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序章 神田川のない町で



これは、すこしむかしのお話。


家の風呂がこわれたので、銭湯に行かねばならなくなった。
午後8時である。
そろそろ梅雨のはじまりを予感させる、空気がじめじめとしてさっぱりしない夜だった。

繁華街に近いところにある街の銭湯に行ってきた帰り、田端理音(たばたりおん)はお風呂セットを片手に、携帯電話のメールを確認していた。
誰からもメールがきていない。
仕方なく、ニュースサイトを見て回ることにする。
経営者の跡取り娘たるもの、世のなかの情報収集は欠かせない。

立ち並ぶ飲み屋のファンから油物のにおいが流れている。
不況のためか、にぎやかなネオンとは裏腹に、町ゆく人々の足はせわしなく帰宅を急いでいるようで、華やかさとはほど遠い。

C県雨咲市は、江戸時代までは港町として栄えていた。
明治に入ってから埋め立てがはじまり、戦後はコンビナートの一角をになう工場町として栄えた。
当時は、港にほどちかい平地に社宅や団地が立ちならび、銭湯もあちらこちらにあったそうだ。
しかし、いまでは町が変化し、古びた社宅は閉鎖され、銭湯も少なくなり、繁華街の規模もだいぶ小さくなってしまった。
目立つのはコンビニの明るい色彩の看板と、同じテーマソングを繰り返すディスカウントドラッグストアの店先くらいのもの。

煌々と明かりのついたスナックの戸口から、大音量でカラオケの音が洩れてくる。
昼間は、ほんとうにここに人がいるのだろうか、お客はちゃんと入っているのだろうかと心配になるほど、繁華街というには静かな町だったが、心配しなくても町には人通りがあるようだ。
店から店へ、渡り歩いているへべれけのサラリーマンの姿も見える。
こうして夜の顔を見ていると、知らないところでも人の流れがあるのだと、世間の広いところが見られておもしろい。

理音は携帯の画面と町の様子を交互に見ながら、てくてく、ゆっくり歩いていた。
この時間帯に、一人で出歩くのは久しぶりだった。
雨咲町は、比較的治安のよい町なので、こうして携帯の画面を見ながらでも歩いていられる。
たまに、酔客が物珍しいものを見る目で理音を振り返るが、理音本人は頓着しない。
自分が逆の立場だったなら、こんな時間に女子高生がひとりでお風呂セット片手になにをしているのだろうと不思議に思うだろうから。
風呂のボイラーが突然に壊れたのだから、仕方ないのだ。
急な銭湯通いに付き合ってくれるような、面倒見の良い友達もいない。
両親ともに、まだ『仕事』だ。
ほんとうに『仕事』なのかどうかは、確かめようがないが。

携帯の画面に目をやっているとき、細い路地から、不意にスーツのカップルが飛び出してきた。
ただ、出てきた、というのではない。
まさに『飛び出してきた』のだ。
むしろ、逃げてきた、というふうである。
あっという間もなく、理音はカップルの、男のほうにぶつかった。
「すみません。大丈夫ですか?」
はい、と答えようとして顔をあげて、理音はあれっ、と思った。
ぶつかってきたスーツの男も、当初は怪訝そうな顔をしていたが、理音とはっきり目を合わせて、ぎょっとした顔となった。
よほど仰天したのだろう。
思わず仰け反って、うしろにいた、はなやかな色合いのブランドスーツの女性にぶつかりそうになる。
理音は思わず声をかけた。
「あぶないですよ、貴海先生」
さすがの理音も、あまりに不意だったため、特に学校用につかっている甲高い声色がはずれて、低めの地声となってしまった。
しかしそれをまずった、と後悔するよりも、男……貴海先生のあわてっぷりに目をうばわれる。
隣のクラスの担任で、化学担当。
若いのに融通がきかず、冷厳そのもので、どのような場合にも、感情らしいものを見せないことで有名な教師だった。
端正そのものの容姿が、余計に冷たさを際立たせており、「貴海雪秀(きかいゆきひで)」という冷え冷えとした名前もまた、人間味にとぼしい事務的な人間であるイメージを強めていた。
しかしいまは、ぶざま、と呼んでいいほどあわてて、青白い頬は紅潮し、身体全体が震えていて、前には理音、うしろには謎の女。
退いてよいのか、進んでよいのかすら、わからない様子だ。

