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一章 対戦モード その2



化学準備室の扉はぴったり閉じられていた。
管理棟は、もともと特別教室のみで構成されており、移動教室がなければ、まず訪れることはない。
文科系の部活や委員会活動などが活発ではないため、生徒の出入りも極端にすくなく、不気味なくらいひっそりとしたところだ。
しかも、雨咲名望学院は普通科と特別進学科は、建物からして完全に離れている。
ひとクラス25〜30名編成の少人数で一学年4クラスしかない特別進学科が使うためだけに、普通科より広くて新しくて立派な校舎が与えられているのだ。

理音は化学準備室に手をかけた。
とたん、中からするどい声がかかった。
「誰だ。ちゃんとノックをし、学年とクラス、出席番号と名前を名乗りなさい」
「2年B組14番田端理音だ。貴海雪秀はいるか」
果たし合いに決した武士のようなするどい声をかける。
扉をひらくと同時に、窓際の机にむかっていた貴海があの夜と同様、ひどくおどろいたのが見て取れた。
理音は不敵に、にやりと笑った。
勝機あり。

「失礼します」
理音は後ろ手で扉をしめると、つかつかと貴海のところへ行った。
貴海のほうは、こわばった表情でいる。
しかし声だけはおだやかだった。
「田端理音くん。教科担当でもないきみが、わたしに何の用だ?」
「テニス部の大会のことでお話が」
「ああ、例の化学のレポートの提出期限のことか。ついさっき、部長たちが来たが、わたしに期限を変える意向はないことを伝えてある。放課後の部会で、そのことが話し合われるだろう」
「そこを曲げてお願いしたいのですが」
「ダメだ」
きっぱり言うと、貴海はくるりと背を向け、ふたたび机のうえの仕事に向かってしまった。
チラッとのぞくと、プリントの原版を用意しているところであった。
理音はしばらく貴海が振り返るのを待ったが、その気配はない。
理音は愛らしい顔に似合わず、きつく眉をしかめた。

「ちょいと貴海雪秀、わたしはまだ部屋にいるんだけど?」
「田端理音、きみのわたしに対する呼び捨ては本日のところは大目に見よう。しかし次はないぞ。わかったなら行きたまえ」
「……繁華街からラブホテル街に通じるあの路地。地元では極楽通りと言うそうな」
ぴたりと、プリントの上で動いていた手が、ぎこちなく止まった。
しかし貴海は理音のほうを見ない。
「だからなんだね。いつかの夜のことを持ち出して、こんどのことに影響させようという意図なら無駄だ。たとえきみがそのような噂話を生徒たちに流したところで、噂は噂にすぎない。わたしは常日頃の勤務態度に自信がある。噂話程度で信頼が崩れるようなことはない」
「あたらしい携帯電話に、さらに美麗な写真のとれる撮影機能が付きました。シャッターチャンスにも即座に対応」
貴海がようやく理音のほうを振り返った。
理音は手にしたメタリックレッドの携帯電話をひらひらさせている。
「おもしろい写真を撮って、お友達に送っちゃおう」
「おまえ、まさか」
「このアイテムに見覚えは?」
「たしかにあの夜、おまえが手にしていたものだ」
「貴海雪秀、こちらの要求をきいてもらおう」
貴海は大きくため息をついてうなだれた。

あらためて見る貴海は、思っていたよりも、若く見えると理音は思った。
二十七ということだが、大学生くらいに見える。
一部生徒には、事務的にすぎる態度が嫌われているが、一方でべつの一部生徒には、その顔のよさから熱狂的に支持されている。
絵に描いたような自身の端正な容姿に、かれはだいぶ救われているといってよいだろう。
困惑した表情がむしろ好ましく見えるのは、美しすぎるデザインの器物が同じくそうであるように、隙のなさが、つめたい印象を与えるからではないのか。
いまは上着を脱いで脇の机にかけているが、ネクタイの趣味もなかなか洗練されている。
ネクタイピンはあまり有名ではないものの、デザイン性の高いブランドものだ。
このあいだのようなことがなければ、みとれてしまうほどの完璧さ。
そんな完璧な人間が、なんでこんな地方都市の化学教師をやっているのか。
謎である。
理音は思わずつぶやいた。
「なるほど、だからキキカイカイか」
「やめろ、その呼び方は。いや、そっちの空いている椅子に座れ、田端理音。じっくり話を聞く。きみは話のわかるヤツだと信じよう」
呼び方がおまえになったり、きみになったり、相当混乱している証拠だ。

