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1931年(昭和6年)満州事変、33年(昭和8年)国際連盟脱退と、
ひたすら戦争に向けて進んでいった昭和時代。
その初めに生を受け、子ども時代や多感な思春期を戦中期にすごした女性たちが、
戦中生まれの私たちの姉世代にいる。
太平洋戦争がはじまり、戦況が激しくなると、親元からはなれて”学童疎開”をしたり、
学業生活を中断し、工場での勤労奉仕に従事したりした。
兄たち世代は学徒動員で戦地に送られていった。

少女の眼と心に刻まれた、戦中の生活を記録します。



*** 目 次 ***
       
勤労動員帰りに艦載機に遭遇  
  • 語る人/かわむら えいこ
  • 生年月日/1931年3月2日
  • 生地/東京都 生育地/東京都・長野県
東京大空襲ー叔母一家を探して歩く  
  • 語る人/いまい よしこ
  • 生年月日/1931年10月12日
  • 生地/東京都 生育地/東京都
勤労奉仕と終戦前日  
  • 語る人/いまい よしこ
  • 生年月日/193 年 月 日
  • 生地/東京都 生育地/東京都
母の戦争体験ー学童疎開の子どもたちを預かって  
  • 語る人/いしかわ ちほこ
  • 生年月日/1940年2月1日
  • 生地/富山県 生育地/富山県





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勤労動員帰りに艦載機に遭遇


<疎開先で勤労動員へ>
 1944年春、私は疎開先の長野市内の県立高女に入学いたしました。 その年から学徒動員が始まり、全校で勉強できたのは1学期だけで、2学期からは、上の学年は学校毎に 定められた軍需工場に行って働くことになりました。

  私達1年は学校で勉強することが出来たのですが、、翌45年は2年生になると同時に、近郊の小さな工場へ 行くことになりました。仕事は航空機の部品作りということで、蝶番(ちょうつがい)などのヤスリ掛けが主なものでした。

  行き帰りは必ず制服着用という学校の方針でしたが、下はもんぺ(裾をしぼった形のズボン)に下駄ばき(靴はなかなか手に入らない) 腕章には学校の名前と報国隊との文字が入っていました。それに帯芯のようなかたい布で作った肩掛け鞄を斜めに掛けたいでたちで、 私の場合、工場まで徒歩で三,四〇分掛かったでしょうか。

  現場に着くと手製の防火服の上着を作業服として着用、これも手作りの白い鉢巻(ヘアーバンド)を後ろで結んでいました。

<友達とすごせたことが救い>
 九時から三時か三時半まで働き、お昼休みは持参のお弁当をたべましたが、何をたべたかさっぱり記憶にありません。 お豆やおいもの煮たのがはいっていれば、上等だったかも知れません。

 それでも結構楽しくお友達とやっていた様な気がするのですが、後年、一学年下にいた動員経験のない妹に、 「貴女は朝になると工場へ行くのは嫌だと云って泣いてばかりいたので、『この人はなんて非国民なんだろうか。』 と思っていたのよ。」と云われました。

 当人にとってはさっぱり覚えがないのですが、或いはそうだったのかも知れません。

<貴重な一個の飴>
 一度だけ、作業中に飴が配られたことがあるのですが、一個の飴が大変貴重でたべずに家に持ち帰ると、 母が「それはその場で頂いていいのよ。」と笑いながら云いました。

 農村の友人がたまに何か持ってきてくれた記憶もあります。有難いと思いました。

<担任の先生のことば>
 或る日、私達の担任でもある国語の先生が、私達をそっと集めて云われました。

 「貴女方はまだ年がゆかないのに、大人の中に混じって働いて気の毒ね。私達が学生の頃は、学校の帰りに 喫茶店に寄ったり楽しく出来たのに、ほんとに可哀そう。世間の荒波にもまれているという気がします。」と、 しみじみ云って下さったことが、今でも忘れられません。

<週一回学校へ>
 なんといっても私達の楽しみは週に一回の登校日です。この日は前日からはしゃいでいました。朝から学校へ行って勉強できるのですもの。 必ずあるのは2時間続きの家庭科ですが、裁縫と調理実習が週交替でありました。何を作ったかは覚えていません。 戦局悪化につれて空襲も各地にあり、転入してくる方が沢山居られました。皆あたたかく迎えてあげたように記憶しています。

<空襲警報がでる>
 長野市も夜には時々警戒警報が発令されるので、灯火はカバーで暗くして何時でも着替え出来るように 整理して寝む(やすむ)ようにしていました。そんな状態のある日、動員先の工場で警戒警報のサイレンを聞いたのです。 小さな所でしたので、特別な避難場所もなく、私達はすぐ家に帰されました。ところが町並みに入って間もなく、 空襲警報になってしまいました。

