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〜第10回 こんにちは、さようなら〜


 1993年 3月10日

 朝食は、トースト&チャーイ。パンのサイズが小さい。まあ、全部で7Rじゃあ、こんなものか と、了承する。
 松藤は、どこで覚えてきたか知らないが、目玉焼きの焼き方を一々、
 「サニーサイドアップ(片面)で。」
と、指定するのだが、毎回、裏表ひっくり返して焼いた奴が出てくる。
 「おい、インドにはこの焼き方しかねえんじゃねえのか。」
 「いや、あるって。」
 「その根拠は?」
 「あるやろ、それくらい。」
しかし、旅行中、彼の希望は叶えられることは無かった。海外では、サルモネラ菌に汚染された卵 が、結構多い、という話も聞いたことがあるので、しっかり火を通して食ったほうが良かろう。



 部屋に戻ると、1人のインド人が入ってきた。彼曰く、
 「いつまで、インドにいるんだ?」
 「ああ、あと10日位かな。」
 「次の目的地の、チケットを取ってきてやるよ。ああ、大丈夫、私はここの職員だから。ほら。 」
と、名札を見せる。スペルはよく覚えていないが、確か、K.C.ベハネ、とかいう名前であったと思 う。
 「そんなの見せられても、お前がインド人である限り、そう簡単には、信じるわけにはいかんのだ。」
 それ以前に、まだ、次にどこに行くかを全く決めていないのである。それを告げると、
 「じゃあ、次に来るまでに決めておいてくれ。また後で来るよ。」
と、出ていった。
 さて、協議。しかし、ベハネに言われなければ、全く計画を建てる気も無かったのかと、改めて、己等の計画性の無さを実感するに至る。
 「そうだ、宮下、早く帰らなきゃいけねえんだっけ?」
 「そう、研修があるんだよ。」
ということで、17日には、カルカッタに戻らなければいけないらしい。私はこの事実を、この時に
なって初めて知った。
 「うむ、ボンベイは、無理だ。」
ちなみに、カルカッタからプリーまでは、電車で10時間、カルカッタからマドラスまでは、27時間。
 「夜行使って往復すると、3日費やすくらいか。」
 「行って、帰って来れるな。」
 「ああ、めんどくせえな。」
 「じゃあ、この辺の近いとこ回って、北上するか。」
 「そうすんべ。」
 決定。マドラスもボンベイも捨てて、またカルカッタ方面に引き返すことにした。人生、行当た
りばったり。
 「いつ、出る?」
 「ここ、結構居心地良いよな。」
 「取り敢えず、ヒンズー教の聖地っていうのがいくつかあるから、そこ行くか。」
 「何で、こんなにいっぱい有るとやて。」
 「国がでかいけんやないや。」
 そのうち、ベハネが来た。
 「13日発で、ブバネーシュワル行きの奴をお願いします。」
 「OK、じゃあ、400Rね。」
と、料金表を見ながら、金を請求してきたので、渡すと、
 「午後に、持ってくるよ。」
と、ニコニコしながら出ていった。
 「おい、本当に職員か?」
 「しらん。」
とにかく、チケットは彼に任せ、外出する。
〜この時の料金なのだが、ブバネーシュワルからカルカッタまでの夜行列車の料金も含まれて いたようだ。〜


