15.決意への序章 3

 ジョーが、田辺の家の厄介になって、一年が過ぎた。
 ジョーの意志にまかせて、田辺は、この一年を自由に過ごさせた。
 当初は、ほとぼりが冷めるまでの、逃げ場所のつもりだった。
 けれども、つかず離れずの放任主義が、居心地が悪いと思えなかった。
 追われるか逃げるかの、ぎりぎりの生活のことを思えば…。
 ふらりといなくなる機会はいくらでもあったのに、そのタイミングを脱したまま、ずるずると、ジョーはこの家に居座りつづけた。
 その間に、放浪生活を送っていた頃の、荒れた気性はましになり、ジョーは少し落ちついた。
 田辺のいうことに、ジョーは、少しずつ素直に従いはじめた。
 今まで一度もまともやったことがない、「学習」に取り組むようになり、それなりのレベルを身につけた。
 しかし、田辺が出かけて留守の間は、今までのようにブラブラと街を徘徊して、無駄に時間を潰した。
 暴力事件を起こすことはなくなったが、無気力な生活態度は相変らずだった。
 ある夜、田辺は、ジョーに、こんな話をもちかけた。
「お前も、そろそろ学校に行ってみる気はないか?」
「俺はいかねぇよ…。」
 ジョーは、開口一番に反抗した。
 しかし、田辺は時間をかけて、ジョーと向き合い、話しあいで道を探った。
「じゃあ、どうして、急に勉強する気になったんだね? お前は、中学レベルの学習をちゃんと身につけたじゃないか。」
「別に…。ただ、院や施設にいた時、読み書きできなくて恥をかいたからな…。そんなことくらいで、不快な思いをしたくないからだ…。」
「お前は、無意識でも、社会のたしなみを学び始めたのだ。だったら、それを、もっといかしてみようと思わないか? もちろん、嫌ならやめてもいい。しかし、やる前から諦めて逃げ腰になるのは。卑怯者がすることだ…。」
「やな言い方しやがって…。」
 ジョーはぼそりといって押し黙った。
「面白い学校を見つけてね…。見た目は普通だが、入れば、お前も気に入るかもしれない…。お前は、何か目的を持っているはずだ…。何もないような態度だが、実は大切な目標を…。ここにいるだけでは、それは、果たせんかもしれんぞ…。」
 ジョーは何もいわなかった。
 けれども、田辺の言葉は的を得ていた。
 ジョーには、少年院の殻を破る機会を与えてくれた人物との、大切な約束がある。
 約束を果たすには、そういった場所に出向くしかないし、二度と捕まることはできないと思っていた。
 田辺は、ジョーの目的のことまで詳しく知らない。
 しかし、何かが変わり始めていることを感じとっていた。
 そんな経緯を経て、ジョーは、何年かぶりに学校に復帰した。
 田辺が紹介した学校は、今までの学校ではなく、まったく新しい環境にある中学だ。
 編入試験で、中学2年に相当する問題に取り組んだが、ジョーはなんなくクリアした。
 優秀な成績で学校に入っても、ジョーは、すぐにその環境に馴染まなかった。
 田辺は面白いと表現したが、普通の学校と、特に変わったところはないように思えた。
 一貫した学校教育。
 生徒も、ごく普通の子供達だ。
 ここの先生は、他の学校と比べると、生徒に関心を持つ先生が多いといわれている。
 しかし、それだけで、魅力があるとは思えない。
 ジョーは編入したその日から、授業をボイコットした。
 しばらくの間、学校には行くものの、ブラブラと校舎内をうろつくだけで、すぐに、街の方に出て行ってしまうという日が続いた。
 必ず学校に行くのには、探し人の情報を得るためだけであって、収穫がないとわかってくると、ジョーは、学校に居場所を求める必要はないと思い始めた。
