10.湧き上がる陰影 5

 いつの間にか、朝になっていた。
 鉄郎が、転寝から目覚めて、三十分ほど経過した。
 いまだに、眠ったままのアキに、変化は見られない。
 鉄郎は、ずっと、アキの寝顔を見つめ続けた。
 その寝顔に、ある日のアキの表情がだふってきた。
 正の銃弾を受けた鉄郎を、アキは懸命に介護し、付き添ってくれた。
 今とは、立場が逆だ。
 しかし、この時、鉄郎は、アキをもっとも必要としていた。
 また、正の手から、なんとしてでもアキを守りぬくと、決意した瞬間だった。
 正にアキを奪われそうになった時、夢の中で感じた痛烈な痛みを、実際に、鉄郎は味わった。
 自分にとっての存在の大きさを、鉄郎は、はっきりと自覚した。
 そんな鉄郎の気持ちを知ったアキは、喜びの涙を流してくれた。
 その時の二人の結びつきは、もっとも強く、お互いに惹かれあう思いは、止めようがなかった。
 どんな困難も、二人で乗り越えられると、固く信じあっていた。
「あの時の気持ちに、もどれるものならもどりたい…。遅くないよな。俺達は…。まだ…。」
 アキの手を握り締めながら、鉄郎は静かに呟いた。
 そこに、小屋の入口のカーテンを分けて、レイコが入ってきた。
 気がついた鉄郎は、表情を和らげる。
 レイコは、鉄郎の横に座ると、ゆっくりと話しかけてきた。
「アキの様子、どう?」
「このとおり。全然変わらないよ。」
 鉄郎は、そういってアキに視線を戻す。
 レイコは眉を寄せた。
「鉄郎ちゃん、顔色悪いよ…。疲れてるんじゃないの?」
「大丈夫。嫌な夢を見ただけだ…。」
 鉄郎は、照れ隠しのために、額を抑えた。
 レイコは鋭いところがある。
 弱みを見られたようで、ちょっと恥ずかしかった。
「そっちはどうなった?」
 鉄郎は、ごまかすように、話題を変えた。
 聞きたかったのは、仲間達が行っている、村人の動向調査の状況だ。
 レイコは当然よといいたげに、鉄郎に説明した。
「みんな文句をいいながらも、徹夜してがんばってるわ。それで、大体、人物が絞り込めてきたわ。」
「本当か?」
 鉄郎が目を見張った。
「ええ。何万人もいる村じゃないじゃない。手分けすれば、何とか見当くらいつけられるわ。」
 レイコは、わずかに口調を変えた。
「というより、倉川ジョウが予想した人物の動向を探ってるの。ただ、トリトンは、私達と離れて単独行動してる。それには、みんな、いいたいことがあるようだけど、あえて黙認してるわ…。」
「あいつは該当者の目星を、とっくにつけている。」
 鉄郎はすかさず答えた。
「それを自分でも認めたくないんだ…。でも、事が起きたら、あいつは自分から動き出すよ。」
 レイコは小さく笑った。
「ほんとだ。ジョウがいってた。鉄郎なら、絶対そういうだろうって…。」
「えっ?」
 鉄郎は、楽しそうなレイコを、けげんそうに見つめた。
 レイコは、その意味には触れずに、鉄郎に尋ねた。
「トリトンと話はできたの?」
「うん。」
 鉄郎は小さく頷いた。
 そして、短く説明した。
「あいつは、アキと付き合うのが苦手だそうだ。この事件も、自分一人で何とか解決したいってさ。」
 レイコは笑い出した。
「トリちゃんはアキが苦手か…。だろうね…。」
 メンバーの中で、アキと一番長い付き合いがあるレイコだからこそ、思い当たることがあるのだろう。
 一人で受けて楽しんだ。
「憧れるのと、実際に付き合っていくのとでは、全然違うわ…。」
 独り言を呟いたレイコは、突然、鉄郎の方に視線を向けた。
「ね、アキとあたし、一度、大ゲンカしたことがあるんだけど、鉄郎ちゃんは聞いたことがある?」
