ここがどこなのか、トリトンにはわからなかった。
       あれほど、はっきりと聞こえていた外の音が、今はまったく聞こえない。
       ジオリスに抱かれたまま、トリトンはずっと目を閉じていた。
       額に押しつけられていた唇が離れたことで、トリトンはビクリと身を震わせた。
「もう離せ!」
       ジオリスの体を突き飛ばすと、トリトンは目を見開いた。
       すると、トリトンは絶句して固まった。
       目の前にいるのは、見たこともない、絶世の裸体の美女だ。
      「トリトン・アトラス…。あなたへの、数々の非礼をお許しください…。」
       女性は穏やかな声で、トリトンに話しかけた。
「ジオリス…? 嘘だ、こんなの…!」
       トリトンはそれだけいえた。
       と、同時に、一気に力が抜けて、その場にへたり込んだ。
       女性は別人に思えた。
       しかし、よく見ると、確かにあのジオリスだ。
       奥深い瞳の美しさと、ややウェーブがあるものの、長い黒髪は男のジオリスの時と同じだ。
       しかも、女性のジオリスは、とんでもないほどに魅力的だ。
       身長は180センチ弱。
       均整がとれたプロポーションは、豊かでほっそりとしている。
       顔のつくりも完璧だ。
       その美しい顔で、艶然と微笑みかけられると、トリトンは息を呑んでドキリとしてしまう。
       今まで、幾人の美女といわれる女性に出会ったトリトンも、目の前にいる美しさを誇った女性には、一人も思い当たらない。
       気のせいか、女性のジオリスは、トリトン・アトラスの姉である、ミラオにも面影が似ていた。
       女性のジオリスに見つめられると、火がついたように全身が赤くなるのを、トリトンは感じた。
       ジオリスは、豊かな胸を手で隠しながら、トリトンに近づいてくる。
       気が動転したトリトンは、そのまま後退りしながら、上擦った声で訴えた。
「あっ、待ってよ…! 先に服を着させてよ…。」
      「どうぞ…。時間はゆっくりありますから…。」
       そういわれて、慌てて周りを見渡して、トリトンは唖然とした。
       あたりは何もない、漆黒の闇の中だ。
       川原ではなくなっていた。
      「ここは…。」
      「ここは別の世界…。私とあなたが作り出した場所です。」
      「川原に置いてきちゃったんだ…。服を全部…。」
       嘆くトリトンに、ジオリスは優しくアドバイスを与えた。
「こうすればいいのです。」
       ジオリスは、トリトンの肩にそっと触れた。
       ドキリとして身を震わせるトリトンの体から、急激なオーラが放出される。
       トリトンが驚いていると、オーラが消えた後に、白い衣装と赤いマントがちゃんと身についていた。
「どうなってんだ、これ…。」
       呆れるトリトンに、ジオリスは微笑みながら、オリハルコンの剣を渡した。
「これも、あなたの大切なものですよね。しっかりと持っていなくては…。」
「ご、ごめんなさい…。」
       理由もなくトリトンは謝ると、震える手で、ジオリスから剣をもらいうけた。
       どぎまぎするトリトンを見つめると、ジオリスは素直な印象をのべた。
      「あなたは、本当にかわいらしい人ですね…。」
       トリトンは赤くなりながらも、女性のジオリスの言葉は男のジオリスの時よりも、自然な響きに聞こえると思った。
       そういわれても仕方がないほど、ジオリスは成熟した女性だ。
       彼女が平然と裸体でいられるのは、トリトンを「男」として見ていない証拠だ。
       同じことは四年前のアキにもいえた。
       偶然、アキが水浴びしている現場を、トリトンは見つけてしまい、トリトンは思いっきり躊躇したのに、アキは平然としていた。
       さすがに今はそうでもない。
       しかし、これは、トリトンにとって屈辱的な現実だ。
