サンフランシスコ条約 2
※
事件が持ち上がったのは、お昼休みの始めであった。
一年生のC組の生徒たちの財布が、なくなっていたのである。
ちょうど体育の時間で、盗まれたのは、ロッカーに貴重品を入れなかった生徒ばかりだった。
緊急に一斉持ち物検査が行なわれたが、紛失した財布は、ついに発見されなかった。
「超ムカツク。なんだって、あたしたちが疑われなきゃなんないの?」
「どうもまた、キキカイカイのヤツが言い出したことらしいよ」
持ち物検査の成果は、財布に限ってはあがらなかったものの、抜き打ちだったため、かなりの生徒が、校則違反の品々を没収されて、ぴりぴりしていた。
理音も、お気にいりのフレグランスを没収されてしまった。
D組のほうでは、ひときわ騒ぎがひどいので行ってみると、女子たちを中心に、騒ぎの輪ができている。
覗いてみると、真ん中で、はるかが泣いているのだった。
「どうしたの、なんで泣いてるの?」
理音の姿を認めたはるかは、その名前を呼びながら、理音に抱きついてきた。
「理音ちゃん、あたしどうしよう、ごめんね」
「なあに? なにがあったの?」
「ラケットにつけてたマスコット……今日は手作りの理音ちゃん人形だったのに、先生が、こういう勉強とは関係ないものは没収! って、もってっちゃったの」
「没収物は即、焼却炉行きだからね……」
同情たっぷりにD組の女子が言った。
理音は、人形の自分が火にくべられる光景を思い浮べて、ぞっとした。
あまりいい気持ちはしない。それにしても……
「くっだらねえ、たかが人形じゃねぇか」
と、聞いていた沢登が言った。
とたん、D組女子が反発する。
「ひっどーい、手作り人形だよ。そこいらに売ってるフツーの人形と、一緒じゃないんだからね?」
「これだからサルは!」
ひどい言われようだが、本音のところは沢登と一緒であった理音は、口にしなくてよかったと心底、ほっとした。
沢登は、いささかヒステリック気味になっている女子の輪から、逃げ出していった。
「はるか、いつそんな人形作ったの?」
「お友達みんなの手作り人形を作ってあるの。でもどうしよう。理音ちゃん人形を持ってきた日に限ってこんなことに……」
はるかのことだから、家には自分と沢登の人形もあって、それは特別な場所に置いてあるのだろう。
一日の出来事を仏壇にするように、人形に話しているにちがいない。
「泣かないで、はるか。わたし全然気にしてないから」
「うん……ありがとう、理音ちゃん。あたし、今度はもっと気合い入れて、理音ちゃんの人形を作り直すからね」
その人形は、今度はどんな目に遭うやら。
しかし理音はにっこり笑って、
「うれしい、理音、楽しみにしているね!」
と答えたものだ。
そうして泣いていたはるかも、ようやくにっこり笑った。
D組から出た理音は、どっと疲れを感じた。
どうしてあそこで「そんなもん、作らなくていいから」と、きっぱり言えないのだろう。
はるかの親友だと思っていた頃は、ああいった、はるかの屈託のなさも、愛敬と思って、まるで苦痛に思わず、付き合っていられたのに。
そうなるといまは、自分は親友と思っていないことになる。
いやいや、親友じゃないと言ったのは、はるかのほうだった。
※
春休み、梅のほころびはじめた公園にいきなり呼び出された。
雪柳が風に揺れる、寒い一日だった。
「理音ちゃん、沢登くんに、告白されたの?」
鉛のごとく重い空気。
それでいて火花がばちばち散っているような、緊張感あふれる雰囲気。
伝導体を流れる電気のように、はるかが怒っているのが伝わってくる。
自分はいったいなにをしてしまったのだろう。
はるかの次のことばをじっと待っていると、はるかは、いままで見せたことのない、怒りのこもった冷たい目で理音を見た。
「理音ちゃんは、あたしが沢登くんが好きだってこと、気付かなかったの?」
青天の霹靂。
