鉄郎の体の下から抜け出そうと、ジョーは身をよじった。
とたんに右側の足に激痛が走る。
ジョーは足を傷めたことに気がついた。
鉄郎の背中の一部が、ゴールポストの橋脚の下敷きになっていた。
おかげで、ジョーは直撃を逃れた。
「バカ野郎!」
ジョーは鉄郎を怒鳴りつけると、周囲の生徒に激しく叫んだ。
「何してる! 早く、こいつを助けてやれ!」
すぐに動けなかったサッカー部の部員達は、慌ててゴールポストを、鉄郎からどかせた。
「バカ、何でこんなことを!」
「もうじき大会なんだぜ。どうするんだ?」
「地区の大会なら、俺がいなくっても勝てるだろ…?」
鉄郎はかすれた声でいった。
そして、助け出されたジョーに声をかけた。
「君は…?大丈夫か…?」
「よけいなことをしやがって…。」
ジョーは顔をしかめながら、ゆっくりと立ち上がった。
足を引きずりながら、その場から立ち去ろうとした。
「このままいっちまうのか? 鉄郎は君をかばったんだぞ。」
サッカー部員の一人が、ジョーにいった。
ジョーは振り返ると、言葉を吐き捨てた。
「そいつが勝手にやったことだろ。そんなに大切なやつなら、お前らで面倒を見てやれ。」
「おい…。」
「いいよ…。」
なおも食い下がろうとする部員を、鉄郎が引きとめた。
「無事だったら、それでいいんだ…。あいつの言うとおり、俺が悪いんだから…。」
ジョーは視線をそらした。
が、歩きかけたとたん、また激痛が走った。
ジョーはそのまま動けなくなった。
「君…! 大丈夫か?」
何とか上体を起こした鉄郎が、ジョーにいった。
ジョーは痛みを堪えながら、鉄郎に言い返した。
「これ以上のおせっかいはこりごりだ…。」
だが、肉離れでも起こしたのか、ジョーの右足は感覚をなくして、まったく動かすことができなかった。
「あいつを助けてやってよ…。」
鉄郎は、周囲の人間に呼びかけた。
しかし、周囲の人間は躊躇して、誰も助けに入ろうとしない。
不良達は、やばい空気を察して、とっくに散ってしまった。
「わかったよ…。」
鉄郎は苦痛に堪えながら、ゆっくりと起き上がった。
「鉄郎、無茶すんな!」
サッカー部の連中が、鉄郎を止めた。
しかし、鉄郎はメンバーの手を払うと、激痛を我慢しながら何とか立ち上がった。
「俺が、あいつを、保健室に、連れて行く…。」
鉄郎は、ふらつく体を押して、ジョーの元に歩きかけた。
が、一歩踏み出すだけで、体がバラバラになるような、痛烈な痛みに襲われる。
誰の目でも、それが無謀であることは明らかだ。
けれども、鉄郎は気力を振り絞って、ジョーに歩み寄ろうとした。
それまで、無関心を装い続けたジョーは呆気にとられて、鉄郎を見返した。
「どうして…。お前は、そこまで必死になれるんだ? 俺なんかのために…。」
「当然だろ…。全部、俺のせいだ…。だから、君を助けるんだ…。」
鉄郎は切れ切れの声で訴えた。
そこに、顧問の先生達がかけつけてきた。
ジョーと鉄郎は、そろって保健室にかつぎこまれた。
…………
二人は、保健室のベッドに並んで寝かされた。
応急処置がすんだ後で、すぐに、病院に行くように連絡がいった。
救急車が到着するまで、二人は寝たままの状態で、じっとしているようにいわれた。
「すまない。俺が浅はかだった…。君にまで、怪我を負わせてしまって…。」
鉄郎はジョーにいった。
しかし、ジョーは何もいわなかった。
鉄郎は部屋の天井を見つめると、自嘲ぎみの口調で呟いた。
