が何回も行われる羽目になったのだ。
おかげで三日三晩徹夜だ。食事なし。各自おのれを保つのは自然回復能力に頼るしかない。そういうわけで、霊力を消費した。やつれて見えるのは、そのためさ」
「会議というより、我慢比べだな。ともかく、馬超の愚痴は俺が聞いておくから、そのあいだに寝ていろ」
「その台詞、そのままそっくり返すぞ。そちらこそ、いまさっき帰ってきたような顔色ではないか」

まるで自分が触れられたことのお返しのように、孔明は趙雲の頬に手を触れる。
触れるついでに、軽く抓ってきた。
どうやらご機嫌斜めの様子である。

「体が冷たいな。どこか痛むところがあるのではないか」
「召喚先で、野良作業を手伝ったから、腰が痛い」
「野良作業? なんでまた」
「なにかの事故で、その世界にあってはならない植物が繁殖して、生態系を破壊しかけていたのだ。
おそらく、前回にその世界で任務をこなしたアトラ・ハシース、あるいはアストラルの誰かにくっついていた植物の種子だと思う。
ともかく、このままではいけないというので、呼び出せるアストラルは全部呼び出されて、総出で草刈りだ。繁殖力がつよい種類だったから、刈り出すのに苦労した」
趙雲の顔をじっと、わずかに怒りの含んだ表情で見つめていた孔明は、それを聞いて、ふっと力を抜いた。
「そういうことならば、仕方あるまい」
「なにがだ」
「いや…あなたがしばらく留守にしていたのは、なぜだろうと思っていた。そういうことならば、許す」

趙雲は孔明の専属のアストラルというわけではない。
召喚されたら、よほどでない限り、だれのところにでも行く。
それが判っていながらも、孔明は、趙雲がしばらく留守だったので、すねていたようだった。

難しいヤツだな、誰のためだと思っている、と趙雲は胸のうちでつぶやく。
孔明もまた、召喚されることの多いアトラ・ハシースで、年々、霊格が高くなっていく。
霊格とは、召喚先で仕事をこなしていくうちにあがっていく、個々人のステータスのことである。
孔明は勤勉に仕事をこなしているので、霊格がたかくなっており、与えられる任務も難しい物が多くなっている。
となると、孔明に合わせるために、アストラルとして、趙雲も、霊格を上げなければついていけない。
孔明に合わせる。
その目的のために、趙雲はせっせとさまざまなアトラ・ハシースから任務を受けているのだ。

ようやくわずかに笑みを見せた孔明にほっとして、趙雲は馬超の元へと行った。
「おい」
趙雲が声をかけると、馬超は、やつれた顔をあげて、おお、と言った。
「久しいな、趙子龍。あいかわらず貧乏くさい格好だが」

馬超はあいかわらずだ。
いつも上から目線なのである。
こいつが、どうしてアストラルになれたのかな、と思いつつ、趙雲は向かいのソファに腰かけた。

「あんたが、ここに来る、というのは珍しいな。どうした」
「どうしたもこうしたも…丞相はどこへ」
「丞相は」
寝ている、と答えようとしたところへ、その孔明が茶を淹れて持ってきた。
「丞相、その制服、いいな。おそらく、わたしのほうがよく似合う」
「そうかい。あなたがアトラ・ハシースになったら、いつでも譲るが」
「嫌味を言うな、嫌味を。趙子龍は忍耐強い。よくこんなヤツと付き合っていられるな」
「そういうおまえは、なんだってここにきた。わが君のところに行けばよかろうに」
「例の三羽烏は、いつも不在だ。そこで、ほかに話せる者がだれかおらぬかなと思ったのだが、姜維めも留守だし、馬岱もおらんし、ほかのものは居留守を使っているのか、出てこない。
で、ダメでもともとでここにきたら、丞相がいたので、ちょうどよい、と」
孔明は眉をしかめた。
「わたしは選択肢としていちばん最後か。で、まだ愚痴があるのか」
「愚痴ではない。これは真剣な話なのだ。どうしてアストラルには、アトラ・ハシースと神々に従わねばならぬ、という規則があるのだろう? わたしは束縛されるのは嫌なのだ」
「そうは言ってもな」
「霊力の補充が問題なのであれば、良い方法がある。あらかじめ、アストラルには石に籠めた霊力を、渡せるだけ渡しておいて、あとは自由にする、というのはどうだろう。
そのほうが、アストラルも自由に動けるし、アトラ・ハシースも楽ではないか。
それに、危機に際しては、アストラルは常に肉弾戦となり、かなり危険な目に遭わされる。どころか、霊力の補給を絶たれて放置されてしまうこともたびたびだ。
霊力の塊を渡しておけば、こんな問題は起こらないはずだ。なぜにそうしないのか、どこかに訴えたいのであるが、おまえたち、方法はしらぬか」

