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一章 対戦モード その1


「ねえ、今度のテニス部の大会とさ、化学のレポートかち合っちゃったんだけど、貴海のヤツが部活より勉学を優先すべしとか言って、提出期限を延長してくれなかったんだって。ひどいと思わない?」
その女生徒のことばに、さきほどまで少女漫画雑誌を読んだり、メールをみせっこしたり、バイト先での話や学校の噂話でにぎやかだったりした、雨咲名望学院のテニス部の部室は、一転、その話題に集中した。

テニス部は学院のなかでも大所帯であったから、運動部のなかでもいちばん大きな部室を与えられていた。
壁面に沿って、ずらりと女子部員たちのためのロッカーが並んでいる。
部室の真ん中の大テーブルには、いまはわんさか私物が乗っているが、女子と男子合同の、テニス部の部会も、ここで行なわれる。
壁には掃除当番の当番表や、スポーツショップからもらってきた、外国の人気プレーヤーのポスターや、一部で人気の他高の選手のスナップ写真などが貼ってある。
制汗スプレーや香水の匂いがまざって、人工的ないい香りが絶えないのも特徴的だ。

「ひっどーい。ほかの教科の先生だったら、絶対に延長してくれるのにー」
香水を振る手を止めて、跳ねるような言い回しで応答する理音である。
声はあくまで可愛く、やわらかく。
今日もきっちりセットした髪はくるりとウェーブし、グレーのボレロの上着が特徴の制服に落ちかかる。
両脇の髪をそれぞれビーズの花飾りのついたゴムで留め、少女らしいツインテールでまとめている。
まだあどけなさの残る顔の唇には、さくらんぼ色のリップ。
清潔感が失われないよう、肌の手入れにも気を遣っている。
日焼けにつよい真っ白い肌は気を付けて維持しているもので、化粧のたぐいは、学校ではしないことにしている。
スカートは160センチの身長に合わせて、規定の長さよりすこし長めにして、全体のバランスを取っている。
靴は学校指定のものより軽い、よく似たデザインのブランド物。
指先はあくまで磨いただけで、マニキュアは塗らない。
 
「本物のお嬢様・天然ボケの優等生」
それが『私立雨咲名望学院 高等部特別進学科 二年B組の田端理音』の学校での顔、であった。
とりあえず。暫定的に。

「貴海ってさ、マジ機械だね。融通きかないなあ。どうするよ、しかも今度のレポートださないと、補習だとか言ってるっていうし」
なにが問題になっているかというと、次週の土日に理音の所属するテニス部の県大会が行なわれるのだが、その日程からして、主力である二年生部員のばあい、月曜日のHRまでが提出期限の、化学のレポートをしあげるのが無理、ということだ。
テニス部は活動が活発で、このように、部活の日程と、期限付きの宿題が重なってしまうといったことは、以前にも何回かあった。
しかしそのたびに、ほとんど自動的に、テニス部は特例として、提出期限を延長されていたのだった。

「県大会って、期末前の、唯一の息抜きなのにね」
テニス部の生徒たちはがっかりしている。
この私立雨咲名望学院の、特別進学科は進級するごとに成績別にクラス編成を行なっている。
生徒の成績の上位順に、20名ずつA組からD組までクラス編成が行なわれるのだ。
生徒たちにもプライドがある。
せっかく勝ち得たクラスからお別れして、一ランク下のクラスに行ったりすることのないよう、必死で勉強する。
だから部活と勉強、どちらを取るか、と問われれば、ふつうの特別進学科の生徒は迷わず、勉強、と答えるのだ。
しかし、このテニス部では事情がすこしちがう。
もともと、成績上位者の多い部活で、どこか余裕ぶっていて、勉強にあくせくするのはみっともない、という風潮がある。
理音もその風潮に努力してなじもうとしていた。

「理音ちゃん、どうする? わたし、今度の大会は、お休みしようかなあ」
理音のとなりにいた高道はるかは、残念そうにつぶやいた。
高道はるかは理音の友達である。
大きなたれ目に丸い鼻をした家庭的な雰囲気のある少女で、いつもひっそりとしていて大人しい。
周囲は理音のコバンザメ、と見る向きがあり、本人もそう見られることに抵抗がないようだ。
ファンシーグッズが大好きで、ラケットにはその日気分の手作りマスコットがぶらさがっている。
彼女は日々の針仕事をいとわない、かなりマメな性格なのだ。