「怪我するのは、俺だけでよかったのに…。だけど、これでサッカーをやめる決心がつく…。悔しいけど、俺は、サッカーをやっちゃいけなかったんだ…。」
ジョーは、初めて鉄郎の言葉に反応した。
ぽつりと聞き返した。
「勝手にベラベラと喋りやがって…。わざと怪我して、やめる口実にしたかったのか…?」
鉄郎は、首をかすかに横にふった。
「わざとなんかじゃない…。」
鉄郎は、搾り出すような声でいった。
「…ずっと、やっていたいさ…。このまま続けたら、大会にも出場できる…。Jリーグの下の有名クラブからも、誘いがきてるんだ…。目の前には、明るい道が開いてるのに…。でも、好きなことを自由に続けることを、俺は許してもらえない…。有名になることもタブーだっていわれる…。明るい日の下で、俺は生きられない…。俺は、この先もずっと、暗い檻の中に閉じ込められながら生きていくんだ…。」
「檻の中だと…?」
ジョーは目をスッと細めた。
自身の経験を思い出した。
逃げ場もない生き地獄…。
そこから這い出そうと、ジョーは何年ももがき続けた。
その苦渋を、贅沢で満たされた、幸多いはずの少年が知っているという。
それまでの苦労が、軽くあしらわれた感じがして、ジョーは怒りを覚えた。
「お前が知ってるっていうのか? 檻の中がどんなところなのか…。」
ジョーが凄みを利かせて問いかけると、鉄郎はぽつりと答えた。
「知ってるさ…。」
鉄郎はスッと目を閉じた。
「行き場なんてどこにもない…。俺は、飼い犬のようにその中で飼われるだけだ…。だけど、俺は、けっしてそこから逃げ出すわけにいかないんだ…。」
鉄郎は淡々と言葉を続けた。
ジョーは身を起こした。
苛立ちと激しい怒りが渦巻いた。
目の前の少年は何も知らない。
それなのに、解かりきったような口を聞く態度が、どうにも我慢できなくなった。
「黙れ…!」
低く唸ったジョーは、鉄郎のベッドの横に、足を引きずりながら移動した。
そして、身を乗り出すと、鉄郎の首を両手で締め上げた。
「よけいなことを喋るな…! 甘ちゃんの坊ちゃんのくせに…。妄想もほどほどにしとけ…! 檻ってのはな、いつ、殺されるかわからない場所なんだよ…! こんな風にな…! それ以上続けると、お前の口をふさぐ…!」
「うっ…。」
鉄郎は息苦しさで顔を歪めた。
しかし、群青の澄んだ瞳が、精気を帯びてジョーを見据えた。
ジョーは、その強い瞳の光に気づくと、目を見張った。
鉄郎は呻きながら、ベッドの端にゆっくりと手を伸ばした。
伸ばした先に、松葉杖が立てかけてある。
鉄郎は、松葉杖を掴むと、ジョーの脇腹めがけて突き上げた。
「くっ…! こいつ…!」
突き飛ばされたジョーは、身構えながら鉄郎を睨みつけた。
鉄郎は松葉杖で防御しながら、ジョーを、鋭い視線で真っ直ぐに見据えた。
「殺したかったらそうすればいい…。だけど、俺はまだ殺されるわけにいかない…!」
鉄郎は昂然と言い放った。
「親父とお袋を殺した相手と出会うまでは…。俺は生き続けてやる…! どんなことをしても、どんなに利用されてでも…!」
「何なんだ、お前は…!」
激しい気迫に、ジョーはわずかに気後れした。
鉄郎は、容赦なくジョーに迫った。
「今の家に引き取られたのは、俺が10歳の時だ。それまでは普通の家で、親父とお袋と慎ましく暮らしていた…。でも、引き取られる直前に、両親は事故にみせかけて殺された…。犯人はわからない…。でも、今の家のどこかに、犯人は潜んでいる…。だから、俺は今の家に、進んで引き取られることにしたんだ…。確かに、表向きは豪勢な家で飼われてる甘ちゃんの坊ちゃんさ…。だけど、その裏じゃ、俺は、強制的に人格を植えつけられようとしているんだ…。」
