ジオリスは、川原の近くの大岩にもたれている。
トリトンが川を渡って上がってくると、ジオリスはゆっくりと身を起こした。
「ようやく来たか…。邪魔をして悪かったな…。」
トリトンに向き合うと、余裕綽綽の表情を浮かべた。
一瞬、トリトンは言葉につまった。
しかし、すぐに平静を保つと、ジオリスを睨みつけた。
「やな野郎だ…。プライベートにまで、首を突っ込んできやがって…!」
ジオリスは笑みを浮かべるだけで、何もいわない。
トリトンは身構えると、ジオリスに詰め寄った。
「目的は何だ? 敵地の陣中見舞いか?」
ーくそっ…。わざわざ予定を狂わせやがって…!ー
トリトンは苛立ちを覚えた。
ジオリスは言い返した。
「挑発するな。お前と争うつもりはない。状況は変化している。そのための話し合いだ。」
「話し合い…?」
トリトンは目を見張った。
ジオリスは自分の髪に触れると、爪くらいの大きさしかない薄いフィルムをはずした。
トリトンは顔を強張らせる。
ジオリスに貼り付けた発信フィルムだ。
「お前の国には便利なものがあるようだ。細工を施すところは実にお前らしい。」
「俺の世界じゃ、当たり前すぎる道具だ。気がついていて、なぜ情報を聞かせた?」
トリトンが緊張した声でいうと、ジオリスは平然と返した。
「いっただろう。状況が変化していると…。別の敵がいる…。」
「グロスという神官か?」
トリトンがいうと、ジオリスはかぶりを振った。
「違うな。あいつらは問題外だ。漁夫の利にありつこうなどと虫がよすぎる。だから、この私が懲らしめた。」
「お前が…暗殺を…?」
トリトンは絶句した。
ジオリスは小さく頷くと、さらに続けた。
「まだ教えてやる。敵はラムセスだ。そして、お前の世界のお前達をつけ狙う者達。どちらもオリハルコンを狙う、我々と相容れぬ者どもだ…。」
「あなたはどうなんだ?」
トリトンは低い声でいった。
「それとも、鉄郎に諭されて改心しました、なんていったら笑うぜ。あんたも同じだ。今度は容赦しない!」
トリトンは精神を集中させた。
オリハルコンの剣を呼び寄せると、利き手で掴み、正面に構えた。
「まったく人の話を聞こうとせんやつだ。」
ジオリスはため息をついた。
「そんな話、信じられるか!」
いいながら、トリトンはジオリスに飛びかかった。
狙いは正確だ。
オリハルコンの剣が、ジオリスを捉える。
真っ二つに断ち切った。
トリトンはハッとした。
手ごたえを感じた瞬間、ジオリスの体が、流砂のようにボロボロと崩れ去った。
偽者!
そう思った時、背後に、ジオリスを感じた。
あわてて振り返ったトリトンは目を剥いた。
ジオリスの力だ。
巻き上がった複数の砂の竜巻が、トリトンに襲いかかる。
対応が遅れた。
ジオリスの気に圧倒される。
オーラを発したが、間に合わない。
竜巻は、トリトンのオーラの壁を突き破った。
弾き飛ばされたトリトンは、後ろの大岩に激突する。
衝撃は防いだ。
が、激突の激しさで、一瞬、気が遠くなった。
気力を振り絞って、前を見据える。
すると、砂塵の中から、長い黒髪をなびかせたジオリスが現れた。
「よくも、やってくれたな!」
起き上がり、再び身構えたトリトンはギクリとした。
剣に砂塵が巻きついている。
電撃のような鋭い感覚が、トリトンの両腕を貫いた。
呻いたトリトンは、剣を取り落とした。
痺れはなくならない。
トリトンの右腕を急襲する。
腕輪にはめこまれたオリハルコンを、砂塵のエネルギーが攻撃しているのだ。
しびれを伴う右腕をかばいながら、トリトンはジオリスを睨み続けた。
ジオリスは、攻撃の手を少しも緩めない。
その場に腰を下ろすと、軽く地面を右手で叩いた。
と、直後に、トリトンの足元から不思議な植物の蔓がのびはじめた。
「これは…!」
息を飲んだトリトンは、慌てて蔓が伸び始めた場所から逃げ出そうとした。
後方は大岩に阻まれている。
逃げ出すとしたら左右しかない。
が、蔓の周囲には力場がある。
愕然とした。
シールドに囲まれて、トリトンは身動きがとれない。
「しまった!」
舌打ちしつつ、トリトンは、それでも抵抗を続けた。
咄嗟にオーラを放出して、何本かの蔓を消滅させる。
だが、トリトンの力はしだいに弱まっていく。