「わたしは大会に出るよ。だって、部活だって立派な学校生活のひとつだもの。余裕があったら化学のレポートをやる。別にこれを提出しなかったら、即、クラス落ちというわけではないんでしょう? 頑張ってみるつもり」
「ん……理音ちゃんは頭いいもんね。あたしはD組で後がないし、困ったなあ」
はるかのことばに同調し、困った、困ったとうなづきあう生徒たち。
えんえんと貴海の悪口を言い続ける生徒もいる。
なかには、ラケットをぶんぶん振り回しながら、これでみんなでぶん殴っちゃえなどと冗談混じりに、物騒なことを言う生徒まであらわれた。
「でもどうして、貴海先生はそんなに頑なになってらっしゃるのかしら?」
理音の素朴な問いは、むしろはるかたちには、不思議なものに感じられたようだ。
「どうして、って、そりゃあ石頭だからじゃない?」
「そうかなあ。以前も同じことがあったときには、わたしたちの要望を聞き入れてくださったよね。わたしたちだって、ちゃんとレポートを提出したしぃ。それなのに、なぜなんだろう?」
「わかんないよ。どーせ、規律を守るためだのなんだのっていう、くだらない理由でしょ? そういうの、屁理屈っていうんだよねぇ。理音ちゃんは貴海に教わってないから知らないでしょ。あいつ、同調だの規律だの、そういうの大好きだから」
「でもちょっと的外れだよねえ」
「うちらの顧問の茂手木先生と、仲が悪いって話も聞いたことあるよ」

「理音、直接、貴海先生に聞いてみようかなって思うの」
唐突な理音のことばに、はるかたちはぎょっとしたようだった。
「やめなよ、理音ちゃん。泣かされるよ?」
「あいつ、超性格わるいんだから。いじめられるって」
「大丈夫だよ。わたし、意外とつよいんだから」
理音が胸を張って反駁すると、どっと笑いが起こった。
いつもの的外れな天然ぼけと思われたらしい。
となりでくすくすとはるかが笑っている。
「もー、理音ちゃんてば、おもしろい。でもやめときなね。理音ちゃんなら、にらまれただけで泣いちゃうよ」
「理音ちゃんのおかげで、なんだか和んじゃったねー」




ふん、こっちは本気だよ。
部室から一人、教室に向かい、理音は轟然と風を切った。
このところ、仲間たちと一緒にいるのが、苦痛である。
慣れてしまったとはいえ、本来の向こう見ずで、負けん気のつよい性格をひた隠し、ひ弱なお嬢さまを演じるのが苦痛なのだ。
人の好い理音は、それにくわえて、自分が二重人格をよそおっていることについて、まるで周囲をだましているように感じられて、落ち着かない。
 
みんなの田端理音……かわいい、天然ぼけ、泣き虫、お嬢様、頭がいい
自覚的田端理音……気が強い。冷静。負けず嫌い。将来の経営者。賢い(当社比)

雨咲町に住み続けるかぎり、自他ともに認める「ぶりっ子」の田端理音は、ずうっと仮面をかぶっていなければならないのだろうか?
 
「よっ、田端、貴海にジカダンパンに行くって?」
眉根にしわをよせて考え込んでいるところへ、はるかと同じD組の沢登和宏が声をかけてきた。
小柄ながら陸上部の短距離選手で、ひとあたりのいい、気さくな少年である。
制服の下にいつも有名スポーツメーカーのタンクトップをのぞかせている。
いつ見ても金太郎飴のようにおなじさわやかさ、おなじ印象を受ける。
感情の自制がうまいのだろう。
そういう意味で、理音はこの「がんばるシャケ」のような名字の少年を尊敬していた。
スポーツマンらしい、さっぱりした笑顔。
いまにも健康的な白い歯がきらりと光りそうだ。

