9.深 淵 5

 尊い徹也の犠牲によって、二人は救われた。
 しかし、それで受けたアキの心の傷は大きい。
 そんなアキを、鉄郎は必死になって支えた。
 それが、徹也と交わした男の約束だ。
 だが、それ以上に。
 鉄郎の素性を知っても、その思いを変えず、逆に、身をもってかばおうとしたアキに、鉄郎は心打たれた。
 それまで同世代の女性を、友達以上に感じなかった鉄郎にとって、アキは、特別な感情を抱ける存在になった。
 それは、アキにとっても変わらない。
 アキは、鉄郎を誰よりも必要とした。
 二人は、互いの心を通わせて絆を結んだ。
 この事件をきっかけに、二人は、ともに歩みはじめた。
 そして、二人のそんな信頼関係は、ゆっくりとした時間の中で、確実に築かれていくはずだった。


 しかし。
 その影で、鉄郎の周囲に、不穏な動きが目立ち始めた。
 祖父、源三の死。
 そして、再び勃発したお家騒動。
 気ままな高校生活を送り続けていた鉄郎に、織野邸に戻るよう連絡が届いた。
 こうして、鉄郎は、またもや身を隠すことを要求された。
 アキに別れを言い残し、去ろうとした直後、鉄郎は、屋敷に連れ戻された。
 自由を奪われ、また、頑丈な鉄の檻の中に閉じ込められた。
 屋敷にもどった鉄郎に突きつけられたもの。
 それは、織野の総長になれという命令だった。
 鉄郎は強く拒絶した。
 しかし、全財産を鉄郎に相続するという、祖父の遺言が鍵になった。
 鉄郎に拒否権は認められない。
 それどころか、怒涛のような取り巻きが、鉄郎を再び飲み込みはじめた。
 もう、時田の力だけで、抑えることができなかった。
 鉄郎は、際限がない孤独のなかに置き去りにされて、一人で苦悩した。
 鉄郎は頑なに心を閉ざし、誰の言葉にも耳を貸そうとしなかった。
 親族たちは、そんな鉄郎をどうすることも出来ずに困り果てた。
 だが、たった一人、鉄郎の叔父にあたる正だけは、鉄郎をいいなりにさせる方法を思いつき、それを実行した。


 その方法とは。
 鉄郎に関わった仲間達を、苦しめていくというものだった。
 その標的にされたのが。
 島村ジョーとアキだ。
 ジョーは過去をほじくられた。
 すでに不良時代から足を洗ったものの、不良仲間とひと悶着を起こさせ、ジョーを退学処分にまで追い込んだ。
 ジョーにとって、過去を蒸し返されることは、最大の痛手になる。
 そして、傷つくジョーの姿を見せられて、さらに、心を痛めるのは鉄郎だ。


 さらに、アキに対しては。
 いや、アキのほうが本命だった。
 その頃、アキは、鉄郎の行方を捜して、心当たりがある場所を尋ね歩いていた。
 鉄郎に一方的に別れ話を持ちかけられてから、アキは不穏な空気を感じとっていた。
 何か、鉄郎の身に起きたに違いない。
 その時、正の部下に、アキは連れ去られた。
 行く先は織野邸。
 アキは、そこで、ようやく鉄郎と対面した。
 鉄郎の方は、アキと再会できたことを、素直に喜ぶことができなかった。
 そんな二人に対して。
 正は、二人に隠された秘密を語った。
 アキには、不思議な能力があること。
 それに目をつけた織野が、アキを利用しようとして狙っていたことを。


 アキは、鉄郎の両親に引き取られて、織野に、一時、預けられたことがある。
 その時、鉄郎と義理の兄妹として育てられた。
 しかし、事件が起きた。
 飼い犬が、まだ赤ん坊だった鉄郎とアキの部屋に押し入り、二人に襲いかかった。
 鉄郎は、飼い犬に噛まれて大怪我を負った。
 奇跡的に命はとりとめたものの、今も、鉄郎の背中には、その時の生々しい傷跡が残っている。
 血まみれになった鉄郎に対し、飼い犬は、アキに近寄ることができなかった。
 赤ん坊だったのにも関わらず、アキは、オーラを放出して飼い犬をあっさりと撃退した。
 この光景を目の当たりにした織野源三は、アキという赤ん坊を徹底的に調べはじめた。
 すると、DNA鑑定で。
 アキは通常の人と、遺伝子形態が違っていることが明らかになった。