「いや…。」
 鉄郎は初耳だ。
 レイコは、笑い話のように語りだした。
「ほら。高校卒業した後、ジョーとあたしって、一緒に暮らしはじめたじゃない。最初はよかったのよ。でもね、そのうちジョーのやつ、あたしのことをそっちのけで、レース、レースって。」
 レイコは、小さくため息をつくと、言葉を続けた。
「自分の夢を追いかけるのはいいのよ。あたしも応援していたし…。だけど、結局、何の相談もなしに通っていた大学もやめちゃうし、鈴鹿に入り浸りになって戻ってこないし…。その時、あたしの存在って何なの?って思ったわ…。」
「そんなの、一言もいわなかったよ。ジョーのやつ。」
 鉄郎は呆気にとられた。
 ずっとうまく二人はやっていると、思っていたからだ。
 レイコは肩をすくめた。
「あいつ、自分の弱みはいおうとしないんだから。特に、鉄郎ちゃんのような自分よりも“強い”人にはね…。それに、心配かけたくないと思ったんじゃない? 鉄郎ちゃんには、いろいろと義理があると思ってるから…。」
「遠慮しすぎなんだよ…。あいつ…。」
 鉄郎がそういうと、レイコは鼻をならした。
「鉄郎ちゃんには、そうやって、遠慮させてしまうような雰囲気だってあるんだよ〜。」
「えっ? 俺が…?」
 鉄郎が驚いた。
 レイコは大きく頷く。
「そうよ。ジョーだけじゃなく、うちの仲間は、みんなそう思ってる。アキは知んないけど…。」
「俺は、そんなんじゃないよ…。」
「前にもいった事があるでしょ。鉄郎ちゃんは、答えを自分で出させようとするところがあるから…。」
「そりゃ、認めるよ…。でも、相談された時は、ちゃんと力になるよ…。」
 鉄郎は肩を落とした。
 レイコは苦笑した。
「落ち込まないでよ。そうじゃなくって、鉄郎ちゃんは苦労が多いし、自分の問題を持ち込んで、よけいに悩ませるのは悪いと思ってるのよ。本当に…。」
 レイコは、鉄郎の気を取り直すように、話を続けた。
「それであたし、ジョーの家を出たの。ジョーにあたしは必要ないと思ったから。」
「………」
「あたしが出て行ってから、ジョーは自分の非を認めて、あたしがそうしても仕方がないと思ったらしいわ。でも、ちゃんと話し合いもせずに、別れたことを気にしていたみたい。それで、わざわざ親友のアキに伝言を事ずけたの…。」
 レイコはさらに続けた。
「でも正解! その頃のあたしは他の男とつきあっていたから…。その人、あたしと同じように寂しい人だったなぁ…。」
「信じられないよ、そんなことがあったなんて…。」
 鉄郎は、ようやく言葉を返した。
 レイコは、そんな鉄郎に笑いかけた。
「彼と一緒にいるだけで寂しさから逃げられると思ってた。でも、お互いが自分の問題を、ちゃんと一人で解決しなければだめだって、気がついたの。何も変わらない…。でも、彼もあたしも、また一人になる勇気がもてなかった…。おかげで荒れるわ、無気力になるわで、ひどい生活をしていたわ…。」
「………。」
「そこを、アキにみられちゃった。まともにやってたら、アキも、そのままジョーに伝えたんだろうけど…。すっかり変わりはてたあたしを見て、アキはショックを受けたみたい…。そのまんま、彼と一緒にいた所に乗り込んできて、なりふり構わずの大ゲンカ…。あたし、このままマジでやばいって、真剣に思ったんだから。」
 鉄郎はかぶりをふって、ひきつった笑いを浮かべた。
「アキのことだ…。だいたい想像がつくよ…。」
「彼も驚いていたわ。あんなわけのわからない女は、初めてだってね。」
 鉄郎はふきだした。