ぜんぜん気付かなかったと、理音は正直に告白した。
だいたい、理音とはるかの間で、男の子の話が出たことは一度もない。
これはストイックな理音が、そういった話題を好まなかったせいもある。
思い当るといえば、部活が終わったあと、コートを片付けていると、かならず沢登が一緒に手伝ってくれたのだが、そのときの、もじもじした、はるかの様子……
「親友なら、気付いてくれていると思ってた。ひどい」
そんなの、はっきり言ってもらわないと、わからないから、と理音は言った。
いくら親友とはいえ、そこまで胸の内をわかりあえるほど、はるかと理音の付き合いは、まだ長くない。
しかし、はるかは聞き入れない。
「理音ちゃんは、あたしの親友じゃなかったんだね」
そう言い残すと、はるかは公園に理音をひとり残して駆け出した。
それから一ヵ月、はるかは理音と口をきかなかった。
※
そのことがあって以来、理音は、小学校のときの、集団無視を受けた経験を、たびたび思い出すようになっていた。
だれかにつよく否定されたときの恐ろしさ。孤独、さびしさ。
それを思うと、どんどん本音が話せない自分になっていくのがわかる。
このままだとおかしくなる。
それは自覚しているが、どうしたらいいかわからない。
『はるかの親友になれる子は、エスパーくらいのもんだ』
思考をまぜっかえすことで、とりあえず理音は、上がってきた心搏数を抑えた。
まわりの目が異常に気になる。
好きで二重人格を装っているわけじゃない。
しかし、みんなの思っている『天然ボケのお嬢様・田端理音』像からはずれて、自分の思うままふるまったら、みんなはそれを受けとめてくれるだろうか。
そうして考えながら歩いていると、どうも一年生のほうが騒がしい。
廊下の窓から覗いてみると、ちょうど中庭で、一年生とおぼしき男子学生と、その担任、それから貴海がいる。
周囲を、野次馬たちが取り囲んでいる。
「だから、なぜこの財布が、きみの下駄箱から出てきたのかと聞いている」
厳しい声で貴海が生徒を詰問している。
男子生徒は、ほぼ半泣き状態で、ちがう、知らないを繰り返している。
貴海はかるくため息をつくと、今度はゆっくり、言い聞かせるように言った。
「いいかね、わたしは責めているのではない。きみに状況説明を求めているのだ」
しかし男子生徒のほうは、満座のなかですっかり混乱してしまっているらしく、知らない、ちがうと、おなじ言葉ばかり繰り返すのだった。
「キキカイカイ、いつから生活指導になったんだ?」
理音がつぶやくと、同じく窓から中庭の騒ぎをながめていた生徒が、答えた。
「聞いた話なんだけどさ、このあいだの理事長会議で、学校の規律が乱れてることが話題になったんだって。
ほら、いまの生活指導担当って、テニス部顧問の茂手木でしょ? 茂手木を外して、総理事長にコネのあるキキカイカイが、生活指導担当になるらしいよ」
もう一人の生徒が言った。
「なるらしい、じゃなく、ありゃ、なったんだろ。最初だから、ずいぶんはりきってるんじゃない?」
「やだねえ、出世の鬼。ああいうオトナにはなりたくないよね」
出世の鬼。
しかし理音には、貴海の印象が、まわりが言っているような、つめたく厳しく容赦ない、といったものと一致しないのだった。
必死になって仕上げたレポートを、予想以上に誉めてもらえたから、好意的に見ているのだろうか。
それに、いまもこうして見ていると、たしかに声だけ聞くと、詰問しているような調子だが……理音は持っていた下敷きを立てて、ちょうど真正面に見える貴海の顔の、シメントリーを見せる端正なその顔の真ん中に、あわせてみた。
心理学的には、顔の右側は社会的な顔、つまり作った顔で、左側は本音をあらわす顔だという。
そうしてみると、冷徹そのもの、感情すら見えないように感じる印象が、変わってくる。
右側の顔は裁判官のように表情を殺した顔だが、左側の顔は、あきらかに困惑し、目の前の生徒に同情している。