 「早くおいで!!こっち、こっち!!」友人の声に傍らの家と家が軒を重ねたような隙間にかけこみました。 数人の友人と壁にへばりついたまま、わずかな隙間から空を見上げると、どうやら艦載機を迎え撃っているような状態です。 誰かは泣き出すし、お互い身を寄せ合って事態の鎮まるまで待ちました。

<野中の道でたった一人、艦載機に遭遇>
 やがて皆と別れて、町並みをはずれると今度は広い野中の道です。見通しの良いところなので、急ぎ足で歩いていると 空の彼方にまた艦載機が・・・。

 近づいてきたら危険なので、あわてて道端の草の生えた浅い溝に体を低くして伏せていました。 どうやらこちらへ来ない様子なので、、体を起こして歩き出すと、その日に限って小さな靴を履いてきたので、 足が痛くて仕方がありません。怖さと痛いのとで早く帰ろうと、わざわざ樹の生い茂っている道なき道の崖のような ところを、木や草につかまりつかまり上って、漸く家にたどり着きました。

 母が心配して、妹を迎えにやらせようかと考えていたそうですが、迎えになど来て貰わなくてよかったと、私はつくづく 思いました。

<二日後、ポツダム宣言受諾>
 それから二日ほどして日本はポツダム宣言を受け入れ、終戦の日を迎えたのですが、今でも夏になると、あの当時のことが 夢のように蘇ってまいります。





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東京大空襲ー叔母一家を探して歩く
この話は、私のいちばん上の姉(73歳)の東京大空襲の経験談です。
末っ子の私は1歳3か月ぐらいでしたから、まったく記憶にありません(むらかみ あやこ)

**********

<空襲下の家族9人>
 東京大空襲は1945年の3月だったから、私は今で言うと中学1年生の終わりで、13歳でした。 ミッチャン(二女)だけが疎開していて、その下の妹たち3人も両親もみんな目白(東京・豊島区)に住んでいました。 父は警察に勤めていたから、ほとんど家に帰って来ませんでした。

 家の庭に防空壕があって、空襲警報が鳴ると、そこにみんな入ったんですが、6畳間ぐらいの大きさでした。 屋根を上げて、お饅頭みたいな形にして、少し土を掘り下げていました。下にすのこ状の板を敷いて、座れるように回りに椅子みたいなものを 置いて、壁は土だったと思います。

 そのころまだ祖父も祖母も健在で、家族9人の中で一人(ミッチャン)だけ疎開していました。 末の妹のアヤコは生まれて1年ちょっとでした。

<浅草に住む叔母の家族>
 親戚の佐川の家(父の妹の嫁ぎ先)は、アルバムと台紙店をやっていて、浅草の小島町に住んでいました。 ミッチャンと同い年のミノルチャン一人が鳴子に集団疎開していて、あとのオサムチャンもショウチャンも家に残っていました。 学校で、受験をする子どもをまとめて、疎開先から連れて帰ってきたので、ミノルチャンは中学受験をするために、 3月8日に帰ってきました。その晩ミノルチャンが、うちに電話をかけてきました。「僕は今度中学を受けるから、鳴子から帰ってきたよ」と言ったので、「よかった、よかった。元気で勉強して、良い学校に受かれよ」とおじいちゃんやおばあちゃんや、みんなで話をしたのを覚えています。

 その翌日に、佐川の家は空襲に遭って、みんな死んじゃったわけです。

<空襲の日>
 そのとき、目白には爆弾は落ちなかったんです。真夜中に空襲警報が鳴ったから、防空壕に入ったんだけど、 しばらくしたら、大人たちが「見てごらん」と言うので、防空壕から出てみたら、東の空が真っ赤でした。  「向こうのほうは真っ赤だから、下町の佐川の家はすごい被害を受けているだろうな」と言っているうちに、 朝になりました。

 何時頃だったか、10時ぐらいだったか。佐川のエイチャン(長男)と叔父ちゃんが来ました。二人はフラフラだった。 焼けこげてはいないけれど、水をかぶりながら歩いて来たから、着ていた服はびちゃびちゃでした。

 「お母さんたち、来てるか?」と聞くので、「叔母ちゃんたちは来てない。あんたたち二人はどうしたの?」と言ったら、 「焼夷弾が落ちて危なくなったから、お母さんがミノルとショウとオサムと女中さんを連れて、リヤカーに荷物を積んで家を出ると言ったんだ。 そのときに、僕(エイチャン)とお父さんは店の様子を見ていて、だめになったら出るからと言って家に残ったんだ」と。

