近藤勇ゆかりの地

 新選組隊士供養塔


  •  近藤終焉の地

武士になることを目指したが、その最後は皮肉にも罪人扱いで終わった近藤勇。
流山から官軍に投降する際、一説では、近藤は諦めの心情に近かったと表現されることがある。
しかし、どうも、その解釈に納得できない。
確かに、一度は直参旗本の名誉を受けるほどに駆け登った人物が、時代の波に押され、後年は敗走が続き、都の華やかさとは対照的な場まで追いやられることになった。
だが、武士の誇りを目指した男が、その挫折に心折れることがあるだろうか…。
ある一説で、近藤の最後の様子は「物静かだった」と表現されるものがある。
やはり、彼は罪人の汚名を着せられようとも、武士としての誇りを失わず、散っていったと、信じたいのだが…。

近藤の最後の正しい心情を知ることは、もはやかなわない。
しかし、彼と戦難を駆け抜けた永倉新八なら、その心情もおのずと感じ取ることができただろう。
土方と並んで、若かりし頃から近藤の姿を見続けた、もう一人の武士の心をもった男だったなら…。

慶応4年(1868)4月25日、近藤は処刑された。
その前、流山から近藤が投降したのは慶応4年4月3日。その後、板橋の総督府へ近藤は移される。
当初、大久保大和を名乗っていた近藤の正体が露見すると、近藤は逮捕される。
13日に板橋の平尾宿にある脇本陣・豊田市右衛門方に移された近藤は、そこで幽閉の日々を送る。
その時、土方の近藤救出策で奔走した相馬主計と、近藤の従者として、流山から同行してきた野村利三郎も、ともに幽閉された。(この二人は近藤処刑寸前に解放されている。)
近藤の処遇を巡って、その間も土佐藩と薩摩藩で対立があった。
しかし、坂本竜馬と中岡慎太郎の暗殺の犯人であると信じる土佐藩は、近藤の処刑を決定した。
処刑前日の24日、近藤の身柄は、さらに、滝野川村三軒家にある旧家・石山亀吉方へと移される。
そして、25日。近藤は運命の日を迎える。
享年35歳。
刑場跡から南にわずか離れたところに無縁仏をまつる塚があり、近藤勇の遺骸はここに埋葬されたとされている。
その後、勇五郎が掘り起こしたといわれているが、一説には、後にこの場所から近藤勇の遺体が掘り起こされたともいわれていて、今のところ、謎ともなっている。
また、首の方も、板橋で晒された後京都に送られ、三条河原において再び晒された後、所在がわからなくなっている。先にあげた寺に埋葬されているとも伝わっているが、その真実は判明していない。
しかし、一人の武士が、この地で天命を終えたことは、紛れもない真実である。

一方、永倉新八も数奇な運命をたどる。
甲州敗走の折、原田左之助とともに新選組を離脱。
その後、靖兵隊(せいへいたい)を組織して、宇都宮、会津などを転戦するが、会津が降伏すると隊を離れる。
明治2年、松前藩の帰藩が許され、江戸にいながらこの間も戦いの機会を伺っていたという。
同志にこだわった永倉は、いつの間にか、主従感覚で指図するようになった近藤に、不満を抱くようになる。
想像を交えるが、それは、永倉なりの本来の新選組のあり方を、近藤に示した態度にも思える。
それほど、永倉は新選組に、強い思いを募らせていたのかもしれない。
明治4年、身の危険を感じた永倉は、松前藩医・杉村家の婿入り養子の話を受けて、北海道の松前町に渡る。

明治8年、家督をついで名を杉村義衛と改める。
おそらく、長についたことで、永倉にも、自由と余裕ができたのだろう。
翌9年、近藤の打ち首になった場所を探し当て、近藤勇と親交があった医師・松本良順の協力で、板橋の処刑場跡に近藤・土方の墓碑を作り、隊士百余名の名を刻む。
永倉は、近藤と袂を分かったほぼ10年後、板橋の雑木林のなかを近藤の遺骸を探し、近藤の首を探しに京都の三条河原にも赴いたという。だが、時の経過のせいで、そのゆくえはわからなかった。
東京に幾度か戻るものの、15年には、樺戸(かば=現・月形町)の刑務所で、看守の剣術指南役を勤めたり、退職後も牛込で道場を開いたりと、剣の道をけっして捨てなかった。
晩年は、時々剣術指導を行いながら、家族がいる小樽で余生を過ごす。
新選組結成前からの仲である幹部13人のうち、ただひとり戊辰戦争を生きのびた永倉は、大正4年、76歳で激動の生涯を終えた。

生きることを許された古参の隊士は、一方で剣を筆に持ち替えながら、ともに生きた証を残そうと書にしたためる。
形は変化しても、永倉はこうして一人、戦い続けたのかもしれない。
同じ北の地では、土方が戦いの生涯を終えている。
だからこそ、永倉は生きることの意味を問い続けただろう。
小樽の家では近藤勇と土方歳三の写真に、手を合わせていたという。

永倉は、「近藤勇の眠る板橋に埋めて欲しい」と遺言で残した。
その思いのとおり、永倉の遺骨は、小樽と札幌の杉村家の墓と、新選組慰霊碑の立つ東京・板橋の墓に分骨されている。
家族と同志。しかし、永倉にとって、同志も家族同様の思いがあるのだろう。

