「ハンセン病と憲法」ーーむらかみ あやこ 2006/10執筆 | |
「憲法記念日に思う」ーーゆもと みちこ 2005/5執筆 | |
「私と憲法」ーーゆもと みちこ 2005/2執筆 | |
「憲法との出会い」ーーアンケートから 2005/2実施 | |
アンケートの項目 | |
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アンケート「憲法との出会い」 日本史年表によると1946年11月3日に公布され、翌47年5月3日施行された日本国憲法。 それは当時一般の人々にどのような方法で伝えられ、 一般の人々はどのくらい真剣に条文1か条ずつを読んだのでしょうか? 「私と憲法」を考える時、「私」が「憲法」といつ、どこで、どのような形で出会ったかを、 一人一人の経験に即して、記憶から掘り起こしてみたいと思います。 戦中生まれの私は、公布の時2歳半、記憶にはありません。 私が出会ったのは、1956年中学校の授業でした。 1947年中学校の副教材として全国で使われた「あたらしい憲法のはなし」は1952年には姿を消していた。 だから私はそれを読んではいない。 学校時代を終えていた大人たちはどのように知ったのだろうか。どのように受け止めたのだろうか? さまざまな年代の方々の「憲法との出会い」方を記録したいと思い、以下のアンケートを実施します。 趣旨にご賛同頂ける方は、ぜひ性別年齢をとわずご協力をお願いします。(文責;なみひさ ゆうこ) 生年月日 [ ] 性別[ ] 生育地(子ども時代)[ ] 憲法発布時のあなたの所在地 [ ] よろしければお名前をお書き下さい [ ]ペンネーム・ハンドルネームも可。 (2)あなたの憲法との出会いについて @ いつごろ A どこで B だれから C どのようなかたち・方法で伝えられましたか D 特に記憶に残った憲法の内容は何ですか。 E そのとき知ったことが、その後の自分にどのような影響をあたえましたか。 F 家庭の中で憲法が話題になったことはありますか。 G 友達の会話で憲法が話題になったことはありますか。 H 今、憲法についてどのように考えていますか。 |
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@ 昭和21年位から(まだ公布されていないころから) A女学校で B先生から C 憲法が出来た頃なので、担任が冬休みに「民主主義」に関するレポートを書かせた。 その後、”新しい憲法のはなし””民主主義”などの副読本もあったので、のぞいてみる。 D 「主権在民」「国会は憲法の番人」「戦争放棄」「男女平等」「三権分立」「人権尊重」「内閣」 E その後の安定した生活の基盤になったと思います。 F 九条は守らないと行けないと言うことを夫と話をする。 G 「九条は知っているけれど、24条も大切ね。この間じっくり読んでみたわ」(友人) 「あら、私はまだ読んでいないわ」(私) H 憲法改正の動きが自民・民主ともに感じられます。本来、憲法は国民が選び取った内容のものでなければならないので、 現在の憲法は決してアメリカの押しつけではないのです。 明治の頃から、平和な流れはあったはずです。政府は憲法を作って国民に守らせようとしていますが、これでは逆です。 私たちが本当に望む憲法は、九条と24条が生かされることです。 |
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@ 小学校3,4年頃 A 学校で B 担任の先生(今は亡くなりましたが、小生の尊敬する方の一人でした。) C 自衛隊は違憲かどうかという議論を、たしか、学級会か社会科の授業中かで議論した記憶があります。 D 「九条」「前文」 E 戦争の無意味さ、人間同士殺しあうことの無意味さを芯から思います。たとえ、正義のためと称しても。 F あまりなし G 最近はあまりなし H 先日、ある雑誌の中で、改憲の国民投票を実施し、賛成がもし過半数を取れなかったら、 今後、50年間は、現憲法には手がつけられないだろうという意見がありました。 ということなら、国民投票を実施させ、是非、(改憲を)不成立にさせたいものです。 *(このアンケートは)創造的な取り組みですね、頑張ってください。 |
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@ 1956年(17歳)頃 A 高校の授業で B 高校の先生から C 日本史や公民の授業中の講義で。 D 第9条 E 新安保条約調印の頃、憲法のことを考えたように思う。 F あまりない G あまりない H 特に、なし |