理音は扉からみて、左側にある空いた机の椅子をひっぱってきて、座った。
化学準備室はすっかり貴海の個室と化しているらしい。
事務机のうえの文房具の類は、学校の備品、つまり個性のない一般的なものではなく、なにやら高そうで趣味のよいものばかり。
空いた机の上には畳んだスタンドと小さな引き出し、それから目も覚めるような青い箱が置いてある。
すこし蓋が開いていたので見ると、なにかの部品が入っていた。
「さわるな」
「この部屋、すこし緑があったほうが、いいんじゃないの?」
「大きなお世話だ。植物の世話は苦手なんだ。たいがい枯らせてしまうからな。や、それより腹をすえて話そうじゃないか」
貴海は腕を組み、じっと耐えるように目をうすくつむった。
忍耐のポーズというわけだ。

理音はすうっと息を吸うと、一気に言った。
「正直なところ、こーゆーやり方は好きじゃないことを最初に断っておきます。テニス部の大会が定期的なもので、それとレポートの提出がかち合ったときは、かならずテニス部員はレポートの提出を延長してもらっている。それが当然の権利だと思っているわけじゃない。
ただ、部活もれっきとした学校生活の一貫で、わたしはこれも勉強だと思っている。通常の授業だって、なにかしらの変動があっても、きちんとぶつからないように調整しているでしょう? 今回だって同じことじゃないかと思うんだけど」
「ふむ、筋が通っているようだ」
貴海は意外そうな顔をして目を開いた。
「きみの部活に対するスタンスはよくわかった。しかし、今度の決定は、やはり譲ることはできない。残念だが」
「なんで? あなたがうちの顧問の茂手木先生と仲が悪いからだ、という話も聞こえていますけれど」
「私事と仕事をごっちゃにしたりするものか。よろしい、こっちへ来なさい」

貴海は机の引き出しから、一枚のファイルを取り出した。
開くと、ずらりとテニス部の部員名がならんでいる。
その隣に、日付と、○×の記号、それからB→C、C→D、D→OUTなどの言葉がかかれている。
「これは、いままでのレポートの提出状況? 隣の数字は、それぞれのクラス変動状況?」
貴海は深くうなずいた。
「実は以前から、テニス部に所属する生徒に集中して、成績不良のものが多いことが問題になっていた。これを見ればわかるとおり、レポートの提出期限が延長されても、提出しない生徒が半数以上を占めており、また、同時に半数近くがクラス落ちしている。要するに、たいして成果のあがらない部活にかまけて、成績が落ちる生徒がこれだけいるということだ」
「こりゃ、ひどい」
「そう、ひどい。それで今度から、テニス部に対する優遇措置を、とりやめようということになった。その最初が、今度のレポート提出だったわけだ。顧問から説明はなかったのか?」
理音は首を横に振った。

顧問と貴海の仲がわるい、といった話が脳裏をかすめる。
いつも派手なブランドのスーツを着ている、脂ぎった教師・茂手木。
もしや、貴海への嫌がらせのために、貴海の意図をわざと生徒たちに伝えなかったのか?

理音が考えをめぐらせていると、貴海はちいさくため息をついた。
「きみらの顧問も問題だ」
「そうですね……」
「だが、本質的なところは、テニス部全体に蔓延している、空疎なエリート意識がいちばん問題だ。たしかに、テニス部は特別進学科の運動部のなかでは目立った活躍をしている。しかし、全国レベルで活躍しているとはいいがたい。
特別進学科は難関大学をめざす学生のみが在籍のゆるされるコースだ。部活に専念したければ、普通科か体育科に異動すればいい。この学校は、コース間の移動がきわめて簡易なシステムになっている。意味もなく特別扱いを望むようなばかものはこの学校に必要ない」
その冷淡なことばに、理音は決然と立ち上がった。
「たしかに、わたしたちに思い上がったところがあったかもしれないけど、全員がそうだったわけじゃない。そんな単純に切り捨てないで」
「わたしの仲間をバカにしないで、か? ざんねんだな、きみが特別あつかいを望むばかものと同じだったとは。ならばいい。行きなさい。そろそろ部活がはじまる時間だろう」
理音はどすどすと、軽やかな姿に似合わぬ重たい足音を響かせ、準備室を出ていこうとした。
が、入り口で立ち止まり、振り返った。
そして仲間向けの、きわめて甘いやさしい口調で言った。
「覚悟しといてね、センセ」
その言葉に、貴海は肩をすくめただけだった。