近藤終焉の地には、一人の男の信望と熱い思いがこめられていることも、忘れてほしくない…。

 


 板橋新選組墓所
北区滝野川4丁目にある真言宗豊山派寿徳寺の飛び地。明治になって寿徳寺に寄進された。
近藤の刑場は、ここから数十メートル北に位置する旧中山道に接する交差点附近だという。
刑場から離れたこの場所に胴体が埋葬された。
寿徳寺には、近藤勇所蔵と伝えられている短刀が寺宝として保存されている。
刀身には「備州長船祐定(びしゅうながふねすけさだ)」の作者名と「永正10年8月日」(1513)の作製日が刻まれている。
昭和31年に個人所有だったものが寄贈された。
しかし、近藤の所有だったことは証明されていない。




 隊士供養塔
高さ三・六メートル程ある。正面には、「近藤勇 ¥ケ 土方歳三義豊 之墓」と刻まれている。
近藤勇の諱である昌宣が¥ケとされているが、明らかになっていない。
右側面と左側面には、井上源三郎を筆頭に、合計百十名の隊士などの名前が刻まれている。
裏面には、「近藤 明治元年辰四月廿五日 土方 明治二年巳五月十一日 発起人 旧新選組長倉新八改瘻コ義衛 石工 牛込馬場下横町平田四郎右衛門」と刻まれていたが、一部、判りにくくなっている。



 近藤勇石板
平成2年4月25日に近藤勇の123回忌記念として供養祭を行った時に建立された。
正面のイラストは、当時、二松学舎大の学生だった橋本美智子さんが描いた近藤勇座像がもと。裏面には、近藤勇の戒名「勇生院頭光放運居士」の文字が記されている。
この石板と同じものが、寿徳寺の門前にも置かれている。


  •   永倉新八の墓

永倉は、松前藩士長倉蔵吉の子として、天保10年、江戸に生まれた。
剣を神道無念流岡田十松の門に学び、18歳で本目録。元服し新八と名乗る。
後、脱藩し、剣術修行の旅に出る。その武者修行中に、近藤勇と親交を結び、試衛館の食客となった。
二番隊組長を務めるなど、新選組結成以来の中心人物となって働くが、一時、我儘な振る舞いが目立つようになった近藤を戒めるため、近藤の非行五ヶ条を松平容保へ訴え出て、隊の結束を強めたこともあった。
血の気が多かったのか、幾度か無茶をやらかして、謹慎処分を食らうなどの武勇伝も伝わる。
また、親族には、手負場所の一つ、「池田屋事件で斬られた左手の親指は晩年も少し不自由だった」と、伝わったりもしている。
そんな豪胆な古武士も、病気にはかなわず、1915年(大正4年)1月5日に虫歯が原因の骨膜炎・、敗血症で北海道小樽市にて死去。
新八の長男杉村義太郎が分骨して当地に墓を建てた。墓碑銘は伯爵蜂須賀正韶の書。

 

供養塔の右側にある近藤勇立像


立像の隣に建てられている蹟史
いろいろとあらましが書かれていると思われ…



近藤勇埋葬当初の墓石
近藤勇立像の後ろにある。
よく近藤勇の最初の墓と特定できたものだ。
やはり、勇五郎らの改葬説は本当なのか…



「近藤勇と新選組隊士の墓」所在地
滝野川7−8−10
寿徳寺境外墓地
寿徳寺
滝野川4−22−2

近藤勇の今の墓


他の隊士の無縁塔

 板橋宿

石神井川にかかる板橋が宿名の由来である。
当時の板橋宿は、平尾、中宿、上宿からなり、度籠は54件を数えた。
現在は、宿場跡をたどると、商店街が続き、都内最古といわれる庚申塔がある観明寺や、本陣跡の石碑が歴史を伝えている。


所の通りをはさんだ前の喫茶店。
隊士の木札と絵馬が購入できる。
周辺の商店では、ベルグ洋菓子店にマルミ洋品店でも買えるとガイド本では紹介されているが、実際には行ってないので、現地に行ったときに確認していただきたい。
 

買った絵馬は、墓所の絵馬がかかっている場所に奉納した。
絵馬は500円だった。

喫茶店で購入した木札。
家紋入りの山南、沖田、斉藤を購入。
他に永倉、土方、近藤があった。1つ400円。

探索終了報告

このレポをずっと書いていて、大河の「篤姫」のなかでの勝海舟のセリフが思い出された。
「世に比類なきお方は、何か確かなものをこの世に残し、そしてそれが、心ある人を大きく動かす。」
一説によると、京都から引き上げてきた新選組が甲府に向かうのを、一番に喜んだのが、幕臣・勝海舟だった。官軍から恨みを買っていた新選組を、無血開城に導こうとしている勝海舟は邪魔者に思ったそうだ。
その勝海舟の言葉でたとえるのも、どうかとも思うが、この言葉は、十分に近藤にも、いや、新選組の隊士達にも通じると感じている。


現代になっても、多くのファンが新選組の隊士達を慕っています。
彼らは、確かなものを残して、時代の中に、その身を消していったのです。
まだまだそのすべての足跡がたどれたわけではないけど、少しでも、勝の言葉を感じ取っていただけたら、幸いに思います。




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