日野探索レポ

 とうかんの森

歳三の生誕地が、この「とうかんの森」あたりだといわれている。
寛永5年ごろ(1708年)、土方一族が稲荷大明神を祀り、代々氏神を保護してきたものと伝わっている。
この名前は、「お稲荷さんの森」という意味だが、他にも、この近隣に「とうかんや」と呼ばれる行事があって、それは、天から田の神様が大きな木をつたって降りてきて、 いろいろな作物を実らせ、お米の取入れがすむと、再びその木から天へ帰っていくといわれ、その日が十日の夜であることから 「とうかんや」と呼び、お餅をついたりする行事があることから、呼ばれるようになったとも考えられている。

カヤ2株、ムクノキ5株が密接しながら深い樹形を作っている。
各々の幹まわりは数メートル、平均樹高23メートルもあり、市の天然記念物に指定されている。
歳三が生まれ育った石田村は、多摩川と浅川が合流するあたりをいう。
現在の石田は、住宅街が建ち並び、立川と高幡不動、多摩センターを結ぶ多摩都市モノレールが走る都心へのベッドタウンとして発展しているが、歳三が生まれた頃の石田村は、水田に広がる15件ほどの小さな村だったという。
村の家は、どれも土方という苗字がつけられていた。
それぞれの家は、屋号や呼名で呼ばれ、土方家は「お大尽」と呼ばれていた。
歳三が生まれた家は、多摩川の洪水で流されそうになり、現在の場所に解体し移築されているが、この時、歳三は12歳だった。
昔、近くの浅川の河原には、石田散薬の原材料となる牛革草が多く群生していた。
それを、土用の丑の日に採取したという。現在、河原を歩いても、牛革草はなかなか見つからないようだ。
現在、土方歳三資料館に、牛革草が鉢植えされている。

  • 少年期の土方歳三

さて、一般的に伝わる歳三の少年時代の逸話では、歳三は6人兄弟の末っ子で、父親は歳三が生まれる前に他界。
母親も歳三が5、6歳の頃になくなったため、兄弟達に育てられた。中でも姉のノブを母親のように慕ったという。
農家の末っ子に生まれた歳三は、11歳で江戸上野の松坂屋に丁稚奉公に出されるが、すぐに出もどり、17歳の時に江戸大伝馬町のご服商に奉公に出される。
だが、ここでも男女問題になって辞めたとされている。
しかし、近年、いろいろな資料が発見されたことで、これらの逸話の信憑性が疑われるようになってきた。
たとえば、歳三は10人兄弟の末っ子であったことや、また、先ごろ、発表された石田村の人別帳控により、数えの11歳時は、歳三は石田村に在住しており、奉公には出ていないことも判明した。
この人別帳から、歳三が奉公に出ていたのは数えで14歳〜24歳の10年間と考えられるようになった。
また、以上のことから、17歳のときの奉公話も事実かどうかが不明になってくる。
が、いずれにしても、その後は、実家秘伝の「石田散薬」を行商しつつ、各地の道場で他流試合を重ね修業を積んだことには違いない。
十代の歳三は、武士になるという強い志を持っていた。
しかし、強烈な自我の持ち主でありながら、理想とは程遠い田舎の環境で、肌違いの商人の道を歩まなくてはならない現実に、ジレンマを感じていたと思われる。
なぜなら、その環境に歳三を生かす場がなかったのだ。

 石田寺(せきてんじ)

土方の墓がある。宗派は新義真言宗、元は高幡山金剛寺の末寺。
一時は廃寺となった場所に、1544年7月9日、多摩川に大洪水が起こり、一体の観音像が石田に流れ着いた。
それを村人が廃寺になった堂跡に観音堂を建てて安置したのがきっかけで、1593年に慶心という僧が一宇を建立、石田寺と号したという。


石田寺山門。
写真の右横に見えるカヤの木は、日野市の天然記念物に指定されていて、樹齢は400年とも600年ともいわれてる。このカヤの木は雌株。
そして、カヤの木に隣り合って建てられているのが、石田寺再興のきっかけになった十一面観音像を安置している観音堂。
十一面観音像は、北向きに建てられていることから北向観音とも呼ばれ、古くから勝負運に強く、病魔退散、子育ての観音様として知られている。



墓所はカヤの木の下をまっすぐに進むが、その前に、右手に見えてくるのが「土方歳三義豊之碑」。
土方家の家督を継いだ喜六の曾孫にあたる土方康氏が昭和43年に明治100年を記念して建立したもの。
100年前、1867年12月に王政復古の大号令があり、翌年7月に江戸が東京と改名。
同年9月に元号が「明治」と改元された。
歳三が亡くなったのは明治2年5月。
その時は蝦夷地だった場所も、同じ年に北海道に改められ、開拓使も設置され、北海道の開拓が本格化していった。
この碑には、過ぎ去った激動の時代の重さが込められているようだ。

  •   土方歳三墓碑
   


   

おそらく、子孫の方が立て替えられたと思われるお墓。比較的、新しいものだった。
墓前には、土方の写真が飾られ、5月11日の命日以外でも年間を通して、献花の絶えることはない。

ただし、土方の遺骨は、ここにはない。
本当の埋葬地をめぐって、数々の資料や証言をもとに調査されていますが、今のところ、所在は不明。
長年、函館の五稜郭内の敷地にある旧幕府軍の土饅頭が、「墓」として認識されてきた。

一説には、工事の道具置き場、廃材置き場とされていて、埋葬地にあたっては、これからも検証が重ねられていくだろう。


  • 場 所・・・日野市石田1-1-10
  • 電 話・・・042-583-6660
  • 交 通・・・多摩都市モノレール万願寺駅下車 徒歩5分


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