「キキカイカイ、やさしいじゃん。でもみんなの前で、ああいうふうにするのはマズイよなあ」
理音の、ちいさなちいさなつぶやきが聞こえたのか、貴海が顔を上げた。
あわてて理音は手をひっこめて、さりげなく窓から離れた。
※
音楽室からピアノの旋律が流れてくる。
私立雨咲名望学院の特別進学科は、比較的金のかかるところである。
結果的に、金持ちの家の子弟があつまりやすい。
金持ちというのは、生活に余裕がある。子供にいろいろお稽古をさせる余裕もある。
結果、ピアノの腕の高い者が多く在席することにもなる。
けっしてまちがえても、知った顔して「ねこふんじゃた」ばかり連打するような生徒が、ピアノをいたずらしているようなことはない。
「へえ、グリークの『春に寄す』だ」
理音は立ち止まり、そのままだれもいない廊下の隅に座った。
やわらかい、雪解けを表現したような、きれいな旋律が心地よい。
化学準備室はすぐ目の前にある。
しかし理音はいまひとつ意気地なく、そこを訪れることができないでいた。
こうしてじっと周りを観察していると、この化学準備室の環境というのは、抜群だというのがわかる。
生徒の出入りは少なく、最上階にあるため、敷地のいちばん高いところにある校舎の中でも、眺めは最高。
いまは芽吹いた緑と、みずみずしい黒い幹の木々のコントラストが美しい。
つばめが空を飛び、風に乗って、音楽室から洗練されたピアノが流れてくる。
きっとピアノ同好会だろう。
吹奏楽部がないため、音楽室は、ピアノ同好会の練習場となっているのだ。
「いい場所を独り占めしてるなあ」
と思うと、やはり出世の鬼といった評価も、妥当かもしれない。
生徒の目から見ても、教師のなかでも、貴海は抜きんでて目立った存在であり、将来の学長候補というのは、あながち噂だけではないのだろう。
もともと、雨咲の町では貴海家といえば、高名な大学教授も輩出している家柄で、古くは代々の雨咲藩主に、学問を教えていたという。
町でいちばんの実力者たちとの絆は、いまも保たれている。
町の基準からすれば、貴海が若いながらも将来の学閥の長を約束されているのは、それこそ「お約束」なのであった。
「あれだけ騒ぎがおおきくなった以上、退学が妥当でしょう。なぜ処分保留なんですか」
すりガラスの向こうから、耳慣れた低い男の声がした。
理音の所属するテニス部の顧問・茂手木の声だ。
「証拠がありません」
と、貴海の声。
いつもは平板な口調だが、いまは苛立ちがまじっているのが聞き取れる。
「証拠? あるでしょう、下駄箱から、盗まれた財布が出てきた。横手は、おそらく中身を抜き取ったあと、持ち物検査を予期し、下駄箱に財布を隠したんです」
「では中身はどこへ。横手の所持金は4千円。被害額は3万円強。クレジットカードの類も盗られている」
「それはもっとわかりにくい場所に隠してあるんだろう。このままでは被害にあった生徒の親から抗議がくる。泥棒と自分の子を、おなじ教室においておけない、とね。
わかっているかと思うが、被害にあった生徒の両親のなかには、うちに多額の寄付金をいれている者がいる。ここでトラブルを起こしたらあとあと面倒だ」
単に聞くだけなら、前生活風紀指導の教師として、新任にアドバイスをしている、というふうにも聞き取れた。
しかしその口調は、親切をよそおいながらも、どこか攻撃的だ。
理音は、茂手木と貴海の仲がわるい、という噂を思い出していた。
テニス部に対する特別あつかいは、茂手木が生活風紀指導をしていたゆえのものであったから、担当がかわったとたん、特別あつかいがなくなるのは当然だ。
それゆえ、化学のレポート提出問題が持ちあがった。
仲間がおおく処分をうけたため、テニス部内での貴海の評判はわるい。
しかし、テニス部以外の生徒は、テニス部の生徒が貴海をわるくいう理由がわからない、という。