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@ 中学3年 A 中学校の公民の授業で B 社会科の教師から C 教科書通り D 「義務教育は、これを無償とする」 小学校以来の”集金袋”、あれは何だったのか?憲法では「ただ」だと言うのに、と素朴な疑問を感じました。 E 無答 F ある G ある H 日本国憲法は人類の英知と理想の結晶である。外交も政治もこれを拠りどころとして行うべきである。 * 「公民」で憲法を習っていた頃の話 家庭科の調理実習の材料をうっかり持っていくのを忘れた私は、ひきょうにも、 「『義務教育はこれを無償とする』と、憲法で定められているのに、生徒に材料を持ってこさせるのはおかしい」と言い訳しました。 結果、家庭科の女先生は激怒し、教頭だったか、担任だったかもう忘れましたが、私を男先生のところへつれて行きました。 ここでも、ものすごく怒られました。 その内容は、「そんなへりくつを言う奴は、不良になる!!」という主旨だったと思います。 明確な意思を持って、持ってくることを拒否した訳でもなく、ただ、単なる約束ごとを破っただけなのに、問題をすりかえる ”ひきょうさ”については、言及されなかった気がします。まして、保証された内容と現実の違い、矛盾などについては、全く問題にされませんでした。 今思えば、かなり権威主義的だったと、ユーモアのかけらもなく、この件を教育の材料にするぐらいの余裕と指導性があってもいいものに、と 勝手に思い出しています。 |
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@ 小学校の頃だったと思う A 小学校の授業か、HRなど B 先生 C 何の授業だったか、覚えてはいませんが、ともかく「平和」を守る素晴らしい憲法だということを強調されたと思います。 D 九条が一番強く残ったことですが、基本的人権の保障なども強調されたと思う。 E 「平和」と「民主主義」を無条件で信奉した。現在も基本的には変わらない。 F 折にふれて話題にしている。 G 長いこと教職についていたので、何かと話題になりました。 H 世の中の動きが、なんだか自分が育ってきた時代に向かっていた方向と違ってきたような感じがして、 いささか不安。そんな中での改憲論にも危惧感を持たざるをえない。 ただ武力を持たないでどうやって国が守れるかというのも難しい問題なのではないでしょうか。 特に最近の北朝鮮の言動などを考えると、アメリカなしでたちゆくものかどうか、 「世界から武力を無くす」という夢のような夢を追いきれるものでしょうか、などと迷っているこのごろです。 |
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@ 中学生の頃 A 中学校で B 担任や社会科の先生から C 1年生のHRの時、担任だった社会科の先生から国会の議事運営のやり方を教わり、 HRでの話し合いの仕方をそれにならって行ったりして、意見の違いを出し合って、多数決で決めることを学んだ。 また、3年の社会科で、「憲法」を学び、とくに「前文」にこめられた精神を素晴らしいものとして、みんなで声をそろえて読んだ。 D 憲法の「前文」 みんなで大きな声で読んだ時、むずかしい言葉だったが、リズム感と格調の高さを感じて、自分が大人になったような気持ちよさを感じた。 「民主主義」「基本的人権」「男女同権」(「男女平等」というより「同権」という言い方を私はしていたように思う) E 家は貧しく、お金も贅沢品も何もなかった子ども時代だったが、なにかに異を唱えると、すぐ「女のクセに」と 言い続ける世間にあらがって、「私は一人の自由な独立した人間なのだ」という誇りを、この憲法が支えてくれたと思う。 F 姉とはよく「男女同権」などについて会話していたと思う。 G 高校時代に60年安保があったので、「強行採決」をする国会のやり方を怒ったり、憲法に規定されている ことが実現していない現実について、友人と「大人」世界を批判しあったりしていた。 H 憲法の規定の実現には、丸山真男氏が「『である』ことと『する』こと」の中で強調しているように、 常に実践し検証する努力をしつづけることだ、ということを痛感している。 定年まで教員を続けてきたが、同僚との仕事の場でも、生徒への対処の場でも、自分がここでちょっと頑張ることで、「平等」の世の中へむかって少し前へ進めることが できるならばという気持ちは、いつもあった。「女性差別撤廃条約」や「雇用機会均等法」の制定にはほんの少しだけれど、努力が実ったことを実感した。 「九条」の「戦争放棄」や「平和主義」も、他者への暴力を廃することとして、「平等」や「他者の自由尊重」 の実現と結びつけて私は考えている。 |