 一方、学校では、ジョーの知らないところで、転校生のボイコットが話題になっていた。
 転校生は、ルックスがいいハーフの少年だ。
 それだけで、女子生徒達は興味を抱き、大胆な行動は、男子生徒の間でも有名になりつつあった。
 ジョーの名前が知れ渡るようになると、今度は、在籍している不良連中から、ターゲットにされはじめた。
 ジョーとしては、探し人の情報を彼らに求めただけだったが、ジョーの態度が、不良グループの目につくようになった。
 ジョーはうんざりした。
 また、前のようなケンカに明け暮れることになるのか…。
 雰囲気を察したジョーは、それから、この学校の不良連中と距離を置くようにした。
 だが、たまたま、その日は不良グループとかちあい、ジョーは顔を出すように呼ばれてしまった。
 ジョーは、仕方なく、不良達の誘いに応じることにした。
 ジョーとしては、立場を解からせるために、軽く相手になるつもりだった。
 ちょうど放課後の時間だった。
 ジョーを伴った不良グループは、呼び出した場所に向かうために、部活で賑わうグラウンドを横切ろうとした。
 その場に居合わせた生徒達は、みな緊張した。
 学校の不良連中が、そろってグラウンドに現れるなんて、前代未聞の出来事だ。
 ただ事ではない空気に、一般の生徒達は震撼した。
 誰も恐がって意見しない中で、たった一人だけ、ある生徒が、彼らに堂々とした態度で注意した。
 その生徒は、サッカー部に所属している。
 着ているユニフォームですぐにわかった。
 小柄だが、少しも物怖じしないまっすぐな姿勢が、印象強い少年だった。
 ジョーは、少年と不良のやりとりを、ぼんやりと遠目に観察した。
「悪いけど、練習の邪魔になる。グラウンドに入らないでくれないかな…。」
 少年がそういうと、不良の一人が、遠慮がちに拳を突き出した。
「やるか、テメェ…!」
 少年の方も、同じチームメイトに止められている。
 しかし、それを振り切って、少年は構えた不良に言い返した。
「ケンカは出来ないよ。でも、サッカーでなら、相手してやってもいいぜ。」
 おもむろに手にもっていたサッカーボールをバウンドさせながら、少年は不良に迫った。
 すると、不良達は、なぜか逆に萎縮した。
 ジョーは呆気にとられた。
 不良達が、なぜあの少年を怖れるのか理解できなかった。
「どうしてビビってる? あんなやつ、どこにでもいるだろ…。」
 ジョーがぼそりというと、隣にいた不良が声を上ずらせた。
「お前、知らねぇのか、星野鉄郎を…。あいつは、織野財閥のお坊ちゃんだ。ただのお坊ちゃんだと思ってなめてたら、こっちが手痛い目に合っちまう…。特に、あいつのサッカーの実力は、ワールドカップの選手なみだっていわれてるんだ…。まともに相手なんかできねぇよ…。」
「あいつの方から、こっちに絡んでくるとは思わなかった…。畜生、大事になっちまうぜ…。」
 別の不良も頭を抱えている。
 ジョーは肩をすくめた。
「大事にしてるのは、お前らの方だろうが…。」
 一方で、鉄郎といわれた少年も、チームメイトに意見されていた。
「星野、馬鹿なまねはよせ。」
「そっとしておけよ、鉄郎!」
「それで、大人しく引き下がる連中じゃないだろう。どういう理由か知らないけど、グラウンドを荒らすのは、気に食わないよ…。」
「星野…!」
 鉄郎は、チームメイトの言葉に、少しも耳を貸そうとしない。
「どうする? 俺に勝ったら、グラウンドをあけ渡してやるよ。」
 不良達に返事を求めた。
「面白いやつだな、あの坊ちゃん…。」
 ジョーは呟くと、鉄郎の言葉に乗ることにした。
「俺がやってやろうか…。」
 ジョーの言葉に、鉄郎の方が言葉をなくした。
