近藤勇ゆかりの地

 試衛館

1839年(天保10年)に天然理心流3代目近藤周助が創設した。
永倉新八の日記「浪士文久報国記事」に、試衛館の様子が記載されている。
すでに、土方、沖田、井上が門人として集い、さらに、北辰一刀流の山南敬助、藤堂平助、神道無念流の永倉新八、種田流槍術の遣い手だった原田左之助ら、他流派のものも寄食していたことは、広く知られている。
4代目を襲名したのは近藤勇だが、試衛館の塾頭に抜擢されたのは沖田総司だった。
稽古の後は、門弟達が国事を愁いて議論しあったという。
勇が上洛すると、佐藤彦五郎と幕臣・寺尾安次郎が留守を預かり、1867年(慶応3年)まで存続した。

天然理心流は、寛政年間(1789〜1801)、近藤内蔵之助長裕(こんどうくらのすけながひろ)によって創始された実践を念頭においた剣術、柔術、棒術などを取り入れた総合武術である。
稽古では、ずっしりと重い木刀が使われる。一般的な竹刀に比べると、三本分くらいの太さがあるらしい。
そして、すさまじい気組でもって相手の気を削ぐ。
勇は技術的には不器用だったらしい。しかし、腹の底から響く気合の声は、どんな者でもビクッと竦ませたという。
天然理心流は入門から免許取得まで10年、指南免許を授かるのに、さらに10年かかるといわれている。師より口伝や免状を受ける事によって伝承するが、前宗家から免状を受けたのは近藤勇までだとされている。
5代目近藤勇五郎は、天然理心流の形はほとんど行わず、おもに竹刀稽古を行っていた。
以降、現代では、九代目宗家道統を継いだ宮川家の子孫や、二代目の近藤三助の弟子の系統など、個々の継承者によって関東各所で指導がなされている。

試衛館は市谷甲良屋敷にあったといわれている。
その場所を1851年(嘉永4年)の「江戸切絵図」にある市ヶ谷牛込絵図で探すと、現在の東京都新宿区市谷柳町にあたる。
当時、その場所は賑やかな商店街だった。その商店街にあって、近藤周助の身元保証人が所有する蔵の裏手に試衛館があったと、その子孫の家では伝わっている。
以上のことから、現在、試衛館は、東京都新宿区市谷柳町25番地にあったと考えられている。
試衛館は近藤家の住居も兼ねていた。
が、後の近藤家の住居は一本北側の二十騎町(にじっきまち)に構えたといわれている。それは、新選組が幕府直参となった後のことだ。
(幕府御先手組(おさきてぐみ)与力二組の屋敷地で、一組が10騎編成だったので、その名が残っている)
一説では、試衛館は市谷甲良町1番地にあったともいわれているが、同地には、明治10年代まで吉野元順という医師が、代々「回春塾」という医塾を開業していたことが『東京府学事開業調書』によって確認されている。

ただし、25番地内での詳細な位置は今後の研究課題である。

グレーに着色した場所が、試衛館があった場所と考えられている
  
2004年3月、建立された記念碑。
東京都新宿区教育委員会が「市谷甲良屋敷=市谷柳町25番地」という説に基づき建立。
 25番地のど真ん中にある稲荷と石畳。
 試衛館時代にあったのかは不明。
 建物は大正期のものらしいが、石畳は当時の
 ままらしい…



「市谷柳町試衛館」という同好会の皆様によって貼られた案内図。
町内の回覧板に貼られていた。
案内図によると、「市谷甲良屋敷」といわれたが、このあたりは酒麹屋などが軒を連ねた商店街だったと記されている。
試衛館は、酒麹屋の敷地内にあったという。
どんだけ狭い道場だったんだ…と思うんだが、やっぱり、貧乏道場だったから…?

現在の地図上での位置

古地図での位置


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