翌朝、空は灰白色の雲に覆われ、重苦しい天候で明けた。
しかも、一面に霧が漂い、視界は、ほとんどきかなかった。
メンバーの中で、もっとも早く目を覚ましたアキは、日も昇らないうちにデッキに出て、ぼんやりとそんな景色を見つめながら、物思いにふけっていた。
時折、霧の中から海鳥たちが姿を現すと、船と平行して飛びながら、呼びかけるように鳴いて、また去っていった。
アキは、海鳥たちに笑みを見せるが、すぐに悲しい顔をして、白くぼやけた世界に視線をもどした。
しばらくそうしていると、ふいに人の気配を感じた。
唯一、心を許しあえる相手だとわかると、アキは、安心して声をかけた。
「どうしたの? トリトン。」
トリトンは、ゆっくりと伸びをしながらデッキまで出てくると、アキの横に並んだ。
「アキの方こそ早いな。ちゃんと寝た?」
「それがあまり…。あなたは?」
「今まで作業していたよ。やっと終わったんで気分転換にね。これから休もうと思ってる。」
「お疲れ様…。」
アキがそういうと、トリトンはスッと目を閉じた。
「これからグレートバリアリーフに行くらしい。そこで、最長二週間の待機待ちだそうだ。情報がなかったら、また対策を練り直すって。…なんか、その予定を聞いてるだけで窮屈になってきちゃって…。」
「どうして?」
「この船、大国所属のスパイ船だろ? なんか物々しかったぜ。コンピュータールームにも、あちこち触っちゃいけないものがあるし…。肌に合わないっていうのかな…。」
「でも、一番安全な場所だわ。」
アキはそっと口を開いた。
トリトンは手すりにもたれると、アキにいった。
「気にしてるのか? 島村ジョーのこと。」
アキは小さく頷いた。
「ジョーの大切な夢を奪ったのはあたし。でも、誰よりも辛い思いをしているのは鉄郎よ。だから、あたしは何もいうことができなかった…。」
「鉄郎が?」
「鉄郎は、ずっとサッカー選手を目指していた。今だって、彼にはその実力が十分ある。でも、彼は中学の時にその夢を捨ててしまった。彼の家の人が彼を追い込んだせいで、彼は身を隠すしかなかった。彼の一挙手、一投足が周囲の命運を左右して、他人を巻き込むことになる。彼は、誰よりも早くそのことを悟った人。だからこそ、鉄郎は自分が果たせなかった夢の分まで、ジョーに託そうとしていた。同じ夢を追いかける者同士として、鉄郎はジョーをどこまでも応援していた。それなのに、その鉄郎自身が、ジョーの夢を絶つという決断に迫られた…。」
「さすが、鉄郎のことになると詳しいな。」
トリトンは苦笑する。アキは視線を落とした。
「本当は鉄郎にも会いたくなかった…。力が戻ってしまったあたしと関われば、彼を辛い気持ちに追いやるだけだもの…。でも、あなたとは…。」
「君も好きだな。夢物語が…。」
トリトンは肩をすくめた。目を見張るアキに、トリトンは笑いながら言葉を続けた。
「だから、いつまでも君は“姫”なのかもしれないけど…。ジリアスの奇跡にはこだわっていられない。それに俺達が出会って、そう都合よく奇跡なんて起こるのかな? それじゃ奇跡とはいわない。俺は忘れた…。子供の頃の夢体験記さ…。それなのに、また地球の人を巻き込むしかないなんて…。もう、うんざりだ…。」
「あなた、変わってしまったのね…。」
アキは哀しい顔をした。
「夢を追いかけた少年は、いつの間にか消えてしまったの…?」
「悪いけどな…。」
トリトンは小さく笑った。
「四年前の話だ。夢っていうのは、出来もしないことを果たそうとすることだ。諦めたらさっぱりした。人の心は簡単に変えられない。でなきゃ、今回の事件だって起こるはずがない。」
「ミラオやダーナが可哀想よ。あたし達は未来を託された。あたしは無視できない…。」
アキは声を震わせる。だが、トリトンはあっさりと主張した。
「死んだ人間だ。それも何千年もの昔にね。俺達は今を生きている。今を精一杯生きればいい。力に頼る必要はない。逆に力に頼れば、他人に疑われる。俺は今のままで十分だ。オリハルコンにも、本音をいえば関わりたくないんだよ…。」
「トリトン…!」
「シビアだなんて説教するなよ。ただ、訂正しておくと、諦めたんじゃなくって、夢の追い方が変わっちまったんだ。自分の将来のために、現実的なものを追いかけるようになったんだ。」
「それが、今のあなたの考え方なのね…。四年前とは違う…。あなたも十分大人だわ。」
アキは、自嘲気味な笑顔を浮かべた。トリトンは、さりげなく言い返した。
「君と関係が持てるんだったら、俺は恋愛関係の方を選ぶよ。」
「光栄よ。その前にあたしのことも知っておいて。」