今更詮の無いことを、とあきれつつ、趙雲は、馬超の訴えを、右から左へ流した。
神々、つまりは、汎世界を管理する神たちであるが、かれらは、世界の危機に直面すると、『下宿先』からアトラ・ハシースを召喚する。
仕事を請けたアトラ・ハシースは、その仕事にもっともふさわしいアストラルを召喚する。
そのさい、神々はアトラ・ハシースに霊力を補給し、アトラ・ハシースはアストラルに霊力を補給する、という状況になる。
アストラルは自分で霊力を補給することができない。
そのため、どうしてもアトラ・ハシースがアストラルよりも立場的に優位になりがちだ。
馬超のように、自由に動けないことに不満をもつアストラルは多い。

馬超は、どうしても誰かに話を聞いて欲しいようだ。
孤高を気取っているが、実際は寂しがりや。
なかなかむずかしいところがあるが、それがかわいいところでもある、らしい。

孔明はといえば、いつしか、趙雲のとなりで、うつらうつらと舟を漕いでいる。
客の前で、こんな姿を滅多に見せないのが孔明である。
やはり相当疲れているのだろう。

孔明が眠そうにしているのを見たら、背中の痛みもあいまって、趙雲も疲れて眠たくなってきた。
この若大将、声が良いので、聞いていると、ほどよい音楽を聴いているようになり、なんだか眠気に誘われるのだ…………………

「と、いうわけだ」
不意に、馬超の声が大きく響いたように感じられた。
いま、俺は眠っていなかったか? 
趙雲は頭を振って、まだ襲ってくる眠気を振り払った。
馬超がなにを話していたのか、頭になにひとつ残っていない。
孔明はというと、目を開けてはいたが、やはり似たようなものらしく、ぼんやりした顔をしていた。

馬超は、しゃべり終わったらしく、一気に、出されたお茶を飲み干した。
咽喉がカラカラな様子からして、かなり長くしゃべっていたようである。
ガラス窓の外のパノラマを見れば、太陽が西へ傾いていた。
馬超が話の途中でつけたのか、部屋のあちこちに配置されているルームランプも点いていた。
何時間経ったのだろう。

馬超がはじめに言っていたことは、趙雲もよくわかる。
アストラルも自由に霊力を補給できるようにすべきだ。
それは、アストラルが何百年も、ずっと訴え続けてきたことだからである。
アストラルを使い捨てのように扱う、心得違いのアトラ・ハシースも稀にいることは確かなのだ。
馬超の演説は、これでもう終りかなと、ほっとした趙雲であるが、お茶を飲み干した馬超は、こういった。
「で、いまのはまだ、わたしの言わんとするところの、半分にも過ぎぬ。これからが本番なのだが」

冗談だろう。
『供給所』の閉店時間は八時なのである。
食糧を確保できなければ、孔明から霊力を分けてもらう、という方法があるが、目の下にクマを作っているようなアトラ・ハシースに、そんな不憫な真似はできない。
事情を説明して、中座するか? 
しかし、そうなると孔明ひとりが残されてしまい、三日徹夜の会議に加えて、二日も馬超の愚痴、ということになる。

なんとかせねばと思案していると、孔明が言った。
「馬将軍、実は、わたしも子龍も、それぞれ、『下宿先』に帰宅したばかりだったのだよ。つまり、霊力が大いに不足した状態なのだ」
馬超は気づかなかった様子で(もともと、場の空気を読むことと、人間観察力においては、疎い男である)そうか、と目を開いた。
「ならば、遠慮なしに、なにかここで食すといい」
「わたしも子龍も、買い置きの習慣がないのでね、なにも食べるものがないのだ。知っているだろうか。こういう場合に、どうするか」
「? ほかのアトラ・ハシースのところに行くか、食糧をもらってこればよかろう」
「もっと手っ取り早い方法があるのだ。とはいえ、これはあまり表に出してはならぬ話なので、ひみつを守っていただきたいのだが」
なんだ? と好奇心と戸惑いの半ばする表情で尋ねてくる馬超に、孔明はそっと近づくと、ぼそぼそと耳打ちをする。