「俺と同じだ。アキに出会った直後にそう思った…。」
「やっぱり!」
 二人で苦笑した後、レイコは話をしめくくった。
「おかげで、あたしも彼も、ちゃんと自分と向き合って、お互いに、自分の道を歩むことができた。それはすごく感謝してる。でも、アキのやつはいつもそう…。人のことには、そうやって気を回して、がんばっちゃうくせに…。自分のことになるとまるでダメ。気がつかないのかな。その時のあたしが、今のアキ自身だってことが…。」
「ごめん。君にも心配かけちゃったな…。」
 鉄郎がぽつりといった。
 レイコは鉄郎に視線を向けた。
「鉄郎もだよ。」
 鉄郎は目を見張る。
 レイコは真剣な表情で、鉄郎を見つめた。
「誰も望んでないからね。二人が以前のあたしとジョーみたいに、ちゃんと向き合わずにいるのは…。」
「わかった。すまない。そんな話をさせちゃって…。」
 鉄郎は顔を伏せた。
 レイコは急に口調を変えて、さらりと忠告した。
「あたしにとって、これは過去の話。だから、聞き流してちょうだい。それと、この話のことは、ジョーには黙ってて。でないと、あいつ真剣に怒るから…。」
「わかってるよ。」
 鉄郎は頷いた。
「あいつは馴れ合いが嫌いだ。聞かなかったことにする…。」
「ありがとう。」
 レイコは、にこりと笑いかけた。
 そして、話題を元にもどした。
「さっきのトリトンの話だけど…。トリちゃんは嘘をいってない。彼は、ちゃんと鉄郎に、本心を打ち明けたと思うよ。トリちゃんは、鉄郎のことを尊敬してるし、心からアキの幸せを願ってる…。」
 鉄郎は小さな笑みを浮かべると、かすかに頷いた。
 レイコは鉄郎を一瞥した。
「鉄郎は、ちゃんと答えを出せたの…?」
「それが、まだ…。」
 鉄郎はいいかけて、言葉をつぐんだ。
 肩をすくめたレイコは、鉄郎にいった。
「アキにふさわしいのは、あなたしかいないんだから。」
 鉄郎は視線を、わずかに落とした。
「そうしたいけど、トリトンのことを思うと…。」
「あの子には別の彼女がいるわ…。なんとなく、そんな感じがする…。」
 レイコは、にこやかにいった。
「だから、アキにも、思いきって気持ちをぶつけていけないのよ。それに、一途に思い続けている鉄郎に、すまないと思うから、鉄郎にも遠慮しちゃってるよ…。」
「そうなのか…? ただ、一途っていうのは、なんか違うよ…。」
 鉄郎は自嘲気味に口を開く。
 レイコは目を丸くした。
「あら。そうじゃなかったの? みんなは、鉄郎のことを、そう思ってるよ。」
 鉄郎はレイコを凝視したが、レイコは、それ以上はいわなかった。
 かわりに、レイコは倒れたままのアキを一瞥した。
「みんながこんなに大騒ぎしてるのに…。ほんとにお気楽なお姫様だわ。」
 鉄郎も、アキに視線を向けた。
 アキの状態は同じだ。
 しかし、鉄郎の表情は確信に満ちていた。
「いや…。アキは邪念と一人で戦い続けている…。いつもじゃないけど、こう、時々感じるんだ。「強い空気」っていうのかな…。言葉では、うまくいえないんだけど…。俺が見た夢は…。アキの叫び声だったのかもしれない…。」
「アキのことをそうやってかばうのが、気持ちの現れよ。」
 レイコはにんまりと笑顔を浮かべた。
 しかし、鉄郎は、レイコの言葉を聞いていなかった。
 それまでに感じたことがない、強い衝撃に驚いていた。
 アキの状態に変化はない。
 しかし、突然、説明したばかりの“強い空気”が、鉄郎の中で奮えだした。
 鉄郎の体の中を熱気が駆け抜け、脈を激しく打ち鳴らし始めた。
 それは、“刺激”の鼓動と、一体化した。
