近藤勇ゆかりの地

 調布周辺




2008年10月20日。
訪れたかった局長ゆかりの地を巡ってきました。
まず、行ったのは調布周辺の地。
地図を参考に説明すると、近藤勇の生家跡と、近藤勇の墓がある龍源寺です。
三鷹市と府中市を結ぶ人見街道と小金井市に通じる道の交わる辻にあります。
近くの野川公園は市民の憩いの場になっていて、この一角は交通量も激しいです。
この時は車で現地に行ったのですが、休日ということもあって、周辺はすごく混雑していました。

 近藤勇と生家

近藤勇は、1834年(天保5年)に武州多摩郡上石原村(現在の調布市)に住む富農・宮川久次郎の三男として生まれた。幼名は勝五郎といった。
末っ子だった勝五郎は、父の愛を一身に受けて育ったという。
父親から「三国史」や「水滸伝」などを読み聞かせてもらい、これらを通して、忠孝の思想的観念を芽生えさせたと考えられている。

勝五郎は子供の頃からケンカに強かった。
武道にも関心を抱き、嘉永元年(1848)、兄二人とともに近藤周助の門に入門。
この時、勝五郎は15歳。その後、入門から半年あまりで天然理心流の目録が与えられた。
目録を受けてから少したった頃、実家の宮川家に盗賊が押し入った。
勝五郎は、その際、兄と率先して盗賊を遁走した。この話を聞いた周助は、勝五郎の度量と技量に感服し、近藤家の養子に迎え、天然理心流四代目を継がせようと決心したといわれている。

実家の宮川家は豪農というだけあって、屋敷は7000uもあり、木々が生い茂る威風堂々とした屋敷だった。
敷地内には、寺子屋や天然理心流の道場があり、勇の子息の他近所の子らを集めて学問と武術を指導した。
勇が天然理心流宗家に養子に入った後、宮川家は出稽古先として大いに賑わい、また勇が新選組局長となると、立身出世を夢見る若者たちが、こぞって剣術を習うようになった。
門人の数は、一時3,000名を数えたと言われている。

しかし、戦時中の調布飛行場延長工事により生家は取り壊された。
現在は、近藤勇を祀った小さな祠、産湯の井戸が残るのみで、井戸は屋敷の南東隅に位置し、取り壊されるまでは、宮川家では生活用水として使用していた。
昭和52年、近藤勇生家跡として、調布市史跡に指定されている。

勇には男子がいない。
そこで、勇の娘・たまの婿養子になった長兄の次男でもある宮川勇五郎が、近藤姓と天然理心流宗家を継承した。
勇五郎は明治9年に、父(勇の長兄)から分け与えられた屋敷内の納屋を道場とした。
この道場が「撥雲館」(はつうんかん)である。(写真未掲載)
「撥雲館」の命名は山岡鉄舟。
鉄舟は元幕臣で、近藤たちが浪士組に参加して上洛したときの浪士組取締役だった。
「撥」という字は「とりのぞく」の意があり、「撥雲」は、暗雲を取り除いてもらいたいという意味で名づけられたことがわかる。

その後、手狭になった道場は、門下生の協力で昭和7年、北側空地に改築し、盛大な道場開きが行われた。
勇五郎はその翌年に83才で他界したが、その後も、道場は門人たちの手で維持され、昭和50年代まで稽古が続けられた。
戦時中の調布飛行場の建設に伴う勇五郎宅の取り壊しの際にも、門人たちの熱意によって、道場は勇五郎の娘の嫁ぎ先である東隣の峯岸家の土地に移築された。
さらに戦後、人見街道の拡幅のため再移転する時、再び近藤家敷地内の現在地に移築されて今日に至る。

  [所在地]…調布市野水1-6-8


現在の生家跡

井戸の横にある近藤勇の祠

「近藤勇産湯の井戸」と書かれてある

取り壊される前の宮川家の母屋と見取り図
立て札には近藤勇の生い立ちなどが書かれてある



 近藤勇の墓と龍源寺

生家跡から三鷹市役所方面へ人見街道を歩いていくと、数分で同じ左側に見えてくる。
曹洞宗大沢山龍源寺といい、1644年(正保元年)、徳川家光の時代に開基された曹洞宗の寺。
近藤勇の生家、宮川家の菩提寺で、境内は、子供の頃の勇の格好の遊び場だったようだ。