 叔母ちゃんたちは逃げるときに、叔父ちゃんが「目白の家に逃げろ」と言って、そこで別れたんだそうです。

 エイチャンと叔父ちゃんは店に残って、防火用水の水をかぶりながら、店を守るために火を消していたけれど、 とても間に合わなくて、店が焼け落ちるのを見て、逃げたんですって。 逃げる途中でも火の粉を浴びるので、防火用水の水をかぶりながら、5、6時間かけて目白まで来たようでした。

 服がぐしゃぐしゃだから、お父さんの服を貸して着せたの。叔父ちゃんとエイチャンの二人は、「お母さんたちが目白に逃げると言ったんだから、 途中にいるかもしれない」と心配するので、お父さんが「じゃあ、お前たち二人はここで待っていろ」と言って、 私とお父さんと二人で佐川のみんなを探しに行ったんです。

<叔母と子供達を探しに>
 春日町(文京区)あたりまでは焼けてなかったので、都電か何かを乗り継いで行ったの。それから先は全然だめ。

 そこまでの途中がすごかった。お地蔵様みたいな死体が道ばたにゴロゴロ転がっているの。着ているものが全部焼けちゃっているから、 男だか女だかわからないし、髪の毛もないの。

 辺り一面に火がポヤポヤと出て、くすぶっていました。そのまん中を歩いて行って、防火用水を覗けば、防火用水の中に入って死んでいる人もいました。 「ここなら大丈夫だろう」と思って入って、死んじゃったんでしょう。でも、その人たちはまだ着物を着ているから、 「ああ、お母さんと子どもが入っている」とかわかるけど。

 ずーっと歩いて行って、「この辺に佐川の家があったはずだ」というところは、焼けちゃって何もなかったし、 防火用水の水もカラカラでした。何も見つからないので、もうちょっと先に行ってみようと言いながら、先に行ったら、 目白とは反対の方角を向いて「佐川台紙店」というリヤカーを大通りで見つけました。乗せていたものは全部焼けこげて、 タイヤまで溶けちゃって、金属製の骨組みだけしか残っていませんでした。 だけど、「佐川台紙店」という名前が見えたから、目白と反対側に逃げたんだなとわかりました。

 でも、どこに逃げたのか全然見当がつかないので、厩橋あたりで諦めて、そこから歩いて帰ってきました。 「見つからなかった」と叔父ちゃんに言ったら、「逃げた方向が逆だったんだな」と。  

 1週間ぐらいたったら、上野の山にだいぶ死体が集められたんです。お父さんが見に行ったけれど、みんなお地蔵様みたいになっていて、 結局、わからなかったと言って帰って来ました。  

<隅田川の中で>
 1か月ぐらい経って、佐川の叔母ちゃんたちは、隅田川で見つかりました。水に浸かっていたから焼けていなくて、 着物の裏に「佐川マキコ」という名札が付いていて、連絡先が目白の家になっていたので、家に連絡があったんです。 叔父ちゃんとエイチャンは目白の家にいたから連絡を受けて、二人で引き取りにいったわけ。女中さんだけ海に流されちゃったみたいです。 あとのみんなは、ヒモで叔母ちゃんが子どもたちを全部結わえていたそうです。  

<静岡に疎開>
 佐川の家族が死んじゃって、今度空襲があれば山の手のほうだろうということで、3月の終わりぐらいだったか、 春休みに、お母さん、私、妹たち3人の5人で、静岡のお母さんの実家に疎開しました。 だから私は4月の初めから静岡の学校に入ったんです。

 すると今度は、駿河湾に米軍が入って来て、艦載機が富士山をめがけて飛んで来て、右折するので、年中空襲警報が鳴るし、 護衛艦からの機銃掃射もものすごかった。

 5月25日に東京の山の手が空襲に遭ったけれど、運が良いのか悪いのか、池袋のほうも焼けたし、家の周りまで火が来たけれど、 目白の家のある一角は山の手線と西武線に囲まれていたから、空襲を受けずに残っていたんです。

 静岡にいても機銃掃射はすごいし、年中空襲で危ない。もう東京で残っている所は少ないけれど、どうせ死ぬなら家族一緒に、 東京のほうがいいんじゃないかといって、終戦前の7月ぐらいに目白に戻ってきました。

<お地蔵様が転がる感じ・・伝えられない経験>
 佐川の叔母ちゃんを探しに行ったとき、「こわい」とか「気持ちが悪い」なんていう感情はないんです。 みんな焦げちゃって、炭化しちゃっていて、ほんとうにお地蔵様がごろごろ転がっているような感じでした。 「これじゃあ、叔母ちゃんだか、だれだかわからない」と思いました。