 ここには、ジャガンナート寺院という、でかい寺院がある。というより、プリーの街より先にこ の寺院があり、その門前町がプリーだそうな。
 訪れてみるが、中には、ヒンズー教徒しか入れない。インドには結構、こういう寺院が多い。
 隣の図書館の屋上から、中が見える、と書いてあったので、探すが、よく分からん。辺りを 見まわしていると、先日カルカッタで会った姉ちゃん達を発見。
 「あっ、こんにちは。ここ見に来たんですか?」
 「そうなんだけど、中入れないんだよね。図書館の屋上から見られるって書いてあったんだけど、 どこか分かる?」
 「えー、わかんないです。」 
 「ああ、そう。分かった。じゃーね。」
と、再びあっさりと別れを告げ、ついでにジャガンナート寺院も後にし、
 「ラッシーが飲める公園てのが近くにあるらしいから、そこ行って休むか。」
そこを目指して歩いて回るが、どうしても場所が分からない。
 「もういいやんか、諦めようぜ。」
しかしここでも松藤が、取り憑かれたように、
 「いや、俺は絶対ラッシーを飲む。」
 散々歩き回ったが、結局発見できず。ホテルへ戻ることに。すると、待っていました、とばか りに、ベハネが入ってきた。
 「はい、チケット取って来たよ。375Rだったけど、おつりはチップでいいよね。」
 「ああそう、いいよ、別に。ちゃんと取ってきたんだし。」
 「それと、何か記念に貰えないかな。そう、このボールペンさあ、日本人に貰ったんだよね。」
そう来ましたか。しかし、今回、全くといって良いほど、余分な物を持ってきていないのだ。100円 ライターと、100円を渡し、
 「そのライターと、そのコインは同じ価値だ。」
と、言うと、
 「ああ、有難う。(ちっ、今日はいまいちだぜ)」
と、思ったかどうかはしらんが、ちょっとがっかりしたように、肩を落として出て行った。
 「この、罪悪感は、なんだ?俺が、悪いのか?」
 この様子を、“インドでは100円ライターが珍重される”という妙な知識を吹き込まれていた 吉田が、複雑な思いで見ていた。
 「わざわざ日本から持って来たこのライターの山は、どうしろというのだ?」



 プリーで、バッグパッカーが集まる場所は、我々のホテルから1kmほど離れた地域になる。晩飯 でも食いに行ってみようと、リクシャーを拾い、行ってみる。
 「2時間後に、ここに来てくれ。」
と、運ちゃんにお願いして、散策する。
 店が何件か集まってはいるが、辺りは暗く、歩いているのが何人か、分からない。
 「おう。」
 「あー。」
 「なに、もう飯食った?」
 「食べちゃいました。」
 「どこで?美味かった?」
 「うーん、まあまあかなー。」
 「あっ、そう。じゃーねー。」
これが、彼女達に会った最後だ。「どこから来たの?」「えっ、名前は?」「良かったら、一緒に 飯でも食う?」というような会話は、全く無し。覚えているのは、1人毛深い姉ちゃんがいたことくらいである。

 夕食は“harry’s cafe”にて。ここには、接客をやる子供が2人いて、妙に人懐っこく、楽し いのだが、味は、まあ、こんなものか、と。
 ここには、ナンは置いていない。チャパティーとカレー、それに初めてメニューにあった、ダー ルという、豆スープを注文。この食事の料金を記録していないのだが、恐らく、10R(50円)はい っていないはずだ。
 ダールは、塩味の極薄い味噌汁の様なスープで、
 「うん、素朴な味だ。」
あるいは、
 「飽きの来ない、まずさ。」
誤解の無い様に言えば、このダールもまたガイドブックに“毎日飲みたくなる”という書かれ方を されていたので、その文による先入観に比べると、
 「毎日飲んでも、飲まなくても、どっちでもいい。」
という感想に至ったのである。

 待っていたリクシャーに乗り、ホテルに戻る。フロントの従業員が尋ねてきた。
 「リクシャー、いくらだった?」
 「片道5rだ。」
 「うーん、ちょっと高いな。」
うーん、と唸るほどの料金でもないでしょう。25円だよ。それなら、ベハネに払った100Rは、何だ。よく考えると、法外なチップなんじゃねえの?ここの職員だって言ってたぞ。
 値段交渉は、疲れる。リクシャーも、オートなら、交渉しようと思うが、自転車のは、2人乗 ったら、もう重たそうにしているので、多少甘くもなる。オートにはまだ乗ってない。

 ようやく、旅行の疲労も見え始め、このころから性質の悪いインド人のことを“度人”と呼ぶよ うになる。
〜インドを旅行中は、ずっと、「ぼったくられてたまるか」という気持ちでいた。でも、こだわ っていた金額は、数十円か、せいぜい、数百円のことだった。
 あとで考えると、相手の言い値のまま払ってもよかったかなという気がする。当時は、日本人 は海外でなめられてる、という気持ちがあったからだろう。
 インド人が、「今日は日本人相手に大儲けしたぜ」と、どんちゃん騒ぎをしているのを想像す るのは、それはそれで愉快なことだったような気がする。(by 吉田)〜


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