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@ 小学校の頃(憲法記念日のころ) A 小学校で B 担任 C 憲法記念日の前日に、何かの授業で説明があった。 D (1)昭和22年(小学校入学)ごろ、「男女同権」と言う言葉が流行語になっていて、 4〜5歳の女の子がまでが、男の子にむかって「男女同権」と話していた。「普通選挙法」の制定による戦後初の選挙のときと思われる。 このことと関連している憲法24条の内容については教わったのは中学生になってからです。 (2)この当時、田舎の町にも「青年よ再び銃を持つな」のポスター(社会党)が目立った。昭和25年6月25日、朝鮮戦争 (少学3年)は、校内放送もあり、暗い不安な気持ちになった。空襲の経験もあったので、子供ながら、戦争に対しては恐怖感があった。 日本に軍隊がないことは教わっていたが、第9条の内容については記憶がありません。 E (無答) F 特になかった。 G 特になし。ただ、上級生がポスターを見ながら、銃は絶対持たないといっているのを、よく覚えている。 H (1)憲法9条が自衛隊の活動の歯止めになっている。 (2)天皇について 元首・敬称についての動きが早すぎる。マスコミ(特にNHK)での皇室のニュースが多すぎる(○○展示会・旅行等)。余りにも意図的すぎる。 |
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@ 1934年高校1年 A 高等学校(都立校) B 社会科教師 C 自覚的に憲法と出会ったのが「一般社会」の時間。テーマを設けて討論した中で、自分が主張した根拠が 憲法9条だった。 D E F G いつも心の中に(憲法が)あったように思う。 H 私たちの誇り。特に9条。大事にしたい。 |
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@ 中学三年の時 A 社会科の授業で。 B 担任の教員から。 C 解説式の授業で。 D 第一条主権在民、第九条戦争放棄 E 特に意識したことはない。 F 特に印象に残ることはない G 特に憲法と意識はしないが、男女平等のこととか 憲法に書かれていることは、話題になることは多かった。 |
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@ 中学生のとき。 (高校時代には憲法は断片的に言及された。大学の教養科目「憲法」。) A 中学生時代 B 先生 C 授業中 (社会科でしょうが、教科科目名は?) かなり熱心に繰り返し話していたように記憶してます。 D 「天皇は日本の象徴」「主権在民」「衆議院と参議院」など。 E 小学三年時(昭和20年・1945年8月15日)までは、 御真影の出し入れの数分間、最敬礼をしたまま過ごすなど、 不可解で、不快なことがあったが、その後は新憲法の世界が 常識になった。 教える側に戦後の社会への希望と熱気を 感じた。 F 特になし。父は、天皇の権限の変わりように驚嘆と安堵。 G 友達間では話題にならない。 H 目標として堅持したい。 *中学、高校時代の記憶がかなりボケてきているのに 気が付きました。高校では一年時に「人文社会」というの があったような? 「三権分立」なども良く聞かされた。 しかし、結局、私自身は憲法についての知識も理解も足りない、 というのが正直なところです。 |
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@ 小学生のころ A 学校で B 先生から C 社会科の授業で D とくには、「日本はもう二度と戦争をしない」ということ。基本的人権、男女平等ということなど。 E 自分の中の核となり、すべての考え方、生き方の原点となったと思う。 F ない G ない H 第九条については特に、人間の目指す理想として、むしろ誇りをもって世界に存在感を示して欲しい。 「現実」に合わせて手をつけていくなんて逆行。 |
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@ 小学校6年生だったと主追いますが、はっきりとは憶えていません A 小学校の授業 B 担任の先生 C 教科書と授業で D 平和憲法、国民主権 E 日本国憲法は戦争を放棄している素晴らしい憲法だと思うようになりました。 F あります。とくに次女(27歳)とは、いつも話題にしています。夫の姉とも、資料の交換などを通じ、少し話しています。 G あります。同年代の人は、皆、改憲に反対です。 H護憲派も、改憲派も、憲法の条文を本当によく読んで議論しているのか。特に国会議員は、 しっかり勉強してから、意見を言ってほしい。景気回復のためには、戦争もあり、なのか。アメリカのために改憲するのか。 子孫のために何をすればいいのか。 |