 織野は、アキに注目した。
 女の子なら、思春期に成長した時、卵子を放出する。
 その卵子を媒体にして、アキのような人間を生みだすことができたら。
 特殊な遺伝子は、相当な利益を生み出すはずだ。
 織野は、真剣に、そのプロジェクトを推進しようとしていた。
 そんな非人道的なビジネスを阻止しようとしたのが、鉄郎の両親だった。
 その他の織野の違法行為も含めて、両親は、織野の不正を世間に公表しようとした。
 そして、アキは織野から引き離され、鉄郎の父の計らいで、一条家にかくまわれた。
 徹也をはじめ、一条家の家族は、アキを守ろうと力を尽くした。
 アキの父親の突然のリストラ。
 兄、徹也の織野一族に向けられた怒りと執念。
 今になって、一家の人々の行動に重要な意味があったことを、鉄郎は理解した。
 それらは、すべて、鉄郎の父親に対する信頼からくる行為だったのだ。
 アキのショックは大きかった。
 一条家の人々が背負ってきた苦労は、自分のせいだったと知って、ますます悲しみを募らせた。


 正は鉄郎に決断を迫った。
 鉄郎が自由になるためにアキを差し出すか、もしくは、鉄郎が仮の総長となり、正に実権を引渡すのか…。
 鉄郎は気がついた。
 自分が、織野に呼び戻された理由を。
 非人道的ビジネスと、表の友好ビジネスとを融合させながら。
 源三が成し遂げられなかったビジネスを、成功させるつもりだった。
 そのために、正は、アキと鉄郎をうまく利用してやるという自信に満ちあふれている。
 静香を犠牲にした男。
 そして、鉄郎の父親に対するねたみから、鉄郎に憎しみをぶつける男。
 そんな男に、織野の実権を渡せるはずがない。


 その答えに対する正の返答は。
 銃弾だった。
 正の銃弾を受けて、鉄郎は倒れた。
 それを見たアキは、持っていた力を暴走させた。
 命を奪うまではいかなかったものの、正は、アキの力を受けて重傷を負った。


 助け出された鉄郎は、時田や屋敷のスタッフの協力で病院に運ばれた。
 鉄郎は、その時のことを、あまりよく覚えていない。
 しかし、そばに付き添っていたアキは、鉄郎が、ずっとうわ言で、アキの名を呼び続けていることを聞いていた。
 一時は鉄郎の気持ちに不安を抱いたものの、アキは強い確信を持った。
 そして、何があっても、鉄郎から離れないと心に誓った。
 意識を取り戻した鉄郎は、アキの力のおかげで回復したことを知った。
「私は普通の人間ではないみたい…。でも、私は今までのように、あなたのそばにいたい…。いけませんか?」
 アキの問いかけに、鉄郎は迷うことなく答えた。
「俺には、そんなの全然関係ない…。そばにいてくれてありがとう。俺には君が必要だ。ずっと、これからも、俺の力になってくれるよね?」
「はい。」
 アキは涙を流して、鉄郎の思いに頷いた。


 鉄郎は決断した。
 そして、病院を飛び出した鉄郎は、アキとともに、正の元に走った。
 まだ、正は療養中だったが、覚悟を決めた鉄郎は、正に銃を向けた。
 それが、最後の和解のチャンスだった。
 しかし、正の考えは変わらない。
 互いに、最後の星野の血筋をもつ者。
 そして、ともに織野一族の汚れた血筋に染まった者。
 その命運は、二人を相容れる者同士として隔てさせた。
 鉄郎は、すべての肉親を失うことをわかりながら。
 正に向けて、銃弾を放った。


