壬生探索レポ

 光縁寺

前川邸を後にして、はたと思い出しました。
そういえば、山南さんのお墓ってどこにあったっけ?
記憶をたどること数十秒。そうだ、光縁寺だ!
けれど、ここでさらなる疑問。光縁寺ってどこにあったっけ?
この近くにあるはずなんだけど、どこにもない!

こんな時は、困った時の京屋忠兵衛さん!
しかし、ご主人は、親切に光縁寺の場所を教えてくださいました。
旧前川邸の前にある綾小路通り。その通りを前川邸を背にした方向から見て、右へ直進。
壬生川通りを抜けたその先にありますよ。
ご主人に感謝しつつ、早速、行ってみました。
歩いて五分くらいの距離でした。
人通りが減ってしまったので、あやふやになりましたが、途中の酒屋さんの表に手書きの表示もあって助かりました。

そして、やっと、光縁寺に到着! しかし、ここも門が閉まっている!
まさか、ここも非公開?と、思いましたが、門の横に小さな張り紙を見つけました。
「隊士の墓にお参りする方は、お見舞いとして100円を納めてください。」
この張り紙で心の重さがスッと軽くなりました。
そして、ようやく境内へ。
納入箱の横にある呼び鈴を押すと、中から住職さんが出てきてくださり、案内書を配って、いろいろと説明してくださいました。

さあ、いよいよお参りです。
一番、お会いしたかった山南さん。100年も前に亡くなった人ですが、こうして対面できるのを、ずっと心待ちにしていました。

光縁寺の正門。やばい。写真撮影失敗しました〜;;
みごとにNGです! それとも、この白い影の正体は…。
詮索してはいけませんね…(^^;;
しかし、この状態では、中に入れないと思っちゃいますよね(^^)
でも、ちゃんと入れました♪


光縁寺に埋葬された新選組隊士の一覧






過去張、墓石に記載された埋葬隊士の一覧が載っています。
その中にはその後に改葬された人もいます。
光縁寺には、山南さんだけが埋葬されていると思ってる人が多いのですが、(私もその一人だった;) 全部で28名が埋葬されました。
ちょっと、びっくりです(^^ゞ。
全員の説明をすると、とんでもないことになりますので、主な方だけ…。
  •  勘定方の河合耆三郎さん。
    新選組によって光縁寺に埋葬されたが、遺族が壬生寺に墓碑を建立した。ある日、隊費に50両の使途不明金が生じているのに気づいた河合。実家に送金を依頼して不足分を補充しようとしたものの、土方に察知され、私消したものとして切腹となった。
  •  野口健司さん。葛山武八郎さん。
    二人の墓碑は壬生塚にあるが、埋葬されたのは光縁寺。野口は芹沢粛正の時、不在のために粛正を逃れる。芹沢生前は大和屋の焼き討ちなど、一連の芹沢の不祥事に関わった。水戸派の最後の生き残りとなるも、土方らに罪を問われ、芹沢粛正の三ヶ月後に前川邸で自刃した。
  •  「御陵衛士」の伊東甲子太郎さんと藤堂平助さん。
    「光縁寺」に弔われてお墓があったが、その後、京都市東山区泉涌寺の「戒光寺」へと改葬。
  •  眞明院照誉貞早大姉。
    沖田総司の縁者といわれているが詳細は不明。戒名が女性であることからいろいろな諸説がある。この墓は、昭和51年に当時の住職が建てたもの。記録はあるが元々墓はなく、参拝者に明示するために建てられたという。


隊士の墓碑




共同墓。右端に副長助勤、四番隊組長の松原忠司さんの名前が刻まれている。
大河ドラマでも、描かれた人。
ドラマでは、忠司は自分が殺害した浪士の妻を妾として囲っており、それを土方に厳しくとがめられたたため、当の愛人・安西某と心中したという話で描かれているが、★『新選組始末記』の作家、子母澤寛の「壬生心中」での創作といわれている。ある失策から一度は切腹したが回復し、平隊士として復帰したものの、その傷がもとでなくなったという説もある。その真相は不明。
8月18日の政変時には、坊主頭に白鉢巻、手には大薙刀という異形で出動し「今弁慶」の異名をとった。池田屋騒動でも活躍している。
文久3年春、最初の募集に応じて浪士組に入隊した。
壬生村では「山南・松原」と山南についで、心の優しい人物という評判が高かった。

★『新選組始末記』…新選組研究者のバイブルといわれている三部作。



大石造酒蔵さんの墓。
大石鍬次郎の実弟。しかし、記録がほとんどなく、すべてが不明。
子母澤寛によると、祇園にて同新選組隊士今井祐次郎と口論になり惨殺されたというが、不明瞭な点が多く、全く確証はない。

副長、後に総長を勤める山南敬助さんのお墓。

このお墓の側面には、右側面に河合耆三郎、柴田彦三郎、左側面 に施山多喜人、石川三郎の名も刻まれている。
でも、やっぱり、語るのは山南さん♪

このお寺の当時の住職良誉上人と山南敬助は同じ年だった。
また、この寺の瓦には、山南家と同じ「丸に右離れ三つ葉立葵」の家紋が刻まれていた。
当時、光縁寺の門前近くには、新選組の馬小屋があり、山南も門前を毎日のように往来した。
この時代、よく、むしろに巻かれた死体が門前に放置されていたという。
良誉上人は、葬式を出せない困窮した人々の死体であっても、わけ隔てなく弔っていた。

そんな良誉上人と、思慮深く温厚な性格で有名だった山南とは、親交が生まれても不思議ではなかった。

その山南の紹介で屯所で切腹した隊士達が弔われていったが、結局、粛清派の土方と対立し隊を脱走。後に切腹した山南は三人目に良誉上人に弔われることになった。
その時の良誉上人の気持ちは、いったいどのようなものだっただろう…。
その後も、多くの隊士達が良誉上人に弔われ、この地に埋葬されていった。

この頃、死体が毎日のように転がっていたので、火葬する余裕もなく、すべて土葬にされたそうです。
そんな殺伐とした時代に、良誉上人や山南さんのような情に熱い人がいてくださったことは、本当に大きな救いになったことでしょう。
古参の隊士達からも「さんなんさん」と呼ばれて、隊士達の心の支えだったという山南さん。
いまだに熱心なファンが、山南さんを慕ってお参りに訪れるのも頷けます。





  • 光縁寺について 

正式名称は、満月山普照院光縁寺といいます。法然上人が建立した知恩院の末寺で浄土宗のお寺です。

(余談ですが、私は知恩院が経営する女子高、短大に足かけ五年通いました。この間、仏教の授業で、みっちりと法然上人や仏教のことを習ったのですが。今は、ほとんど忘れてる〜;; というわけで、どこかで習ったような説明が、光縁寺の案内書に書かれてあるのを見て、めまいを覚えました…(苦笑)

新選組のお墓があることで知られていますが、他には、幕末に平安名家と呼ばれた京都円山派の絵師、中嶋来章とその子有章の墓があります。
来章は、京都御所や二条城本丸に襖絵を残し、有章は、孝明天皇が将軍家茂や義慶等文武百官を従えての両賀茂神社への行幸を描いた屏風図を残しました。


光縁寺
[所在地]・・・京都市下京区綾小路通大宮西入四条大宮町37番地

新選組の墓参詣時間・・・午前9時〜午後5時
供養料 一人100円
(注)見物・見学はお断りします。




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