奥の墓地に東京都指定文化財になっている「近藤勇の墓」がある。
墓所には、甥・勇五郎や妻・つね、勇五郎の子久太郎、新吉らの墓もある。
他には、勇とツネの写真、心身の鍛錬に使った特大の木刀、勇の羽織袴、新選組の金銀出入り帳などの遺品が残されているという。
また、隣には宮川家の墓があり、沖田総司が率いた新選組1番隊隊士・信吉(勇の従兄弟)も埋葬されている。

子母澤寛の小説「新選組始末記」によると、近藤勇が処刑された時、甥の勇五郎は、近藤の妻・ツネと娘・タマとともに、中野の成願寺に身を寄せていた。
勇五郎の父であり、勇の兄だった音五郎は、近藤捕縛の報らせを聞いて以来、何度も刑場になる板橋に足を運び、様子を覗っていた。
そして25日。ついに処刑が行われるとの噂を耳にした音五郎と勇五郎らは、勇の処刑の現場を目撃する。
勇の胴体は板橋の刑場に埋められた。
しかし、翌々日の27日。勇五郎は音五郎と勇の門人らとの相談の結果、刑場の番人に包金を握らせ、その夜のうちに、首のない遺体を掘り起こし、三鷹の龍源寺まで運んで埋葬したといわれている。

それも諸説いろいろあるようで、実際のところ定かではない。
少なくても、故郷に戻れただけでも勇の思いは報われたのではないだろうか…
墓所はひっそりとした、ただずまいの中にあり、今の時世を見続けているかのようだ。

 [所在地]…三鷹市大沢6-3-11



龍源寺本堂前の道。
本堂手前には左右対になった樹齢300年と推定される大銀杏がある。
このイチョウの木は、近藤勇が幼い頃、兄を手伝って植えた木だと伝えられている。




山門の左手にある「近藤勇胸像」
同じものが壬生寺と町田市の小島記念館にある。



門前左にある「史跡近藤勇墓所」の碑と「近藤勇と天然理心流」の石碑。
「近藤勇と天然理心流」の石碑は、昭和63年3月に三鷹市剣道連盟が建立した。
碑文には、天然理心流の歴史と現在のあり方と真髄が説明されている。
剣を必要としなくなった今でも、その真意は変わることなく存在する。


近藤勇とその縁者の墓。
花が添えられているのが、局長の墓。
その左隣は近藤勇五郎の墓。
勇の法名は「貫天院殿純義誠忠大居士」。
局長の墓はこの他にも各地に存在する。
一般に近藤勇の墓とされているのは、次の5箇所である。
 1.龍源寺(東京都三鷹市大沢)
 2.板橋駅前(東京都北区滝野川)
 3.法蔵寺(愛知県岡崎市本宿町)
 4.天寧寺(福島県会津若松市東山町)
 5.円通寺(東京都荒川区南千住)
天寧寺の墓の戒名「貫天院殿純忠誠義大居士」は松平容保公の書といわれている。
こちらに埋葬されたのは、京都の三条河原から新選組隊士が奪ってきた首であるとも、また遺髪であるともいわれる。
それらは土方歳三が建立の指揮をとったという。
また、法蔵寺は松平家の菩提寺で、松平家の墓所があり、脇に近藤勇の首塚がある。


近藤勇時世の句。
板橋板橋で幽閉されていた時に詠んだと言われ、漢詩(七言律詩)で作られている。
孤軍援絶作囚俘 顧念君恩涙更流
一片丹衷能殉節 雎陽千古是吾儔
靡他今日復何言 取義捨生吾所尊
快受電光三尺剣 只将一死報君恩
読み下し文:
孤軍たすけ絶えて俘囚となる
顧みて君恩を思えば涙さらに流る
一片の丹衷よく節に殉ず
雎陽千古これ吾がともがしら
他になびき今日また何をか言わん
義を取り生を捨つるは吾が尊ぶ所
快く受けん電光三尺の剣
只まさに一死をもって君恩に報いん



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