「維新は寺田屋の一室から生まれたり」 と言われるように、明治維新のメインステージとなったところです。
ここでは、二つの事件が起きています。
一つは、有名な坂本龍馬襲撃事件。
もう一つは、薩摩藩粛正事件。こちらは「寺田屋騒動」ともいわれています。
この二つの事件の名称がごちゃごちゃに表記されているものもあるらしいですが、それぞれ別の事件です。
と、いうことを踏まえて、細かくご紹介していきます。
◆当時の寺田屋を14代伊助の公証により復元した図(パンフレット掲載図)
文久2年4月23日(1862年5月29日)、薩摩藩尊皇派が、薩摩藩藩主の父で事実上の指導者・島津久光によって粛清された事件。別名「寺田屋騒動」という。
当時、公武合体路線の久光に不満を持った薩摩藩の過激派と他の藩士達が、寺田屋に終結していた。
彼らは、関白九条尚忠・京都所司代酒井忠義邸を襲撃することを決定し、相国寺獅子王院に幽閉された尊融法親王をお助けし、島津久光に詔りを賜り、幕府を誅伐するとの過激な計画を実行しようとしていた。
これを知った久光は、鎮撫使を差し向けるが失敗。
有志の義挙を断念させることができず、同士討ちの斬り合いになった。
この戦闘で、急進派側の藩士はその場で6名が死亡、また2名の重症者(翌日藩命に背いた罪で切腹)を出し、鎮撫使側も1名死亡した。
後の尊王派志士達は、鎮撫使の一人、大山綱良らの刀を捨てての必死の説得を行った結果、投降し終幕した。
その後、急進派の藩士が1名自刃して果て、これを加えて、事件の死亡者は10名になった。
急進派の藩士の遺体は、寺田屋より700〜800メートル北にある藩の菩提寺である大黒寺に葬ったとされている。
九烈士の墓には、西郷隆盛の筆による墓碑が一緒に並んで建っている。
西郷は泣きながら、亡き同志達の為に墓碑を書いたという。
また藩は、同士討ちを恥じると共に、迷惑をかけた寺田屋に対し、乱闘で破損した家財一切を即日に修復をさせると共に、多額の金子を渡し他言を禁じたという。
この事件によって、朝廷の久光に対する信望は大いに高まり、久光は公武合体政策の実現のため、江戸へと向かった。
この事件が発生する前の4月16日、久光は近衛忠房らに公武合体を説いた意見書を提出し、朝廷から浪士鎮撫の勅命を受けていた。
よって、薩摩藩の内輪もめという説は、再考が必要かも…という意見もあるらしい…。
お登勢は滋賀県・大津で旅館を営む大本重兵衛のニ女として生まれ、18歳で6代目伊助に嫁いだ。
伊助は京都木屋町の妾宅に居座り、寺田屋の一切は、お登勢の手に委ねられた。
働きずくめのお登勢の道楽は人の世話であり、身分に関係なく、頼まれたことは嫌だといわずに、何でも引き受けたという。
寺田屋は、伏見の中でも屈指の船宿だった。
他の船宿よりも船頭の人数が多く、船足の速さが評判になり、お登勢の接待目当ての客が集まり大繁盛だった。
お登勢自身にも子はあったが、さらに5人の捨て子を育て上げ、いつも何人もの食客や居候を抱えていた。
とくに勤王の志士を献身的に援助し、時には体を張って志士たちを庇護した。
そのため、幕府から一時は危険人物と見なされて、牢に入れかけられたこともあった。
寺田屋騒動の時、有馬新七ら9人の法要を、当初、薩摩藩が営まないと知ると、お登勢は寺田屋の仏壇に位牌を置き、自ら供養した。
彼女に何度も庇護された坂本龍馬は、お登勢を「おかあ」と慕い、「学問ある女、大人物なり」と評し、また勝海舟も「奇女(とても優れた女)」と賞賛した。
1877年に死去したが、その後も、「勤王志士を扶助し王事に盡せし功に依り贈位の御沙汰を蒙りたり」と、
『京都維新史蹟』などに記載されるなど、功績を賞賛されている。