サンフランシスコ条約 1
  
  ある朝登校してみると、クラス全員が、だれも話をしてくれなくなっていた。
  小学校のときだった。
  原因は、理音が仕切り屋だったから。
  あれこれ指示をして、うるさかったから。
  成金のくせしてお嬢様だからって気取っているって、ちょっと可愛いからって、ちょっと頭がいいからって図に乗ってるから。
  そんなことだった。
  
  ひどくつらい日々だった。
  どうしたらよいかわからず、淋しくて恐ろしかった。
  たまらなくみじめで、だれもいないところで毎日、泣いた。
  おかげで人のこない静かな場所を見つけるのが、いまでもうまい。
  泣きながら理音は、どうしたら無視されなくなるか考えた。
  しかし始まったのと同様、終わるのも唐突で、なんとなく、つらいゲームは終了した。
  いじめていた人間にとって、あたらしいゲームが見つかったのだろう。
  理音は一生、そのゲームには参加しないことを決めた。
  
  理音は口数を減らした。
  なるべく本音を言わないようにした。
  なにも知らないふりをした。
  すると効果はてきめんで、みんなが理音を「かわいい」と言うようになった。
  ちやほやされるようになった。
  なにか失敗しても、好意的に受けとめてもらえる。
  これはいける、と理音は思った。
  そしてその路線を継承させることにした。
  
  しかしやはり、これはちがう、ということに気が付いた。
  「かわいいなにも知らないお嬢様」は本来の理音ではない。
  しかし、インパクトのある家庭環境も手伝って、すっかりみんなの中に定着した理音のイメージは、本来の理音とのズレをまったく修正できないまま、現在に至っている。
   
  理音は不安なのだ。
  「かわいいお嬢様。なにもしらない、けど優等生」。
  そう言って近付いてくる人間の顔には仮面がある。
  いままで、怖くてその仮面をはがすことができなかった。
  中身は容易に想像がつく。
  わかっている。
  自分を侮るひとの仮面の裏に、どんな本音が隠されているか。
  
  だがもう怯えるのにも飽きてきた。
  仮面の中の、本当の顔を見てみたい。
  「ちょっと、あんたたち、その仮面を外してみせてよ!」
  そうして、仮面に手をかけて、べろりとそれを剥がすと、そこには……
  
  
  
  ※
  
  『うおりゃーっ!』
  鋭角ぎりぎりの玉をすばやく追い掛けスマッシュ! 
  アウトコースぎりぎりで相手コートに入った。
  サーブいただき。
  『でいやー!』
  フェイント攻撃もものともせず、そのまま叩きつけるように返球。
  そして相手の返した甘い玉を、ボレーでフェイント攻撃のしかえし。
  決まった。うおっしゃあ!
  『おらおらぁ!』
  最後の一球。相手はもうへばっている。
  カモシカの足で球に追いすがり、へろへろの球を懇親の力をこめて真っ正面!
  「0―45、田端!」
  よっしゃあ!
  
  「やーん、うっれしい!」
  とは、実際にみんなが耳にする理音の声である。
  
  汗はだらだらで、いっそのこと、頭から水をざぶりとかぶりたい気分だが、そこは抑えてお上品に、高級ブランドのスポーツタオルで汗を拭き拭き。
  隣コートの男子部員が、こちらを見ているのも十分に意識した仕草。
  猫が顔を洗うのを想像しながら汗を拭くのがポイントだ。
  
  「しかしすごいよね、理音ちゃんは、きゃーん、とか、あーんとか言いながら、すっごい重くて速い球を返すんだもん」
  当たり前だ。
  実際には「きゃーん=うおりゃー」であり、「あーん=でいやー」、「そおれっ=おらおらぁ」なのだ。
  掛け声はともかくとして、女子テニス部のなかで、理音ほどまじめにテニスに取り組んでいるものはいないだろう。
  しかしここは「エースをねらえ!」の西高ではなく、私立雨咲名望学院なので、部活は体を動かす場程度の認識しかなく、もちろんインターハイとは、まったく無縁である。
   