 その後、加熱の一途をたどった後継者問題は、残りの親族達との和解によって決着した。
 鉄郎は、大学を卒業するまでは総長代理として、織野での職務を続けることを約束し、日々の平凡な暮らしを取り戻した。
 一族の人間を葬ったという罪の意識を、心の中に秘めながらー。
 ジョーの退学処分は、時田の働きがけもあり、なんとか取り消しになった。
 そして、普通の人間でないことを知らされて、苦悩するアキを。
 鉄郎は、深い思いやりで優しく包み込んだ。
 幾つもの苦難を体験しながら、鉄郎とアキは、こうして確実に、「絆と信頼」を作り上げてきた。


 しかし…。
 そうしてゆっくりと築き上げてきたはずの信頼が。
 気づかない間に、「すれ違い」を引き起こすようになった。
 最初に、鉄郎が、それを感じたのは。
 ジリアスから無事に帰還した直後だ。
 アキとの会話の中で、さまざまな価値観が、鉄郎のものとあわなくなってきた。
 結局、出会っても会話が続かず、沈黙することが多かった。
 最初は、別々の大学に入学して進路が変わったからだと、鉄郎は思いこむことにした。
 しかし、たまに連絡をとって二人で会うと、アキは意識することもなく、トリトンの話題に触れるようになった。
「結局、私のことを本当に判ってくれるのは、トリトンしかいないのね。」
「ここで別れよう。しばらく会わないほうがいい…。」
 すると、鉄郎は、苛立ちを隠すことができなかった。
 結局、鉄郎は、自分の目標を優先させて、真っ先にアメリカに留学した。
 その間、アキとは連絡をほとんどとらなかった。
 離れた方が、お互いに冷静になれるだろう。
 鉄郎は、そう考えた。


※ ※ ※ ※


 今、鉄郎とアキは、異世界アトラリアにいる。
 最初の誓いの言葉どおり、鉄郎のそばにアキは存在し、アキもまた、鉄郎を、そのように思っていることだろう。
ーでも、本当に、俺達はそれでいいんだろうか…。もう、俺にはわからなくなってきた…。ー