       アキと女性のジオリスを比較すると、圧倒的な女性としての格差がある。
       悔しいが、トリトンは、ジオリスを受け入れる、精神的な余裕がまだない。
       そう思い始めて、ようやく思考能力が戻ってきているのを感じた。
       ジオリスが男をどうして偽ってきたのか、なぜ数千年もその若さでいられたのか、さらに、変化している状況とはいったい何なのか、聞きたいことが山ほど浮かんだ。
       そして、何よりも、一番の願いはこれだ。
「ジオリス…。」
「私はジオネリアです。」
      「じゃあ、ジオネリア、お願いだから服を着てくれないか? それから話をしよう。」
      「わかりました…。」
       ジオリス、いや、ジオネリアは快く頷くと、目を閉じて精神を集中した。
       すると、ジオネリアの体から、グリーンのオーラが放出される。
       オーラは植物の蔓のように伸びていき、ジオネリアの姿を一気に包み隠した。
       目を見張るトリトンの前で、ジオネリアは真の姿を現した。
       彼女の衣装は、水着のように割れたきわどいものだ。
       チョーカーから上半身に伸びた布が、胸や腹の部分を覆い隠し、下半身を覆う皮のベルトにくっついている。
       皮のベルトは、Tバックのように尻に食い込み、背中はビキニ状に割れて大きく露出している。
       手と足に皮の素材を巻きつけ、サポーターのように保護していた。
       腕や手首、足首にも宝石をちりばめた金輪をしていて、微妙な輝きが、ジオネリアの美をひきたてた。
       トリトンは息を呑んだ。
       ジオネリアのコスチュームよりも、彼女が変身したことのほうが驚きだった。
「まさか、君が…。」
      「そうです。アクエリアス三使徒。豊穣と根源を司るガイアの使い。ジオネリア・アトラス…。」
      「エネシスがいってた、最後の使徒は君だったのか!」
       ジオネリアは強く頷いた。
       トリトンは思わず身を乗り出した。
      「教えてほしい…。君のことを…。もっと…!」
「いいですよ。ですが、トリトン。」
       ジオネリアは優しい声でいった。
      「どうして、立たないのですか?」
       指摘されると、トリトンは、すねたように口をとがらせた。
      「君のせいじゃないか…。腰がひけちゃって…。立てないんだよ…!」
「ごめんなさい。それでは、私も座ります。」
       含み笑いを浮かべて、ジオネリアは、トリトンの目線まで腰を落とした。
       思わず身を震わせるトリトンに、ジオネリアはそっと話しかけた。
      「もう恐がらないで…。私はこれ以上、あなたを辱めたりしません…。わかってくださいますか…?」
       トリトンはそわそわしながら、ジオネリアに言い返した。
「それもあるけど…。あなたが、その…。あんまり、綺麗すぎるから…。」
「ありがとうございます。」
      「なのに、どうして、あなたは男にならなくっちゃ、いけなかったの…?」
       トリトンは、やっと、聞いてみたい一つを聞くことができた。
       ジオネリアは一息つくと、トリトンに話しはじめた。
      「母エネレクトのことは聞きましたね? 母は、ラムセスに関係をもたされた後で、私を産み落とし、すぐに命を絶ちました…。」
「そう…。」
       トリトンが悲しそうに表情を曇らせると、ジオネリアは静かに頷いた。
      「私は母につくことを決めました。母はすぐにオリハルコンのエネルギーに吸収されました。そこで、母の魂はいき続けて、私は時がくるまで、赤ん坊のまま眠りにつきました。私が目覚めたのは、二十数年前のことです。」
      「“時がくるまで”って…?」
「あなたやアルテイアがやってくる時…。ラムセスとグロス一派が倒せる時…。」
       トリトンは顔を引き締めた。
       ジオネリアは真剣なまなざしで、トリトンを見つめる。
       すると、表情がさらに美しく際立ち、トリトンはまた息を飲んだ。