「強制的…?」
ジョーはうつろな表情で呟いた。
鉄郎は、低く凄むような口調でいった。
「そうさ…。それまでの過去は全部白紙にされた…。名前も変えるようにいわれたよ…。それも、全部、今の家の家風に合わせるためさ…。わけがわからないしきたりも叩き込まれたし、さらに、英会話やフランス語や、数カ国の言語も学べといわれている…。俺の両親は、今の家の腹黒い秘密を掴んで、今の家から飛び出したんだ…。そのことを、親戚どもが汚く罵ったりもする…。俺は、その両親の汚名も返上したいと思ってる…。家の型にどれだけはめられても、家の利益のために利用されるのを解かっていても、俺は立ち向かうしかない…。いずれ、俺は邪魔者扱いされるかもしれない…。そうなった時は、俺は、命をかけて戦う覚悟ができてる…。」
鉄郎は少しずつ気持ちを静めながら、松葉杖を床に落とした。
ジョーの殺気が消えたのを感じたためだ。
鉄郎は、落ち着いた声で言い返した。
「興奮してごめん…。でも、俺から見れば、君の方がよっぽど自由人だ…。光の中で、君はちゃんと生きている…。もったいないよ…。なのに、君は今の自分を持て余してる…。君には、居場所がちゃんとあるのに…。それにまだ、君が気づいていない…。早く気づけるといいね…。」
「とんでもねぇやつだ…!」
ジョーはふてくさりながら、自分のベッドに戻ると、ごろりと横になった。
「満足できるのか? そんな生き方で…。」
ジョーが問いかけると、鉄郎は静かな声で応じた。
「まだわからない…。でも、俺はいずれ、必ず自分の居場所を見つけてみせる…。」
鉄郎はジョーを見つめると、笑顔で訊ねた。
「そういえば、君の名前、まだ聞いていなかった…。」
「島村ジョーだ…。」
ジョーは投げやりな口調でいった。
鉄郎はにこりとした。
「かっこいい名前だね…。映画俳優のようだ…。」
「バカか…。俺の名前に、いい思い出もないし、見た目のせいで、随分と嫌な目にあった…。」
ジョーは他人事のようにいった。
なぜか、過去のしがらみが、遠い記憶の中に埋もれていくような感じがした。
「ハーフのやつなんか、俺はいっぱい知ってるよ…。」
鉄郎はさらりといった。
「それで差別することも変だし、いわれたやつが落ち込むのもどうかしてる…。その世界が狂ってるんだ…。いわれたやつが悪いわけじゃない…。君は君そのものだ…。」
「どこまでも、お前はお人よしだな…。」
ジョーはそっけなくしながら、鉄郎のひたむきな言葉に、しだいに気持ちが安らいでくるのを感じた。
どうでもいいような口ぶりで、鉄郎に聞いた。
「坊ちゃんじゃ、感じ悪いだろ…。名前で呼んでやる…。」
「星野鉄郎だ…。織野じゃない…。親父の苗字で俺は通しつづけている…。名前を変えろっていわれても、俺は変えることができなかった…。」
「それでいいんじゃないのか? お前はお前なんだろ…?」
ジョーは鉄郎の言葉をそのまま返した。
鉄郎は笑顔でジョーに頷いた。
二人は、それぞれに病院での診察を受けた。
ジョーは右足のふくらはぎの肉離れで全治2ヶ月。
鉄郎は、左肩の骨折に肋骨にもヒビが入っていることがわかり、全治3ヶ月と診断された。
二人とも、怪我の治療に日々が費やされた。
その後、まったく別々の環境にいる二人が顔を合わすことは二度とないように思われた。
しかし、ある時、二人は意外な場所で再会した。