 メンバーの一人が、鉄郎に耳打ちした。
「あいつ、ハーフの転校生だぜ…。」
「授業を初日からさぼったっていう…?」
 鉄郎がメンバーに聞き返した。
「そんなに有名か、俺が…。」
 ジョーが声をかけると、鉄郎は笑顔で応じた。
「確か同じ学年だろ? その噂でもちきりだ。」
「お前も有名だそうだな。サッカーは、プロ並みだって…?」
 ジョーの言葉に、鉄郎は苦笑いを浮かべた。
「どうだろう…。君は、サッカーをやったことがあるのか?」
「ないけど、サッカーくらいは知ってる。坊やの蹴ったボールを、俺が受けてやってもいい。それでどうだ?」
 不良達も、サッカーの部員達も仰天した。
 それは、あまりに無謀な発言だといいたげだ。
 鉄郎は、ジョーの提案を承諾した。
「いいよ。でも、受け止められなかったら、ここの連中と一緒に、大人しく解散してくれよ。」
「俺は、こいつらに呼ばれただけだ。直接、こいつらと関わりは持っちゃいない…。」
 ジョーはいった。
 すると、鉄郎は不良達を睨みつけた。
「お前ら、新人の生徒相手に落とし前つける気か? 恥ずかしい真似してんじゃないぜ!」
 すると、不良達は身を引いて、唸り声をあげた。
 鉄郎に怒りを感じながらも、手出しができずに怒りを持てあましている。
 そんな雰囲気だ。
 ジョーは驚いた。
 まさか、逆にかばわれるなんて思いもしなかった。
 しかし、それが、ジョーの癇に障りもした。
「・・・お前、うざいぜ…。不良どもの話は、俺の問題だ。お前に関係ない。」
 鉄郎はジョーをキッと見据えた。
 ジョーは鉄郎にいった。
「この勝負は、俺とお前の問題だ。ごっちゃにすんな。」
「君がそのつもりなら、こっちは、手加減なしでやらせてもらうよ。」
 鉄郎は言い返した。
 ジョーは無言のまま、ゆっくりとゴールポストの前に移動する。
 サッカー部のメンツも、居合わせた不良達も、さらには、グラウンドにいた他の生徒達も息を飲んだ。
 こんな展開を、誰も予測していなかった。
 まさか、鉄郎のボールを進んで受けたいと思うものがいるのも信じられなかった。
 ふってわいた対決に、周囲の緊張感がさらに増した。
 鉄郎はPK戦の時と同じ位置に立つと、キーパーの位置についたジョーをじっと見据えた。
「一回だけじゃ気の毒だもんな。5回トライして、一度でも受け止めることができたら、認めるよ。」
 鉄郎が提案すると、ジョーは目を細めた。
「自信たっぷりだな。そんなに、回数はいらないかもしれないぞ。」
「そうかな…!」
 鉄郎は厳しい表情で呟いた。
 普通はサッカーボールを地面に置く。
 が、鉄郎はボールをバウンドさせると、サッカーボールを宙に投げあげた。
 ジョーは目を見張った。
 勢いをつけると、鉄郎はその場でジャンプする。
 身をよじって機敏に体を反転させた鉄郎は、落ちてきたボールと振り上げた足とのタイミングを合わせて、軽くシュートした。
 オーバーヘッドだ。
 全身のばねを使って蹴られたボールは加速をつけて、ゴールネットに飛び込んでいく。
 ジョーは、ボールに気をとられるだけで、動く余裕すらなかった。
 気がついたときは、ジョーの立ち位置スレスレの距離を、ボールがすり抜けて、ネットに叩き込まれた。
 鉄郎は、軽く地面に手をつくと、何の苦もなく、両足をつけてスッと立ち上がった。
 プロ級の実力を、鉄郎は遺憾なく発揮する。
 周囲からは、溜息しか聞こえてこない。
「体が小さいってのも、好都合だな…。」
 ジョーはいった。
 身軽な分、体の柔軟性に対応した技を繰り出すのに適している。
 ジョーはそう思いながら、侮れないことを自覚した。