ムカムカしたまま、理音がテニス部の部室に行くと、すでに部会ははじまっていた。
どうやら、理音に言ったのとほぼ同じ内容を、貴海はすでに、先に訪れたという部長たちに伝えていたようである。
部会は完全に混乱をしていた。
女子と男子が両方で、喧々諤々と意見をのべあっているものの、議長自身がすっかり頭に血をのぼらせてヒートアップしてしまっているため、収拾がつかないありさまだった。
中には半泣きしている者までいる。
比較的めぐまれた家庭の出自の多い生徒たちは、甘やかされ放題に甘やかされており、突き放されることに慣れていない。
客観的に見ればたいしたことのない話でも、彼女たち、彼らにとっては、たいそうな事件なのである。

「エリート意識ってなによ。そんなのあるわけないじゃん。超いいがかり。あたしたちが遊んでテニスやってるとでも思ってんの?」
「部活と勉強の両立なんて、そんな簡単にできるわけないじゃんねぇ。あたしたちがどれだけ努力してるか知らないんじゃない?」
「ねえ、理音ちゃん」
理音のすぐとなりに来て、はるかが尋ねた。
「理音ちゃん、貴海先生のところへ行ったんでしょ? どうだった?」
「うん……おなじ」
理音は、おなじテニス部の仲間を救うべく、直談判に行ったのだが、貴海に体よく追い払われてしまった。
空疎なエリート意識だの、特別あつかいを望むばかものだのと指摘され、腹が立って仕方がなかったのだが、実際に、目の前で、動揺している仲間たちを見て、自分の気持ちが冷静になっていくのを感じた。
『どうしてみんな、こんなところで騒いでいるだけなんだろう』
結局、なぜそんなことを言われるのか、直接、貴海に聞きにいった者は、理音しかいなかった。
先に貴海のところへ行った部長たちは、仲間たちに請われるまま、メッセンジャーの役目を果たしただけに過ぎず、意思の疎通をはかるために、貴海を訪れたわけではない。




時間は流れた。
部会は始終、貴海への対応についてが話し合われた。
対応といっても、貴海への中傷が中心で、これから具体的にどう行動するかが、まったく出てこなかった。
さすがに飽きてきたのか、バイトがあるといって席を立つ生徒も出てきた。
こっそり携帯電話を取り出して、メールをはじめる生徒もいる。

理音はというと、ひたすらだまって、そのやりとりを聞いていた。
だが、騒ぎがどんどんしぼんで、やる気なく霧散していくのを目の当たりにし、ついに口をひらいた。
「あの、これからどうするか、みんなでお話したほうがいいんじゃないの」
その言葉はだらけた空気に意外なほど波紋を呼んだ。
みな、はっとして、理音を見る。
理音は、それといったポリシーのない甘ったれな女の子と、周囲はみな思っている。
騒ぎには乗るが、ことが終わったあとも、意味なく騒いでいた、という以外に、印象に残らない女の子。
そんなつまらない印象しかない少女が、急に、冷静な意見を述べたのだ。
周りの意外そうな顔を見て、理音は、
『あ、まずいかな』
と思ったが、もうあとには引けない。

議長がたずねてくる。
「どうするって?」
「だって、結局、貴海先生は、レポートの提出期限は延長しないって言うんでしょう。だったら、それならみんなでどうするか、考えたほうがいいと思うの」
「どうするって……」

結局のところ、レポートをするしかないのだ。
理音自身は負けず嫌いのため、必死で毎回レポートをこなして提出していた。
だが、疲れと時間がないためか、たいした内容のものにならなかったこともある。
それでも、一度も再提出を言われたことはない。
おそらく、大目に見てくれているのだ。

その話を理音は持ち出してみた。
「ね、だから、提出期限を延ばしてもらっているのもあるけど、それ以外でもいろいろ、大目に見てくれてると思うの。みんなもそれは感じてるでしょ。今回のことだけど、たしかに余裕はないけれど、やってやれないことはないし、いっそ、部員みんなであつまって、お互いに手伝ってやる、っていう手もあると思うんだけれど」
しかし、その意見に賛同するものは、まったくいなかった。
「田端さん、言いたいことはわかるけど、いまはそうじゃなくて、貴海先生のあたしたちに対する態度が問題になってるの」
「じゃあ、レポートはどうするの」
「そんなの、いっそみんなで、ボイコットしてもいいんじゃない」
「それってつまり、貴海先生の言うことは聞きたくない、ってだけじゃないの」
理音のめずらしくするどい言葉に、部室の生徒たちは顔を見合わせた。

『失敗。言い過ぎた』
理音は内心、舌打ちしていた。
仮面ぶりっ子・田端理音は、うつくしい、耳あたりのよい言葉だけを唄う、かわいいカナリアでなくてはいけない。
せっかく築きあげた都合のいいイメージに、瑕がついてしまう。