「事情もよく知らない親の思惑なんぞで、横手を処分せよ、とおっしゃるのは、筋が通りませんな」
貴海はぴしゃりと茂手木のことばを撥ね退けた。
「そもそも、横手の下駄箱に財布があるようだ、と密告を入れたのはだれなんですか。密告してきた人物は、すくなくとも横手が下駄箱に、中身を抜き取った財布を入れたところを見たはず。その者の話を直接に聞けるなら、わたしとしても処分を検討いたします」
「密告とはおだやかではないね。その人間は、勇を鼓して仲間を告発したんだよ。そこへきみが出てきて、事情をあれこれさぐったら、その人間が、今度はほかの者たちから、白い目で見られるだろう」
そんなこともわからないのか、と言いたげな口調だ。
「だれなんです、それは」
「大切な生徒との約束でね、それを口にすることはできない。やはりわたしのほうが、ここでの教師生活が長いのでね、生徒の信頼も、きみよりはいくらか厚いんだ。信頼というのは大切な財産だよ。教師の勲章かな。
きみもこんなせまい部屋にひとりで閉じこもってないで、ちゃんと職員室で仕事をしたまえ。総理事長からのじきじきの指示がある、という理由もわかるが、こそこそしていると評判がわるいのも事実だよ。やはり人間、明朗快活なものに信頼を寄せたがるのさ。ここで長く教師生活をしたいなら、考えてみるべきだね」
なんだか白々しいぞ、と理音は廊下で耳をそばだてつつ、思った。
茂手木というのは、生徒に体罰も平気でふるい、えこ贔屓も平気でおこなう、最低な教師だ。
理音は親が高額の寄付金納入者なので、贔屓をされているほうだが、それをありがたいと思ったことは、一度もない。
いじめられ、除外されて、いちばん底辺から周囲を見上げるような、さみしい日々をおくったことをおぼえている。
てっぺんにはやはり、要領がよく、えこ贔屓をされるのが当然と思っている人間が君臨していた。
そのみにくさもおぼえている。
あんなふうにはぜったいにならない、と理音は誓っていた。
親切めかした嫌味のジャブ。
さて、貴海はなんと応酬するだろう。
「検討しましょう。検討するだけなら、いくらでもできますから」
と、貴海は、はっきりと相手を見下した口調で、言い放った。
さすが、と理音は思わずちいさくつぶやいていた。
茂手木は職員室でもかなりの力を持っている教師だ。
職員室で行事がある場合の音頭は、たいがい茂手木がとっている。
高圧的でたいがいの人間をうまく丸め込んでしまうのに加えて、意外と面倒見がよいので、職員室内に自分の派閥のようなものをつくって、好きなようにしきっているのだ。
ほかの教師たちは、面倒に巻き込まれるのがいやなのか、茂手木に気を遣っている。
その茂手木に対し、堂々と反駁する教師を、理音は入学して以来、はじめて見た。
ふと、すりガラスの向こうの影が動いた。茂手木が出てくる。
理音は立ち上がり、廊下の柱の影から様子をうかがった。
伊達男を自認する茂手木は、いつもブランド物の、ホストのように派手なスーツを着ている。
加えてカラーシャツ、ごってりした印象のブランド物の腕時計をはめ、がっしりした体格でのっしのっしと歩く。
教師どころか、堅気のサラリーマンにも見えない風情だ。
茂手木は目ざとく、理音の姿をすぐに見つけた。
「なにをしている。こんなところで」
あのう、と理音は、とっさの嘘をつこうとした。化学の質問があるとか、なんとか。
しかし、先に戸口のところから顔をだした貴海が、言った。
「つぎの化学の授業につかうスライド作りを、手伝ってもらう予定だったんです。田端、入りなさい」
はい、と答えつつ、理音は逃げるように、化学準備室に入った。
背中で、茂手木がおおきく鼻を鳴らした。
理音は化学教室に入るなり、おおきく息を吐いた。
茂手木がいつもつけている、オーデコロンが、せまい室内に残っている。
貴海は入り口を閉めると、窓を全開にした。