 鉄郎は、頭を泉の淵にもたげながら、思いを巡らせる。
 すると、その時、木々がこすれあう音がした。
 鉄郎はビクリとした。
 慌てて後ろを振り返ると、そこには、笑顔を浮かべたアキが立っていた。
 そして、手にした新しい服を差し出した。
「鉄郎、これ、着がえ。」
 鉄郎は呆気にとられた。
 深く溜息をつくと、ぼやくように呟いた。
「そういうこと…。みんなが強引に俺に風呂を進めるワケがわかったよ…。」
「みんなには心配かけてばかり…。そして、あなたにも…。」
 アキは、泉の淵に腰を落とした。
 鉄郎が口を開いた。
「もういいのか? 動いたりして…。」
「ええ。少し、疲れが出ただけです。」
 アキは、何事もないような口調でいった。
 鉄郎は、わずかに厳しい口調になるのをわかりながら、言葉を続けた。
「なぜ、あんな無茶をしたんだ? あれじゃ、かえって、みんなに迷惑をかけるだろ?」
「ごめんなさい。でも、私に出来ることはないか、私なりに考えた結果です。」
「あいつが、一人でがんばっているからか?」
「…………」
 アキは何もいわなかった。
 鉄郎は水面を見つめた。
 静かにゆれる波紋の中に、悲しい表情をしたアキの顔が映る。
 鉄郎は、言葉を抑えると、アキにいった。
「いつからかな…。君が力を使い出すと、俺はとても不安になる…。やっていけないんじゃないかって…。いつも、そう思う…。」
「鉄郎、お願いです。」
 アキは静かに口を開いた。
「どうか、私を“一条アキ”のままでいさせてください。私は自分がアルテイアだとは思えない。力を持っているのは確かに私自身…。でも、過去のアルテイアとは切り離したい…。なぜなら、私は地球で育ったから…。二十年以上、私はあそこにいたのよ。私は、このアトラリアにはいないわ。」
「でも、君はトリトンの世界に憧れている。ずっと、あそこに行きたいと思っている。今も、そうだろ。」
 鉄郎はアキの顔を覗き込んだ。
 アキは静かに顔を伏せた。
「そんなこと、トリトンは望まない…。私も望めない…。理想はそうでも、私は望みたくない…。」
 アキは心を集中させる。
 すると、ゆっくりと、アキの体からオーラの帯が漂いはじめた。
 鉄郎はびっくりした。
「アキ、もういい。これ以上、力を使うな。」
「鉄郎に伝えたい…。みんなの怪我を治したのは私の力ではないわ。みんなが元々持っている力。生きたい、元気になりたいという希望…。その願いが人を蘇らせる…。私はその望みを叶えるお手伝いをしただけ。治癒能力とは、そういう力よ。」
 光を放ったアキは、服を身につけたままで泉の中に入ってきた。
 鉄郎は焦って身を引こうとした。
 しかし、アキのオーラは、鉄郎の体をそっと包み込む。
 母親の手に抱かれているような優しい感触。
 夢想の世界に誘われて、そのまま現実を忘れてしまいそうになる。
 アキは、鉄郎の腕の中に身を寄せてきた。
「アキ…。」
 鉄郎は息を飲んだ。
 今さら、アキを抱くことに抵抗は感じない。
 一糸まとわぬ姿を見られても、恥ずかしいとは思わない。
 けれども、オーラの光をまともに浴びると、どうしても照れくさくなる。
 それは、アキそのものだから。
 ストレートに、彼女の心を内面で受け止めることになる。
 強引ではない。
 でも、ゆっくりと、アキは、鉄郎の心の中に入ってくる。
 それは、湧き水のように淡々とあふれて、やがて、鉄郎の中でいっぱいになる。
「アキ…。いいよ…。やめてよ…。」
 鉄郎は小さく呟いて身をよじった。
 アキは鉄郎の胸に顔をうずめると、囁くようにいった。
「私は、早くここからみんなを救い出したい…。彼だけではそれが出来ない…。でも、私の力もまだまだ不足しています。交わることなんてしたくない…。それ以外の方法で…。何としてでも…。」
「それが…目的だったんだね…。だけど、君だっていつかは限界を迎える。いくら、使徒だからって、完璧じゃないんだから…。」
 鉄郎は声を震わせた。
 すると、アキの表情が優しく和らいだ。
「ありがとう…。もう、無茶はしません。約束します…。」
「うん、頼むよ…。」
 鉄郎はかすかに頷いた。
 アキは、鉄郎の肩に手を置いてすっと撫でた。
 目を見張る鉄郎にアキはいった。
「あなたも傷だらけだわ…。」
「みんなそうだよ。復旧活動を手伝っていたんだから…。」
「今まで何度もあなたに細胞復活をしてきた…。だけど、背中の傷はいつも消えない…。他の傷は、ちゃんと消えるのに、その傷だけがいつも残ってしまう…。」
「一番最初の傷だからじゃないのかな…。あまり、人に見られたくないから、風呂に入りたくなくなっちゃったけど…。」
 鉄郎は自嘲気味にいった。
 アキは静かに口を開いた。
「私はあなたのそばにいたい…。そして、これからも…。」
 アキの言葉が途切れた。
 ふっと水の中にはまりかけたので、鉄郎は慌ててアキの体を支えた。
「おい…。」
 鉄郎は呼びかけながら、アキの顔を覗き込む。
 アキは意識をなくして眠りはじめた。
 鉄郎は肩をすくめた。
 アキの前髪を、優しくすきながらぽつりといった。
「力を使いすぎたんだ…。でも、こんなところで寝ちゃうなよ…。」
 アキを抱きあげると、鉄郎は泉からあがろうとした。
 その頃には、オーラは完全に消えてしまった。
「絆か…。」
 鉄郎は、溜息混じりの声で呟いた。
 そばにいたい。
 アキはそういったものの。
 鉄郎の心は複雑に揺れた。
 新しい模索の気持ちが生まれつつあるのを、鉄郎は否定できなかった。