壬生探索レポ

 旧前川邸

八木邸を後にして、目指したのは旧前川邸。
綾小路通りと坊城通り角にある、とてもりっぱなお屋敷です。
大河ドラマでは、涙なくして見ることができなかった山南敬助切腹の舞台。
そして、池田屋騒動の発端となった勤皇派の志士、古高俊太郎が拷問された蔵がある場所。
さらには、最後の芹沢一派、野口健司が切腹したのも、この前川邸でした。

しかし、旧前川邸は、個人のお宅のために、「非公開」です!
期待を膨らませていったのですが、残念無念;;
現在、建物の所有者が変わり、そのために「旧前川邸」と呼ばれています。
今は、株式会社田野製袋所という工場になっています。

未練いっぱいですが、お約束はお約束。
仕方なく、正面の玄関だけを写真に納めました。

唯一、これだけを写真に納めることができました。
この門の左側にある格子のある部屋が、あの野口健司が自刃した間だった。
綾小路通りと坊城通りの角の離れ部屋が、まさにそれ!
今になって、気がついてる〜;;
この時は、そういう外観のことまで頭が回りませんでした;;
どうして、もっとじっくりと観察してこなかったんだ〜;; 後悔が募るばかり〜;;


しかし、捨てる神あれば拾う神あり!
旧前川邸でも、内部を写した絵はがきセットが発売されていて、飛びついて購入しました!
私が購入したのは、先に紹介した京屋忠兵衛さんですが、旧前川邸では、土日と祝日に限り、門内を公開されていて、当時の勝手口にあたる土間がグッズショップと資料パネル展示場になってるそうです。
他には、50円で前川邸の当時の見取り図を買うこともできますが、京屋忠兵衛さんのご主人は、無料でこの見取り図をわけてくださいました♪
ご主人の優しい心使いにとても感激〜♪

旧前川邸の絵はがき。11枚セットで700円。これはそのうちの一部。
この写真を見るだけでも、当時の面影がそのまま残っているのがよくわかります。
ポストカードが購入できるのは、「旧前川邸」
東京都日野市高幡不動尊前の「高幡まんじゅう松盛堂」
日野市石田の「土方歳三資料館」
(製作:鞄c野製袋所)
◆写真解説◆
・縁側から望む野口健司が自刃した離れの部屋の壁。小さい写真は通りから離れを見たところ。白い壁の向こうの板張りが、山南
 敬助が自刃した部屋の壁になる。当時は、明里と別れを交わしたという出窓がついていた。
・古高俊太郎が拷問された東の蔵の内部。箱階段と昇降用のロープ。床下は金庫として利用。
・どこに取り付けられていたのかはわからないが、近藤勇が書いたといわれる落書きがある雨戸。表に、「会津 新選組隊長 近藤
 勇」、裏に「勤勉、努力、活動、発展」と書かれてある。(一説には、養子の近藤周平が書いたものともいわれてる。)
・納戸の下に作られた抜け道。当時は坊城通りに抜けられるようになっていた。(今は埋められている。)




  • 前川邸ご訪問 

長屋門から屋敷の中をのぞいても、その敷地の広さが想像できると思います。
屋敷の総坪数は443坪。土蔵を抜いた建坪が273坪の平屋建てです。
部屋は12間。畳数にして146畳もあります。そんな広い家なので、納戸部屋は日中でも真っ暗でした。
土間は、天井も高く、人を乗せた馬四頭が並んだまま裏庭に抜けることができました。土間の一隅が炊事場でした。
隊士達は、雨の日にその土間で剣術の稽古を行ったそうです。
前川邸では、近藤一派が宿泊しました。そして、芹沢粛正後も近藤一派が住み続けたので、幹部クラスの隊士達が好んで使用したといわれています。
そのため、前川邸が実質上の本営となっていきました。


 前川家の見取り図です。いただいた見取り図を参考に描いてみました。
以下、説明させていただきます。(見取り図現物は、無断転載禁止。)