日が傾き、陰りがおとずれている部室のなかでだらだらとおこなわれていた部会の空気が、同じようにどんどん暗くなっていくのを、敏感な理音は感じていた。
マズイ。
みんな早く帰りたいのに、一人だけ異端児(理音)が騒いでいる、という、本来のテーマそっちのけの、空疎な状況ができあがってしまった。

自分が浮き上がっているという空気をびんびんに感じながらも、理音はどうしても意見を曲げられなかった。
そうでなくては、わざわざ化学準備室にまで押しかけたというのに、結局、貴海が言ったとおり空疎なエリート意識が蔓延しているのは事実だった、という間抜けな結果になってしまう。
勝気な理音にとっては、それは我慢のできない事態であった。

「わかったよ、もお」
部長が、うんざり、というふうに言った。
「それじゃあ、田端さんだけレポート出せば? っていうか、好きな人だけ出すって言う風にすればいいじゃん。はい、決まり! 丸く収まったね」
「待ってください。それって、結局最初と同じじゃないですか」
抗弁する理音に、今度こそ、みんなの目は冷たい。
「なんなのよ、きゅうに優等生になっちゃって。あんたって、いっつも『いい子』発言ばっかりするじゃない? ちょっと周りの空気を読みなさいよね。みんな帰りたいの。あんたが意地張ってるおかげで、みんな付き合わされて迷惑してんの。もういいでしょ? レポートは出したい人が出す。それで決定」
部長の言葉に、みんなは押し殺した嘲笑とともに、拍手をした。
理音は侮辱に言葉もかえせず、顔を真っ赤にしてうつむくしかない。
そうしてその日の部会は、解散となった。





東の空に、溶けかけた卵黄のような見事な夕日があった。
市街地に挟まれるようにしてある田圃の水面が、夕陽を受けてオレンジ色になっている。
すべてのものが影を帯び、上空を飛ぶ蝙蝠のシルエットがみえる。
電灯が半端にかがやいて、移動をいそぐ車が、ほそい道をいそぎ足で通り過ぎていった。
それを避けながら、理音とはるかは帰宅していた。
雨咲名望学院は、生徒の車での送迎は禁じられているため、理音もはるかも徒歩で帰っている。

理音は肩をいからせ、風を切るようにして歩いていた。
その後を、はるかが控えめについていく。
たまに道の真ん中寄りに歩く理音にむけて、車がクラクションを流したが、理音はおもいきりそれをにらみつけて無視をした。
腹の虫が、まったくおさまらなかった。
「でもレポート、たしかに時間がないかも。理音ちゃんはどうする? みんなと一緒にボイコットする?」
はるかは、理音の表情うかがうように、上目遣いで見てくる。
イライラしながら理音は答えた。
「冗談でしょ。わたしは一度だってレポートをさぼったことないもん。絶対、絶対、絶対、出す! それもキキカイカイがびっくりするくらい濃いレポート!」
「キキカイカイだなんて……貴海先生、でしょ? 理音ちゃんらしくないよ」
「キキカイカイで十分だよ。あいつ……」

自分の意見がハナから否定されたのも腹が立ったが、テニス部部員の態度が、貴海の見せてくれたファイルと同じように、やる気のないものだったことがいちばん腹立たしかった。
貴海の言った言葉は、きついものではあったが、真実だったのだ。

「むかつく……でも、謝りに行かなくちゃ。田端の人間は、公正だもの」
頭を下げねばならない。
極楽通りで、ラブホ帰りのところを生徒に見られてうろたえるような、あんな男に! 
理音は腹立ちまぎれに道端にあった空缶を、蹴飛ばした。
それを見たはるかが、注意する。
「本当、理音ちゃんらしくないなあ。空缶はごみ箱に捨てなきゃだめじゃない。あ、そうだ、ねえ、今日、カズくんに会った? カズくんね、また理音ちゃんの話をしてたよ。カズくんは、いつも理音ちゃんの話ばっかりするんだよ……」
「ああそう……」
憂う少女と、怒れる少女。
ちぐはぐな二人組みは、夕焼けの雨咲を、ずかずか、とぼとぼと、歩いていった。



サンフランシスコ条約へつづく

(2003 初稿)
(2021/11/28 推敲1)
(2022/01/09 推敲2)


※ あとがき ※

〇 このシリーズは自分が最初に書いた長編ということもあり、何度も何度もあとで読み返し、そのたびに推敲してきた。なのに、やっぱりおかしなところがある。
〇 形容詞がひとつの文章に2つ以上ある文章などは簡素に直した。
〇 状況がわかりづらい地の文も直した。
〇 それでも、頑張って書いていたなあ、というなつかしさがあって、推敲していて、とても楽しい。