  「あ、いない」
  女子部員のひとりがテニス部のフェンスのほうを見て言った。
  「さっきまで、キキカイカイがそこにいたんだよね。なんか、こっちのほうじっと見てたみたい」
  とたん、ほかの部員がさわぎだす。
  「げー、マジ? キモっ。もしかして、覗き? ストーカー?」
  「盗撮だったりして」
  このあいだのレポートの一件以来、テニス部内での貴海の評判はすこぶる悪い。
  ついこの間まで「貴海センセ」などと甘い声をだして噂話をしていた生徒も、いまは周囲にあわせて、ひっそりとしている。
  「なーんか、理音ちゃんの試合、ずっと見てたみたいだよ」
  「ええー、やっだー。恥ずかしいー」
  これは、理音の表向きの声。
  『げげー、もしかしてこの間の写真のこと、気にしてるのかな。それにしても人の試合をじーっと見たりしてなんだ? まあ、勝ち試合だったからいいけどさ』
  
  
  
  ※
  
  梅雨の終わったばかりの青空というのは、なににも増してすがすがしい。
  しかし紫外線もたっぷりだ。
  理音は慎重かつ、ていねいに女子トイレで日焼け止めを塗り、そして目のしたのクマを見る。
  昨夜は夢見が悪く、あまり眠れなかった。
  「授業、さぼろっかな……」
  そうつぶやくと、周りの生徒たちが、びっくりしたように理音を見た。
  理音は、頭がぼんやりとしていて、失言をしたことに気づいた。
  いかん。
  「じゅ、じゅげむじゅげむさんしょの、のつづきってなんだったかな」
  「ああ、びっくりした。理音ちゃん、落語なんて聞くの」
  「ええ、好きなの。日曜には、笑点もかかさず見てるんだから」
  「またー、理音ちゃんっておもしろいねー」
  明るい笑いがまき起こり、とりあえずその場はごまかした。
  
  『そういえばもキキカイカイに謝りに行ってないんだよね。もしかして、そのことを怒ってるのかな。あー、謝りに行くの気が重い。なかったことにしよっかな』
  レポートの件でテニス部がもめたのは、すでに2週間前の話。
  いまはようやく平静に戻っていた。
  大会は通常どおり問題なく行なわれ、レポートもなんだかんだで提出され、ボイコットと称して提出しなかったものは、掲示板に名前を記載されるという、すばらしい名誉にあずかった。
  あとで知ったことだが、その生徒たちは、レポートを提出しない常連の生徒たちだった。
   
  トイレから廊下へ出た理音は、背後から声をかけられた。
  「田端理音」
  振り返るときに、人は性格がもっとも表われるという。
  その言葉をどこかの本で読んで以来、理音は振り返るときに、いちばん神経を遣うようになった。
  毎朝、気合いを入れて巻いてくる髪の毛も優雅に跳ねるように、あくまで可愛らしく、愛らしく。
  「はあい」
  と、振りかえり、そのまま理音の顔は凍った。
  まだ心の準備をしていなかった。
  貴海雪秀だった。
  まさか、生徒の往来のはげしい中で、声をかけてくるとは。
  しかし理音の強ばりをまったく無視して、貴海はいつものごとく、無感情に言った。
  「用がある」
  こっちはない! 
  いや、あるのだが、ないことにしてしまいたい。
  理音はバレリーナの如くすばやく貴海のほうを向いて、ぱっと頭を下げると、
  「すみません、急いでいるんです!」
  と言い捨てて、そのまま安全地帯……この場合、トイレはもう不自然なので、なんとなく階段を下りる……へと逃げていった。
  
  「あー、びっくりした。急に出てくるなよな」
  腹立ちまぎれに、理音は乱暴に言い捨てた。
  もちろん、まわりにはだれもいない。
  
  一時の感情にまかせ、脅迫まがいのことまでした自分が恥ずかしい。
  しかもこうして逃げていること自体も恥ずかしい。
  こんな厄介なことになるとは、夢にも思っていなかった。
  ゲームのように、あの日の出来事を、リセットすることができたなら。
  まさに、あの日に帰りたい…
  