 “波打つ鼓動”は、鉄郎の全神経を通して、訴えかけてくる。
 鉄郎の顔がひきつった。
「アキ、戻って来い! こっちだ! わかるな?」
 突然、鉄郎が叫びだすと、レイコは仰天した。
「鉄郎ちゃん! どうしたの? 大丈夫?」
 レイコの声は、まるで聞こえていない。
 鉄郎はトランス状態に陥っている。
 レイコは不可思議な現象に身を震わせた。
 と、いきなり、今まで変化がなかったアキの体から、オーラが勢いよく吹き上がった。
「何、これ!」
 レイコは動揺した。
 対して、鉄郎は、アキの手を強く握り締めたまま、ずっと目を閉じ、神経を集中させた。
「もう少しだ…。君は勝てる。あいつに必ず勝てる…。負けるな、絶対に…。」
 念じるように、アキに呼びかけを送り続けた。
 やがて、猛烈な勢いで、小屋に充満したオーラの輝きは、フッと力をなくして消滅した。
 レイコは光の圧力に負けて、体をのけぞらせた。
 何も抵抗がなくなったのを確信すると、ゆっくりと目を開いた。
 すると、声が聞こえた。
「どうしたの…。私…。」
 レイコは驚いた。
 アキの顔を覗き込んだ。
 アキは意識を取り戻して、目を見開いていた。
「アキ。わかる?」
 レイコの呼びかけで、やっと、鉄郎は我をとりもどした。
 固く閉じていたまぶたをゆっくりと開いて、アキに視線を向けた。
「鉄郎…。どうして…。」
 かすかな声だが、アキは鉄郎に話しかける。
「アキ…。」
 鉄郎はそっと呼びかけた。
 しだいに歓喜がこみ上げてきて、顔がほころびはじめた。
「よかった。目が覚めて!」
 鉄郎は弾かれたように、アキの体を起こすと、強く抱きしめた。
「鉄郎…。何があったの…?」
 鉄郎の肩越しに首をめぐらすと、困惑したまま、アキは尋ねた。
 鉄郎はかぶりを振って、アキに答えた。
「何でもない。過労が原因だ。休んでいれば、すぐによくなる。」
 鉄郎は声を震わせた。
「アキ、あんたは無理しすぎなの。」
 レイコが口をはさんだ。
 だが、とたんに何かを思い出したように、アキは取り乱しはじめた。
 鉄郎の腕を離すと、アキは鉄郎から慌てて身を引いた。
「ごめんなさい。私はあなたと…。」
 鉄郎には、アキが何をいいたいのか、よくわかっている。
 優しく微笑みかけながら、穏やかな声でいった。
「俺が悪かった…。ごめんよ、別れるなんていって…。俺達は、ずっとこれからも一緒だ。だから安心して…。」
 アキは目を見張った。
 恐れている様子から、少しずつ、驚きの仕草に変わっていった。
「鉄郎…。私は“アキ”でいていいのね…? いられるのね…?」
 確認するように、何度も聞き返した。
 鉄郎はそのたびに強く、大きく頷いた。
「もちろんだ。君は“アキ”じゃないか…。ありがとう。君のおかげで、俺の答えもやっと見つかった!」
 鉄郎は、もう一度、アキの体を強く抱きしめた。
 アキも、ようやく心を許して、鉄郎の腕の中に身を預ける。
 レイコはホッと溜息をつきながら、呆れた口調でいった。
「本当に世話がやけるわ、二人とも…!」
 アキを離した鉄郎は、元気よくたちあがった。
 びっくりして見上げるレイコとアキに、鉄郎は明るい声でいった。
「レイコ、悪いけど、アキを見てて。このこと、あいつにも知らせてやらないと!」
 鉄郎は皆までいわないうちに、弾かれたように小屋から走り出ていく。
「鉄郎ちゃん!」
 レイコの叫び声も、鉄郎には届かない。
 言葉をなくしているアキに向かって、レイコは肩をすくめた。
「まるで鉄砲玉…!」
 しかし、その表情はとても温かかった。