やがて、蔓は、トリトンの手足に絡みついた。
数本の蔓が複雑に絡みついて、簡単にほどけない。
トリトンは顔を引きつらせた。
なすすべもなく、大岩に、磔の状態で拘束されてしまった。
「こんなバカな…!」
ショックが大きい。
トリトンの攻撃が、ジオリスに通用しなかったのだ。
ジオリスは、トリトンを静かに見つめると、落ち着いた声でいった。
「その植物には、お前の力を弱める性質がある。とはいうものの、普段のお前なら、この程度のことをしても歯がたたないだろう。」
「どうして…。力が通用しないわけがないのに…。」
蒼白するトリトンに、ジオリスはいった。
「お前の心の乱れだ…。今のお前は、レイラという娘に気をとられすぎている…。最初の私の分身も、普段のお前なら見極められたはず…。それもできなくなるとは…。訓練を施したエネシスに申しわけがたたんだろう…。」
トリトンは唇をかみ締めた。
ジオリスの言うとおりだった。
無力になってしまった自分を恥じた。
ジオリスは、ゆっくりと、トリトンに近づこうとする。
トリトンは身をよじった。
「来るな…! そこで笑ってろ…!」
「トリトン、私は争わぬといったはずだ…。それよりも、重要な話がある…。」
「じゃあ、このうざい植物を早くどかせろ!」
トリトンはわめいた。
ジオリスは、トリトンが落とした剣を拾うと、静かに訴えた。
「少し落ちつけ…。お前のような気性が激しいものには、このくらいの抑えが必要だ…。しかし、お前さえ抵抗しなければ、痛みも伴わない安全なものだ…。少しの間、我慢しろ。私はお前を傷つけるつもりはない。」
トリトンは呆然とした。
確かに、腕のしびれはもう収まっている。
ジオリスは、トリトンの目の前までやってきた。
そして、トリトンの顎に手をやって、自分の方に向けさせると小さく笑った。
「なるほど…。この顔が、あのトリトン・アトラスか…。よく見ると、かわいいものだ…。」
トリトンはギクリとした。
同じ感覚は、肉市場で同性愛者に絡まれたときにも感じた。
背筋を冷たくすると、夢中でジオリスの手を振り払った。
「よせ、気持ち悪い…! お前、何か変なものでも、食ったんじゃないのか…?」
ジオリスはクスリと笑った。
だが、すぐに笑みは消えた。
身をすくませて、耐えようとしているトリトンを見つめて、ジオリスは静かな声でいった。
「トリトン…。私はわざと数千年、偽りの姿を保ってきた…。この姿の間は、お前達の敵として存在し、お前達の憎まれ役を装って、生きなくてはならなかったのだ…。」
「な…、何いってんだ、お前…。」
トリトンは呆気にとられた。
ジオリスの言葉の意味が飲み込めない。
ジオリスは構わずに続けた。
「私の目的は、お前達と変わらない…。オリハルコンを守り育てていく…。それに伴うアトラリア、その世界に存在するアクエリアス一族の血を絶やさぬこと…。」
「俺達と変わらない…?」
トリトンがうつろに呟くと、ジオリスは頷いた。
「父はラムセス。しかし、私の母はエネレクト。ラムセスにとって、私は逆縁の子だ…。」
「じゃあ、あなたは、ミラオとトリトン・アトラスと同じ…。」
トリトンは言葉が続けられない。
ジオリスはそれを認めた。
「そうだ。父は違うが、同じ母から生まれでた兄弟だ。」
「そんなことが…。」
信じられない表情で見つめるトリトンに、ジオリスはいった。
「こっけいな話だ。私の目の前にいるのは、「年下の兄」ということだ…。」
「そんなバカな理屈、絶対にありえない…!」
トリトンは叫んだ。
しかし、ジオリスは、強い口調で断言した。
「“アクエリアス・アテビズム”とはそういうものだ。父と母は別人であっても、受け継がれた血筋は前世の再生だ。私とお前には、血のつながりがしっかりとある。」
「そんな…。」
トリトンは何もいえなくなった。
しかし、ジオリスは、構うことなく話を進めた。
「それくらいで驚くな。私の姿は偽りだといったはずだ。本当の姿は、オリハルコンの力に触れて、戻るのを許される…。」
「オリハルコン…?」
トリトンはうつろな口調で呟いた。
だが、ハッと思い出すと、ジオリスに言い返した。
「お前が、“オリハルコンの間”にこもっていたのは、本当の姿に戻るためだったのか…?」
「そうだ。」
ジオリスは頷いた。
