10.湧き上がる陰影 4

 意識不明のまま、アキは診療所から一般の小屋に移された。
 鉄郎は、そのことを、使いの女性から伝え聞いた。
 そして、鉄郎は慌てて小屋のほうに向かった。
 小屋の前には、ニトルが立っていた。
 鉄郎は、ニトルから、アキについての説明を受けた。
「そうですか。何も変化がないのですね…。」
 鉄郎は、やや視線を落とした。
「お話は、お仲間の女性から聞きました。村人の動向を、探らなくてはいけないようですな。」
「すみません。」
 鉄郎は頭を下げた。
「村の人を疑うようなことは、したくないのですが…。」
「いえ。事が事だけに、いたし方ありません。」
 ニトルがいった。
「アルテイア様は、過労で倒れられたことにしてあります。私以外に、事実を知るものはおりません。」
「ご配慮、感謝します。」
「いえ…。」
 ニトルは小屋の入口を見つめた。
「しかし、厄介なことになりました。まさか、ラムセスが、このような形で攻撃をしかけてくるとは…。」
「オリハルコンが、復活してきているという証拠です。」
 鉄郎は硬い表情でいった。
「ある程度、こうなることは予測がついていました。むしろ、相手がアキでよかった。一般の人に危害が及ぶことになれば、きっと、アキも悲しんだでしょう。」
「それはあなたの本心ではない。」
 ニトルは溜息をついた。
「過去のアルテイア様の教訓を、我々は、もっと親身になって受け取るべきでした。いかなる者であっても、犠牲者を出すことは許されません。」
「俺とトリトンの責任です。」
 鉄郎がいった。
「でも、まだ可能性がないわけじゃない。その可能性にすべてをかけます。」
「何か、良い方法があるのですか?」
 ニトルの言葉に、鉄郎は、かすかに微笑んだ。
 しかし、言葉を発することなく、鉄郎は小屋の中に入っていった。
 ニトルはかぶりを振った。
 何といわれようと、事態を打開できる力は、鉄郎にはない。
 ニトルは小屋から離れた。
 少し進んで足を止めた。
 周囲を見渡すと、何も知らない村の人間達が、黙々と仕事に専念する姿がある。
「見えぬ敵。見えぬ恐怖か…。我々は、幾つの試練を与えられているのやら…。」
 この先に待ち受ける険しい道のりを想像しながら、ニトルは眉間に深い皺を刻んだ。


 小屋の中で、アキは、幾重にも重ねられた絨毯の上に寝かされていた。
 呼吸はある。
 しかし、昏睡状態のまま、何も反応を示さない。
 鉄郎は、眠ったままのアキの顔を覗き込んだ。
 閉じられた長い睫をたたえた瞳、ふくよかな唇。
 艶やかな表情は、意識があるときと変わらない。
 鉄郎はそっと呼びかけた。
 その声で、ふっと意識をとりもどしてくれそうな気がした。
「君は俺が苦しかったとき、ずっとそばにいてくれたのに…。俺は、その時のことを忘れていた…。」
 鉄郎は、いいながら視線を下に向けた。
 絨毯の上に、だらりと下げられたアキの右腕が、鉄郎の視界に入った。
 それは何気ない動作だった。
 だが、鉄郎ははっきりと目撃した。
 わずかながら、アキの指先がぴくりと痙攣したと思うと、鉄郎の方に向かって、腕がゆっくりと持ち上がった。
 鉄郎の瞳孔が大きく開いた。
 一瞬の出来事だ。
 持ち上がりかけたアキの腕は、また、だらりと絨毯の上に投げ出された。
「アキ!」
 身を乗り出した鉄郎は、思わず叫んだ。
 アキはもう動いてくれない。
 しかし、鉄郎は確信した。
 アキは必ず覚醒する。
 希望が開けた。
「一緒に戦おう。」
 鉄郎は、アキの右腕を強く握り締めると、祈るように、額の前に組んだ手を持ちあげた。
 鉄郎は精神を集中した。
 アキの手の温もりが、鉄郎の手の平を通して伝わってくる。
 同じように、鉄郎の手の温もりも、アキに浸透しているはずだった。
