日本・韓国・台湾などのハンセン病問題に長い間取り組んできた、会員のむらかみあやこさんが、
ハンセン病問題と憲法との関わりについて、鋭い視点で語ります。



「ハンセン病と憲法」


    ー玉城シゲさんの場合ー     むらかみ あやこ

(1)ハンセン病略史

   ハンセン病の患者・元患者さんたちは、「らい予防法」という法律によって、全国に13カ所ある国立ハンセン病療養所に隔離されていました。

 らい予防法の前身である
「らい予防に関する件法律第11号」  は、日清・日露戦争に勝った日本が、世界の一等国入りを目指すにはハンセン病患者の存在は国の体面を汚すと、放浪患者を療養所に収容する目的で1907(明治40)年に制定した法律です。その後、すべての患者を厳しく収容する 「癩(らい)予防法」(旧法) へと改定されました。次第に軍国主義化し、日中戦争、大平洋戦争と、戦争を拡大するにつれ、軍人として国の役に立たない患者、国力を弱める患者は、「日の丸の汚点」「国辱」「一族の恥」だということで家族から縁を切られたり、「民族浄化」「社会防衛」のために地域から患者をなくそうという運動( 無らい県運動 )によって、住民から警察や保健所に通報され、療養所に強制収容されました。患者さんたちは、そこで存在を消して生涯を終えるしかなかったのです。

 1943(昭和18)年、アメリカで特効薬プロミンによる著効が発表され、治癒する病気となり、世界中の患者に福音をもたらしました。けれど日本では、1947(昭和22)年、新憲法が施行されて、主権在民、基本的人権が保障される時代になったにもかかわらず、旧法をそのまま踏襲した
「らい予防法」(新法) が制定され、人権無視の隔離政策は見直されることなく、平成まで引き継がれました。

 1996(平成8)年になって初めて「患者の人権」という観点から予防法が見直されて、予防法が廃止されました。とはいえ、四十数年間もの長い間、家族と絶縁し、高齢になってしまった人たちには帰る家も、故郷もありません。現在、国立療養所入所者は約3500人(平均年齢78歳)、退所者は約1350人いますが、今でもそのほとんどが病歴や自分の存在そのものを、世間、職場、家族に隠しているのが実情です。

 1998(平成10)年、九州の療養所入所者13人が、「自分たちはハンセン病という病気になっただけで、犯罪など犯していない。それなのに人権を無視されてきた。予防法を廃止したから社会復帰しても良いと言われても、社会で生活する術がない。このままでは、死んでも死に切れない。終生絶対隔離してきたらい予防法は憲法違反だ。国に謝罪と賠償を請求する」と言って、熊本地裁に
らい予防法違憲国家賠償請求訴訟 を提訴しました。

 2年半の裁判を経て、2001(平成13)年5月、熊本地裁は、「人として当然持っているはずの
発展可能性、社会の中で平穏に生活する権利 、つまり家族と一緒に生活し、学校に通い、職業を選択し、自分の家族を持ち、 希望 をもって人生を送る権利を、らい予防法は侵害した。治療法が確立された後も隔離し続けたことは、患者とその家族の人生そのものを奪った。 らい予防法は憲法違反 であり、国には賠償責任がある」と、 原告全面勝訴判決 を言い渡しました。予防法を廃止しなかった立法(国会議員)の不作為、隔離政策を改めなかった行政(厚生省)の怠慢を厳しく断罪したのです。就任後間もない小泉純一郎首相が 控訴を断念 した結果、 熊本判決が確定 しました。その直後、ハンセン病補償法が制定されて、らい予防法によるすべての被害者に補償金が支払われることになりました。

 では、戦前から戦後を通して患者さんの人権を侵害し続けた強制隔離政策とはいったい何だったのでしょうか。患者さんたちは療養所でどういう生活を強いられていたのでしょうか。第一次原告の玉城シゲさん(星塚敬愛園/鹿児島)の人生から、以上の点について述べたいと思います。


(2)玉城シゲさんの人生

<国立ハンセン病療養所への入所>
 玉城シゲさんは、1918(大正7)年、沖縄の網元の家に生まれました。シゲさんは、沖縄本島の女学校に通っているとき、親から「ハンセン病だから学校に行ってはいけない」と言われたのですが、それでも学校に行きたくて、那覇の兄の家から女学校に通っていました。親類の医者がつくってくれた大風子油という漢方薬の丸薬を飲んでいたので、病気が進行することなく、学校での身体検査にもひっかかることはありませんでした。
 けれど患者に対する取り締まりが厳しくなったので、やむなく退学して実家に帰っていたある日のこと、保健所から医者が診察に来て、療養所へ行くように勧められました。きれいなパンフレットを見せられ、鹿児島にできたばかりの星塚敬愛園へ行けば、勉強も続けられるし、習い事もできるからと説得されて、シゲさんは療養所に入ることを決心しました。

 
らい予防法6条:らいを感染させるおそれがあると診断した場合でなければ、入所の勧奨を行うことはできない 

<強制労働>
 行ってみたら、医者の話がウソだと知ります。療養所に入ってすぐ、「偽名は何にするか」「(葬式を出すために)宗教は何にするか」と聞かれ、解剖承諾書に署名捺印を求められました。シゲさんは、治ったら家に帰るつもりだったし、悪いことをしていないのだから、と「本名で通す」と答えました。

 ある入所者は、婚約者と別れ、32歳で入所して偽名に変えたとき、「過去をすべて捨てて、命果てる日まで逃亡者のような人間になるのだと思って、絶望感に押しつぶされそうだった」と言います。