 鉄郎が応じた。
「一番の得意技だ。俺は手加減しないっていったよな…。」
「5回も続けて、オーバーヘッドができるのか?」
「やってみようか。伊達に、鍛えてないわけじゃないんでね…。」
 鉄郎はメンバーの一人に声をかけた。
 コンビを組む所沢、通称「トコロ」と呼ばれている。
「ボール、よこせ。トコロ!」
「鉄郎、ほどほどにしとけよ…。」
 所沢は、弱気な声で注意しながら、ボールを鉄郎に向けて蹴った。
 いいだしたら絶対後に引こうとしない鉄郎の性格を、所沢はよく知っている。
 蹴られたボールを、足を使って巧みに受け止めた鉄郎は、さっきと同じように両手に持つと、スッと顔の前に構えた。
 ジョーは、鉄郎の動きを観察しながら、腰をわずかに落として身構えた。
 鉄郎から2投目のボールが蹴られた。
 ポーズは変化した。
 やはりオーバーヘッドだ。
 ゴールポストの左コーナー、ぎりぎりに痛烈な速度でボールが投げ込まれる。
 ジョーは身を乗り出して、飛び上がった。
 体を精一杯伸び上がらせたが、ボールに届かない。
 ジョーの動きの方がはるかに遅い。
 反応した時は、ボールは、すでにネットに叩きこまれてしまう。
 ジョーはゴール前で転倒した。
 しかし、すぐに起き上がると、もう一度構え直した。
「根をあげないな、あいつ…。」
 ボールを貰い受けながら、鉄郎はジョーを見据えた。
「どうした、もう終わりか?」
 ジョーは低い声でいった。
 ジョーは、じわじわと沸きあがった闘志を、静かに燃やしている。
 鉄郎は、そのジョーの闘志に好感を持った。
 鉄郎のボールに、真っ向から立ち向かってきた相手は、ジョーが初めてだ。
「今度は右を狙う。とれるかやってみろよ。」
「随分と甘く見られたな…。ゴール宣告か…?」
 ジョーは鉄郎を睨みつけた。
 鉄郎は小さくかぶりを振った。
「そうじゃない。君なら、可能性があるからいってるんだ。君になら、とられたって惜しくない。」
「ヘタな友情ごっこか?」
 ジョーが畳みかけるように返すと、鉄郎は肩をすくめた。
「素直じゃないな…。」
 鉄郎は気を引き締めると、三投目のボールを蹴った。
 宣告どおり、ボールは、右側のゴールポストの隅に向かって飛んでいく。
 ジョーは気がない口調だったが、狙い目をはずさず、右側にジャンプした。
 さっきよりも反応が早かった。
 タイミングが外れていない。
 今度は、捉えられるかもしれない。
 現場に立ちあっていた群集の誰もがそう思った。
 だが、わずかに、ジョーの指先が届かなかった。
「ちっ!」
 ジョーは舌打ちした。
 転倒したジョーの真後ろに、ボールは飛び込んだ。
 ボールがネットにぶち当たって、ゴールポストが大きく振動する。
 ネットが破れた。
 ゴールポストのパイプがきしんだ。
 基盤がぐらついて、ゴールポストは、手前にゆっくりと倒れだした。
「くそっ!」
 ジョーは焦った。
 起き上がりかけていて、ジョーはすぐに逃げ出せない。
「危ない!」
 蒼白した鉄郎が思わず飛び出した。
 周囲から悲鳴があがった。
 ジョーは出来ることを咄嗟にやった。
 転げて、ゴールの前から逃げ出した。
 だが、ゴールの頭の部分が、ジョーにめがけて迫ってくる。
 逃げきれない。
 ジョーは目を閉じた。
 瞬間、ジョーの体は、誰かに突き飛ばされた。
 それと同時に、鉄郎の呻き声がした。
 目を見開いて、ジョーは驚いた。
 ジョーは直撃を免れた。
 その上に、鉄郎が覆いかぶさっている。
 鉄郎は顔をゆがめていた。
 ゴールポストの角のスチール部分が、鉄郎の左肩を直撃した。
 ジョーは凝視したまま、体を強張らせた。