11.大地の女神、現る! 3

 ジオリスは、川原の近くの大岩にもたれている。
 トリトンが川を渡って上がってくると、ジオリスはゆっくりと身を起こした。
「ようやく来たか…。邪魔をして悪かったな…。」
 トリトンに向き合うと、余裕綽綽の表情を浮かべた。
 一瞬、トリトンは言葉につまった。
 しかし、すぐに平静を保つと、ジオリスを睨みつけた。
「やな野郎だ…。プライベートにまで、首を突っ込んできやがって…!」
 ジオリスは笑みを浮かべるだけで、何もいわない。
 トリトンは身構えると、ジオリスに詰め寄った。
「目的は何だ? 敵地の陣中見舞いか?」
ーくそっ…。わざわざ予定を狂わせやがって…!ー
 トリトンは苛立ちを覚えた。
 ジオリスは言い返した。
「挑発するな。お前と争うつもりはない。状況は変化している。そのための話し合いだ。」
「話し合い…?」
 トリトンは目を見張った。
 ジオリスは自分の髪に触れると、爪くらいの大きさしかない薄いフィルムをはずした。
 トリトンは顔を強張らせる。
 ジオリスに貼り付けた発信フィルムだ。
「お前の国には便利なものがあるようだ。細工を施すところは実にお前らしい。」
「俺の世界じゃ、当たり前すぎる道具だ。気がついていて、なぜ情報を聞かせた?」
 トリトンが緊張した声でいうと、ジオリスは平然と返した。
「いっただろう。状況が変化していると…。別の敵がいる…。」
「グロスという神官か?」
 トリトンがいうと、ジオリスはかぶりを振った。
「違うな。あいつらは問題外だ。漁夫の利にありつこうなどと虫がよすぎる。だから、この私が懲らしめた。」
「お前が…暗殺を…?」
 トリトンは絶句した。
 ジオリスは小さく頷くと、さらに続けた。
「まだ教えてやる。敵はラムセスだ。そして、お前の世界のお前達をつけ狙う者達。どちらもオリハルコンを狙う、我々と相容れぬ者どもだ…。」
「あなたはどうなんだ?」
 トリトンは低い声でいった。
「それとも、鉄郎に諭されて改心しました、なんていったら笑うぜ。あんたも同じだ。今度は容赦しない!」
 トリトンは精神を集中させた。
 オリハルコンの剣を呼び寄せると、利き手で掴み、正面に構えた。
「まったく人の話を聞こうとせんやつだ。」
 ジオリスはため息をついた。
「そんな話、信じられるか!」
 いいながら、トリトンはジオリスに飛びかかった。
 狙いは正確だ。
 オリハルコンの剣が、ジオリスを捉える。
 真っ二つに断ち切った。
 トリトンはハッとした。
 手ごたえを感じた瞬間、ジオリスの体が、流砂のようにボロボロと崩れ去った。
 偽者!
 そう思った時、背後に、ジオリスを感じた。
 あわてて振り返ったトリトンは目を剥いた。
 ジオリスの力だ。
 巻き上がった複数の砂の竜巻が、トリトンに襲いかかる。
 対応が遅れた。
 ジオリスの気に圧倒される。
 オーラを発したが、間に合わない。
 竜巻は、トリトンのオーラの壁を突き破った。
 弾き飛ばされたトリトンは、後ろの大岩に激突する。
 衝撃は防いだ。
 が、激突の激しさで、一瞬、気が遠くなった。
 気力を振り絞って、前を見据える。
 すると、砂塵の中から、長い黒髪をなびかせたジオリスが現れた。
「よくも、やってくれたな!」
 起き上がり、再び身構えたトリトンはギクリとした。
 剣に砂塵が巻きついている。
 電撃のような鋭い感覚が、トリトンの両腕を貫いた。
 呻いたトリトンは、剣を取り落とした。
 痺れはなくならない。
 トリトンの右腕を急襲する。
 腕輪にはめこまれたオリハルコンを、砂塵のエネルギーが攻撃しているのだ。
 しびれを伴う右腕をかばいながら、トリトンはジオリスを睨み続けた。
 ジオリスは、攻撃の手を少しも緩めない。
 その場に腰を下ろすと、軽く地面を右手で叩いた。
 と、直後に、トリトンの足元から不思議な植物の蔓がのびはじめた。
「これは…!」
 息を飲んだトリトンは、慌てて蔓が伸び始めた場所から逃げ出そうとした。
 後方は大岩に阻まれている。
 逃げ出すとしたら左右しかない。
 が、蔓の周囲には力場がある。
 愕然とした。
 シールドに囲まれて、トリトンは身動きがとれない。
「しまった!」
 舌打ちしつつ、トリトンは、それでも抵抗を続けた。
 咄嗟にオーラを放出して、何本かの蔓を消滅させる。
 だが、トリトンの力はしだいに弱まっていく。