 鉄郎の脳裏に、トリトンの言葉が思い出された。
ーアキは、あなたの声に反応している。彼女の“波動”は、あなたに向いている。ー
「トリトンの言葉が本当なら…。俺の“波動”を…。感じてくれ…。」
 鉄郎は祈りをこめて、アキに、もう一度話しかけた。
 その頃、他の仲間達は手分けして、村に出入りする人間達のチェックを進めていった。
 ニトルの協力を得て、誰にも悟られることなく、作業は迅速に行われていく。
 該当する人間は、今のところ、あがってこない。
 たが、取り組む仲間達の表情は真剣だった。
 一方、トリトンは単独行動をとった。
 村を離れたトリトンは、一人、何かを探るように、テグノスの森を調査しだした。
 やがて、一日が終わった。
 迎えた夜は、とても長く感じられた…。


*******


「鉄郎。とてもよく似合うわ。」
 そういって、叔母の静香は、鉄郎を褒め称えた。
 鉄郎は、これから中学に入学する。
 その前に、注文した学生服が届いたので、試着して織野の家族達に披露しているところだった。
 鉄郎がいる場所は、懐かしい織野邸の居間だ。
 広々としているが、落ちついたムードが漂う暖かい団欒の場。
 静香のほかに、祖父の源三と祖母。
 そして執事の時田もいる。
 織野邸にやってきて、すでに二年。
 鉄郎にとって、ここに集う人々が、大切な家族になっていた。
「へへ。少しはお兄さんらしくなった?」
 まだまだ鉄郎は小柄だ。
 しかし、真新しい制服を着て、少し大人になった気分だった。
「中学生じゃ、まだまだこれからだ。」
 源三は苦笑した。
「見た目よりも中味のほうが大切だ。これからは、もっと勉強に励みなさい。いいな。」
「はあい。」
 鉄郎は明るく返事をした。
「そして、何事も一番を目指すこと! これ、お爺さんの口癖だよね。」
「中間テストや期末テストがあるのよ。気を抜くと、すぐにお友達に越されてしまいますよ。」
 祖母が、そういって、鉄郎を優しく見つめた。
「ご心配なく。鉄郎様は、負けず嫌いでいらっしゃいます。ご友人とは、いい意味で張り合われることでしょう。」
 時田が口をはさむと、鉄郎は無邪気にはしゃいだ。
「さすが執事さん! いいこといってくれるよ!」
「鉄郎にかかると、さすがの時田も形無しだな。」
 源三は低い声で笑い出した。
 鉄郎の存在は大きかった。
 それまで大人ばかりだった屋敷の中に、活気があふれ、明るい笑いが絶えなかった。
 祖母も笑いをもらしながら、会話を続けた。
「ところで、入学式には、誰が行けばいいでしょう。」
「それなら、私が出席するわ。」
 静香がいった。
 とたんに、鉄郎は目を輝かせた。
「ほんと? 姉さん、いいの?」
 祖母は仰天した。
「仕事はどうするの?」
「そんなの休むわ。大切な甥の晴れの舞台よ。母親代わりの私が行かないと、誰が行くのよ?」
「やった! これで仲間にいばれるよ。姉さんは、みんなの憧れなんだから!」
「鉄郎。静香は遊びのために出席するんじゃないんだぞ。」
 源三が釘をさすと、鉄郎は肩をすくめた。
「ごめんなさ〜い。」
「しょうがないやつだ。」
 源三は、鉄郎のげんきんさに特に弱かった。
 祖母が鉄郎にいった。
「鉄郎、もういいわ。直したサイズもぴったりだし。制服を汚す前に着替えてきなさい。」
「わかりました。」
 鉄郎は、居間のドアを開けようとした。
 が、それより先に扉が開いた。
 鉄郎は、あっとなって身を引いた。
 居間に入ってきて鉢合わせになった男の顔を見て、鉄郎は顔を強張らせる。
 男は、鉄郎を冷ややかに見つめた。
「なんだ、お前か。ついに中学にご入学か。いいご身分だな。」
「叔父貴に祝ってもらおうなんて、思っちゃいないよ。」