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@ 小学校6年 A 小学校 B 先生 C 社会の公民の授業で D 9条・25条 E 平和憲法の大切さを学び、これからも維持していこうと思った。 F ある。 G ある。 H 憲法が、国民の自由・権利を守るために作られた最高法規であるから、むやみに改憲すべきではない、と思う。 |
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@ (1)1958年ごろ (2)1962年 (3)1996年〜現在 A (1)中学校で (2)大学 (3)ハンセン病療養所 B (1)教師 (2)法学の教授 (3)回復者 C (1)社会の授業 (2)一般教養の法学の授業 (3)直接ハンセン病回復者の方たちから話を聞くことと、書籍・資料などで D (1)戦争の放棄(9条) (2)学問の自由(23条)/ポポロ事件 (3)らい予防法による基本的人権(第11,13,14,18,19,20,21,22,23,24,25,26,27,30,31,32,33,34,36条)の侵害 E (1)日本は世界に誇る憲法を持っていると教えられ、その考えはいまでも変わっていない。 (3)ハンセン病問題にかかわるようになり、現在も続けている。 F ある。 G ごく少数の友人の間だけ。 H これからの世代の人たちが自由、平等、平和な社会で暮らしていくために憲法はどうあるべきか、あらためて勉強したいと思っている。 |
@ 憲法が発布された時点で A 新聞報道 B 新聞報道 C 新聞・ラジオ D 特になし E 特になし F 特になし G 特になし H よくわかりません |
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@ 憲法発布時(特に草案発布時のほうが印象が強い) A 報道・著作 B 特になし C ・新聞報道 金森国務相(既に退官していたかどうか記憶にない)の講演を聞いた覚えがある。(東京高師付属小学校講堂) ・憲法解説書 天皇は国民統合の象徴という意味を説明していたことだけをウロ覚えに想起する。天皇は無事だという安堵感を覚えたように思う。 D 天皇・平和・人権条項。総体的に明治憲法との比較の印象。 E 不知不識に影響をうけているのだろうが、自分自身はあまりそうした自覚がない。 長田新氏が勤務校に講演に来た時に、教職員に絶対平和主義を説いた。戦前の言行と思い合わせ違和感・不信感を覚えたことが忘れられない。勇ましいことを言う人は信用できないと思った。 F なし G なし(過去にはあったのかもしれないが記憶に残っていない) 同僚とは仕事上話題にはしても議論にまでは至っていない。 H 特になし。敢えて言うとすれば改正問題に静観しているというべきなのかもしれない。 9条の理念は守りたいという思いはある。現在、老後の幸せな年金生活をおくれるのは、日本国憲法の国に生まれ合わせたお蔭という感謝の気持ちは持っている。 |
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@ A B 報道で C 報道で 昭和22年5月3日、憲法発布記念式典(?)に出席。尾崎行雄の話を聞いた。皇居前広場、雨中の集まりだった。 同日、日比谷公会堂で安倍能成の講演を聞いた覚えがある。 D 前文 E (無答)F 特になし G あり H (無答) |
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@ 昭和22年5月 A B C あまり記憶にありませんが当時町の役場に勤めており、アメリカの軍政部による町のあらゆる統計数字が 大変な時代でした。あの時は徹夜で資料作りをしたし、又、ある時は政治経済面の議論をしていた時代にこの憲法発布となり、 毎夜12時1時過ぎ迄助役さんや主事さんを囲んで話をしたものです。 D 第9条・天皇制・自由民権 E 良い憲法と思った F あまりありません。でも戦時中の軍・警察の権力には、かなり問題があり、新憲法後は言葉づかい一つとっても 違ってきつつあるのが判ってきて、良い時代になると云う話題をしたことがあります。でも22年頃は、おまわりさんの中でも ヤミの買い出しの取り締まりにしても、(一人一人の)態度には差がありました。 G 戦争中を育ってきて、軍国主義から民主主義と転換した時代です。高校・大学の先生にしても、同一人物がガラリ と変わる教育論には疑問を持ちました。 H 戦争はしてはならないけれど、自衛の(愛国の)精神をつくる教育と、親孝行とかの道徳心の教育が必要。 自衛の為の最先端をゆく軍備。そして昔の徴兵制度のような自衛隊でも福祉でも消防となど自己選択で2年くらいは集団で国に奉仕する事が必要と思う。 |