1 野口健司切腹の間。4畳半のこじんまりした部屋。
2 山南敬助切腹の部屋。部屋の中心にある八畳の間。壁には明里との別れの出窓があった。また、この出窓は物見の窓であり、監視のために使われていた。今は現存しない。
3 納戸の下に作られた抜け道。山南自刃の間の下を抜けて坊城通りに通じていた。
4 裏庭の勝手口。扉を開けると前に八木邸が見える。隊士達は、正門よりもこの勝手口を頻繁に利用したといわれている。
5 東の蔵。古高俊太郎の取り調べが行われた。
6 馬4頭分の広さを誇る土間。現在のショップはここにある。
7 屯所になってから作られた出格子。現在は別のものにとりかえられているが刀傷が二太刀残っている。



  • 前川邸と新選組 

前川家の中祖は、越前の国主、朝倉左衛門督義景です。その後、織田信長に落城されて近江に逃れ、姓を前川と改めます。その後、京に移り住み、前川家は商いで成功を収めます。
代が進み、その子孫の子が郷士身分の取得を望み、壬生の八木重次郎の家を相続。次の代から姓を前川に改めたことで、壬生の前川家が誕生しました。
本家の財力から想像しても、前川家は八木家を凌ぐ郷士だったことでしょう。

前川本家は、掛屋として公権力機関のご用達を務めていました。御所や所司代の公金出納を担当し、町奉行の資金運用も任されていました。役人衆が前川に寄せる信頼も厚く、浪士組の宿舎を選定する時に、市中情勢にも詳しかった前川本家がその仕事を任されました。
前川本家では、壬生の土地が京の町外れでありながら、二条城にも近いという地理的条件もあって、自分の身内だった壬生の前川荘司邸を提供したといわれています。

最初に京都に浪士組が到着した時、前川邸は、浪士組の取締役であった山岡鉄太郎(鉄舟)など、幕臣らの宿として使用されました。
しかし、浪士組が引き上げた後、それまで八木邸の離れに分宿していた近藤一派が、前川邸に移ってきます。
前川家の家族は、この時に京都六角にあった本家に避難したそうです。
(どうりで、大河の中でも、前川邸の人が一人も登場しなかったわけだ…。)

一方、前川邸にやってきた新選組ですが、屯所になったことで外部から襲撃されることを考えて、前川邸を改築して要塞化していきます。

板塀だった屋敷を取り囲む塀をほとんど土塀に改築。西側だけにあった長屋門の出格子を東側にもとりつけ、抜け穴を作り、池田屋事件後は、勤皇派の報復を想定して、会津藩から借りた大砲まで備えました。
屯所に決めた当初は、刺客の襲撃を恐れて奥の部屋で、近藤、土方も隊士達と雑魚寝をしました。隊士が増えても手狭になって、夜は便所に通うのに寝ている隊士を踏みつけたり蹴ったりと大変だった様子。
日常、勤務を割り当てられた隊士達は、それぞれの部署につきますが、非番の隊士は、碁や将棋をしてくつろいだそうです。
外出も自由で、気の合うもの同士、寺社めぐりや名所旧跡巡りをして楽しみ、また、壬生の人々の畑仕事を手伝ったりと、村の人達とも親睦も深めたといいます。

彼らが一番長く住んだのがこの前川邸でした。
二年間屯所となり、その後、新選組の警備区域だった西本願寺に屯所が移ります。

その移転の際に、新選組が置いていった迷惑料が十両でした。
確かに、八木家の倍ですが…。
敷金礼金の割合から考えると、ちょっと割があわない気が…。と、前川邸の人が思ったかどうかはわかりません。

しかし、(注1)某アイドルグループ主演のバラエティでやった、ドラマコントの隊のせこさは、案外、史実に通じるかも…(^^;;

  •  (注1)某アイドルグループ主演のバラエティでやった、ドラマコント…
某アイドルグループとは、もちろん「SMAP」。
彼ら主演のバラエティ番組といえば、もちろん「SMAP×SMAP」。
大河の最終回の翌日、三谷幸喜書き下ろしの「新選組!」パロデイが放送された。
タイトルは「局長!」。当然、近藤勇は香取慎吾。
内容は、現代のコンビニに、なぜか、新選組がいきなり御用改めに訪れるというもの。
コンビニ店員役の草g剛との絶妙なやりとりが笑いを誘った。
この時の隊は手持ちの金がなく、局長一人がやっとジャガバターを副長土方の了解を得て買えるという貧困さ。
大河の衣装を全部借りきってのリキの入れ様だった!
しかし、続編はあるのだろか…(笑)。