ここは繁華街のど真ん中。
場所柄から推理して、酔っている、と判断したほうがいいだろう。

衝突の驚きから、すばやく立ち直った理音は、あらためて周囲を見まわした。
繁華街の中ほどに、飲み屋がずらりと軒をつらねる、ほそい路地がある。
ネオンや看板もここだけはひかえめ。
それもそのはず、じつはその通りこそが、繁華街からすこし離れたところにある、ラブホテル街に通じる道であることは、この町の人間なら、だれでも知っていた。
夏休みになると、この道の入り口で、生活指導の先生が張り込みを行なうのでも有名なのだ。
「なるほど」
場違いなほど冷静に、理音はひとり、合点した。
その落ち着きぶりは、可愛らしい甘い顔立ちには、あまり似つかわしくないものであった。

シースルーのカーディガンに淡い花柄のキャミソール、同じ色のミニスカートにヒールの高いサンダルといったかわいらしい格好からして、団塊世代をもっぱらの客とする繁華街では、おおいに浮き上がっている。
彼女は、正真正銘のお嬢様である。
彼女の外見や、その背景を知るものからすれば、田端理音は
「誰もがうらやむお嬢さま」
であり、加えて、
「過剰なまでのぶりっ子」
である。
午後八時の繁華街など、
「怖くていけなーい」
と言うだろうタイプであり、まして、ラブホテル街に通じる道から、あわてて顔見知りの教師(貴海は理音の担当ではなかった)が飛び出してきたなら、
「信じられなーい」
と顔を真っ赤にして甲高い声を出し、しかし目はちゃんと周りを見ている、といった反応をするだろう……と、周囲が予想するタイプであった。

しかし理音はそのどちらもせずに、冷静に判断力をはたらかせた。
ラブホテル街の入り口から飛び出してきたカップル。
男は普段の様子からかけ離れた様子でうろたえまくっている。
ラブホテルで問題を起こしたのだろう。
教師も人間。
理音は、今度は、すこし同情的に貴海に声をかけた。
「先生、酔ってます?」
しかし、貴海はうろたえた態度からすぐに立ち直って、答えた。
「田端、きみはB組の田端理音だな? わたしは酔ってない、大丈夫だ。そんなことより、きみはこんな場所でなにをしているんだ」
すこし自分を取りもどしてきたようだ。
しかし声は裏返っている。

理音はこの場をなんとか取り繕うとする貴海の様子を冷静にながめつつ、理路整然と、家の風呂のボイラーが壊れたので銭湯に来たのだ、と事情を説明した。
「運転手さんの送迎はないのか」
「もう夜も遅いですし、帰ってしまいました。そもそも、時間外労働です」
「じゃあ、ご両親と一緒に来たらいいだろう」
「ふたりとも仕事で、家にいません」
「それなら、お手伝いさんは」
「お手伝いさんも時間がきたので帰りました」
「じゃ、じゃあ、一晩くらい、風呂に入らなくてもいいじゃないか」
「こんなじめじめした日にお風呂に入れないなんて、拷問です」
「おおげさな。それでは、こんな繁華街の真ん中にある銭湯ではなく、友達の家にお邪魔するとか」
「そこまで迷惑をかけて大丈夫な友達はいません」
理音の受け答えはあまりに淡々としていた。
学校での、みずみずしいイメージとはかけ離れているように見えたのだろう。
貴海は、さいごには、ことばをなくしてしまったようだった。