 やがて、蔓は、トリトンの手足に絡みついた。
 数本の蔓が複雑に絡みついて、簡単にほどけない。
 トリトンは顔を引きつらせた。
 なすすべもなく、大岩に、磔の状態で拘束されてしまった。
「こんなバカな…!」
 ショックが大きい。
 トリトンの攻撃が、ジオリスに通用しなかったのだ。
 ジオリスは、トリトンを静かに見つめると、落ち着いた声でいった。
「その植物には、お前の力を弱める性質がある。とはいうものの、普段のお前なら、この程度のことをしても歯がたたないだろう。」
「どうして…。力が通用しないわけがないのに…。」
 蒼白するトリトンに、ジオリスはいった。
「お前の心の乱れだ…。今のお前は、レイラという娘に気をとられすぎている…。最初の私の分身も、普段のお前なら見極められたはず…。それもできなくなるとは…。訓練を施したエネシスに申しわけがたたんだろう…。」
 トリトンは唇をかみ締めた。
 ジオリスの言うとおりだった。
 無力になってしまった自分を恥じた。
 ジオリスは、ゆっくりと、トリトンに近づこうとする。
 トリトンは身をよじった。
「来るな…! そこで笑ってろ…!」
「トリトン、私は争わぬといったはずだ…。それよりも、重要な話がある…。」
「じゃあ、このうざい植物を早くどかせろ!」
 トリトンはわめいた。
 ジオリスは、トリトンが落とした剣を拾うと、静かに訴えた。
「少し落ちつけ…。お前のような気性が激しいものには、このくらいの抑えが必要だ…。しかし、お前さえ抵抗しなければ、痛みも伴わない安全なものだ…。少しの間、我慢しろ。私はお前を傷つけるつもりはない。」
 トリトンは呆然とした。
 確かに、腕のしびれはもう収まっている。
 ジオリスは、トリトンの目の前までやってきた。
 そして、トリトンの顎に手をやって、自分の方に向けさせると小さく笑った。
「なるほど…。この顔が、あのトリトン・アトラスか…。よく見ると、かわいいものだ…。」
 トリトンはギクリとした。
 同じ感覚は、肉市場で同性愛者に絡まれたときにも感じた。
 背筋を冷たくすると、夢中でジオリスの手を振り払った。
「よせ、気持ち悪い…! お前、何か変なものでも、食ったんじゃないのか…?」
 ジオリスはクスリと笑った。
 だが、すぐに笑みは消えた。
 身をすくませて、耐えようとしているトリトンを見つめて、ジオリスは静かな声でいった。
「トリトン…。私はわざと数千年、偽りの姿を保ってきた…。この姿の間は、お前達の敵として存在し、お前達の憎まれ役を装って、生きなくてはならなかったのだ…。」
「な…、何いってんだ、お前…。」
 トリトンは呆気にとられた。
 ジオリスの言葉の意味が飲み込めない。
 ジオリスは構わずに続けた。
「私の目的は、お前達と変わらない…。オリハルコンを守り育てていく…。それに伴うアトラリア、その世界に存在するアクエリアス一族の血を絶やさぬこと…。」
「俺達と変わらない…?」
 トリトンがうつろに呟くと、ジオリスは頷いた。
「父はラムセス。しかし、私の母はエネレクト。ラムセスにとって、私は逆縁の子だ…。」
「じゃあ、あなたは、ミラオとトリトン・アトラスと同じ…。」
 トリトンは言葉が続けられない。
 ジオリスはそれを認めた。
「そうだ。父は違うが、同じ母から生まれでた兄弟だ。」
「そんなことが…。」
 信じられない表情で見つめるトリトンに、ジオリスはいった。
「こっけいな話だ。私の目の前にいるのは、「年下の兄」ということだ…。」
「そんなバカな理屈、絶対にありえない…!」
 トリトンは叫んだ。
 しかし、ジオリスは、強い口調で断言した。
「“アクエリアス・アテビズム”とはそういうものだ。父と母は別人であっても、受け継がれた血筋は前世の再生だ。私とお前には、血のつながりがしっかりとある。」
「そんな…。」
 トリトンは何もいえなくなった。
 しかし、ジオリスは、構うことなく話を進めた。
「それくらいで驚くな。私の姿は偽りだといったはずだ。本当の姿は、オリハルコンの力に触れて、戻るのを許される…。」
「オリハルコン…?」
 トリトンはうつろな口調で呟いた。
 だが、ハッと思い出すと、ジオリスに言い返した。
「お前が、“オリハルコンの間”にこもっていたのは、本当の姿に戻るためだったのか…?」
「そうだ。」
 ジオリスは頷いた。