あいかわらず殺風景ながら、私室、といった雰囲気のつよい部屋だった。
小物のすべてが貴海のものだからだろうか。
耳にここちよい音がしたので見ると、窓辺で青い魚を模した硝子のモビールが、風に揺れている。
それが光に反射して、棚にある三角フラスコやビーカーなどに、青い影を投げていた。
理音はちいさな歓声をあげて、からころと固い音を立ててゆれる、青い硝子の魚を手にとった。
開け放たれた窓から入る風が、前髪をかるく揺らしてきもちがよい。
「きれい。これ、先生が買ったの?」
「ああ、ステンドグラス博物館の土産物だ。こういうの好きか?」
「きれいなものは好きです。見てるだけで、涼しくて気持ちいいですね」
部屋に青い影を落とす魚を指先で揺らしつつ、あの普通科の英語教師のカノジョと行ったのかしらんと理音は考えた。
手作りの不揃いの硝子の魚が醸し出す、からりからりという音に耳をすましながら、二人でどんな会話を交わしているのだろうと、想像してみた。
「なにか用事があったのか」
「化学のスライドつくりの手伝い、でしょう?」
「そこまで言うなら、手伝ってもらうかな。来週の実験は線香花火の作成だ」
「ええ、いいな。菅原先生のほうは、来週は期末に備えて、小テストだって」
「菅原先生はお年だから、化学の実験の後片付けがめんどうなんだ。でも教え方は菅原先生のほうがうまいぞ。おれもあの先生に教わったからな」
理音は窓の桟に腰をかけて、風を受けていた。
大きくくるりと巻いた髪をなびかせて、となりの窓辺の机に腰かけた貴海を見る。
「先生、OBだったんだ」
「この学校の教師は大半がそうだよ。卒業生を中心に、教員を採用するようになってるんだ。しかしまあ、非社交的なせまい世界で、人間もせまくなる、ってもんだが」
理音は、さきほどの茂手木のことばを思い出していた。
「先生、どうして職員室にいないの?」
「さっきの会話、聞いてたんだな」
「すみません」
「意味なくうるさいからだよ。生徒のことより、茂手木と、いかにうまくやっていくかが最重要課題になるサル山社会だ。あのなかでうまくやって、月々いくらかの給料をもらって、なんとか息をついてくような、くだらない生活に興味はない。
おれはうまい具合に貴海家の長男で、総理事長 植草彰子の覚えめでたき人間でもある。持っているコネは最大限活用するさ。たった一度の人生なんだからな」
とはいえ、どこか投げやりなふうに聞こえなくはない。
理音は、貴海が思いもかけず、本音を吐露してくれているようなので、かえっておどろいた。
「あの、そんなこと、わたしにしゃべって大丈夫ですか」
「これでフェアになるだろう?」
ああ、と答えつつ、理音は、ほんのすこしだけ、ほっとした。
「そうだ、ちょうどいい機会だから、これを返しておこう」
貴海は引き出しから、見たことのないマスコットを取り出した。
よくよく見ると、髪型といい、身につけている小物といい、自分そっくりである。
「あのう、これって、もしかして高木さんが没収されたという、マスコット?」
貴海は意外そうな顔をした。
「なんだ、これはきみのじゃなかったのか。高木……というとD組の高木はるか? 友達なのか」
「同じテニス部で、去年は同じクラスでした」
「B組とD組、か。一年でずいぶん差が開いたんだな。ともかく、返すから、今度はちゃんと没収されないようにしなさい」
理音は不思議に思って、没収品で、焼却炉行きだったはずのマスコットと、厳格かつ冷徹で出世の鬼のはずの貴海を見比べた。
「あの、どうして?」
問われて、逆に貴海は困ったようだった。
「どうしてもなにも……どう見てもこれはきみだろう。本来ならば没収品はその日のうちに焼却炉行きなわけだが、これを燃やすのはどうかと……」
「かわいそうとか思ったわけだ?」
「いや、なにかの呪術のような気がして……」
理音は気が抜けた。