こういうとき、大胆なのは女のほうである。
控えるようにしていた貴海のうしろの女が、きわめて落ち着いて、理音に言った。
「特別進学科の生徒さんなの? そう。先生たちね、ちょっと飲んでたのよ」
ああやっぱり、と理音は思った。
その女のことばに納得したのではなく、その女が、普通科の英語教師・増峰千夏(ますみね ちなつ)だったことがわかったからだ。
栗色の優雅になびくさらさらの髪、目にもあざやかな赤いジャケットに真っ白いスカート。
すんなりのびた足とハイヒールが艶かしい。
増峰はまるで隠す素振りもなく、その腕を貴海の腕にからませた。
「先生たちにも、遊びの時間がね、必要なの。わかるでしょ?」
「はあ」
いささか演出しすぎな感もいなめないなと、理音は思った。
だが、それよりも完全に硬直し、増峰の行動に、真っ青になっている貴海のほうが気になった。
また真っ赤になっている。
いまにも限界に到達して爆発しそうだ。
照れ? 恥ずかしさ? 怒り?
どれだろうかと理音は考えたが、赤くなったり蒼くなったりしている貴海について、そもそもあまりデータを持っていないので、心中を察することはむずかしかった。

なんにせよ、気の毒なヤツ。

そう思いつつ、理音はこれ以上、面倒にしないために、
「わたしは家に帰ります。先生たちは楽しんでください」
と言い残して、ぺこりと頭を下げ、その場を離れた。
貴海が、なにか言いかけたが、腕に絡みついている増峰が制したようである。
その隙に、理音は、さっさと繁華街を立ち去った。

そのあとも、心はざわめくこともなく、平静そのもの。
とんでもなくおもしろいものを見たとか、だれかにこれをこっそりしゃべってしまおうとか、そういった気にもならない。
隣りのクラスの担任が夜遊びしていたから、なんだという。
貴海は、冷たいだの機械だの、石頭、雪男、仕掛け人形、仕事ロボットなどなどいろいろ言われていた。
だが、理音は以前から、さほど貴海がきらいではなかった。
かといって、すきでもない。
眼中になかった、と表現したほうが妥当だろう。

ふと、携帯を見ると、画面が撮影終了状態になっていた。
知らず知らずのうちに、撮影モードになっていたらしい。
撮影画面を再生すると、ちょうど貴海が理音のことに気がついて、仰天しているシーンがきれいに撮影されていた。
その背景には、ホテルの位置を示す、けばけばしいネオンサインがしっかり映りこんでいる。
「シャッターチャンスは逃がさない。おそるべし、自分」
ぼそりとつぶやくと、理音はとりあえずデータをフォルダに保存し、画面をきりかえた。
そして、家につくころには、貴海と増峰のことはすっかり忘れてしまっていた。


つづく


(2003 初稿)
(2021/11/25 推敲1)

※ あとがき ※

〇 ほかの作品に比べれば、誤字脱字が少ない原本だった。
〇 いちばん古い小説のひとつで、2002年から執筆。
〇 理音の家庭の事情、友人関係が垣間見えるような文言を追加した。
〇 これも途中でやめてしまった作品。なぜか三国志関連と並行して書くのが難しい作品でもある。今回、ジンクスを打ち破るべく、続きを書く。
〇 原本は、「このキャラクターの性格で、この家庭環境はそぐわない」というものだった。いまなら、キャラクターの性格から逆算して、ふさわしい家庭環境を考えることもできると考え、設定を大幅に見直すことにした。
原本では「家庭環境にも恵まれている、しかし過去のいじめのトラウマに悩むお嬢様」だった田端理音だが、やはり、矛盾がある。
今回は、お嬢様ではあるものの、いろいろ不安要素を抱える少女に変更した。
貴海のキャラクターにしても同様で、こっちはどうなるか、まだ秘密。
ただ、原本より、もっと教師らしくする予定。