「ラムセスにも悟られるわけにいかなかった…。私はそこで、母エネレクトの魂と再会することができる…。そして、さまざまなことを諭されるのだ…。」
「お前の本当の姿って…。」
 トリトンは固い声で質問した。
 ジオリスはかすかに頷くと、優しい瞳でトリトンを見つめた。
「今から見せよう…。ただし、それには、お前の力を借りなければならない…。」
「俺の力…?」
 トリトンはいぶかしんだ。
「何をする気だ…?」
 トリトンは戸惑いを感じた。
 ジオリスは、トリトンの体にもたれるようにして、上から覗き込んでいる。
 ジオリスの身長は約180センチ。
 対して、トリトンは、170センチを少し超える程度。
 その身長差だけで威圧されてしまう。
 だが、それ以上に恐ろしいと感じたのは、ジオリスの深い色を放つ漆黒の瞳だ。
 吸い込まれそうなほどに美しく輝く瞳に見つめられると、トリトンでさえ、思わず惹きつけられそうになる。
 瞳だけでなく、顔の造形や体つきにいたるまで、同性とは思えないくらいに、端正な美を誇っている。
 トリトンは自分を疑った。
 同性に動揺させられるなんて、思いたくもない。
 逆にいえば、同性すら惹きつけるジオリスは、とても危険な存在だ。
 トリトンは目線をはずした。
 ジオリスに見つめられて身動きがとれなくなったという感覚。
 アキから聞かされている。
 これかと、トリトンは思った。
 催眠効果だと判断した。
「トリトン…。」
 ジオリスはそっと呼びかけると、トリトンの顔に手をやって、自分の方に向けさせた。
「よせ…!」
 トリトンは顔をひきつらせる。
 その時、ジオリスは、フッと表情を沈ませた。
「あなたに拒絶されたら、私は元の姿に戻れない…。」
「いったい、もとの姿って…。」
 のどに声を絡ませながら、トリトンは訊ねた。
 すると、ジオリスはぽつりと答えた。
「私のもとの名は…。ジオネリア…。」
「ジオネリアって…女の名前じゃ…!」
 トリトンは仰天した。
 混乱して、それ以上の言葉が続かない。
 目の前にいるのは、女のように美しい体であっても、その肉体は男の何者でもない。
 ジオリスは、トリトンの額に、すっと人差し指を伸ばして触れた。
 トリトンはギクリとした。
 と、同時に、額のあたりが、急に焼けつくように熱くなる。
「いやだ…!」
 トリトンは身をよじろうとした。
 しかし、思うだけで体が動かない。
 顔をそむけることすらできない。
 トリトンの呼吸と心拍数が一気にあがった。
 動揺がますます激しくなる。
 すると、トリトンの意志に反して、いきなり力が放出された。
 額からオーラがもれ出る。
 トリトンは身を震わせた。
 自分では、何がどうなっているのか、理解できない。
 だが、トリトンの額には、くっきりとアクエリアスの王家の紋章が浮き上がってきた。
 光を放出しているのはその紋章だ。
 いつしか蔓の絡みがほどけて、トリトンの体は自由になっていた。
 その時、ジオリスが、トリトンの額に唇を押し付けて、トリトンの体に腕を回してきた。
 嫌悪感が増した。
 トリトンも上体は裸だ。
 それでいて、血が繋がっているという半裸の男に抱きしめられる。
 屈辱と羞恥で、いたたまれない気持ちだった。
ーやめろ、離せ…!ー
 ジオリスを引き離そうと、トリトンは抵抗を続ける。
 しかし、ジオリスはびくともしない。
 さらに、強い思考を送って、トリトンの抵抗を封じた。
ー許せ、この方法しかないのだ。我慢しろ。ー
ーできねぇよ…!ー
 精一杯、拒絶してみたが、トリトンらしくない、弱気な訴えだった。
 やがて、トリトンの気力が失せて、ほとんど抵抗できなくなった。
 その脱力感が、自分のエネルギーを吸収されているからだと気づくことができない。
 体の力が抜けきると、後は、ただこの仕打ちに耐えるだけだ。
 トリトンは目を固く閉じた。
 現実を忘れたい。
 強く願った。
 やがて、ジオリスの姿が柔らかい光に包まれて、トリトンの視界から消えてしまった。
 思考が働かないトリトンは、事態が飲み込めずにうろたえた。
 光の正体はオリハルコン。
 その状態は、“オリハルコンの間”で起きた現象とまったく同じだ。
 光は、トリトンも一緒にとりまいて柔らかく包み込んでいく。
 トリトンの意識がついに絶えた。
 わけがわからなくなって、一気にすべてが白くなった…。