 入所者同士でさえ、万が一、自分が療養所にいることがバレて、家族に迷惑がかかることを恐れて、本名を変え、お互いに出身地を隠して暮らしていました。

 入所するとすぐ、健康な人はすぐに患者作業が割り振られました。「働くために来たんじゃない。治療するために来たんだ」と職員に抵抗すると、「国の世話になっていて、あんただけ勝手なことは許されない。働かない者は減食だ」と言われ、否応なく働く羽目に陥りました。

 当時、療養所は開設されたばかりで、税金をなるべく使わずに運営するために、ほとんどの作業を就労可能な患者にあてがっていました。重症患者の付き添い、病院での雑役、洗濯、清掃、土木作業、養豚、養鶏、製茶、死体運搬、火葬など、ありとあらゆる作業が患者に強要されました。
「あんたはハンセン病患者だから」という理由で入所させられたのに、入所すると今度は「あんたは健康なのだから働け」と強要されました。入ったとたんに、「患者」から「健康人」に変わるのだから、療養所というところは、不思議なところだと、多くの人が言います。

 
憲法第25条:すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する 

 
憲法18条:何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服されない 

 このように、どこの園でも患者さんたちは何種類もの園内作業を強制されました。作業で手足に傷をつくっても、満足に治療してもらえなかったために、傷口が化膿し、骨まで達したり、あるいは無造作に切られたりして、手足の指を失ってしまった人が多くいます。それは後遺症なのですが、「病気がまだ治っていない」とか、「骨が解ける病気だ」という偏見が根強く残っていて、差別の原因となっています。

<懲戒検束規定>  
 園内に監禁室があると知ったシゲさんは、「それは恐ろしかったですよ。監禁された人から話を聞いたら、職員に抵抗できなくなります」と言います。  

 職員に反抗的な態度を見せたり、無断外出、逃走して捕まると、
懲戒検束規定 に基づいて、園内にある監禁室に監禁されました。それでも反抗的だとみなされると、裁判も無しに栗生楽泉園(草津)にある特別病室という重監房に収監されました。重監房は、人目につかない松林の中にコンクリートで造られました。冬には零下20度にもなるというのに暖房設備がなく、蒲団は掛敷1枚ずつで、食事は梅干しに大根などの混じったご飯が茶わん一杯と水だけ。衰弱死したり、冬に亡くなった人の多くは凍死でした。

 
憲法第31条:何人も、法律の定める手続きによらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない 

 
憲法36条:公務員による拷問、及び残虐な刑罰は、絶対に禁ずる 

<結婚の条件>
 やがて戦争が始まったのでシゲさんは、沖縄に帰るに帰れず、結婚しました。どんなことがあっても、二人で故郷に帰るという希望があったので、妊娠したことを隠していたのですが、医局に知られて、中絶するように強いられました。

 当時、療養所で結婚するには条件があって、結婚を届け出ると男性は不妊(断種)手術、女性が妊娠すると中絶手術を強要されました。

 (注)不妊手術と妊娠中絶手術は、大正4年から結婚の条件として、多磨全生園で実施され始め、1948(昭和23)年の
優生保護法 で明文化されるまで、法的根拠がないまま、全国の療養所で強要されていました。遺伝病なら許されるというのではありませんが、 優生保護法 では遺伝病でない「らい」が、他の遺伝病と一緒に人工妊娠中絶手術の対象とされました。

 シゲさんの手術を担当したのは眼科医の女医です。7ヵ月になった赤ん坊が引き出される間に気絶してしまったシゲさんは、看護士に頬をパンパン叩かれて、目を覚ましました。膿盤に乗せられた赤ん坊は、黒々とした髪の豊かな、女の子でした。看護士が濡らしたガーゼで鼻と口を押さえると、その赤ちゃんは手足をバタバタさせ、へその緒がピクピク動いていました。生まれてすぐに看護士の手にかかった赤ちゃんは、そのまま連れ去られたので、シゲさんは自分の子どもを抱くことさえできませんでした。

 あるとき、父親が訪ねてきました。子どもの声がしないのに気付いた父が不審に思って尋ねると、一緒にいた友人が答えました。「ここでは子どもは、生まれても殺されるんです」と。シゲさんの子どもも殺されたと知って、驚いた父が「ここはなんというところか。医者が子どもを殺すなんて。日本には法律というものがあるのだから、裁判にかけなければいかん」。シゲさんが「私たちは、その法律によって閉じ込められ、家にも帰れないし、子どもまで殺されたんだ」と言うと、父親は畳を叩いて悔しがったそうです。

 シゲさんの一例をとっても、法治国家である日本という国で、ハンセン病療養所は法律の及ばない治外法権であったといえましょう。

 国賠裁判のあと、再びこのような過ちをくり返さないために、ハンセン病問題検証会議が全国の療養所を訪ねて、歴史的実態の調査、検証を行いました。その結果、全国の療養所で115体の
胎児と臓器の標本 がホルマリン漬けになって放置されていたという事実が明らかになりました。中には母親の名前が書いてある瓶も見つかっています。

 全原協(原告団)と全療協(入所者協議会)は、まず被害者のプライバシーを尊重して、それぞれの方から意向を聞き、どのように弔うべきかを検討し、現在各療養所で厚労省による被害者への謝罪とご供養を行っています。とはいえ、それでこの問題が解決したとはいえず、引き続き「胎児標本問題」の真相究明が求められています。

                  むらかみ あやこ  (2006/10/10)






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up date:2/2005 byゆうなみ