 こんな経験は、いくら話しても、実際に経験してみないとわからないです。




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勤労奉仕と終戦前日


<共同印刷で勤労奉仕>
 私たち一家が母の実家(静岡)に疎開する前は、私は家から直接、文京区にある共同印刷の工場に行って勤労奉仕を していました。 仕事を終えると、学校(東京第一師範学校女子部竹早校)にちょっと寄って、コッペパンをもらって帰ってくる毎日でした。一応共同印刷で授業をするという名目で行っているんですけれど、授業なんか全然していませんでした。

 印刷機械1台に子どもが二人と、行員さんが一人ついて、その人が指導しながら、仕事をするわけです。 仕事というのは、軍票(軍隊で使うお金)の印刷です。私たちは紙を数えて印刷して、裁断をしていました。

 昼間だって空襲警報が鳴るでしょう。そうすると、積んである紙と紙の間に入るんです。燃えちゃうんじゃないかと心配 したら、行員さんが言うには、紙はしっかり押してあるから、燃えないんですって。

 5月25日の夜だったか、空襲があったとき、爆弾が落ちて共同印刷が焼けてしまったんです。もし昼間だったら、私たちも被害に遭ったけれど、夜だったから助かったんだと思います。 翌日行ってみたら、工場が焼けこげていて、どうにもならなかったので、学校へ戻りました。「明日から共同印刷に行かなくていい」と先生に言われて、勤労奉仕はなくなりました。

 まだ池袋から都電が走っていましたが、春日町あたりまでしか行かなかったので、その先は歩いて学校に通っていました。それからは、竹早の附属小学校の、アスファルトで鋪装してある校庭を掘り起こして、砂利だらけの土にサツマ芋を植えて、斜面になっているところにはカボチャを生やしたのを覚えています。 作ったサツマ芋なんかを、給食代わりに自分たちで食べた覚えがありますけれど、水っぽくておいしくなかった。終戦後になっても、まだ作っていました。  

<終戦の前に>
ソ連が参戦して、終戦の3日ぐらい前には、警察官のお父さんはその情報(終戦になる)を知っていたみたいで、 「アメリカ兵が入ってくるから、家にある本をみんな処分しろ」と言われたんです。「どんな本?」と聞いたら、「おれが選ぶから、 本を焼いてしまえ」と。

 どんな基準で選んだのか、アメリカ兵に見つかったら困るという本をたくさん持ってきて、みんな燃やしました。  「なんでこんな本を燃やすのだろう? 周りが焼け野が原になっても、せっかく家に残った大事な本なのに、それを焼いちゃうなんて」と残念に思いました。

 その3日ぐらい後に、「今日は大事な話があるから、家から出るな」とお父さんに言われたんです。「大事な話って何?」「いや、お昼になればわかる」と。

お昼になっておじいちゃんが、おばあちゃん、お母さん、妹たちに「ラジオの前に座れ」と言うので、家族そろってラジオを聞きました。 難しい言葉だったけれど、もう中学2年生になっていたから、「ああ、これは戦争が終わるということなのか。空襲もなくなるんだなあ」と、ふっと思いました。




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母の戦争体験ー学童疎開の子どもたちを預かって
〜学童疎開校の現在のこどもたちに語る〜


 皆さんコンニチワ
 暑い中、東京の品川区大間窪小学校から5年生、先生方、父兄の方ようこそお出かけくださいました。以前にも、わざわざ両校の先生方がお願いに来てくださいました。大間窪小学校の5年生の方たちはこのお寺について、たくさん勉強されていると聞きました。知っていられることもあるかと思いますが、少しお話させていただきます。

<母と玉永寺の紹介>
 私はこのお寺に生まれました。戦争当時3歳から4歳だったので、今話すことは大半が私の母から、そして当時疎開児童として来ていらした方から訊いたことです。悲しい思い出が多かったのか、あまり皆さん話されませんがただこのお寺が故郷のように思え懐かしく、感謝の思いで訪ねてくださいます。

 このお寺は真宗大谷派、玉永寺といいます。本堂は大正4年、庫裏(生活するところ)は昭和8年に建てられました。ですから、本堂は100年近く、この姿を保っていますので 皆さんのような年齢でこのお寺に戦争の時、疎開児童としてきておられた方々は、先ほども言いましたが故郷に帰った思いが致します、とおっしゃいます。当時6年生だった方も今は73歳です。