      「母は、私が偽りの姿になるしかなかったのを、罪だといいました…。しかし、私は誓いました…。どんな手段を講じてでも、オリハルコンとアトラスの血筋は守り通すと…。男を偽ったのはすべてを欺くため…。たとえ、実父であっても、許せる相手ではありませんでした…。」
      「僕らよりも、強い女(ひと)なんだ…。あなたって…。尊敬しなくちゃね…。」
       固唾を飲んで耳を傾けていたトリトンはぽつりといった。
「ありがとうございます。だけど、もっと大変なことが起きるでしょう。」
「大変なこと?」
      「やがて、この世界に、異世界の船が迷い込んできます。それは、あなた方の世界の船です。」
「俺達の…? じゃあ、スペースシップってこと?」
       驚いて訊ねるトリトンに、ジオネリアは頷いた。
      「理屈はわかりません。しかし、これは大きな異変の予兆…。私達は、急いでアトラリアに戻らなくては…。」
       ジオネリアは、わずかに言葉をにごらせた。
「それから…。」
「それから…?」
       トリトンはいぶかしむ。
       ジオネリアは固い声でいった。
「レイラには気をつけなさい。」
「彼女は友達じゃいけないの?」
      「彼女はあなたを狙っています。けっして、一人で近づかないこと。解りましたね?」
       母親か姉のように諭されて、トリトンは素直に頷いた。
       なぜか、ジオネリアの前だと、不自然にいうことを聞いてしまうと、トリトンは思った。
「さあ、戻りましょう。」
       促したジオネリアに、トリトンはぼそりといった。
「また、抱き合うの…?」
「その必要はありませんが…。どうしてですか?」
       怒らずに、ジオネリアは聞いてくる。
       トリトンはそっぽを向くと、すねたように言い返した。
      「俺だって、まともにできるよ…。気を失ったり…、さっきのような、みっともないこと…、普段はしないから…!」
「どうしたのですか?」
       ジオネリアは、微笑みながら質問を重ねた。
       トリトンは赤くなりながら言い張った。
      「純粋に、あなたとだったら、男としてできるんだから…。」
      「もちろん、そんなことは思っていません…。あなたは、私を受け入れてくれました…。ですから、こうして元にもどることができたのです…。感謝していますよ…。あなたはとても優しい人です…。」
       ジオネリアに顔を立ててもらうと、トリトンは照れながらも、嬉しさを隠すことができなかった。
      「もう、男にならなくていいよ…。そのほうがずっと素敵だし…。今のあなたが好きだから!」
       ジオネリアは驚いたように、トリトンを見つめた。
       トリトンはうつむきながら口を開いた。
      「やり直せる…? さっきのこと…。」
      「私達には、血のつながりがあります。それ以上は望めません。」
       ジオネリアがいうと、トリトンは、ぼそりと呟くようにいった。
      「俺はジオネリアのことを肉親だなんて思えない…。ただ、元から一人っ子だったから、姉か妹か、兄弟がほしいと思ったことはあったけど…。」
       すると、ジオネリアはふっと笑った。
「わかりました。それではやり直しましょう。」
       ジオネリアはすっと目を閉じると、顔をゆっくりと近づけてきた。
       間近に迫ってこられると、トリトンは焦り気味になる。
       しかし、かすかなときめきを感じずにはいられない。
       トリトンも目を閉じると、ためらいがちに唇を重ねた。
       柔らかい触れ合いを感じながら、今度は違うと、トリトンは言い聞かせた。
       しかし、いくら突っ張って見せても、トリトンは、ジオネリアの前では子供同然だ。
       わざと、ジオネリアは、トリトンに調子を合わせてくれている。
       その重みも痛感した。
       トリトンが、彼女レベルの女性を包み込めるようになるのには、まだまだ時間が必要だ。
       二人の周囲を、またオーラがゆっくりと包み込んでいく。
       二人は、アトラリアにもどっていった。