  
  
  ※ 
  
  しかし時間は容赦なく過ぎる。
  そうして理音が貴海から逃げいるあいだも、休憩時間がおわり、教室にもどる前に予鈴が鳴ってしまった。
  「面倒くさい。さぼろう……」
  予鈴前後は、ばたばたしていた校内も、5分後にはぴたっと静まり返り、廊下にはだれもいなくなった。
  無人の廊下を足音をたてないよう注意しながら、理音は、だれもいない管理棟へと足をはこんだ。
  さすがの貴海も授業中だろうから、たとえ化学準備室を住みかにしていようと、鉢合わせすることはない。
  
  開け放たれた窓から、心地よい風が流れてくる。
  中庭の楡の木と、手入れの行き届いた葉牡丹があざやかだ。
  渡り廊下のところに、手ぶらでうろうろしている女生徒がいて、ああ、あの子もさぼりかなと、理音はシンパシーをおぼえつつ思った。
  こんな天気のよい日に、せまい教室で授業など受けていられない。
  青空を、突き抜けていくようにして旅客機が飛んでいく。
  あの飛行機は、どこからきたものなのだろう。
  一直線の飛行機雲が、徐々にふやけるようにして姿を消していくのを見ながら、理音はつぶやいた。
  「どこか遠くに行きたい……」
  「遠くに行きたい、というより、逃げたい、だろう。おまえの場合」
  探知機でも仕掛けられているのか。
  理音は振り返るまでもなく肩を落とした。
  「先生、授業は?」
  「人と話すときは、きちんとその人のほうを見て話しなさい」
  理音はぐずぐずと振り返ったが、貴海の顔は見れずに、ネクタイのあたりを見て誤魔化した。
  本日も貴海のネクタイの趣味はたいへんよく、ネクタイピンも以前とちがい、どこかの博物館のお土産物のようだった。
  「博物館に行ったんですか、先生」
  「ホームズもどきになって誤魔化すな。授業はどうした。B組は現社だろう」
  「さすが先生、となりのクラスの時間割りまで、把握しているんですね」
  「全学年の時間割りを把握している。で、なにをしているんだ?」
  「飛行機雲をながめていました」
  「要するにさぼりだろう。こら、人の目を見る」
  理音はゆるゆると、目線を貴海の顔に当てた。
  声の調子からしてあまり怒ってないようであったが、油断は大敵だ。
  
  かくして、2週間ぶりに、理音はきちんと貴海の顔を見た。
  しかし意外なことに、感情はあまり表情には出ていないものの、以前よりはやわらかく、とっつきやすい印象を受けた。
  ありゃ、意外。
  その意外さに引きずられるかたちで、理音は口を開いた。
  「先生、なんかわたしに話があるみたいですね。朝もテニス部に来てたでしょ?」
  「ああ、気づいてたか。気合いの入った、いい試合だったな。完勝おめでとう」
  「どうも」
  「じつのところ、いつもきみは10球中4球、つまり3分の1はかならずこぼす傾向にある。
  なぜわざとそんなことをするのかずっと気になっていたんだが、試合はきちんとやっているようで安心したよ。
  しかしわざと打てるものを、打てないフリをしたりするのは問題だ。相手をしてくれている生徒に対しても失礼な態度だぞ。あらためなさい」
  理音はふたたび凍りつき、つぎの言葉をだすことができなかった。
  それはまったく図星だった。
  理音は周囲の『おちゃめなお嬢様』像に合わせるため、わざと球を外すことがあったのだ。
  「それは、そのときは、たまたまちょっと調子が悪かったんです、ハイ」
  「まあいい。次回から期待している。ところで、前回のレポートのことだが」
  
  来た。
  先制パンチを受けて気弱になっていた理音は、穴があったら入りたいと思った。
  しかし、ここにはダストシュートくらいしかない。
  臭そうだが、あそこでもいい。
  