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@ 中学校の頃 A 学校で B 先生から C 教科書で D 今でも問題になっている第9条について”戦争の放棄は果たして可能か”と授業中に討論会をした。 E 特になし F特になし G特になし H 大変難しい問題で良く分かりません。 |
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@ 中学2年生(14歳) A 中学の社会科の日本史の中で B 社会科の先生 C 社会科の授業中 D 第1条 天皇は国の象徴である E (無答) F ・戦争放棄について ・自衛隊のありようについて G ・天皇制と今後について H 現在にそぐわないことが出来てきて今後どうすべきか |
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@ 小学校6年生 A 小学校 B 先生 C 社会科の授業 D 戦争の放棄 E とくにありません F ありません G ありません H 改正すべきと思います |
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@ 小学校 A 小学校 B 先生 C 社会科の授業 D 特にありません E ありません F ありません G ありません H 改正した方が良いと思います |
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憲法が生きてくる |
@ 小学校6年生 A 小学校の学級文庫にあった「日本国憲法」(小学館発行の白地に赤い水玉の表紙で、写真がたくさん入っていて、憲法の本文には全部ふりがなが付いていた)で。)) B 当時、「金八先生」のドラマで、日本国憲法の本が取り上げられていて、流行(?)だったのか、学級文庫にもおいてあった。 C D 戦争放棄 E 「川とノリオ」「かわいそうな象」など、学校で読んだ過去にあった戦争の話のようなことは二度と起こらないと思った。 F 先日NHKスペシャル「憲法」を見て、日本がどの方向に行くかを議論せず、国民の総意なしに、改憲論だけ進のはおかしいと思った。 G あまりない。イデオロギーについての話をさける傾向にあると思う。 H 立・行・司法の職業にあたる人だけに関係があるものでかのように、憲法について改めて話す環境がないと思う。 将来、どういう国、どういう人々でありたいのか、どういう生活を送りたいのかということを考えると、話し合うときに憲法が生きてくると思う。 |
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@ 小学校中学年では(あらためてアンケートに参加していつだったか思い出しているところです) A 小学校で B 担任の先生(多分) C 多分、小学校の社会科の授業。中学校では「全文」は簡単に丸暗記できていました。今は忘れていますが・・。 D 平和憲法、人権平等の憲法で、世界に誇れるものと授業で刷り込まれているので、それがそのまま。記憶とすり込みです。 E 戦争は無条件に反対という気持ちになりました。 F 何度もあります。 G 学生時代はありますが、社会に出てからはないような気がします。 H 憲法改正の方がよいかと、押しつけ憲法だから一から考えなおした方がよいかという気持ちもありましたが、 今は、「ガタガタいうより、これを守れ」という気持ちです。「これ」というのは「第9条」です。 ほかのことは考えたことはありません ところで何故私がこのサイトを開いたかというと、東京裁判に興味を持って、この年齢になって初めて、 極東軍事裁判が5月3日に始まったということをしりました。その翌年の5月3日が憲法発布の日のはずだが、 と思いながら、なんともいえないイライラした気持ちで、発布の日を確かめているうちにこのサイトにぶつかりました。 どういういきさつで5月3日なのかわかりませんが、どうにも極東軍事裁判開始の日と関連があるようで、 あらためてこの憲法が押付け憲法という気がしてきて、「バカにするなよ」と叫びたい気持ちがしています。 それとは別に「日本国憲法」はかっこいい憲法だと確信していますが。 |
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元職場の仲間9人(40代〜60代)が集まった席で、みんなから聞きました。全員が(労働)組合員で、(考え方に)年代の違いがなかったので、
まとめました。