「なんだよ、ずいぶんむずかしい顔してるじゃん?」
「ね、沢登くんって、わたしの印象、どう思う?」
「は?」
面食らった顔をしつつ、沢登は鼻の頭をかいた。
困ったときにするクセなのだ。
「正直に言って。怒らないから」
「そりゃあ、田端はむやみに怒ったりしないだろうけど……」
また……怒るっての、と理音はこころでつぶやく。
「そうだなあ、お嬢様で、がつがつしたところがなくて、なんでもできる優等生。で、もって可愛い」
いちばん最後のことばは、かなり迷いつつ、搾り出された。
しかし理音はあっさりそれをスルーして、たずねる。
「ほかには?」
「ほかぁ? そうだなあ、頭いい、よな。ホラ、学校の成績とかの頭いいじゃなくて、一緒にバイトしてて思ったんだけど、よく気がつくっていうか、周りの人間の動かし方とか、仕事の流し方とか、すげえ際立ってたよな。やっぱ、さすが社長令嬢っていうか、ただのお嬢様、ってだけじゃないんだなって。
だいたい、社長令嬢なのに、社会勉強だっていってバイトを率先してやっているところからして偉いっていうか」
「50点」
「は?」
「ありがとう。ごめんね、へんなこと聞いて。それじゃ、わたし、いかなきゃ」
「おいおい、マジメに貴海のとこ行くのかよ。だったら、職員室じゃなくて、化学準備室だぜ。あいつ、たいがいそこで仕事してっから」
「そうなの?」
「なんか知らねーけどよ、将来の学長サマってことで、あいつは職員室のなかでも特別扱いなんだってさ。あ、これ陸上の顧問が教えてくれたんだけど」
「そうなんだ……」

化学準備室へ行きかけた理音の背中に、沢登の声がかかった。
振り返ると、さきほどとは一転して、すこし哀しげな顔をした少年がいる。
「あのさあ、言うの遅れたけど、ありがとな」
「わたし、なにかした?」
「そうじゃなくて、告白をされて断った相手とは、気まずくて、なかなか普通に話せなくなるだろう? でも田端はそんなこと気にしないで、オレと話をしてくれて、ありがたいよ、マジで。田端の印象に付け足す。さっぱりして、やさしい」
「ごめんね……ありがとう」
「あんまりごめん、ごめんって言うなよ、切なくなるだろ。じゃな」
今度は、理音が沢登の背中を見送る形となった。
すこし、しょんぼりして、元気がないように見える。

一年生の終わりの春休みにされた告白を、理音は断っていた。
そのため、一時期、顔を合わせづらかったのだが、お互いスポーツマンシップと理性と勇気をはたらかせ、やっと以前どおりにまで修復した。

『でも沢登くん、あなたは知らないでしょ、わたしがどれだけダメージを受けたか』
D組教室に入っていくその姿に、理音は心のなかでつぶやいた。
あの教室のなかには、高道はるかがいる。
沢登ははるかの姿を見つけ……彼はそれ以前に、はるかが自分のほうをじっと見つめていたことに気づかない……いまそこで、田端と会った、というようなことを話す。
はるかはにっこりと、やさしい笑顔で沢登の相談を受け取る。
そして言う。
「こういうこと相談できるの、おまえだけなんだよな」
そうして放課後、はるかは部室で着替えているとき、あるいは一緒に帰宅中などに、さりげなく、じつに、さりげなーく理音に言う。
「カズくんって、いつも理音ちゃんの話ばかりするんだよ……」
ああそうですか。
ほかになにが言えるって?
ますます気が重くなり、理音はため息をついた。


一章 対戦モード その2へつづく

(2003 初稿)
(2021/11/28 推敲1)
(2022/01/07 推敲2)

※ あとがき ※

〇 文章的には、意外と直さなくてよかった。以前に推敲したのが効いているらしい。
〇 それでも誤字脱字があったのはご愛敬。
〇 読みやすくレイアウトをちょっぴり変更し、すこしだけ、理音についての情報を付け足した。
この作品は、書きながら設定を固めたものなので、設定が後から加えられる、ということが多々あった。今回の推敲では、それをなるべく改めていく。
〇 はるかの名字を高木から高道に改めた。とくに深い意味を込めてつけた名字ではなかったし、物語の進行にはまるで影響がない。
なぜ変えたかというと、どうも同姓同名の方がけっこういるようなので。