やはり貴海というのは、みんなが言うイメージとちがう。
妙なところにこだわりを持つ、変わり者だ。
「ありがとうございます。高木さんに返します」
「うん……ところできみのほうの用件というのは、なにか?」
「先生、今日の財布盗難事件ですけれど」
腕を組み、じっとしていた貴海の目がきらりと光った。
「田端、盗難だとなぜ断言する? 紛失かもしれない」
「うちのバカ高い寄付金を考えればわかることです。わが校のセキュリティシステムは堅牢そのもの。学校というのは見た目とちがって、意外と外部の者が侵入しやすい施設。
しかし、わが雨咲名望は、部外者が校内に入る場合は、かならず事務員が付き添うことが決められており、出入口はすべて24時間態勢で、専属の警備員がセキュリティチェックをしている。もちろん、校内にはいたるところに監視カメラがあって、部外者が入っていないかのチェックを怠っていない。以上のことから考えて、犯人は校内の者と判断できます。
5時限目に持ち物検査が行なわれたが、財布は出てこなかった。
しかしその後に、一年生の男子生徒の下駄箱から、中身の抜き取られた財布が発見された。あの生徒は、盗難事件のあったC組の生徒ですか?」
「そのとおり。どういうわけか密告があり、一年の学年主任である茂手木と、担任教師がその生徒の下駄箱を調べたところ、例の財布が見つかった、というわけだ」
「その子が財布を盗んでいたところを見た人はいるの? カメラに残っていたとか」
「いや。男子生徒は、盗難事件の発生したと思われる時間、きちんと授業に出席していたのが確認されている」
「なあんだ、最初からあの子のこと、疑ってなかったんだ。それにしても、みんなの前であんなふうに言うの、どうかと思うんですけど」
「おれがあの生徒に話を聞くころには、大騒ぎになっていたよ。担任教師の樺原が白状しろだのなんだのと、お白洲のお奉行さまみたいになってしまってたからな。
それより、きみはただ自分の推理を披露するために、わざわざわたしのところに来たのか?」
「そんな嫌味な真似をしにきたんじゃありません。生活風紀指導担当になったばかりで、はりきってる先生のために、有力情報を提供しにきてあげました」
「なんだそれは」
「盗難事件が発生したとおぼしき時間に、女子生徒が、一年教室の廊下付近を歩いているのを見ました」
「ほんとうか、それは」
理音は肯いた。
「後ろ姿しか見ていませんが、ボブヘアで、小太り。歩き方に特徴があり、少々前かがみで、すこし足を引いているようでした。制帽のベレー帽はかぶっておりませんでした」
「ずいぶん、くわしく見ていたな。遠目でそこまでわかるのか?」
「自慢じゃないけど、わたしの目は両眼とも2.0です」
「なるほど、しかし困ったことになった」
「なにが?」
貴海はしばらくだまって、頭の後ろで手を組んで考え込んでいたが、やがてぽつりと言った。
「あの時間に、授業に出席していなかった女子生徒はいない」
「欠席していた女子生徒は?」
「それはない。知っているだろう。この校舎は完全管理されているんだ。遅刻してきた生徒は、かならず事務員の馬場さんのところへ行って、生徒証を見せないと、エントランスをくぐれないシステムだ」
理音は貴海の真似をして、頭の後ろで手を組んで考えてみた。
しかし特にいい考えは浮かばなかった……いや、ひとつだけ。
「先生、わたしにアリバイがないよ。どうしてわたしを疑わないの?」
貴海はさして表情もくずさず、当たり前だというふうに、あっさり言った。
「そういうことが、できないタイプに見えるからだ」
「わたしが金持ちの娘だから?」
「そうじゃない。金持ちだろうと地位があろうと、盗癖のある人間というのは多い。抑圧されている立場の人間ほど、歪んだ性癖に凝りやすいといわれている。だからそんなものは基準にならないさ」
「わたしは抑圧されてないように見えるんだ?」
