京の丑寅(北東)の方角にある禅宗の寺だが、 七福神も祭ってあり、特に商売繁盛の御利益があるとして寄進が絶えない。 本堂の屋根の上に赤い大きな猿の像がユーモラスに立ち、邪を祓い去るまじないだという。 参道の両側は大きな楓が覆いかぶさり、紅葉の名所として名高いが、この辺りの紅葉はもう遅かった。 訪問日2004/12/6 訪問者;あらき・かわむら・しとう・とだい |
参道の入り口。 | 「禅院」のはずが、大きな「赤山大明神」の提灯が。 |
屋根の上の猿像は鳩よけの網がかかる。 | 大きな数珠の輪くぐり。くぐると厄を落とせる。 |
洛北の中心的な門跡寺院。 比叡山西塔北谷にあった東尾坊が平安後期に曼殊院と称するようになり、 明暦2年1656年現在の地に移る。 後水尾天皇の猶子(父は桂離宮を造営した八条宮智仁親王)良尚法親王がこの地に移し、 庭園、建築の造営に心を傾けた。 建物は書院建築で、桂離宮との関連が深い。 訪問日2004/12/6 訪問者;あらき・かわむら・しとう・とだい |
左上;曼殊院の入り口。城郭への入り口のような趣で俗世を遮断する。 右上;本堂に至る廊の前の庭。 左;本堂の東の崖に散る紅葉と松の緑。 |
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三河武士で代々徳川譜代の臣であった石川丈山は、功名を立てた大坂夏の陣の後、 徳川家を離れ、京都で文人として学問の道に進む。 老母の孝養のため、一時広島浅野家に仕えたが、 母の死後、 京に戻り、五九歳で詩仙堂を造営。 清貧の中で聖賢の教えを実践し、九〇歳の天寿を全うした。 丈山は偉丈夫で身の丈は190cmあったといわれる。煎茶の開祖。 訪問日2004/12/6 訪問者;あらき・かわむら・しとう・とだい |
左上;一乗寺下り松のバス停から東に道を辿っていくと、詩仙堂の入り口。
右上;石段を登ると小さな茅葺きの門がある。 中左;中庭に降りるとサツキの植え込みの上にそびえる嘯月楼。 ここから京の町が見渡せることから、丈山は幕府の隠密として京を見張っていたとする説あり。 中右:東山をすぐひかえて、杜の木と庭の植え込みが景をなす。 左;庭から遠く詩仙の間をみる。白山茶花の古木と枯れ尾花とが映え合っている。 |
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