「ラムセスにも悟られるわけにいかなかった…。私はそこで、母エネレクトの魂と再会することができる…。そして、さまざまなことを諭されるのだ…。」
「お前の本当の姿って…。」
トリトンは固い声で質問した。
ジオリスはかすかに頷くと、優しい瞳でトリトンを見つめた。
「今から見せよう…。ただし、それには、お前の力を借りなければならない…。」
「俺の力…?」
トリトンはいぶかしんだ。
「何をする気だ…?」
トリトンは戸惑いを感じた。
ジオリスは、トリトンの体にもたれるようにして、上から覗き込んでいる。
ジオリスの身長は約180センチ。
対して、トリトンは、170センチを少し超える程度。
その身長差だけで威圧されてしまう。
だが、それ以上に恐ろしいと感じたのは、ジオリスの深い色を放つ漆黒の瞳だ。
吸い込まれそうなほどに美しく輝く瞳に見つめられると、トリトンでさえ、思わず惹きつけられそうになる。
瞳だけでなく、顔の造形や体つきにいたるまで、同性とは思えないくらいに、端正な美を誇っている。
トリトンは自分を疑った。
同性に動揺させられるなんて、思いたくもない。
逆にいえば、同性すら惹きつけるジオリスは、とても危険な存在だ。
トリトンは目線をはずした。
ジオリスに見つめられて身動きがとれなくなったという感覚。
アキから聞かされている。
これかと、トリトンは思った。
催眠効果だと判断した。
「トリトン…。」
ジオリスはそっと呼びかけると、トリトンの顔に手をやって、自分の方に向けさせた。
「よせ…!」
トリトンは顔をひきつらせる。
その時、ジオリスは、フッと表情を沈ませた。
「あなたに拒絶されたら、私は元の姿に戻れない…。」
「いったい、もとの姿って…。」
のどに声を絡ませながら、トリトンは訊ねた。
すると、ジオリスはぽつりと答えた。
「私のもとの名は…。ジオネリア…。」
「ジオネリアって…女の名前じゃ…!」
トリトンは仰天した。
混乱して、それ以上の言葉が続かない。
目の前にいるのは、女のように美しい体であっても、その肉体は男の何者でもない。
ジオリスは、トリトンの額に、すっと人差し指を伸ばして触れた。
トリトンはギクリとした。
と、同時に、額のあたりが、急に焼けつくように熱くなる。
「いやだ…!」
トリトンは身をよじろうとした。
しかし、思うだけで体が動かない。
顔をそむけることすらできない。
トリトンの呼吸と心拍数が一気にあがった。
動揺がますます激しくなる。
すると、トリトンの意志に反して、いきなり力が放出された。
額からオーラがもれ出る。
トリトンは身を震わせた。
自分では、何がどうなっているのか、理解できない。
だが、トリトンの額には、くっきりとアクエリアスの王家の紋章が浮き上がってきた。
光を放出しているのはその紋章だ。
いつしか蔓の絡みがほどけて、トリトンの体は自由になっていた。
その時、ジオリスが、トリトンの額に唇を押し付けて、トリトンの体に腕を回してきた。
嫌悪感が増した。
トリトンも上体は裸だ。
それでいて、血が繋がっているという半裸の男に抱きしめられる。
屈辱と羞恥で、いたたまれない気持ちだった。
ーやめろ、離せ…!ー
ジオリスを引き離そうと、トリトンは抵抗を続ける。
しかし、ジオリスはびくともしない。
さらに、強い思考を送って、トリトンの抵抗を封じた。
ー許せ、この方法しかないのだ。我慢しろ。ー
ーできねぇよ…!ー
精一杯、拒絶してみたが、トリトンらしくない、弱気な訴えだった。
やがて、トリトンの気力が失せて、ほとんど抵抗できなくなった。
その脱力感が、自分のエネルギーを吸収されているからだと気づくことができない。
体の力が抜けきると、後は、ただこの仕打ちに耐えるだけだ。
トリトンは目を固く閉じた。
現実を忘れたい。
強く願った。
やがて、ジオリスの姿が柔らかい光に包まれて、トリトンの視界から消えてしまった。
思考が働かないトリトンは、事態が飲み込めずにうろたえた。
光の正体はオリハルコン。
その状態は、“オリハルコンの間”で起きた現象とまったく同じだ。
光は、トリトンも一緒にとりまいて柔らかく包み込んでいく。
トリトンの意識がついに絶えた。
わけがわからなくなって、一気にすべてが白くなった…。