 鉄郎は男を睨みつけた。
 鉄郎が、“叔父貴”と皮肉を込めて呼ぶ男。
 それが、鉄郎の父親の弟、正だ。
「そりゃ結構。こっちは、よけいな出費を重ねなくてすむ。」
 正はしらじらしくそういうと、鉄郎の脇を通り過ぎた。
 鉄郎は、怒りを抑えようと、じっと耐えた。
「もう少し、礼儀をわきまえたまえ。」
 源三が正を睨んだ。
 正は、わざとらしい口調で詫びた。
「これは失礼いたしました。会長が寵愛される、お孫さんの晴れの場に、そぐわぬ言葉でしたね。」
「何しにきたのですか?」
 祖母が、刺のある口調で、正に問いかける。
 正は、含み笑いを浮かべると、やんわりと返した。
「いえ。用事というほどでは。静香さんから呼び出しを受けましたね。それで、こちらに伺っただけですから。」
「静香!」
「お母さん。本当にたいした話ではないの。ここでは話もしずらいし、ちょっと席をはずしますね。」
「静香、待ちなさい!」
 源三が、厳しい口調で、静香を止めようとした。
 が、静香ではなく、正が源三に言い返した。
「会長。私は、静香さんを不幸にするような人間ではありません。ご安心ください。」
「だったら、信用を得るような振る舞いをしたらどうかね?」
「悲しいことです。努力はしてるのですが、ご理解をいただけないことが…。」
「お父さんもお母さんもお願い。ここで、そういう話はしないでしょうだい。」
「行くぞ、静香。」
「ええ。」
 正は、何食わぬ顔で、静香を部屋から連れ出そうとした。
 入口に立っていた鉄郎は、通り過ぎようした静香を見上げて、声をかけた。
「姉さん、どこへ行く気だよ?」
「鉄郎、心配しないで。」
「お前は自分のことを心配しろ。」
 正はかすかな声でいった。
「お前も、そのうち兄貴の二の舞になる。それまで、能天気に、この家で、マスコットのように飼われているといい。大切なお坊ちゃん!」
 困ったように見つめる静香を先に出して、正は居間の扉を閉めた。
「叔父貴、待て!」
 鉄郎の怒りが爆発した。
 執事や源三達が止める声は通じなかった。
 正の後を追いかけるために、鉄郎は、部屋を飛び出した。
 が、扉を開いたとたんに、鉄郎は息を飲んだ。
 その先は、絡みつくような漆黒の空間が、果てしなく広がっている。
 静香と静香の肩に手を回した正は、闇の空間の中央を平然と進み、鉄郎の視界から遠ざかっていった。
「鉄郎、今日は、まだ学校があるんでしょ? ちゃんと遅れずに行くのよ。」
 静香は肩ごしに振り返ると、いつもの優しい声で、鉄郎に呼びかけた。
「姉貴、だめだ! そいつについていくな!」
 鉄郎は、闇の空間に飛び込んでいった。
 だが、ぎょっとした。
 足元がぬかるんでいて、鉄郎の動きを封じる。
 膝のあたりまで闇に埋もれて、鉄郎は顔をひきつらせた。
「くそっ!」
 鉄郎はもがいた。
 重たい足をひきずるように、何とか前に進もうとした。
 その間も、静香と正は、どんどんと鉄郎から離れていってしまう。
「鉄郎、ちゃんと学校へ行くのよ。」
 静香はもう一度振り返った。
 いや、それは静香ではなく、いつの間にか、アキに変わっていた。
「アキ、そいつについて行くな。だめだ、もどって来い!」
 鉄郎は必死に呼びかけた。
 焦りがひどくなった。
 もがく鉄郎を残して、正とアキは、すっと闇に消えた。
「アキ!」
 鉄郎は絶叫した。
 気がつくと、周囲は、完全な闇に支配されていた。
 ここがどこなのか、鉄郎には検討もつかない。
 やがて、闇は、鉄郎を容赦なく飲み込みはじめた。
「畜生!」
 鉄郎は歯をくいしばった。
 まるで底なし沼だ。
 あっという間に、鉄郎は腰のあたりまで沈んだ。
 鉄郎はふと上を見上げた。
 すると、闇の中から、血まみれの白い腕が伸びてきた。