@ 学校時代だが、意識したのは大人になってから。 A 教職について職場で B 同僚達や組合の人から C (学校で教えられたことはあまり覚えていないが)安保闘争とか、ベトナム戦争とかのニュースを見ることで。 D 九条 戦争放棄という文字が輝いて見える。 前文 崇高な文章。理想があってよい E 平和を希求していこうと思った。安保闘争をきっかけに、ベ平連の運動に参加。 F 9人のうち、4人が話題にしている。 G 大いにある。先日も有明コロシアムの「九条の会」に参加した。 H 九条は絶対守る、守らなければいけないと思う。 世界に誇れる宝だと思う。 |
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@ 1957年頃 A 中学校(東京)で B 社会科の教師 C 卒業時の送る言葉に「平和憲法は緊急かつ最大の課題である」と書かれたことが印象に残っています。 D 9条;戦争放棄 25条;健康にして文化的な最低限度の生活を営む権利を有する 思想・身上・表現・学問の自由の保障 個人の尊厳と両性の平等 E 上記のことは”国”が守るべきことであるのに、実現されないことに深い絶望を感じる。 F なし G ある H 世界の平和が危機にある今こそ、”日本国憲法”をしっかり実現させ、世界に向けて日本の立場と 決意を表明すべきである。 過去の戦争の謝罪であり、戦後の未来における不戦の誓いであり、この世界から核廃絶・世界平和への呼びかけである。 |
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@ 憲法を明確に意識するようになったのは大人になってから。 子どもの時には小学校高学年の担任の影響を強く受けて、 「男女平等」という事を特に意識するようになった。 A いろんな運動をする中で考えるようになったので、明確ではない。 B 子どもの時には小学校の先生。成人してからは様々な方から。 C 学習会や出版物など。 D ・前文を読んだ時には感動で涙が出た。 ・第一章が天皇だったことはショックだった。 ・第九条の内容の素晴らしさと現実とのギャップ ・第一四条、第一九条、第二五条、第二七条 ・第八章 E ・子どもの時には憲法を明確に意識した訳では無かったが、男女差別は勿論、あらゆる差別はいけないと考えるようになった。 ・憲法を意識してからは、戦争放棄や国民の権利、義務について、そして基本的人権の保障などについて考え、行動するようになった。 F 夫や子ども、夫の親などとも話がはずむことがある。 G よくある。 H 今回の衆議院選挙の結果で、憲法は大変危機的状況にあると考えている。 社民党が辛うじて議席を維持できたのは、その危機感を持った人がかなりいるという事の表れではないかと思う。 第一章についての議論も含めて、きちんと憲法と向き合わなければ、また戦前の日本に戻ってしまうような不安を感じている。 |
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@ 大学入学時(?) A 大学所在地の東京で B 大学の先生から C 入学した大学長が”レッド・パージ”を受けていて、代理の学長である事を知ったことで、 レッド・パージとは?と知り合いの教授におたずねした事から、現行憲法の成り立ちを知りました。(おそいですね)社会科の授業 D 大変おさない感慨しかありませんが、”その時点”では、これで戦争はなくなるのだとだけ思った様に 記憶しています。 E 父親は私の生前から生後も、戦争のため不在でしたので、これから家業を継いで行くことになるのだと思いましたがーー。 (不在による親子間のコミュニケーションが取れないままの一生でした) F 家庭内で”女”がその様な話が出来るとも、するとも考えられませんでした。 つい3,4年前に父親と違った意味で”憲法”を話題にした事があります。 (明治憲法は実にしっかりしていたと、父親の意見でした。私は憲法九条を守る派になっていましたので、 ただ意見としてききました。) G (友達の少ない私ですが)子供達の友達の親ごさんとは、”子どもは戦争にやりたくないものだ”と云う事まで(しか話題に出来ない) というのが現実。日常生活の中で”憲法”の話題は取りあげにくい件です。 H 時代の流れもあり、諸々の変化はあるとしても、”九条の文言””主張”に変更があってはならないと考えています。 *明治生まれの祖父母と、古い上にも尚古い”一族”のただ中で育ちましたので、国民学校入学時、その後の「新憲法」が発行後も、 すでに”古い”慣習が、しっかり心にも身にもしみついていました。そして、それが今も私の生き方に深く影響しているのが現実です。 国の外から”日本国”を見た時には、”芯”のない、よりどころのない”国”に見えました。 |
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