「いや、性格的なものだ。卑怯な真似は好まない、正正堂堂と勝負する、男らしいタイプだな」
「……合ってます。でも、どうしてそう思ったの? わたしは一度、先生を、その、脅迫しましたよね?」
「だがおまえ、しばらくおれから逃げてただろう」
その話か。あまり蒸し返したくない話題だったので、理音は話を逸らそうと、懸命に話題を探した。
今度の期末テスト、プール開き、ええと、それから部活のミーティング。
どれも唐突すぎて不自然だ。
部屋のこと。しかし殺風景な部屋で突っ込みどころは青い硝子の魚のモビールくらいのもの。
その話題はもう済んでいる。
「このあいだのことは、見事なレポートに免じて、一切、水に流そう」
「つまり、忘れてやるから、忘れてくれ、と」
「う……まあ、そんなところだ」
せこい、と理音は思った。
理音はけっして底意地の悪い少女ではない。
しかし急にこのしたり顔の大人をいじめてやりたくなった。
だいたい、冷静になって考えてみれば、あの夜の出来事と、このあいだのテニス部の大会と化学のレポートのブッキングは、まったく同列の話ではない。
ごまかそうというのが気に食わない。
よし。
「センセ、でもこーんなにきれいに映っているのにぃ、理音、もったいなくて忘れることなんてできませんー」
と、理音はがらりと口調をかえて、教室や仲間たちのあいだで見せる、ゼリービーンズのように甘ったるい、跳ねるような言い回しをした。
「まだ消してなかったのか。貸しなさい!」
貴海はまたもや不様にうろたえている。
この姿も撮影しておきたいくらいだ。
しかしそれでは気の毒すぎるので、理音は思い止まった。
「ええー、貴重品は、むやみに他人に貸してはならないって、生徒手帳にありましたあ」
「わたしは教師だ。それを没収する」
「この携帯は大事な情報ツールなんですよぉ、センセ。いくらセンセでも、生徒のプライベートの侵害はいけないと思いますぅ」
「プライベートの侵害といえば、なんとなくすべてが帳消しになると思ってないか」
ちょうどそこへ、うまい具合に、ぴろぴろと着信音が鳴り、電話がかかってきた。
沢登だった。
理音はわざとらしく電話に出た。
『おい、今日はバイトだろ。一緒に店まで行こうぜ』
「うん、行く。誘ってくれて、ありがとう」
見ると、貴海は目を据えてこちらを……正しくは理音の手のなかの携帯電話を、睨んでいる。
そして唸るように言った。
「バイトか」
「はあい。理音はお金持ちだけど、勤労少女でもあるんですぅ。親からもらうおこづかいは月五千円ぽっち。
もし買いたいものがあれば、一号店でバイトして、自分で稼いで買うんですぅ。
そういうわけで、人様のものなんて、絶対に手をつけません。お金の尊さを知っていますもの。それじゃあ、先生、バイバイ!」
「田端理音、わたしは、その携帯のデータの削除を要求する」
切実な声だった。ちょっぴりいじめすぎたかな、と思いつつ、理音は化学準備室から出ていった。
いまどき美人の英語教師と、ぶざまにうろたえる化学教師のツーショット。
やっぱり、おもしろいから、もうすこしこのままとっておこう。
怪人ラッコ男につづく
(2003 初稿)
(2021/12/22 推敲1)
(2022/01/03 推敲2)
※ あとがき ※
〇 ほとんど直しを入れずに済んだ。けれど、変なところで句読点が打ってあるのは直し、読みやすいよう改行も増やした。
〇 三国志関連の作品とちがい、制約なく外来語を入れられるのは、ほっとする。
〇 好きな作品ということで、何度か手を入れた痕跡がある。2003年が初稿なのはまちがいないが、2009年ごろにも直したのかもしれない。記録が残っていないので、おそらく、だけれども。
そうなると、なんだって三国志関連だけはあんなにひどい推敲になったのか? 疑問がのこる……ちなみに、この作品が人生最初の長編小説。三国志関連のほうをあとで書いた。