  「たいへんよく出来ていた」
  「は?」
  「化学に関しては、きみの担当は菅原先生だが、実に関心してらして、担当ミーティングで話題になったんだ。それでわたしも読ませてもらったが、正直、おどろいた。テニス部との両立のなかで、よくあれだけのものを、時間のないなか書いたものだ。きみは口だけの生徒じゃなかったんだな」
  「ありがとう……ございます」
  正直なところ、理音は驚いた。
  そのことを伝えるために、わざわざテニス部の試合を見たり、呼び止めたりしたのだろうか。
  あんな失礼な態度をとった生徒のために?
  ぽかんと貴海を見上げる理音に、貴海は神経質そうな眉をしかめた。
  「どうした、なにかあるのか?」
  「滅相もございません」
  「それならいい。しかしおまえはこうしていると普通なんだが、どうしてほかの仲間と一緒にいるときは、あんなふうにぶりっ子の態度を作ってるんだ? いつもこういうふうにしていたほうが、いいじゃないか」
  理音は、心臓をいきなり針で刺されたような痛みをおぼえた。
  痛みがつよすぎて、思考能力が一時停止する。
  貴海はつづける。
  「疲れるだろう、そういうのは。癖になっているのかもしれないが、負担になるまえに止めたほうがいい」
   
  どうして、と理音は思った。
  いままで、親でさえ、理音に疲れることはやめろ、といわなかった。
  むしろ、人あたりの良い優等生ということで、どこに出してもわるくない娘だと、その態度を誉めてくれる。
  それが綱渡りのように、かろうじて保っている態度だと、どうして見抜いたのか。
  
  「それだけだ。行きなさい」
  貴海が背中を向けて行こうとする。
  われに返り、理音はその上着のすそを掴んだ。
  「言わないでください。そのこと、絶対にだれにも言わないで!」
  陰湿ないじめを受けた経験からうまれたぶりっ子の仮面は、試行錯誤のすえにできあがったものゆえに、非常によくできている。
  理音の持ち前の観察眼でもってつくりあげた、周囲にとって、いちばん都合のよい田端理音の顔なのだ。
  それが実はにせものであるとわかったら、みんながっかりするだろう。
  だましていたのだと、怒り出すかもしれない。
  本当の自分は、かつて、みんなに、よってたかってその存在を否定されたものなのだ。
  またおなじ経験をしたくない。
  
  理音は、自分が極楽通りで撮った写真のことで、貴海を脅すような真似をしたので、もしかしたら貴海も、自分を脅すのではないかという恐怖をわずかに抱いていた。
  恐慌状態になってつかんだ上着をにぎる手は、震えている。
  貴海はおどろいているようだ。
  「言わないって? おれが、生徒に?」
  うんうんと、大きく理音はうなづいた。
  「あの、なんでも言うことききます。だから、みんなには、田端が普通だとこんなふうだ、っていうのは、言わないでください」
  「あのな」
  貴海は理音の手をゆっくり上着からほどくと、掴んでシワのできた布地を、ていねいに伸ばした。
  「言ったところで、おれになんのメリットがある。それに、簡単に男に対して『なんでも言うことをききます』なんていうもんじゃない。さあどうぞ、つけ入ってください、といっているようなもんだ。気をつけるように」
  「はい、あの」
  「言わない。約束する。これでも約束は守るほうだ」
  「ありがとうございます」
  「行きなさい」
  写真のことは、なにも言わなかった。
  理音はなかば呆然としつつ、うながされるままB組に戻った。
  
  うまい具合に、ちょうどプロジェクタが流されていて、教師はその操作でいそがしい。
  それにB組の生徒は、もともとほかの生徒のほとんど無関心。
  おかげで理音は咎められることなく、授業にでることができた。
  
  画面には、吉田茂がサンフランシスコ条約に調印している姿が映っていた。
  現社の教師の説明に、クラスメイトはみんなノートを真面目にとっている。
  「こうして日本はアメリカをはじめとする9ヵ国との講和に正式に同意した。このときより本来の日本の独立と再生が始まったんだな。同時に、アメリカとの現在に至る同盟関係がより強化された……」
  
  サンフランシスコ条約 2へつづく
  
  (2003 初稿)
  (2021/12/22 推敲1)
  (2022/01/03 推敲2)