アキは優しい口調でいった。
「あたしは自分のことを偽りたくない。それが、本当のあたしだから。」
アキは静かに目を閉じた。
「今のあたしは自分の価値を十分にいかしきれていない…。でも、もう悩まない…。あなたと、またこうして出会えたから…。」
「アキ…!」
トリトンは驚いて言葉をなくした。
アキは穏やかなオーラを発した。そのまま数センチ、宙に浮きはじめた。
そして、笑みをこぼしながら囁いた。
「夢を見させてあげましょうか…。あなたが忘れてしまった夢よ…。子供の頃に…。」
トリトンがあっと身を引く前に、アキのオーラがトリトンの体をそっと包み込んだ。
そして、静かにトリトンの体を引き寄せた。
トリトンはムッとした。
「さっきと言葉が違うだろ。俺の考えには口出ししないっていったじゃないか…。」
「口出しじゃないわ。」
アキは呟く。
「あたしのことを知ってほしいだけ…。心からあたしのすべてを感じ取って…。あたしは、四年前と少しも変わらない…。」
しだいにアキのオーラが強まっていく。
柔らかく、そして甘く優しい。
包み込まれたら、それきり、逃げることができなくなる。
そんなオーラだ。
トリトンは身をよじった。すると、アキはいった。
「お願い、動かないで…。」
トリトンは息を飲んだ。
アキの思惟が流れ込んでくる。
一種の接触テレパスだ。
トリトンはようやく気がつくと、目を閉じて、精神を集中させた。
心の中に、アキの言葉がはっきりと伝わってくる。
アキは、昔のままのアキだ。
意志も秘めた熱い情熱も。
そして、それを理解してくれているトリトンに、すべてを捧げつくすこともー。
それは偽りではなく、真実なのだと、トリトンには感じとれた。
「俺の負けだ…。」
トリトンは、自分の心が荒廃してしまったことを、自覚させられた。
アキはトリトンを勇気づけるように、自分の意志を伝えた。
「自分を責める必要はないわ…。ただ忘れているだけ…。だったら思い出してやり直せばいい…。」
「そうだな…。君とは“同じ”だったんだ…。やり直せるかな? もう一度…。」
「できるわ…。あなたはそういう男(ひと)よ…。」
トリトンはアキの体を抱きしめた。
アキは、委ねるようにトリトンの腕の中に体を預けた。
トリトンの心は不思議なくらい安らいだ。
迷いはない。
その安らぎはアキが与えてくれたものだ。
二人の体は、やがてゆっくりと回転をはじめる。
オーラは、船の進行速度にあわせながらも、地球の重力さえ失くした。
無重力の中に、漂っているかのような現象を引き出した。
そのうち、霧が晴れて、朝の日の光が差し込み始めた。
海鳥が舞う中で、どこからか低いほえ声が響く。
二人は首をめぐらした。
すると、クジラの大きな背びれが、海面に沈んでいくのが見えた。
「クジラだわ!」
アキは明るく声をかけながら、トリトンの顔を覗き込んだ。
「奇跡かしら?」
「さあ…。」
言葉につまったトリトンは、アキの顔を見返すと笑い出した。
「…にしておこう!」
二人で笑った。ひとしきり笑いあって、トリトンがアキに言い返した。
「見つけるよ。オリハルコンを。ここは地球だ。昔、アトランティスがあった場所だものな。」
「見つけられるわ。きっと…。」
アキの表情に、明るい笑みが浮かんだ。
トリトンの表情が実にいい。
潮風になびく、トリトンの緑の髪が、朝日を受けてキラキラと輝いている。
その輝きが、今のトリトンの心そのものに感じられた。
「素敵よ。あなたは…。」
トリトンの印象について、アキは率直な感想を述べた。
アキの意外な言葉に、トリトンは少し驚いたが、自然に笑顔がこぼれた。
憧れた女性から認められることほど、嬉しいものはない。
ただ、トリトンはそんなアキに返す言葉を見つけられなかった。
アキの方がはるかに魅力的だと、トリトンは感じている。
そのアキに、言葉以外に返せるものがあるとしたらー。
トリトンはゆっくりとアキに顔を近づけた。
アキの方がびっくりして体を固くした。
そのアキの反応を無視して、トリトンはアキの耳元で優しく囁いた。
「綺麗だ…。君の方がずっと…。」
アキは、それっきり抵抗しなかった。自然の成り行きに任せてみようと思った。
アキの髪が優しくなびいた。潮を含んだ紅い髪のサワサワと鳴る音が、トリトンにも届く。
わずかに二人の鼻先が触れ合い、唇が重なり合おうとした瞬間、二人の足元にロバートがやってきた。
呆気にとられていたロバートは、二人に向かって白々しく声をかけた。
「ご大層だな。エイリアンのラブシーンっていうのは…!」
その時、トリトンとアキの交流は見事に絶たれた。