すると、馬超の顔は、赤くなったり蒼くなったりし、しまいには、勢いよく立ち上がった。

「すまぬ。邪魔をした」
「おや、ゆっくりしていけばよいものを。どんなふうか、知りたくはないのか。ここで実践してさしあげてもかまわぬが」
「いやいやいやいや! 結構だ。いいや、本当に、いらぬ。見たくない。ふむ」
と、馬超は、なぜか気味の悪いものを見るような目を趙雲に向け、そして孔明を見た。
「しかし、なぜだか納得している自分がいる」
それを聞くと、孔明はうんうんと頷きつつ、
「人には、それぞれ、いろいろな事情があるものだ」
と流した。
馬超は、最後にまた、唖然としている趙雲をきつく見て、それから逃げるように去って行った。

なぜだかひどく、嫌な予感がする。
趙雲は、やれやれと息をついている孔明に尋ねた。
「おい」
「なんだね」
「俺も、『それ以外の方法』とやらは、知らぬ」
「馬超に嘘はついておらぬぞ。実際に、緊急時はそうするのだそうだ。ま、そこまで切羽詰った状況になったことは、わたしたちにはないが」
「方法って? 馬超になにを教えた」
「知らないなら、あえて聞かぬほうが良い。『供給所』に行くのだろう。早く行かねば閉まってしまうぞ」
「『供給所』には行かぬ。その方法とやらで、解決しようではないか」

孔明は自分の髪の毛束を掴んで、筆のように自分の頬をなぜる、という一人遊びをしていたのだが、ぴたりと手を止め、まじまじと趙雲を見て、言った。

「本気か」
「出来ぬのか」
挑発したつもりであったが、孔明は、それを見破ったらしく、にやりと不敵な笑みを浮かべ、言う。
「わたしは別に構わぬが、子龍、あえて道を踏み外す、その根拠はなんだね」
「道を踏み外す?」
「まあ、気味が悪いと言う者もいるが、おおむねは、これに溺れるという。アトラ・ハシースには、わざとこの方法をとってアストラルに霊力を与える者もいるそうな」
「気味が悪い? 溺れる?」
「ふむ、一度試してみるか」

ずい、と孔明が一歩寄ってきたとき、まさに嫌な予感に弾かれるようにして、趙雲も思わず立ち上がった。
「いや、やめておく! 今日は『供給所』へ行く」
「おや、そうか。つまらぬな」
「おまえは眠れ。俺は食糧を貰いに行く。それでいつもどおりだ。もう一つの方法があるなどと、俺はなにも聞かなかったし、知りたくもない」
「子龍、さっきのは冗談だ。しかし、最悪の場合は、その方法なのだよ。そうならないようにしなければな」
「代名詞ばかりで忠告されても、意味がさっぱりだ」
「嘘をつくな。判っているくせに。馬超にあったら、さっきのは本当だが、わたしたちはその方法を取っていないと、説明してやってくれ。噂になる前に」
「噂? おい、本当になにを教えた! 馬超が帰ったのは、いまさっきだったな? 俺はヤツを追う。ではな」

本当は、覚えていろ、と言いたいところであるが、孔明が、あまりに喜んで、からからと笑っているものだから、趙雲はひと睨みするだけでやめておいた。

そうして馬超を追うべく、孔明の元から飛び出した趙雲であるが、タイミングの悪いことに、直後に馬超は召還されてしまい、後を追うことができなかった。
しばらく趙雲は、最悪の場合の霊力の供給方法とは、まさかあれか、いや、これか、と悶々と考えることとなる。
孔明は、いまもってその方法を、趙雲に教えていない。



おわり

(2005 初稿)
(2021/11/24 推敲1)
(2021/12/25 推敲2)
(2021/12/28 推敲3)

※ あとがき ※

〇 説明文につぐ説明文。設定を懸命に思い出しながら書いた。原本は堅苦しいうえに面白くない説明文だらけだったので、読みやすくするのに苦労した。
面白い、というところは、まだ追求しきれていない気がする…
〇 趙雲や孔明たちの死後の話、ということで、湿っぽくならないのほほんとした話にしようと考えていた当時。
なつかしい。某ノベルゲーの影響も強く受けた作品でもある。2003年前後は、いろんな意味で衝撃的な作品の発表が多かった。楽しかったなあ。
〇 ばかばかしい話とも読めるけれども、当時のわくわくした気持ちを思い出させてくれる話でもあった。
〇 しかし、誤字脱字、文法の誤りなどなど満載。直すのは面白かったけれど、大変でもあった。
〇 孔明のファッションの説明文がひどかったので直したけれど、いまもってあまり変わりはないかもしれない…
〇 ゴーレムのイーさんの外見がうまく伝わっているか、そこも不安がある。もっと表現力をつけたいところ。
〇 これもリクエスト作品のひとつ。だだちゃ豆様からいただいたリクエストから、なんと「うさぎが観察日記」までつづいていくことになった。わからないものである。