<大間窪国民学校から迎える>
 昭和19年8月30日 大間窪国民学校より雷久保 巌先生の引率で3年生から6年生まで51名の方がこられました。このお寺で泊まってこのお寺から学校へ通ったわけです。

 私の母が皆さんのお母さん代わりの寮母という仕事をしていました。まだ他にも作業員の方もいました。

<子供たちの寺での生活>
 毎朝、本堂でお参りしたそうです。疎開に来ていた方が宝物を今も大事にしていますと、見せてくださったのは、それは母が作った半紙にガリ版で印刷した小さな教本と子どもが持つおねんじゅでした。今もお経を覚えていられるそうです。

 学校に行くときもっていくお弁当は、アルミの弁当箱でした。ご飯を持っていくのですがお昼に開けると片方にかたむき、農家の子どもたちの真っ白なご飯がいっぱい詰まったお弁当が本当にうらやましかったそうです。ひもじい思いをされたのですね。

 暑い季節になるとノミ、シラミがいて、みんな外に出て順番にDDTという白い粉をかけられていました。
 庫裏の5つのお部屋に蚊帳をつり寝ておられたのでしょうね。

 また、冬になると雪はとっても多く降り本堂の後ろにお部屋が2つありました、その屋根から田まで雪が一続きになりスキーをしたことが楽しい思い出と話されました。しかしどんな靴を履いていたのか、手足がしもやけ、雪やけになり、富山の日赤病院へ入院した方もおられたと聞いています。

 6年生の男の方は舟橋駅まで一時間も歩いて電車に乗り母と食料を買出しにも行ったそうです。それからこの村が秋は10月と春は3月のお祭り そしてお正月。そのときには、それぞれが近所の家に今で言うホームステイーに呼んいただきお風呂に入れてもらったり、ご馳走をいただいたりしてお世話になったそうです。それらをお世話してくださった方々もだんだん今は亡くなり高齢になられ忘れ去られていきます。

 空腹を和らげる生活を支えたのはご門徒の方々寮母さんや炊事のお世話をなさる作業員の方たちでした。

 6年生は20年の2月、中学校に入るので東京に帰られましたが、間もなく空襲にあわれ、お友達それぞれバラバラになり食べ物もなく大変だったそうです。その後1,2年生が伊藤園子先生に付き添われ4月21日、20名ほど来られたのです。小さな子達は時には東京の両親が恋しく泣く子もいたり、そして戦争はだんだん激しくなりました。

<富山にも空襲が>
 夜になると富山にも飛行機のB29が飛んで来るようになり毎日夜サイレンがなると裸電球に黒い切れを巻いて灯火管制、防空ズキンで頭を覆いあごのところでひもを結んで前の道に一列に並び、先生の号令で地面に伏せるんです。ついに8月1日、富山の町を爆撃。すごい音をたて飛行機が飛んできた、ヒユルルー高い音がして、ピカピカの銀色や緑色そして赤いテープのようなものがヒラヒラと落ちた瞬間ドカーン。 すごい音がして、見る見るうちに富山の町の方が真っ赤に燃え上がっていました。とても近くに町が見えました。

 一瞬のうちに富山の町が焼け野原になってしまい、沢山の人が亡くなり尊い命が失われてしまいました。それからというもの、お寺に焼け出された門徒の方たち、親類の方たち、どのお部屋もいっぱいになりました。寮母だった母も病気になり、私の父はパラオ島で戦死、その後の私の記憶はまったくありません。

 全ての世の中の人を悲しみのどん底に突き落とす戦争、不幸に落とし入れる戦争、絶対、2度と繰り返してはいけないと、強く皆さんに言いたいそんな思いでお話いたしました。

 何の大義名分もない、おろかな戦争で日本人が300万人以上超す犠牲となりました。

 また、中国、インドネシア、ベトナム、フイリッピン、韓国、北朝鮮で1700万人の方が亡くなっています。

<語り継いでゆく疎開の暮らし>
 私は今もこの寺を故郷と言ってくださる当時の疎開児童であった方々、母を慕ってくださる方々と交流しています。

 皆さんも大きくなったらこの地域に、このお寺に来てください。お待ちいたします。
 お話を聞いてくださった皆さん、有難うございました。

     2006年7月22日  玉永寺坊守 いしかわ ちほこ



この原稿は、流星さんのブログに掲載されたものを、私どものサイトにも掲載をお願いしたものです。写真もそのブログからお借りしました。(管理人・ゆうなみ)

「玉永寺 こころおきらく日記
若葉マーク付住職の必死な、あるいは徒然な日々」
http://kokorookiraku.cocolog-nifty.com/blog/2006/07/post_adb3.html
















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up date:2004/8/15 byゆうなみ