 鉄郎は目を見張る。
 声が聞こえた。
 か細い女性の声だ。
「鉄郎、助けて…。お願い…。」
 鉄郎が間違えるはずがない。
 それはアキだ。
「アキ!」
 鉄郎は夢中で手を伸ばした。
 血まみれの腕を、必死に掴もうとする。
 やがて、鉄郎の前に、アキの全身が見えた。
 傷だらけの痛々しい姿。
 そして、すがるような悲しいまなざしで、鉄郎を見下ろしている。
 アキの背後に正がいた。
 ナイフをちらつかせ、アキを斬りつけようとしている。
「叔父貴、やめろ!」
 鉄郎は絶叫した。
 だが、声を上げるたびに、鉄郎は闇の中に引き込まれていく。
 鉄郎の形相は一変した。
 正は、愉快そうに哄笑しながら、鉄郎に語りかけてきた。
「こいつの体の中には、俺達と違う新しい人間の細胞がいっぱい詰まっている。鉄郎、見せてやろう。こいつの本当の正体を。」
「鉄郎、私は人間よ。あなたと同じ。何も変わらない!」
 アキは涙声で、鉄郎に訴え続けた。
「助けて、あたしを助けて!」
 アキは精一杯身を乗り出してきた。
 鉄郎は小さくかぶりをふった。
「そうだよ。君は人間だ。俺と同じだ。さあ、もう少しだ。こっちへ来て!」
 鉄郎も呻きながら、上体を伸び上がらせて、腕を伸ばした。
 そうして、何とか手を握りあおうする。
 お互いの指先が、闇の中で小刻みに震えた。
 出来る限り、身を乗り出しあった二人の手の距離は、数センチにまで縮まった。
「鉄郎…。」
「大丈夫だ。俺が、君を必ず助けるから。」
 鉄郎は笑顔を向けた。
 アキの表情がフッと和らいだ瞬間、正のナイフが、アキの背中に突き刺さった。
「よせ!」
 鉄郎の悲痛な叫びが、闇の世界に反響する。
 アキは絶叫した。
 その体から帯びたただしい血が噴き出した。
 伸びきったアキの腕がダラリと垂れ下がり、力が抜けていく。
 アキの表情がうつろにぼやけた。
 その瞳から涙が流れた。
「てつろ…。」
 アキは溜息に近い声で呟いた。
 モスグリーンの瞳が、すがるように、鉄郎をじっと見つめている。
 赤い髪が、鉄郎の頬を優しくなでた。
「アキ。君は死なない。しっかりしろ!」
 蒼白した鉄郎は、声を震わせる。
 その鉄郎の顔に、アキが流した血の雫がしたたり落ちた。
 一滴、二滴…。
 温かい感触が、鉄郎の肌を通して神経を貫く。
 それは、アキの命の一部だ。
 アキは、鉄郎の目の前で、無惨に壊されていく。
「やめろ!」
 鉄郎は、引き裂かれんばかりの雄叫びをあげた。
 瞬間、鉄郎の体は、完全に闇の中に引き込まれた。


*******


 鉄郎は、ビクリとして目を見開いた。
 反射的に身を激しくよじった。
 体が自由に動いた。
 鉄郎を取り巻いていた漆黒の闇は、もうどこにもない。
 わずかに明かりが差し込んできて、周囲を照らしている。
 そこは板張りの小屋の中だ。
 激しい呼吸が響いた。
 自分のそれだった。
 鉄郎はしばらく呆然としていた。
 今いる場所が、アトラリアのテグノスの森にある村であることも、その小屋で倒れたアキにつきそっていたことも、しばらく思い出せなかった。
 アキは無傷で横たわっている。
 それを確認して、鉄郎は、湧き上がってきた動揺を抑えようと、肩を上下させて息を整えた。
 ようやく落ち着いてくると、あれが夢であったことを、鉄郎はやっと認識した。
 鉄郎は額を抑えつけた。
 初めてではない。
 過去に、何度か同じ夢を見たことがある。
 しかし、最近は見ることもなかったので、とっくに忘れていた。
 それを蒸し返すように見てしまうなんて…。
 鉄郎の気持ちはどん底にまで落とされた。
「もう、終わったことなのに…。」
 一度は癒えたと思っていた心の傷が、また激しく疼きだした。